2016年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

2016年12月 2日 (金)

看板いろいろ その11

ぎんなん
 上京区一条通七本松西入
 酒 処

_01_5


とようけ屋山本
 上京区七本松通一条上ル
 京豆腐

_01_6


やまきぬ
 上京区中筋通浄福寺西入
 西陣織

_01_7


長五郎餅
 上京区一条通七本松西入
 京菓子
 豊臣秀吉が北野天満宮で開いた大茶会の時に用いたそうですから、天正期以来ざっと400年は続いている餅菓子のようです。

_01_8

2016年11月25日 (金)

暖簾いろいろ その12

北野上七軒で
 京都六花街の一つ「上七軒」は京都で最古の花街です。北野天満宮東門前から東へ延びる町並みで、天神さん修造の折に出た用材で、茶屋を七軒建てたのが始まりとされる。
 花街らしい雰囲気で、元はお茶屋であった建物を店舗として使っているところも多い。

くろすけ
 とうふ料理

_01


まつひろ(上七軒店)
 財布・バッグなど袋物

_01_2


弓月京店
 和装の店

_01_3


老 松
 和菓子

_01_4

2016年11月18日 (金)

辻子 ー萬年寺辻子ー 《補訂》

 以前(2014.5.2)に書いた記事「辻子 ーマンネンジノヅシー」、実はその辻子の位置がはたして正しかったのかどうか、ずっと気になっていたのです。
 しかしその後、新たに知り得たことが幾つかあって、誤りの訂正とあわせて足りない点を補い、全面的に書き直したものが本記事なのです。(当時の記事は、それはそれとして削除せずに残しています)

 ここで、まず「萬年寺辻子」とその界隈について簡単に説明しておきましょう。
 五条通河原町の一筋西にある道(現在の地図では「富小路通」となっている)は、本塩竈町を西寄りに斜行して六条通まで南下しています。そして、六条から南は真っ直ぐに上珠数屋町通(上枳殻馬場通とも云う)に至ります。
 この通は、かつて下寺町通と称していました。寺町通の南端は五条通まででしたが、明治になって五条通以南が通じたのです。このように、寺町通の下(しも)に当たることから、下寺町通と呼称されました。

 そして、この富小路通(元・下寺町通)を六条通まで南下すると、下寺町通はそこから真っ直ぐ南へ萬年寺の門前を通って上珠数屋町通に至りますが、ここが萬年寺辻子なのです。

 辻子の突き当たりは上珠数屋町通、築地塀の中は枳殻邸(東本願寺別邸)です。

_01


 その萬年寺辻子の途中、本塩釜町の南端と唐物町の境界にあたる地点から西方に延びる道があります。この道、かつては萬年寺通と称していたのですが、現在では花屋町通となっています。

仁丹町名表示板
 かつての萬年寺通=花屋町通沿いの家屋に設置されていました。

_01_2

_01_3


 ここから本題の「萬年寺辻子」に戻ります。
 『京都坊目誌』中の「本鹽竃町」の記述から引用してみましょう。
 「元街名にして下寺町と称す。左右皆寺院なり。・・・(略)・・・此町南に於て萬年寺辻子と字す。萬年寺あるを以てなり。叉下寺町中央より東に通ずる小巷あり。市姫ノ辻子と稱す。市比賣神社あるを以てなり」とあります。
  つまり、下寺町通(本塩竈町)の南には、萬年寺があることから萬年寺辻子と云い、また、下寺町通の中程から東に入ると市姫神社があるので市姫辻子と称したのです。市姫辻子」については、以前(2014.4.11)に記事にしました。
 なお、萬年寺については、「萬年寺通烏丸の邊にありと。天正十九年豊臣氏の命に依り。現在の地に移轉す」と記していて、秀吉の京都大改造の折に花屋町通烏丸から今の場所へ移転させられたようです。

_01_6


 ということで、萬年寺辻子の所在する場所は、改めて次のように訂正します。
 「富小路通(元・下寺町通)六条の南、萬年寺の門前を南行して上珠数屋町通へと抜ける小路。栄町と本塩竈町の境界、唐物町、唐物町と八軒町の境界を南北に通貫しています。」
 したがって、当初は「本塩竈町を南北に通貫しています。(富小路通の五条〜六条の間)」としていたのは取り消します。実際には、この部分の南側だったのです。


