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2017年3月24日 (金)

上高野鐘突町 ーカネツキ地名の由来ー

 叡山電鉄本線「三宅八幡」駅のすぐ近くに、「左京区上高野鐘突町」という町があります。

《上高野鐘突町の仁丹町名表示板》

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 「上高野」は比叡山の山麓に位置していて、この一帯の中央を流れる高野川の谷口扇状地となっています。
 高野川沿いを遡る若狭街道は、古くから八瀬・大原を経て朽木越えで、若狭(福井県)と近江(滋賀県)へ通じる街道でした。

 ところで地名には、そのように呼ばれるに至った理由・由緒があります。この「鐘突町」という地名は何に由来しているのでしょうか。

 京都府下の「カネツキ」地名を調べたところ、次の6ヶ所が見つかりました。実際にはもっとあるのでしょうが探しきれませんでした。
  左京区上高野鐘突
  綴喜郡井手町多賀鐘付
  亀岡市曽我部町穴太鐘ツキ
  山科区小野鐘付田
  京田辺市松井鐘付田
  相楽郡精華町下狛鐘付田


 土地には、皇室の所有地(御料地)・幕府の直轄領(天領)、大小名の封地(私領)などがありました。そして、それぞれの所領には、領地経営に関する事務や雑務を執り行うための組織・機関が設けられていました。

 また、規模の大きい神社・寺院には、所有権・知行権を承認(安堵)された領地(寺社領)を持つところもありました。
 これらの所領を持つ規模の大きな社寺でも、年貢収納など寺領を支配管理するための組織を備えていました。

 寺院の場合、寺役所でその実務を行ない、そのために寺領内の百姓から取り立てた代官・寺侍・寺役人を置いていたのです。
 鐘を撞き(突き)鳴らすことで時刻を知らせる、灌漑用水の水門を開け閉めする、洪水などの非常事態を知らせるなどの役割は寺役人が担っていました。その鐘撞き役人に支給する手当を賄うための田地、これが「カネツキデン」と呼ばれ、それが地名として残ったのでしょうか。


 「カネツキ」ではないのですが、少し気になる地名に「カネウチ」というのが目につきました。
  船井郡京丹波町安栖里鐘打
 この「鐘打」には金刀比羅神社があり、『京都府の地名」(平凡社)によれば、神社の社伝にその昔は七堂があったと記しているようです。「鐘打」は、鐘楼のあった所だったのかも知れません。

 ところで、神社に鐘撞き堂(鐘楼)があると云えば奇異な感じがします。
 しかし、昔は奇異なことでもなく、江戸時代までは神仏習合(神仏混淆)で神社とお寺が同一の境内にあったのです。ところが、明治元年(1868)に神仏習合を禁じる神仏分離令が出されて、廃仏毀釈運動が起りました。神社の鐘楼は、こうした混乱期を乗り越えて今に残っているのでしょう。
 京都でもこうした鐘楼の残る神社が無いものかと探しましたが、残念ながら今のところ見当たりません。

《篠山市川原・住吉神社の鐘楼》
  この写真は篠山市のホームページから借用。

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 寛文2年(1662)に、篠山藩第4代藩主松平康信が 寄進したという鐘楼。篠山市内にある鐘楼建築の中でも特に優れたものとされ、四脚単層、本瓦葺、総ケヤキ造で篠山市指定文化財となっている。

2017年3月17日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 18

下京区で

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下京区で

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中京区で

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東山区で

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2017年3月10日 (金)

辻子 ー聖天辻子ー

 智恵光院通寺之内の一筋南を西行する小路(通称・聖天町通)で、観世辻子(上立売通)の北の小路。
 聖天町・伊佐町を通貫している。

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 雨宝院に安置される通称西陣聖天と呼ばれる本尊の聖天が、辻子名・町名の由来です。
 この雨宝院の本尊は大聖歓喜天であり、元は千本五辻いあって大聖歓喜寺と称したようです。しかし、応仁の乱で荒廃し、一宇のみ残存して雨宝院と称していたが、天正年間にこの地に移ったということです。

 『京都坊目誌』に、「町内中央より東。伊佐町に通する小街を世俗 聖天ノ辻子と呼べり」と辻子の位置を記しています。
 『京羽二重』には、「大宮どをり紋やの辻子のにし上る所」とある。


聖天町の仁丹町名表示板

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2017年3月 3日 (金)

暖簾いろいろ その14

近 喜
  下京区木屋町通松原上ル
  賀茂とうふ
  天保5年(1834)の創業とか

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五辻の昆布
  上京区千本通五辻上ル
  昆布製品いろいろ

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今原町家
  上京区葭屋町通上長者町下ル
  町家を生かした食事処

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糸 源
  中立売通七本松西入
  料理屋

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2017年2月24日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 17

今回は中京区の4ヶ所です。


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2017年2月17日 (金)

