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2017年6月16日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 1

 近頃、妙なことに気が付きました。(と言うと大袈裟ですが)
 ブログ記事を書く時に、しばしば京都の地誌に関する書物を参考にしています。

 そうした折に目に付いたのですが、洛北の「大原」と洛西の「大原野」は、地名自体が大変よく似通っているだけでなく、歌に詠み込まれた景物にも同名のものがあるのです。
 ちなみに、古刹の名称も似通っています。大原には「魚山大原寺勝林院(天台宗)」が、大原野には「小塩山大原院勝持寺(天台宗)」があって、ともに「大原」が付いています。
 こうした不思議な一致に引かれて、風流韻事には全く縁遠い野暮天の小生なのですが、少し調べてみた結果を記事にしてみました。

1. 大原と大原野の概略

 大原は京都の北郊(洛北)にあります。周囲を山に囲まれた大原川(高野川の上流)沿いの盆地に位置しています。昔の大原は、「炭𥧄の里」という別称もあった製炭地で、炭のほか薪・柴など燃料を都に供給することを生業とする里でした。

《大原川》

 高野川の上流域で八瀬以北を大原川と言い、この川沿いの小盆地が大原です。

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 平安朝の昔から建礼門院平徳子を初め貴顕が隠棲した地であり、鴨長明が籠居したことでも知られ、その風光は多くの歌人に詠われてきました。大原は現在も著名観光地の一つです。
 かつて「大原」は、「オハラ」と読み、古くは「小原」「小原口」と記されたこともあったようです。ただし、和歌には「大原(オホハラ)」と詠まれました。


 大原野は京都の西郊(洛西)にあります。小塩山(大原山)を背負う西高東低の広い段丘地は長閑にして素朴な風光で、古代には狩猟・遊宴の地であり、桓武天皇がたびたび狩猟をおこない皇族や貴族も宴遊しています。

《西山連峰》

 西山山系の小塩山東麓になだらかに開けた傾斜地で眠気を催すような光景です。

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 山野の風光とともに大原野神社をはじめ多くの寺院が建立されており、西行法師など多くの歌人が隠棲した。鄙びた田園であり洛北大原ほどには俗化していません。
 かつての大原野は、「オハラノ」と称されたが、「オオハラノ」の呼称も用いられていました。この大原野も、和歌では洛北と同じように「大原(オホハラ)」と詠まれました。


 このように、大原と大原野のどちらも、地名を和歌に詠むときは「大原(おおはら)」と表現されたのです。
 そうすると、同名のものが歌に詠まれているとき、洛北・洛西どちらの大原なのか混同されるるため、詞書(ことばがき)や詠み合わせる景物により識別されました。

洛北の「大原」を表す景物: 炭𥧄(ノ里)、朧ノ清水、芹生ノ里、比良、高根など 
  炭がまのたなびく煙ひとすぢに心ぼそきは大原の里  寂然
  水草ゐし朧の清水底すみて心に月のかけはうかふや  素意法師

洛西の「大原野」を表す景物: 小鹽山、清和井ノ水、冴野ノ沼、庭火、野辺ノ行幸など
  おほはらや小鹽の山の小松原はや木高かれ千代の影みむ  紀貫之
  おしほ山松風さむし大原やさえ野の沼やさえまさるらむ  中務

 そして、こんな事があってよいものか、驚いた事には山や清水までも同名のものがあるのです。
 次回では、その幾つか見てみましょう。

2017年6月 9日 (金)

暖簾いろいろ その16

河合美術織物
  上京区衣棚通今出川上ル
  西陣織袋帯

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村上重本店
  下京区西木屋町通四条下ル
  京つけもの

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丹波屋
  上京区黒門通下長者町上ル
  くみひも

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帯屋捨松
  上京区笹屋町通大宮西入
  西陣織帯
  創業は安政年間とのこと

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2017年6月 2日 (金)

辻子 ー硯屋辻子ー

 上立売通の、大宮通と智恵光院通との間。
 樋之口町・硯屋町・伊佐町を通貫しています。

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「樋之口町」について、『京都坊目誌』では「始め下華開院と云ふ。寶暦年中今名に改む」としています。
  ちなみに、樋之口町の北隣は「華開院町」で、かつて町の西側には山号・寺号を付さない華開院と言う寺院があったそうで、これが町名の由来となっているという。


 それはそうと、どのように考えればよいのか戸惑ってしまうことが出てきました。
『京都坊目誌』には「硯屋町 町名起源不詳 始め觀世の辻子と云ふ。後東硯屋町、西硯屋町のニとなり。維新の際一町に合す。」と記しています。つまり、元・觀世辻子=現・硯屋辻子は、智恵光院通の東側にあることになります。
 一方、当ブログ '16年8月5日の記事「觀世辻子」では、智恵光院通の西側にあるとしていました。

 そうすると、『京都坊目誌』の云うところでは、かつては「現・硯屋辻子」部分をも含めて、つまり上立売通の浄福寺通と大宮通間を通して「觀世の辻子」と称したと云うように読めるのです。
 しかし、同じ上立売通とは云いながらも、智恵光院通を挟んで西側と東側では南北にズレています。1つの辻子が真っ直ぐに通っていないのは、私にとって容易には信じ難いことのように思えるのです。(智恵光院通の部分を含めて鍵形の辻子であったとするならば話は別です)

 また、『京童』は「あぐゐ通西へ ◯くはんぜの辻子 ◯聖天岩神門前町 ◯ゑびす町」としており、『京羽二重』も「觀世辻子 大みやどをりあぐいんにしへ入所」と記していますから、硯屋辻子もかつては觀世辻子と言ったというのは信じるべきことなのでしょうか。
 その辺りについて、新しく判明したことがあれば改めて記事にしたいと思っています。