2016年11月11日 (金)

きせる(煙管)

_01_2

写真は、谷川清次郎商店の暖簾です。
 下京区御幸町通仏光寺下ルにある、きせる(煙管)専門店で、創業は享保年間となっています。

 私はかつて東京の浅草寺境内に店を出していたお爺さんから、安いものを買い求めたことがあります。火皿に刻みたばこを詰めて吸うのですが、たばこの銘柄は「小粋」でした。

 たばこは、コロンブスがインディオ(アメリカインディアン)のたばこの葉を卷いて吸う習慣とともに持ち帰ったと云われます。
 そして、日本にたばこの入ったのは天正年間にスペインの貿易船がもたらしたと推定されているようです。この当時はまだ葉巻にして吸ったようで、『本朝食鑑』に「初め、番船(蛮船)の商夫、葉を卷きて筩(つつ)に作り、ひちりきの状の如くにし・・(略)・・のち蕃国吸管を伝う。これを幾世流(きせる)と号す」記されているようです。
 
 『京雀跡追』には、刊行当時の延宝6年(1678)に京都市内にあったきせる屋4軒が記されています。
① あいノ丁二條下ル丁(間之町通二条下ル町)
② 二條柳はゝひがしへ入さくらやと云(二条通柳馬場東入ル 桜屋という)
③ ふしみかい道大佛ゟ南に多し孫右衛門と云(伏見街道大仏より南=本町通正面下ル に多し)
④ 三條橋ゟ白川はしの間(三条大橋から東へ白川橋の間)

 昔は大きな包丁と駒板(押さえ板)を使って葉煙草を刻む職人がおり、その職人は「ちんこ切り」と呼ばれたそうです。(勿論この「ちんこ」はあのチンコではありませんcoldsweats01
 ついでに、江戸時代の川柳集「柳多留」にある次の句をご覧ください。

  研ぎすまし胴切りにするちんこ切り


  《キセル写真》

_01

 真鍮製の火皿のある雁首と吸い口が竹管の羅宇(らお)でつながれています。
 羅宇ははじめ印度支那産の竹であるラオを用いたからとのことですが、国産では矢竹や斑竹を使うようです。
 この羅宇にヤ二(ニコチン)が溜ってくるため、ときどき新しいものに仕替えるのです。かつては、羅宇と道具を入れた箱を担って「羅宇しかえ〜」と呼ばわりながら、羅宇屋が廻ってきたそうです。

 ところで、キセルには上の写真のような普通のものだけではなく、色々と変わったものもあったようです。
 喧嘩煙管:長くて大きな鉄製のもので、喧嘩や闘争の際には武器として使われた。
 金鍔煙管:下に置いたときに吸い口が疊に付かないよう、吸い口に近い方に鍔がつけられている。
 夫婦煙管:一つの火皿に二本の羅宇と吸い口の付いた煙管で、遊郭では遊女が相方と一緒に使ったようです。自然と頬寄せあう形になりますね。

2016年11月 4日 (金)

消えた大宮通 sign02  3の3

3. よみがえった大宮通

 文禄4年(1595)に聚楽第が破却されてその跡地一帯が町地化すると、大宮通と家並は復旧していきます。
 その大宮通が復活した部分(一条通と下長者町通の間)は、次のような状態でした。

 『京都坊目誌』には、「新大宮通 [一條中立賣間ナリ] 明治三十二年開通す。中立賣下長者町間を和泉町通と稱す。元と聚樂第内に屬し。清泉のありし所なり。元和元年新に之を通す」としています。
 一条通から南の下長者町通までの間、つまり糸屋町・和水町・東堀町の3町を通貫する道はもともと和泉町通と称していました。しかし、上記の引用文を見ると、糸屋町は他の2町とは少しばかり様子が異なっていたことが窺えます。
 再び『京都坊目誌』から引用しましょう。
 「糸屋町 和泉町通 [元大宮の西筋なり。明治三十二年末當町を北に開き四間道路とす。今俗に新大宮と呼べり] 中立賣上る所を云ふ。開通不詳。明治三十二年再開せり。」
 さらに、「元此地聚樂城東北の外壕たり。後ち之を埋め町地とす。文祿の文書に既に糸屋町とあり。一名を袋町と云ふ。明治三十二年迄袋地 [一方より通せず] たりしを以てなり。」としています。
 つまり、糸屋町の北端は一条通へ突き抜けていなかったのです。
 宝暦4年(1754)刊「名所手引京圖鑑綱目」(日文研所蔵)を見ると、和泉町通中立売から糸屋町を北行すると、一条通の手前で行き止まりの袋小路となっていることが見て取れます。ここを、明治32年末に北に向けて幅員7m余りの道として開き、これを新大宮通と称したと云うのです。

