2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

リンク集

無料ブログはココログ

2017年4月21日 (金)

辻子 ー刀の辻子ー

 一条殿町
 新町通武者小路下ルの西側にあったのではないかと思われるが不詳。

 『京都坊目誌』には、「近古此町西方に刀の辻子と字せる所あり。維新前廢す。寶曆町鑑に禁裏太刀師五十嵐和泉掾の居宅なりと」と記しています。
 つまり、中世には一条殿町の西方に「刀の辻子」と称した所があったが、明治維新の前に廃されたとしており詳細は不詳、大凡の位置を推定できるだけです。


刀の辻子があったと思しき辺りの様子です

_01

 上記引用文中にある『京町鑑』の「一條殿町」の項には、「此町に禁裏御太刀五十嵐和泉掾居宅有」と記しており、この刀師の五十嵐邸の所在したことが辻子名の由来であろうと思われます。

 「一条殿町」は、新町通一条上ルから武者小路通の間に位置する両側町です。
 中世のこの地に、一條殿の館があったことが町名の由来となっています。
 九條道家の三男実經がこの地に屋敷を構えて一條殿と称したそうで、その後に皇宮地に引き移ったあと町地になったと云う。

2017年4月14日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 19

中京区で
 紅灯緑酒の一隅

_01


_01_2 


_01_3


_01_4

2017年4月 7日 (金)

辻子 ーいさとの辻子ー

 智恵光院通寺之内から南行して、二筋目の通称聖天町通までの間。
 大猪熊町・古美濃部町・伊佐町を南北に通貫しています。

 なお、智恵光院通寺之内の一筋南、通称聖天町通を西行する道は「聖天辻子」です。

_01_2


 『京羽二重』には、「いさとの辻子」の位置を「しょうでんの辻子の北の町」と記しています。

 「伊佐町」については、『京都坊目誌』に「或は伊佐殿町と、叉俗に伊佐との辻子とも云へり」と記していて、かつては「伊佐殿町」とも称したようです。

 ところで、その「伊佐」「伊佐殿」の名称由来に関係するのですが、今出川通猪熊から大宮にかけて「元伊佐町」があります。
 『京都坊目誌』に、天文年間、足利義輝の家臣野本式部少輔輝久の妻の名を伊佐と云ったが、亡夫のためこの地に草庵を構え、自ら尼となって日蓮宗に帰依して妙法尼と号した。その俗名を採って伊佐殿と呼んだとして、その由来を記しています。

2017年3月31日 (金)

看板いろいろ その13

亀屋陸奥
  下京区西中筋通七条上ル
  和菓子「松風」
  應永8年(1421)の創業とか、なんと室町時代!

_01_11


亀屋良長
  下京区四条通油小路西入ル
  京菓子
  享和3年(1803)創業
  「茶によろし、酒によろし」sign02気持ち悪う〜ッ
  江戸後期の書家で山田古香(名は得多)の揮毫
  鳩居堂看板の文字も古香筆?

_01_12


吉田宗兵衛商店
  下京区寺町通仏光寺下ル
  茶道具

_01_13


久保田美簾堂
  下京区東洞院通仏光寺下ル
  京すだれ

_01_14

2017年3月24日 (金)

上高野鐘突町 ーカネツキ地名の由来ー

 叡山電鉄本線「三宅八幡」駅のすぐ近くに、「左京区上高野鐘突町」という町があります。

《上高野鐘突町の仁丹町名表示板》

_01


 「上高野」は比叡山の山麓に位置していて、この一帯の中央を流れる高野川の谷口扇状地となっています。
 高野川沿いを遡る若狭街道は、古くから八瀬・大原を経て途中越えで、若狭(福井県)と近江(滋賀県)へ通じる街道でした。

 ところで地名には、そのように呼ばれるに至った理由・由緒があります。この「鐘突町」という地名は何に由来しているのでしょうか。

 京都府下の「カネツキ」地名を調べたところ、次の6ヶ所が見つかりました。実際にはもっとあるのでしょうが探しきれませんでした。
  左京区上高野鐘突
  綴喜郡井手町多賀鐘付
  亀岡市曽我部町穴太鐘ツキ
  山科区小野鐘付田
  京田辺市松井鐘付田
  相楽郡精華町下狛鐘付田


 土地には、皇室の所有地(御料地)・幕府の直轄領(天領)、大小名の封地(私領)などがありました。そして、それぞれの所領には、領地経営に関する事務や雑務を執り行うための組織・機関が設けられていました。

 また、規模の大きい神社・寺院には、所有権・知行権を承認(安堵)された領地(寺社領)を持つところもありました。
 これらの所領を持つ規模の大きな社寺でも、年貢収納など寺領を支配管理するための組織を備えていました。