2017年5月26日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 20

中京区の2件

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東山区の2件

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2017年5月19日 (金)

看板いろいろ その14

鍵善良房
 東山区祇園町北側
 くづきり


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井筒八ツ橋 祇園本店
 東山区川端通四条上ル
 八ツ橋

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尾張屋
 東山区新門前大和大路東入
 お香

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観山堂
 東山区新門前大和大路東入
 古美術商

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2017年5月12日 (金)

辻子 ー伊勢殿構ノ辻子ー

 田丸町、東西俵屋町、伊勢殿構町を通貫していたものと考えられる。
 現在の土屋町通中立売から北行して一条通までを云ったものでしょうか。

 ところで、現在の土屋町通、北は一条通から南は竹屋町通まで通じていますすが、昔は非常に短い通りだったようです。
 『京都坊目誌』によれば、土屋町通は元和元年(1615)に開通した通りで、はじめ北は上長者町通から南が下立売通までの短い通りでした。
 宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では「此通上長者町より出水迄二町の間也」と記しているので、この頃には下長者町通から南の出水通まで延長されていたことが判る。
 したがって、伊勢殿構ノ辻子は北に延伸された土屋町通の北端部にあたるようです。

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 『京都坊目誌』「田丸町」の項に、「相伝ふ聚楽城廃城の後、此辺田圃と化し、中に僅少の人煙ありしと。当時田丸町より接続地に伊勢殿構ノ辻子あり、今其字名を称せず。僅かに北側に其址を存せり」としています。


伊勢殿構町の仁丹町名表示板

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 天正期、豊臣秀吉の築いた聚楽城が興隆した頃、伊勢兵部少輔の屋敷に通じていたことから、伊勢殿構ノ辻子と称したようで、伊勢殿構町の町名もこれに由来しています。
 なお、伊勢兵部少輔(伊勢貞昌)は大名ではなく、島津藩の筆頭家老だったと云うことです。


2017年5月 5日 (金)

みすや針 (縫い針)

みすや針本舗(福井勝秀商店)
 中京区三条通河原町西入

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 貞享2年(1685)刊『京羽二重』に、「三條通 此通諸商諸職 川原町 見すや針」とあり、同書「諸職名匠」中の「針所」にも「三條川原町かど 福井伊豫」との記述があります。
 そして、現在も三条通河原町西入のみすやビルで「三條本家みすや針(福井みすや針)」として営業している。
 延宝6年(1678)刊の『京雀跡追』にも「はりや 物ぬいはり」として、「三條川原丁かと」にあったことを記しています。


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 同店のホームページとリーフレットによれば、現在地に店を構えたのは江戸初期で、はじめ「池ノ端針」の屋号で営業していたが、慶安4年(1651)宮中の御用針司となり、明暦元年(1655)後西天皇から『みすや』の屋号を賜ったと云う。
 『みすや』の謂れは、御所で作っていた針であることから、清めの意味とともに秘術である製法を漏らさぬよう、御簾(みす)の中で仕事をしていたからと云う。
    

 ところで、縫い針の歴史は原始時代にまで遡るようです。
 1965年に長野県南佐久郡北相木村で発見された栃原岩陰遺跡があります。この遺跡は約1万年前の縄文時代早期のものとされるようです。
 10体以上の縄文人の人骨が出土しているのですが、遺物には土器・石器・骨格器・動物の骨なども出ています。
 ここで発掘された骨の縫い針は、細い骨を石器で削り鋭く尖らせて、小さな穴を開けています。それら針の中には鹿角製の縫い針も見出されるということです。
 そして、骨製の釣針、縫い針の精巧さから、当時の人々の技術水準の高さが伺えるそうです。針と動物の腱を鞣して糸にしたものを使い、獣の皮を縫い合わせて衣服を作り上げたのでしょう。
 なお、ヨーロッパではさらに古く約4万年前の遺跡から、骨で作られた縫い針が見出されているようです。

2017年4月28日 (金)

暖簾いろいろ その15

わらじや
 東山区七条通本町東入
 うぞふすい(うぞうすい)
 秀吉がどうとかこうとか云うので創業は古い

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白碗竹快樓
 東山区新橋通大和大路東入
 中国料理

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きっさこ 和束
 東山区本町5町目
 京町家のカフェ
 
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ぎおん斎藤
 東山区新門前通西之町
 和装品
 170余年と云うから天保期の創業か
 

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2017年4月21日 (金)

辻子 ー刀の辻子ー

 一条殿町
 新町通武者小路下ルの西側にあったのではないかと思われるが不詳。

 『京都坊目誌』には、「近古此町西方に刀の辻子と字せる所あり。維新前廢す。寶曆町鑑に禁裏太刀師五十嵐和泉掾の居宅なりと」と記しています。
 つまり、中世には一条殿町の西方に「刀の辻子」と称した所があったが、明治維新の前に廃されたとしており詳細は不詳、大凡の位置を推定できるだけです。


刀の辻子があったと思しき辺りの様子です

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 上記引用文中にある『京町鑑』の「一條殿町」の項には、「此町に禁裏御太刀五十嵐和泉掾居宅有」と記しており、この刀師の五十嵐邸の所在したことが辻子名の由来であろうと思われます。

 「一条殿町」は、新町通一条上ルから武者小路通の間に位置する両側町です。
 中世のこの地に、一條殿の館があったことが町名の由来となっています。
 九條道家の三男実經がこの地に屋敷を構えて一條殿と称したそうで、その後に皇宮地に引き移ったあと町地になったと云う。

2017年4月14日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 19

中京区で
 紅灯緑酒の一隅

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«辻子 ーいさとの辻子ー