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2017年5月26日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 20

中京区の2件

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東山区の2件

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2017年5月19日 (金)

看板いろいろ その14

鍵善良房
 東山区祇園町北側
 くづきり


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井筒八ツ橋 祇園本店
 東山区川端通四条上ル
 八ツ橋

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尾張屋
 東山区新門前大和大路東入
 お香

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観山堂
 東山区新門前大和大路東入
 古美術商

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2017年5月12日 (金)

辻子 ー伊勢殿構ノ辻子ー

 田丸町、東西俵屋町、伊勢殿構町を通貫していたものと考えられる。
 現在の土屋町通中立売から北行して一条通までを云ったものでしょうか。

 ところで、現在の土屋町通、北は一条通から南は竹屋町通まで通じていますすが、昔は非常に短い通りだったようです。
 『京都坊目誌』によれば、土屋町通は元和元年(1615)に開通した通りで、はじめ北は上長者町通から南が下立売通までの短い通りでした。
 宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』では「此通上長者町より出水迄二町の間也」と記しているので、この頃には下長者町通から南の出水通まで延長されていたことが判る。
 したがって、伊勢殿構ノ辻子は北に延伸された土屋町通の北端部にあたるようです。

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 『京都坊目誌』「田丸町」の項に、「相伝ふ聚楽城廃城の後、此辺田圃と化し、中に僅少の人煙ありしと。当時田丸町より接続地に伊勢殿構ノ辻子あり、今其字名を称せず。僅かに北側に其址を存せり」としています。


伊勢殿構町の仁丹町名表示板

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 天正期、豊臣秀吉の築いた聚楽城が興隆した頃、伊勢兵部少輔の屋敷に通じていたことから、伊勢殿構ノ辻子と称したようで、伊勢殿構町の町名もこれに由来しています。
 なお、伊勢兵部少輔(伊勢貞昌)は大名ではなく、島津藩の筆頭家老だったと云うことです。


2017年5月 5日 (金)

みすや針 (縫い針)

みすや針本舗(福井勝秀商店)
 中京区三条通河原町西入

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 貞享2年(1685)刊『京羽二重』に、「三條通 此通諸商諸職 川原町 見すや針」とあり、同書「諸職名匠」中の「針所」にも「三條川原町かど 福井伊豫」との記述があります。
 そして、現在も三条通河原町西入のみすやビルで「三條本家みすや針(福井みすや針)」として営業している。
 延宝6年(1678)刊の『京雀跡追』にも「はりや 物ぬいはり」として、「三條川原丁かと」にあったことを記しています。


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 同店のホームページとリーフレットによれば、現在地に店を構えたのは江戸初期で、はじめ「池ノ端針」の屋号で営業していたが、慶安4年(1651)宮中の御用針司となり、明暦元年(1655)後西天皇から『みすや』の屋号を賜ったと云う。
 『みすや』の謂れは、御所で作っていた針であることから、清めの意味とともに秘術である製法を漏らさぬよう、御簾(みす)の中で仕事をしていたからと云う。
    

 ところで、縫い針の歴史は原始時代にまで遡るようです。
 1965年に長野県南佐久郡北相木村で発見された栃原岩陰遺跡があります。この遺跡は約1万年前の縄文時代早期のものとされるようです。
 10体以上の縄文人の人骨が出土しているのですが、遺物には土器・石器・骨格器・動物の骨なども出ています。
 ここで発掘された骨の縫い針は、細い骨を石器で削り鋭く尖らせて、小さな穴を開けています。それら針の中には鹿角製の縫い針も見出されるということです。
 そして、骨製の釣針、縫い針の精巧さから、当時の人々の技術水準の高さが伺えるそうです。針と動物の腱を鞣して糸にしたものを使い、獣の皮を縫い合わせて衣服を作り上げたのでしょう。
 なお、ヨーロッパではさらに古く約4万年前の遺跡から、骨で作られた縫い針が見出されているようです。

2017年4月28日 (金)

暖簾いろいろ その15

わらじや
 東山区七条通本町東入
 うぞふすい(うぞうすい)
 秀吉がどうとかこうとか云うので創業は古い

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白碗竹快樓
 東山区新橋通大和大路東入
 中国料理

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きっさこ 和束
 東山区本町5町目
 京町家のカフェ
 
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ぎおん斎藤
 東山区新門前通西之町
 和装品
 170余年と云うから天保期の創業か
 

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2017年4月21日 (金)

辻子 ー刀の辻子ー

 一条殿町
 新町通武者小路下ルの西側にあったのではないかと思われるが不詳。

 『京都坊目誌』には、「近古此町西方に刀の辻子と字せる所あり。維新前廢す。寶曆町鑑に禁裏太刀師五十嵐和泉掾の居宅なりと」と記しています。
 つまり、中世には一条殿町の西方に「刀の辻子」と称した所があったが、明治維新の前に廃されたとしており詳細は不詳、大凡の位置を推定できるだけです。


刀の辻子があったと思しき辺りの様子です

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 上記引用文中にある『京町鑑』の「一條殿町」の項には、「此町に禁裏御太刀五十嵐和泉掾居宅有」と記しており、この刀師の五十嵐邸の所在したことが辻子名の由来であろうと思われます。