 寺院の場合、寺役所でその実務を行ない、そのために寺領内の百姓から取り立てた代官・寺侍・寺役人を置いていたのです。
 鐘を撞き(突き)鳴らすことで時刻を知らせる、灌漑用水の水門を開け閉めする、洪水などの非常事態を知らせるなどの役割は寺役人が担っていました。その鐘撞き役人に支給する手当を賄うための田地、これが「カネツキデン」と呼ばれ、それが地名として残ったのでしょうか。


 「カネツキ」ではないのですが、少し気になる地名に「カネウチ」というのが目につきました。
  船井郡京丹波町安栖里鐘打
 この「鐘打」には金刀比羅神社があり、『京都府の地名」(平凡社)によれば、神社の社伝にその昔は七堂があったと記しているようです。「鐘打」は、鐘楼のあった所だったのかも知れません。

 ところで、神社に鐘撞き堂(鐘楼)があると云えば奇異な感じがします。
 しかし、昔は奇異なことでもなく、江戸時代までは神仏習合(神仏混淆)で神社とお寺が同一の境内にあったのです。ところが、明治元年(1868)に神仏習合を禁じる神仏分離令が出されて、廃仏毀釈運動が起りました。神社の鐘楼は、こうした混乱期を乗り越えて今に残っているのでしょう。
 京都でもこうした鐘楼の残る神社が無いものかと探しましたが、残念ながら今のところ見当たりません。

《篠山市川原・住吉神社の鐘楼》
  この写真は篠山市のホームページから借用。

01

 寛文2年(1662)に、篠山藩第4代藩主松平康信が 寄進したという鐘楼。篠山市内にある鐘楼建築の中でも特に優れたものとされ、四脚単層、本瓦葺、総ケヤキ造で篠山市指定文化財となっている。

2017年3月17日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 18

下京区で

_01_5


下京区で

_01_6


中京区で

_01_7


東山区で

_01_8

2017年3月10日 (金)

辻子 ー聖天辻子ー

 智恵光院通寺之内の一筋南を西行する小路(通称・聖天町通)で、観世辻子(上立売通)の北の小路。
 聖天町・伊佐町を通貫している。

_01_3


 雨宝院に安置される通称西陣聖天と呼ばれる本尊の聖天が、辻子名・町名の由来です。
 この雨宝院の本尊は大聖歓喜天であり、元は千本五辻いあって大聖歓喜寺と称したようです。しかし、応仁の乱で荒廃し、一宇のみ残存して雨宝院と称していたが、天正年間にこの地に移ったということです。

 『京都坊目誌』に、「町内中央より東。伊佐町に通する小街を世俗 聖天ノ辻子と呼べり」と辻子の位置を記しています。
 『京羽二重』には、「大宮どをり紋やの辻子のにし上る所」とある。


聖天町の仁丹町名表示板

_01_4

2017年3月 3日 (金)

暖簾いろいろ その14

近 喜
  下京区木屋町通松原上ル
  賀茂とうふ
  天保5年(1834)の創業とか

_01_9


五辻の昆布
  上京区千本通五辻上ル
  昆布製品いろいろ

_01_10


今原町家
  上京区葭屋町通上長者町下ル
  町家を生かした食事処

_01_7


糸 源
  中立売通七本松西入
  料理屋

_01_8

2017年2月24日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 17

今回は中京区の4ヶ所です。


_01


_01_2


_01_3


_01_4

2017年2月17日 (金)

辻子 ー陣屋辻子(妹辻子とも)ー

 姉小路通堀川東入 一筋目を北行して御池通に抜ける小路。
 鍛冶町・森之木町の南部分を通貫しています。

_01


 『京町鑑』は、「森之木町 此町南側下ル一町を 陣屋辻子叉一名妹辻子とも云」として、別称があったことも記しています。 
 なお同書に、「御池通 一名八幡町通」として、御池通の名称由来を記しています。
 それによれば、神泉苑前の通りであること、また、御池通両替町の人家裏にあった御池の旧跡にちなむとも云う。
 そして御池通の別称である八幡町通は、御池通高倉東入(南側)に御所八幡宮があることによるが、八幡町通と呼ぶのは烏丸通までを云うとしています。

 『京都坊目誌』では、「森之木町」に、「本町の南 字 妹之辻子 (貞享地圖にげんやの辻子とあり)に當る」としている。この「げんやの辻子」は、『京町鑑』に記している「陣屋辻子」であろうと思われます。
 そして、「鍛冶町」については、「始め毘沙門堂町 叉多聞町とも云へり 寶曆以来今の名を専稱す。姉小路北側中央より御池通に至る小路あり 之を妹ノ辻子と字す」と記しています。
 なお、多聞町・毘沙門堂前町の町名は、この辻子の東北に維新前まであった多聞寺の本尊が毘沙門天だったことによるとしています。

«駄菓子屋(一文菓子屋)