袋 町
 「新在家丁」の北側で、「ナシノ木丁(梨木町)」の西側にある「フクロ丁(袋町)」は北端付近で行き止まりとなっているのが判ります。
  (画像をクリックすると図が拡大します)

Preview_3

 寛文5年(1665)刊の『京雀』にも、「しんさいけ町 此町の北に袋町とて只一町有」と出ています。 
 上図、フクロ町(現・糸屋町)の北端にあたる個所から南方向を望む。この辺りが行き止まりとなっていたのを開いたのです。横断歩道の所を左右(東西)に延びるのが一条通です。

_01_2

 そのあたりを、宝暦12年(1762)刊『京町鑑』の記述からも見ておきましょう。
 「中立賣通」の個所に、「大宮西入 東新在家町」とあります。『京都坊目誌』によればこの「新在家町」は、元和期に町が開けて民家が建ち並ぶようになったことから新在家町と呼ぶようになったと云う。ここは、今、中立売通大宮にある新元町に該当します。
 そして、『京町鑑』は「此町北側中程上ル 袋町 此辻子行ぬけなし 同南側下ル 泉町」と続きます。この「袋町」は先に見たように、当時は行き止まりとなっていた現・糸屋町であり、「泉町」は後の和泉町で現・和水町ということになります。

新元町の仁丹町名表示板

_01_10

 なお、現在では糸屋町・和水町・東堀町(一条通から南の下長者町通まで)を通して大宮通としています。


 こうして、秀吉が聚楽第を築造したために、大宮通はその一部は中断したのですが、8年後には聚楽第が破却されたため、跡地が再び町地となって繋がったのです。
 ところが時代が降ると、今度は慶長7年(1602)に徳川家康が二条城を築造したために竹屋町通と押小路通の間が閉ざされてしまいます。

二条城二の丸御殿
 ここで大政奉還が議されました。

_01

 さらにその後、元祿16年(1703)には京都所司代屋敷の拡築で丸太町通と竹屋町通の間も閉塞してしまい、大宮通は再び部分的に途切れてしまって現在に至っています。

2016年10月28日 (金)

消えた大宮通 sign02  3の2

2. 聚楽第外堀に沈んだ大宮通

 今回は、聚楽第(聚楽城とも云われた)の築造による、大宮通の変貌に焦点を絞ってみます。
 聚楽第は、豊臣秀吉が天正14年(1586)に着工して翌年に完成しますが、僅か9年後の文祿4年(1595)には破却されてしまいます。
 聚楽第の規模・範囲については不明な点が多く、諸説があって定まっていないようです。

 幾つかの地誌等を見ると、北辺は一条通とすることでは概ね共通しているように見受けられます。
 そして、東辺は大宮通とするものが多いようです。(『京町鑑』『菟芸泥赴』『京都坊目誌』『都名所図会』など)
 堀川通を東辺とするもの(『京羽二重織留』『雍州府志』)もありますが、これは、その一帯には如水町・飛騨殿町・常陸町・藤五郎町などなど、秀吉に臣従した諸大名の名前に由来する町名が多数存在することから、聚楽第周辺の大名屋敷をも含めた範囲を云っているのでしょう。


如水町・常陸町の仁丹町名表示板
 如水町の名称は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の黒田官兵衛(如水)屋敷跡であることが由来です、常陸町は木村常陸介重茲の屋敷跡です。

_01_7

_01_9


 というわけで、一条大宮の辺りが聚楽第の北東角であったと見ても、一概に不当とは云えないと考えますが、どんなものでしょう。
 また、京都府教委文化財保護課と京大防災研が行なった、地震波の性質を利用した地下の遺構調査(昨2015年10月から今年1月にかけて実施)によれば、本丸と内堀の外側には大規模で複雑に折れ曲がった形をした外堀を備えていたらしい、ということが判明したのです。
 そして、その折れ曲がった外堀のうち最も東側に突き出した部分が、大宮通の一条から下長者町にかけての一帯に当たるようです。
 こうしたことが、聚楽第東側の外堀跡にあたる現在の大宮通一条から下長者町通の間、およびその東側一帯の家並みの形成に関係しているようです。