 「一条殿町」は、新町通一条上ルから武者小路通の間に位置する両側町です。
 中世のこの地に、一條殿の館があったことが町名の由来となっています。
 九條道家の三男実經がこの地に屋敷を構えて一條殿と称したそうで、その後に皇宮地に引き移ったあと町地になったと云う。

2017年4月14日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 19

中京区で
 紅灯緑酒の一隅

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2017年4月 7日 (金)

辻子 ーいさとの辻子ー

 智恵光院通寺之内から南行して、二筋目の通称聖天町通までの間。
 大猪熊町・古美濃部町・伊佐町を南北に通貫しています。

 なお、智恵光院通寺之内の一筋南、通称聖天町通を西行する道は「聖天辻子」です。

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 『京羽二重』には、「いさとの辻子」の位置を「しょうでんの辻子の北の町」と記しています。

 「伊佐町」については、『京都坊目誌』に「或は伊佐殿町と、叉俗に伊佐との辻子とも云へり」と記していて、かつては「伊佐殿町」とも称したようです。

 ところで、その「伊佐」「伊佐殿」の名称由来に関係するのですが、今出川通猪熊から大宮にかけて「元伊佐町」があります。
 『京都坊目誌』に、天文年間、足利義輝の家臣野本式部少輔輝久の妻の名を伊佐と云ったが、亡夫のためこの地に草庵を構え、自ら尼となって日蓮宗に帰依して妙法尼と号した。その俗名を採って伊佐殿と呼んだとして、その由来を記しています。

2017年3月31日 (金)

看板いろいろ その13

亀屋陸奥
  下京区西中筋通七条上ル
  和菓子「松風」
  應永8年(1421)の創業とか、なんと室町時代!

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亀屋良長
  下京区四条通油小路西入ル
  京菓子
  享和3年(1803)創業
  「茶によろし、酒によろし」sign02気持ち悪う〜ッ
  江戸後期の書家で山田古香(名は得多)の揮毫
  鳩居堂看板の文字も古香筆?

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吉田宗兵衛商店
  下京区寺町通仏光寺下ル
  茶道具

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久保田美簾堂
  下京区東洞院通仏光寺下ル
  京すだれ

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2017年3月24日 (金)

上高野鐘突町 ーカネツキ地名の由来ー

 叡山電鉄本線「三宅八幡」駅のすぐ近くに、「左京区上高野鐘突町」という町があります。

《上高野鐘突町の仁丹町名表示板》

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 「上高野」は比叡山の山麓に位置していて、この一帯の中央を流れる高野川の谷口扇状地となっています。
 高野川沿いを遡る若狭街道は、古くから八瀬・大原を経て途中越えで、若狭(福井県)と近江(滋賀県)へ通じる街道でした。

 ところで地名には、そのように呼ばれるに至った理由・由緒があります。この「鐘突町」という地名は何に由来しているのでしょうか。

 京都府下の「カネツキ」地名を調べたところ、次の6ヶ所が見つかりました。実際にはもっとあるのでしょうが探しきれませんでした。
  左京区上高野鐘突
  綴喜郡井手町多賀鐘付
  亀岡市曽我部町穴太鐘ツキ
  山科区小野鐘付田
  京田辺市松井鐘付田
  相楽郡精華町下狛鐘付田


 土地には、皇室の所有地(御料地)・幕府の直轄領(天領)、大小名の封地(私領)などがありました。そして、それぞれの所領には、領地経営に関する事務や雑務を執り行うための組織・機関が設けられていました。

 また、規模の大きい神社・寺院には、所有権・知行権を承認(安堵)された領地(寺社領)を持つところもありました。
 これらの所領を持つ規模の大きな社寺でも、年貢収納など寺領を支配管理するための組織を備えていました。

 寺院の場合、寺役所でその実務を行ない、そのために寺領内の百姓から取り立てた代官・寺侍・寺役人を置いていたのです。
 鐘を撞き(突き)鳴らすことで時刻を知らせる、灌漑用水の水門を開け閉めする、洪水などの非常事態を知らせるなどの役割は寺役人が担っていました。その鐘撞き役人に支給する手当を賄うための田地、これが「カネツキデン」と呼ばれ、それが地名として残ったのでしょうか。


 「カネツキ」ではないのですが、少し気になる地名に「カネウチ」というのが目につきました。
  船井郡京丹波町安栖里鐘打
 この「鐘打」には金刀比羅神社があり、『京都府の地名」(平凡社)によれば、神社の社伝にその昔は七堂があったと記しているようです。「鐘打」は、鐘楼のあった所だったのかも知れません。

 ところで、神社に鐘撞き堂(鐘楼)があると云えば奇異な感じがします。
 しかし、昔は奇異なことでもなく、江戸時代までは神仏習合(神仏混淆)で神社とお寺が同一の境内にあったのです。ところが、明治元年(1868)に神仏習合を禁じる神仏分離令が出されて、廃仏毀釈運動が起りました。神社の鐘楼は、こうした混乱期を乗り越えて今に残っているのでしょう。
 京都でもこうした鐘楼の残る神社が無いものかと探しましたが、残念ながら今のところ見当たりません。

《篠山市川原・住吉神社の鐘楼》
  この写真は篠山市のホームページから借用。

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 寛文2年(1662)に、篠山藩第4代藩主松平康信が 寄進したという鐘楼。篠山市内にある鐘楼建築の中でも特に優れたものとされ、四脚単層、本瓦葺、総ケヤキ造で篠山市指定文化財となっている。

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