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2017年7月28日 (金)

辻子 ー蛇辻子(じゃのずし)ー

 蛇辻子は、下松屋町通五条下ルの付近を東へと通じていたようです。

 下松屋町通は、かつて「一貫町通」と称していました。
 その由來は判りませんが、『京町鑑』には、「△此通一貫町と名付たる事詳ならず ●此通は松原より南は丹波口下ル所迄の通にて大宮の西の通也」としています。
 そして、蛇辻子の位置については「▲下長福寺町 此町中程東側下よりに辻子有㋵蛇辻子」としています。

 上の記述から蛇辻子の位置は、下長福寺町の町域(北は万寿寺通から南は五条下ルまで)のうち南の方、つまり、下松屋町通(一貫町通)の五条(辺り)を東行する小路であったものと思われます。


次の写真、この辺りが辻子跡と見立てた五条通南側歩道です。

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 ところで、この五条通ですが、ずっと後の太平洋戦争末期になってから大きく変貌しているのです。
 昭和18年(1943)に「防空法」を改正して大都市の建物の疎開強化要綱を策定します。
 空襲による延焼を防ぐため道路を拡幅して防火帯を設けるために、大きな道路沿いの建物を市や町が強制的に取り壊す建物の強制疎開の措置がとられたのです。
 京都でも昭和19年10月から三次にわたって強制的な建物疎開がおこなわれて道路が拡幅されています。同20年3月の第三次強制疎開で五条通・堀川通・御池通などで実施され、1万世帯以上の家屋が強制的に取り壊されました。
 五条通の場合は、その南側部分が強制疎開の対象となり、現在の北側歩道にあたる部分が元の五条通(約5m)だったのですが、家屋が取り壊されたことで現在のような約50mの広い道路になったのです。

 蛇辻子は旧五条通の南側、つまり、強制疎開で家屋が消滅してしまった現在の五条通の車道部分から、その少し南の町境界までの間の下長福寺町を、下松屋町通(一貫町通)から東行していたものと考えられるのです。

 町名の由來は、『京町鑑』に「松原通大宮西入町に長福寺あり。町名之に起る。」とし、下松屋町通について「始め上長福寺町。下長福寺町。突抜一町目。突抜二町目。の四ヶ町を新町と稱す。蓋し新開を意味せしなり。」と記しています。
 そして、下長福寺町については、「開坊の初め二町目と呼べり。此町東側南方より東に通する小路あり。俚俗蛇辻子と字せり」としています。

2017年7月21日 (金)

看板いろいろ その15

魚 新
  上京区中筋通浄福寺西入
  有職料理(京料理)
  安政2年(1855)創業で御所のお祝い事の料理(宮廷料理)の御用達をした老舗

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玉壽軒
  上京区千本通今出川上ル
  干菓子

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おかもと紅梅庵
  上京区上七軒(北野天満宮東門前)
  京料理

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鍵長法衣仏具店 
  下京区油小路通正面東入
  仏具・法衣

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2017年7月14日 (金)

辻子 ー鹿子屋辻子ー

 智恵光院通寺之内下ル 一筋目を東行して大宮通までの間。
 古美濃部町・新美濃部町・花開院町を東西に通貫しています。

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 『京町鑑』には、「新美濃部町 叉一名○鹿子屋辻子ともいふ」と記しています。
 『京都坊目誌』でも、「新美濃部町 亦世俗鹿ノ子屋ノ辻子と云ふ」と記しています。
 つまり、両書ともに鹿子屋辻子は新美濃部町のことであり、東西に通じる辻子だとしています。


 ところが、どうしたことなのか、『史料 京都の歴史』7巻「上京区」にある「図13 上京区域における辻子の分布」では、異なる個所を示しているのです。
 その図に示すところでは、智恵光院通の寺之内から南行して上立売までの間で、大猪熊町・古美濃部町・伊佐町を南北に通貫していることになっているのです。

 しかし、そうだとすると智恵光院通の寺之内通から聖天辻子東端までの間については、「伊佐との辻子」と重なってしまうと云う奇妙な恰好になってしまいます。ですから、これはちょっと採り難い考え方だという気がするのですが、どんなものでしょう。