 冒頭に引用した『京都坊目誌』の記述にあるように、応仁・文明の乱以後の京都の町、ことに北部はすっかり荒廃していましたが、道路だけは通じていたようです。
 その荒廃した内野の地に聚楽第が築造されたため、大宮通のうち一条通から下長者町通までの間が、聚楽第東側の外堀に取り込まれてしまったことで、この間の部分が途切れてしまうことになったのです。

 このように、東の外堀が造られたことで大宮通が部分的に姿を消したため、その東側にある黒門通との中間にそれに替わる道路を新しく開通させました。その道が現在では、「元大宮通(旧大宮通とも)」と通称されている道だったのです。
 そして、聚楽第が破却されたあと元々の大宮通が復活したことで、両方を区別する必要からこの道を元大宮通、復活した道を元通りに大宮通と称したのでしょう。


現在の元大宮通の光景

_01


藤五郎町の仁丹町目表示板
 「舊大宮通」の表示です。
 「藤五郎町」は、織田信長の家来で本能寺の変の後に、豊臣秀吉に仕えた長谷川籐五郎則秀の屋敷跡です。

_01_6

2016年10月21日 (金)

消えた大宮通 sign02  3の1

 今回の記事は、少し長くなったため3回に分けてアップします。
 次回は「2. 聚楽第外堀に沈んだ大宮通」
 最終回を「3. よみがえった大宮通」とします。


1. 平安京の大宮大路
 平安京が造営されたとき、大内裏の東側に接して開かれたのが大宮大路(東大宮大路とも)でした。南北に貫通する大路で、十二丈の道幅があったと云いますから36m余りの大路だったのです。
 そして、現在の大宮通は、この大宮大路にほぼ該当するようです。
 平安時代の大宮大路(現・大宮通)は、北は一條大路(現・一条通)から南の九條大路(現・九条通)まで通じていた道でした。しかし、これが南北に延伸した時期は定かではありません。
 ちなみに、現在の大宮通は北は御薗橋通から久世橋通の一筋南に至っています。


 この大宮通について、大正4年(1915)刊『京都坊目誌』は、次のように記しています。
 「北は安居院今宮旅所前 [愛宕郡大宮村のうち} に起る。之を大宮頭と稱す。南 九條に至る。凡そ古の東大宮大路に當る。一條以北の開通年月詳ならず。其以南は延暦中開通す。文明以來荒廢せしも。道路のみは通せしが如し」、安居院というのは今の大宮通寺之内一帯、また付近の大宮通を云います。

 そして、寛文5年(1665)刊『京雀』には、「北のゆきあたりは今宮の御旅町とて西東一町あり(中略)そのわたりに大宮權現のやしろあり此故に町筋の名とす」と大宮通の名称由来を記しています。


大宮權現=久我神社

_01_4

_01_2

 上記引用文中の「大宮權現」というのは、かつては大宮の森と通称された地にある現在の久我神社(北区紫竹下竹殿町47)のことで、現在は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社となっています。
 大和国葛城山を根拠地とした豪族の賀茂氏は、山代国岡田の賀茂(相楽郡加茂町)に進出、ついで木津川を北上して桂川と賀茂川の合流点に辿り着き、さらに伏見の久我から賀茂川を北上して現在地に定着しました。そして、それぞれの地で鴨神社・久何(久我)神社の名が踏襲されたようです。
 なお、現在の大宮通は、久我神社の東側を通っていますが、元々は社前(西側)を通っている道が大宮通(現・大徳寺道)だったようで、今でも地元ではこの道を旧大宮通と称しています。
 また『京雀』によれば、大宮通を洛外に出るとその先は、「御旅町の西 むらさき野大徳寺に行道なり その北は今宮紫竹大門鷹が峯にゆく(中略)そのすゑは萬壽峠より岩やの不動へまいる道あり(中略)東寺の二王門のすこし西のかたより南へゆくは 淀鳥羽の道にて大坂までも連たり(中略)叉九條通直に西にゆけば桂川より津の國山崎」へと続く街道だとしています。