辻子 ー陣屋辻子(妹辻子とも)ー

 姉小路通堀川東入 一筋目を北行して御池通に抜ける小路。
 鍛冶町・森之木町の南部分を通貫しています。

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 『京町鑑』は、「森之木町 此町南側下ル一町を 陣屋辻子叉一名妹辻子とも云」として、別称があったことも記しています。 
 なお同書に、「御池通 一名八幡町通」として、御池通の名称由来を記しています。
 それによれば、神泉苑前の通りであること、また、御池通両替町の人家裏にあった御池の旧跡にちなむとも云う。
 そして御池通の別称である八幡町通は、御池通高倉東入(南側)に御所八幡宮があることによるが、八幡町通と呼ぶのは烏丸通までを云うとしています。

 『京都坊目誌』では、「森之木町」に、「本町の南 字 妹之辻子 (貞享地圖にげんやの辻子とあり)に當る」としている。この「げんやの辻子」は、『京町鑑』に記している「陣屋辻子」であろうと思われます。
 そして、「鍛冶町」については、「始め毘沙門堂町 叉多聞町とも云へり 寶曆以来今の名を専稱す。姉小路北側中央より御池通に至る小路あり 之を妹ノ辻子と字す」と記しています。
 なお、多聞町・毘沙門堂前町の町名は、この辻子の東北に維新前まであった多聞寺の本尊が毘沙門天だったことによるとしています。

2017年2月10日 (金)

駄菓子屋(一文菓子屋)

 昔は、子供達が路地から路地へと駆け回る猥雑な町並みの中に、駄菓子と玩具類を狭い店頭に並べて、子供相手の商売をしている駄菓子屋(一文菓子屋とも言う)があちこちにありました。
 昭和30年代の東京下町を舞台とした映画、「ALWAYS 三町目の夕日 ‘64」にも駄菓子屋のシーンがあり、吉岡秀隆が駄菓子屋茶川商店の店主茶川竜之介を演じていました。


 駄菓子「船はしや」の店頭・店内風景

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 今では駄菓子屋を見かけることも殆ど無くなってしまい、この「船はしや」(寺町通綾小路下ル西側)以外には知りません。
 五色豆の「船はしや総本店」(寺町二条)から昭和13年(1938)から分家して開業したとのこと。


 船はしや総本店の看板

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 ところで、話は変わります。
 かつて、子供達が喜びそうな小さなオモチャを「おまけ」としてつけたキャラメルがありました。(グリコ、カバヤなど)
 おまけつきグリコは今でも販売されています。
 グリコと云えば、あのキャッチコピー「一粒300メートル」は、誰もが知っている名コピーです。
 また、キャラメルの外箱にはこのコピーとともに、「美味栄養菓子」あるいは「文化的栄養菓子」と入っていたのですが、現在では「ひとつぶ300メートル」「おいしくてつよくなる」になっています。
 ちなみに、森永キャラメルは「滋養豊富」「風味絶佳」です。


 今のグリコキャラメル

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 コピー「一粒300メートル」は、川柳結社「番傘」の主宰者であるとともに、コピーライターでもあった岸本水府(昭和40年没)という人の昭和11年(1936)の作でした。
 広告人としては、福助足袋・グリコ(現江崎グリコ)・壽屋(現サントリー)などで広告の仕事をしたようで、グリコでは広告部長を務めたそうです。

 最後に、岸本水府の川柳で私の好きなものを挙げておきましょう。
   酔っぱらい真理を一ついってのけ
   四十年かかって酒は毒と知る
   旅で見る酒という字の憎からず

2017年2月 3日 (金)

看板いろいろ その12

喫茶フランソア
 下京区西木屋町通四条下ル
 昭和9年(1934)創業
 かつては画家・映画人・演劇人・学者など著名な文化人が通ったという

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ホンダTN360
 本田技研
 昭和42〜45年(1967〜70)に発売された軽トラック
 その後の3度にわたるマイナーチェンジを経て昭和52年(1977)に生産終了

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一楽家
 下京区東洞院通高辻上ル
 居酒屋

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喜多古美術店
 東山区新門前通東大路西入
 陶磁器の器が中心の古美術商
 この看板は牡丹の透かし彫りに唐獅子という立派なものです

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2017年1月27日 (金)

辻 子(ずし)−その発生をめぐってー 2の2

3. 平安京域の変化

 大内裏の正門にあたる朱雀門から南に延びるのが、平安京の中心線となる大路で幅28丈(約85m)の朱雀大路です。その南端に建てられたのが平安京の玄関である羅城門でした。

 大極殿遣址碑

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 そして、この朱雀大路を挟んで、左(東)京と右(西)京に分けられていました。
 ところが、前回に見たように京都盆地の地形・地質の関係で、右京域の南部は沼や沢が散在する低湿地であったため、人々が住むのには適さない土地で余り開発が進まなかったようです。
 このため、延暦13年(794)の奠都から、一世紀も経ないうちに右京域はすっかり衰退して、都は大きく様変わりします。
 そうした事情から平安京の左京域、とくにその北部へと人口が集中していきます。
 もともとの都の北限は一条大路でしたが、ここから北に向かって大路・小路は延伸され、開かれることで人家が増えていきます。
 そしてまた、鴨川を東に越えて古くからの官道である三条通沿いも開かれていきます。