2017年7月 7日 (金)

暖簾いろいろ その17

茶 洛
  上京区今出川通大宮西入
  わらび餅

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町家ギャラリーうさぎ
  上京区大宮通中立売上ル
  端裂・食器

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藤野とうふ
  上京区今小路通御前西入
  京とうふ

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葱や平吉 高瀬川店
  下京区西木屋町通仏光寺上ル
  飲食店

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2017年6月30日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 3

 前回は、和歌に詠われている同名の景物(山や清水など)を幾つか見ました。
 ところが、ほかにも祭礼の名前が似通っているだけでなく、祭礼も同じ日に行なわれるものがありました。

6. 二月上卯日を祭礼日としている
 『菟芸泥赴』に、「二月上卯日は大原祭あり競馬などもあり 西山の大原野祭も二月上卯日なり故あるにや」と記しています。
 *「上卯」というのは、卯の日が月に2回ある時は先の卯の日ということです。

 大 原
 『菟芸泥赴』の記述にもかかわらず、現在では洛北・大原に2月上卯日を祭礼日とする神社は存在しないようです。

 大原野
  《大原野神社》

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 洛西・大原野の大原野神社(西京区大原野南春日町)は現在の祭礼日は4月8日ですが、昔は菟芸泥赴に記すように2月上卯日と11月中子日に祭礼が行われていました。
 奈良の春日社(今の春日大社)は藤原氏の氏神社ですが、桓武天皇が長岡京にさらに平安京へと遷都したことで、参拝に不便となったことから小塩山山麓に勧請し、平安京を鎮護する神として祀られ、地名から大原野神社と称されました。
 したがって、祭礼日は春日神社と同じ2月上卯日でした。


 ところで、多くの地誌の記述では、両地に同名のものが存在するのには、きっと理由があるに違いないけれども、その由來や繫がりは詳らかでないとしているのです。
 少し長くなりますが、『山州名跡志』の「朧ノ清水」から引いておきます。
 「顯昭云ク。能因歌枕ニ云ク。朧清水ハ山城國大原ノ里ニアリトイヘリ。或人申侍シハ。江文ノ東ニアリ。良暹カ大原ノ山荘ノ邊ト云云 私ニ曰ク此ノ水江文明神ノ東ナリ。叉云フ西山ノ大原野ニ朧清水世和井ノ水アリ。所ノ名モ亦大原ト云フ。定メテ所以アルベシ未考。叉此所草生ノ西山南北ヲ小鹽山ト摠名スルナリ。然レトモ和歌ニ詠スルハ西山ノ小鹽ナリ。」
【註】顕昭:平安末期から鎌倉初期の歌僧、法橋に叙せられた
   能因:平安中期のひと、中古36歌仙の1人で晩年は大原に隠棲
   良暹:平安中期の歌僧、大原に隠棲した

 ということで、好奇心に駆られて調べてみたものの、結果として疑問は全く解決しませんでした。
 そこで、以下は私の想像です。(したがって、断るまでもなく責任は持てません)
 最初に見たように大原と大原野は、ともに平安時代以来の由緒ある地でした。そして、和歌に地名が詠み込まれるときは、共に「大原」と詠まれるため混乱が生じがちでした。そうした中で、互いに名所を競い合い、張り合っていたのだろうと思うのです。
 その結果、双方が相手には有るけれども、自分の所には無い名所を作り上げたのだろう、というように考えました。
 上品にして優美な趣や味わいには欠ける推測ですが・・・。さてどんなものでしょうか?