東寺(教王護国寺)南大門

 大宮大路の南端にある東寺は、平安京遷都の際に西寺とともに造営された二大官寺の一つで、南区九条町(九条大宮)に所在する真言宗寺院です。 
 丈が1丈の金剛力士2像(運慶湛慶作)を安置していたので二王門とも称された。しかし、明治元年10月21日の例月法要の夜の失火で門と共に焼失。明治28年に蓮華王院(三十三間堂)の西大門である九頭竜門を移築したと云う。重要文化財。

_01_5

東寺五重塔

 国宝で高さが54.8mあり、木造の塔としては日本一だそうで京都のシンボルとなっています。

_01_3

2016年10月14日 (金)

看板とポスター

イーグルベルトワックス
 鈴木油脂化学工業(大阪市東淀川区)
 以前の固形ワックスが今ではエアゾール式になっているそう
 機械の平・V用ベルトのスリップ止めと鳴き止めに効果があり、伝導効率が良くなると云う

_01


オリバーとんかつソース
 オリバーソース株式会社(神戸市中央区)
 調味料製造

_01_2


仁 丹
 森下仁丹株式会社(大阪市中央区)
 保険関連商品の製造販売
 仁丹は明治38年(1905)懐中薬として販売された

_01_3


赤玉ポートワイン
 サントリー(大阪市北区)
 サントリーの前身である「壽屋」の発売した甘味果実酒
 この写真、大正12年(1923)にポスター用として撮影された日本初のヌード写真とか

_01_4

2016年10月 7日 (金)

辻子 ー蟹辻子ー

 四条通川端東入 中之町
 南座の向かい側に位置したようですが、現在では無くなっています。

蟹辻子 (南北部分)
 突き当たりは南座、左手のビルの辺りから縄手通にかけて北座があった。

_01

 『京都坊目誌』によると、安永以来、中之町北側中央(北芝居の西側)から北に入り、東に向かう曲尺型で縄手に通じる小路がありこれを蟹辻子と称した。

 しかし、明治27年の四条通拡幅時に人家が改築され、縄手への通行が途絶して「今は新路次と稱す」としています。


蟹辻子 (東西部分)
 現在で云うなら差し詰め、大和大路西入の鴨川ビル西側の少し北から、鴨東ビルの下をくぐって縄手通(大和大路通)へ出る小路、といった見当になるのでしょうか。

_01_2

 「中之町」の一帯は慶長の頃以来、常設の劇場があり雑踏の地となっていたようです。
五條橋(現・松原橋)の畔にあった劇場が四條橋畔の中之町に移され、安永以来劇場は「東ノ芝居」と「西ノ芝居」の2カ所となり、芝居茶屋が軒を並べていたと云う。
 そして、文久3年に四条通の北側と南側にそれぞれ演劇場が設けられて、南の芝居と北の芝居と称された。しかし、明治27年道路が拡幅されることとなり、北の芝居は廃されて南の芝居(現在の南座)のみとなった。


南 座

_01_3

北座は南座の東筋向かい、四条通縄手西入の廿一軒町にありました。

 蟹辻子と関係は無いのですが、かつて中之町四条大橋東詰めに八坂神社の二ノ鳥居があり、一ノ鳥居は四条寺町にあったのですが、いずれも電車の軌道敷に入ったために廃されたそうです。 
 三ノ鳥居は下河原通の北端にある南樓門(正門)に現存しています。

2016年9月30日 (金)

暖簾いろいろ その11

鎧廼舎 うさぎ塾
 上京区黒門通一条上ル
 鎧製作

_01


塩芳軒
 上京区黒門通中立売上ル
 京菓子

_01_2


吉見秀峰堂
 上京区中立売通堀川西入
 京表具

 この暖簾のデザイン、仙厓の描いた紙本墨絵 ○△□ から図柄を取っている。
 本物の図は「扶桑最初禪窟(日本最古の禅寺)」および落款「仙厓」を記しているだけで、画賛がないので難解な作品とされており、その解釈には諸説があると云う。
 臨済宗の僧、仙厓義梵の絵は人気があり、一筆を乞う客が絶えなかったということで、「うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに紙おいてゆく」という狂歌を残しているそうです。

_01_4

 この「○△□」のデザインを看板に使っている店が中京区富小路通錦上ルにあります。
 古道具をはじめ生活雑貨、食器などを商っている店です。

Photo

«辻子 ー狗の辻子 2(上京)ー