4. 辻子の発生とその後

 ところが、新たに北ヘ延長されたそれらの道は、それぞれが繋がっていないために、交通や生活の便からこれらの道どうしを東西に繋いで、新たに経路を開く必要が出てきます。
 この通りと通りを結んで、新たに作られたのが「辻子」でした。
 私が地誌や古地図などに出てくる辻子を調べたところでは、まだ見落としがあるかと思いますがその数は143ヶ所でした。それらのうち圧倒的に多くが現在の上京区、とりわけ烏丸通・大宮通・寺之内通・一条通を四囲とする範囲に集中しているのです。
 これは、先に述べたような辻子の発生した理由、また集中した事情の裏付けになるものと考えます。

 衣屋辻子

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 こうしてできた辻子の始めは、隣接する道へ到達するための経路といったようなものでしたから、それは野道に近いような細道・小径といった、謂わばマイナーな道だったでしょう。
 そして、その辻子沿いや近辺に所在する寺院、公家屋敷などにちなんだ名称が付けられたようです。
 こうして生まれた「辻子」に沿って、徐々に人家が建ち並んでいくに及んで、次第に「町場の道」へと様相が変わっていったのです。
 町場の道と辻子は、そのような関係にあったと言うのが私の考えなのです。

 ちなみに、地誌の記述も「町場の道」と「辻子」については、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』は「當時縱横小路通稱 并 辻子」、そして、貞享2年(1685)刊の『京羽二重』では「南北洛中」「東西洛中」「洛中辻子」という項目立てにしています。
 これは外でもなく、元々、「町場の通り」と「辻子」とは、全く別個のものとして認識され、扱われてきたことを表しているものと考えられます。

 *** 附 記 ***
① 「辻子(図子)」をいくつかの辞書等で引いてみました。
 広辞苑(岩波)・・・「よこちょう、路地」
 大辞林(三省堂)・・・「大路と大路を結ぶ小路、または辻」
 世界大百科事典(平凡社)・・・「細道、小路、横町」
 古語辞典(岩波)・・・「小路、横町、路地」
 いずれも、辻子の発生にまで意を払っていないため、在り来たりの説明です。
② この記事は、辻子とは何か、また、辻子ができた初期の様子を判り易く単純化して記述してみたものです。当然のことながら全ての辻子が東西方向のみに通じているわけではありません。当然、東西の道どうしをつないで南北方向に通じる辻子もできました。
③ 私が今までに諸資料の中に見出した辻子の数は143ですが、成立時期も様々であり既に消滅しているものも少なくはありません。

2017年1月20日 (金)

辻 子(ずし)−その発生をめぐってー 2の1

 今回の内容: 1. はじめに  2. 辻子発生の遠因
 次回の内容: 3. 平安京域の変化  4. 辻子の発生とその後

1. はじめに

 『酒瓮斎の京都カメラ散歩』は私が古稀の年に開設したので、5年半余りを経たことになり、今までにアップした記事は約320本にのぼります。よくもまァ続いたものと我ながら感心します。
 その中で、記事の数が最も多いのは、辻子シリーズで120本程になります。

瑞龍寺辻子

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 多くの辻子は依然として昔ながらの小さな道で、大きな通りとはまた違った佇まいを見せており、そこに住む人々の生活が感じられるような道が多いのです。
 現在では大通りとなってしまった辻子も少なからずあります。しかし、昔ながらの雰囲気が残る「まち」の佇まいこそ、私が辻子に惹かれた理由でした。

 この「ずし」ですが、辻子・図子・途子などいろんな表記があります。そして、辞書を引いて見ると、「よこちょう、路地」「大路と大路を結ぶ小路、または辻」などと説明されています。
 しかし、こうした説明では「大路」に対する「小路」といった意味合いとなり、単に大通りから入り込んだ小さな道、または細い道に過ぎないかのような印象を受けます。
 ところが、辻子の多く存在する地域とそうなった事情、つまり辻子の発生と理由を考えるとき、私としては辞書にある説明では、行き届いた説明となっていないために肯定しかねるのです。
 そこで、あくまでも「素人考え」ですが、「辻子の概念」といったようなものについて、私が折々に思いを巡らせていたところを、改めて記しておくことにしました。


2. 辻子発生の遠因

 さて、京都盆地の地形を大雑把にいえば、北から南にかけて傾斜しており低くなっていきます。
標高で見ると市内北部の北山通が約75m、九条通にある東寺(教王護国寺)の五重塔の辺りが約24mだそうですから、その高低差は約50mです。

東寺五重塔

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 東寺の五重塔は、木造建築では日本で一番高くその高さは54m余りありますから、塔の先端と北山通はほぼ同じ高さとなります。
 そして、低くなっている南部でも、東方より西方がより低くなっています。つまり、南西部が最も低いという地形になっています。

 このような京都盆地の地形から、地表の地質は北部が鴨川(賀茂川)など諸河川の作用による扇状地で水はけの良い砂礫層、西南部は桂川や巨椋池の氾濫原で粘土やシルト(砂と粘土の中間の砕屑)などの低湿地堆積物で覆われているのが特徴です。

(次回に続く)

«辻子 ー花山辻子ー