【参考にした地誌等】
京童、大原野一覧、北肉魚山行、菟芸泥赴、京羽二重、山州名跡志、京城勝覧、山城名跡巡行志、新撰京都名所圖絵、京都市の地名

2017年6月23日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 2

 前回見たように、大原と大原野は和歌に詠まれるときには、どちらも「大原」とされて同じです。
 さらに、驚いた事には山や清水の名称まで同じものがあるのです。その幾つか見てみましょう。


2. 小塩山
 *歌枕となっていて、和歌に詠まれる小塩山は大原野の方です。

 大 原
 大原川(高野川)の西側で、寂光院の背後の山。しかし、小塩山というのは特定の山ではなく、大原川の西側を南北に連なる山並みを総称したものだそうです。

 大原野
《大原野神社の参道》
 参道の西方(左方)には勝持寺、そして小塩山(大原山)と続いている。つまり、大原野神社は小塩山の東麓斜面に位置しています。

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 小塩山は、東西の二峰からなっていて、東峰が小塩山で西峰は大原山とも云われる。

    
3. 大原山
 *歌枕になっているのは大原の方です。

 大 原
《大原の大原山》
 小塩山と同じく大原山という特定の山はなく、大原川(高野川)の東側の山々の総称です。

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 大原野
 前記「小塩山」で記したように、大原野神社の背後にある2峰からなる山の西側の峰を云い、これはまた西之山とも云われるようです。


4. 世和井ノ水(セガイノミヅ)(清和井また瀬和井とも)
 *歌枕になっており、古来多くの和歌の題材となった名水は大原野の方です。しかし、各種地誌にはどちらの世和井も「由來未詳」としています。

 大 原
 「律川ノ橋ノ東右方ニ在リ和歌ニ詠ズ」また、「三千院の門前南、呂川にかかる魚山橋の東北畔にある」としている。しかし、現在では残っていないようです。

 大原野
 大原野神社境内の鯉が池の傍に、参道を挟んである。

《世和井の水》

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 *清和天皇の産湯とも大伴家持が愛飲した井水とも伝わる。
 ところがsign02、勝持寺の不動堂の西にもありました。西行が出家するときに映して頭を剃ったと伝わる鏡石の傍です。 
  
 
5. 朧ノ清水(オボロノシミズ)
 *歌枕になっている名水で、和歌に詠まれたのは大原にある方です。やはり、いずれも「由來未詳」とされます。

 大 原
 三千院から寂光院へ抜ける近道の傍らにあります。

《朧ノ清水》
 建礼門院が、朧月夜に我が身をこの清水に映されたことが名前の由来とする。
  ひとりすむ朧の清水友とては月をぞ宿す大原の里  寂然

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 大原野
 勝持寺の「大門ノ外 下馬ノ橋ノ東路傍ノ北ニ在リ」とする。しかし、今では下馬橋も朧ノ清水も存在しません。

【次回に続く】


2017年6月16日 (金)

大原と大原野 ー多い類似点ー 1

 近頃、妙なことに気が付きました。(と言うと大袈裟ですが)
 ブログ記事を書く時に、しばしば京都の地誌に関する書物を参考にしています。

 そうした折に目に付いたのですが、洛北の「大原」と洛西の「大原野」は、地名自体が大変よく似通っているだけでなく、和歌に詠み込まれた景物にも同名のものがあるのです。
 ちなみに、古刹の名称も似通っています。大原には「魚山大原寺勝林院(天台宗)」が、大原野には「小塩山大原院勝持寺(天台宗)」があって、ともに「大原」が付いています。
 こうした不思議な一致に引かれて、風流韻事には全く縁遠い野暮天の小生なのですが、少し調べてみた結果を記事にしてみました。

1. 大原と大原野の概略

 大原は京都の北郊(洛北)にあります。周囲を山に囲まれた大原川(高野川の上流)沿いの盆地に位置しています。昔の大原は、「炭𥧄の里」という別称もあった製炭地で、炭のほか薪・柴など燃料を都に供給することを生業とする里でした。

《大原川》

 高野川の上流域で八瀬以北を大原川と言い、この川沿いの小盆地が大原です。

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 平安朝の昔から建礼門院平徳子を初め貴顕が隠棲した地であり、鴨長明が籠居したことでも知られ、その風光は多くの歌人に詠われてきました。大原は現在も著名観光地の一つです。
 かつて「大原」は、「オハラ」と読み、古くは「小原」「小原口」と記されたこともあったようです。ただし、和歌には「大原(オホハラ)」と詠まれました。


 大原野は京都の西郊(洛西)にあります。小塩山(大原山)を背負う西高東低の広い段丘地は長閑にして素朴な風光で、古代には狩猟・遊宴の地であり、桓武天皇がたびたび狩猟をおこない皇族や貴族も宴遊しています。

《西山連峰》

 西山山系の小塩山東麓になだらかに開けた傾斜地で眠気を催すような光景です。

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 山野の風光とともに大原野神社をはじめ多くの寺院が建立されており、西行法師など多くの歌人が隠棲した。鄙びた田園であり洛北大原ほどには俗化していません。
 かつての大原野は、「オハラノ」と称されたが、「オオハラノ」の呼称も用いられていました。この大原野も、和歌では洛北と同じように「大原(オホハラ)」と詠まれました。


 このように、大原と大原野のどちらも、地名を和歌に詠むときは「大原(おおはら)」と表現されたのです。
 そうすると、同名のものが歌に詠まれているとき、洛北・洛西どちらの大原なのか混同されるるため、詞書(ことばがき)や詠み合わせる景物により識別されました。

洛北の「大原」を表す景物: 炭𥧄(ノ里)、朧ノ清水、芹生ノ里、比良、高根など 
  炭がまのたなびく煙ひとすぢに心ぼそきは大原の里  寂然
  水草ゐし朧の清水底すみて心に月のかけはうかふや  素意法師

洛西の「大原野」を表す景物: 小鹽山、清和井ノ水、冴野ノ沼、庭火、野辺ノ行幸など
  おほはらや小鹽の山の小松原はや木高かれ千代の影みむ  紀貫之
  おしほ山松風さむし大原やさえ野の沼やさえまさるらむ  中務

 そして、こんな事があってよいものか、驚いた事には山や清水までも同名のものがあるのです。
 次回では、その幾つか見てみましょう。

2017年6月 9日 (金)

暖簾いろいろ その16

河合美術織物
  上京区衣棚通今出川上ル
  西陣織袋帯

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村上重本店
  下京区西木屋町通四条下ル
  京つけもの

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丹波屋
  上京区黒門通下長者町上ル
  くみひも

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帯屋捨松
  上京区笹屋町通大宮西入
  西陣織帯
  創業は安政年間とのこと

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2017年6月 2日 (金)

辻子 ー硯屋辻子ー

 上立売通の、大宮通と智恵光院通との間。
 樋之口町・硯屋町・伊佐町を通貫しています。

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「樋之口町」について、『京都坊目誌』では「始め下華開院と云ふ。寶暦年中今名に改む」としています。
  ちなみに、樋之口町の北隣は「華開院町」で、かつて町の西側には山号・寺号を付さない華開院と言う寺院があったそうで、これが町名の由来となっているという。


 それはそうと、どのように考えればよいのか戸惑ってしまうことが出てきました。
『京都坊目誌』には「硯屋町 町名起源不詳 始め觀世の辻子と云ふ。後東硯屋町、西硯屋町のニとなり。維新の際一町に合す。」と記しています。つまり、元・觀世辻子=現・硯屋辻子は、智恵光院通の東側にあることになります。
 一方、当ブログ '16年8月5日の記事「觀世辻子」では、智恵光院通の西側にあるとしていました。

 そうすると、『京都坊目誌』の云うところでは、かつては「現・硯屋辻子」部分をも含めて、つまり上立売通の浄福寺通と大宮通間を通して「觀世の辻子」と称したと云うように読めるのです。
 しかし、同じ上立売通とは云いながらも、智恵光院通を挟んで西側と東側では南北にズレています。1つの辻子が真っ直ぐに通っていないのは、私にとって容易には信じ難いことのように思えるのです。(智恵光院通の部分を含めて鍵形の辻子であったとするならば話は別です)

 また、『京童』は「あぐゐ通西へ ◯くはんぜの辻子 ◯聖天岩神門前町 ◯ゑびす町」としており、『京羽二重』も「觀世辻子 大みやどをりあぐいんにしへ入所」と記していますから、硯屋辻子もかつては觀世辻子と言ったというのは信じるべきことなのでしょうか。
 その辺りについて、新しく判明したことがあれば改めて記事にしたいと思っています。

2017年5月26日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 20

中京区の2件

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東山区の2件

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