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2017年1月13日 (金)

辻子 ー花山辻子ー

 姥ヶ東西町・姥ヶ榎木町・西五辻東町を南北に通っている小路です。
 上立売通浄福寺の二筋西の通り、姥ヶ東西町中程から南行して五辻通までの間を云います。

 この南北の通りの名称について、『京都坊目誌』では「姥ヶ北町通」としており「北は寺之内に起り、南は五辻に至る」、さらに、「街名起源 元姥ヶ懐と称する字なり、開坊の時(慶長の頃)取て稱とす」と記しています。

 また、「姥ヶ榎木町」の説明の中で、「叉此町を花山ノ辻子に云ふ 近世圖に見ゆ」としています。


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 なお上掲書には、この辺り一帯から千本通にかけて、町として開ける前には原野あるいは畑地であったこと、この一帯を「姥ヶ懐(うばがふところ)」という字名だったとも記しています。
 そして、町となるにあたって町名にその字名を冠したのだとしています。 
 その字名「姥ヶ懐」については、特に説明はありません。「姥のふところ」?「老婆のふところ」?、はてさて何のことでしよう。
 ということで、この周辺の町名の多くが「姥ヶ◯◯◯町」といった名称となっているのです。
 かつて、毎年5月の今宮神社祭礼の時には、各町で掲出する神灯には◯の中に姥、懐の字を紋章として付けていたのは、こうした昔の名残りだと云っています。


「姥ケ西町」の仁丹町名表示板
 これは現存数の極めて少ない木製の一つです

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2017年1月 6日 (金)

暖簾いろいろ その13

カサ六瓢
  上京区大宮通元誓願寺下ル
  デイケアセンター
  無病息災の「むびょう」を六つの瓢簞の「六瓢」で表現しているとか

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たわらや
  上京区御前通今出川下ル
  うどん屋
  超極太のうどんが一本だけ入っている!!!

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ゆば長
  上京区室町今出川上ル
  京湯葉

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魚 新
  上京区中道通浄福寺西入
  有職料理安政2年(1855)創業

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2017年1月 1日 (日)

明けましておめでとうございます

 皆様には良いお正月をお迎えになりましたでしょうか。
 私は朝からおおっぴらに呑めるお正月が大好きです。けれども、薬臭いお屠蘇は省略して御酒をいただいています。

 屠蘇の酒曲水花見月見菊
   年わすれまでのみつゞけばや  蜀山人

 
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 このところ、世相・政治ともにタガが外れてしまったかのようで、何処へ向かうのか判らない危うさを感じます。
 今年は何とか穏やかな、そして良い年になってほしいものです。

 皆様にはいつもこのブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。
 実はこのブログ、古稀に達したのを切っ掛けとして、惚け防止のために始めたものでした。(少しばかり動機が不純かも知れませんhappy01
 けれども、気付けばいつの間にやら5年余りを経て、記事の数も320本を越えました。(よくもま〜続いたものと、我ながら感心しますsign01confident
 地味なブログではありますが、まだ当分の間は閉鎖せずに続けたいと思っています。
 今後も時折覗いていただけると嬉しいです。

2016年12月30日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の2

2. 三本木町は何処へ?

 前回に見た東洞院通丸太町上ルに存在していた上三本木各町の移転について、『京都坊目誌』には次のように記しています。

 「寶永五年の大火に内裏炎上す。尋(つい)で築地の取擴けあり。東洞院より烏丸まで。北は下長者町より南は丸太町迄の町地を買収し。皇宮地に編入せらる。此時一町目より三町目の転地を命せらる。仍(かさね)て其替地たる丸太町の北。鴨川の西に移住す。今尚三本木の稱あり」と。


 東三本木通

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 西三本木通

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 そして、東洞院通についての記述では、「當時上長者町まで通ぜしが。寳永五年皇宮地に入るを以て。丸太町まで閉塞す。其間にありし町家を。河東二條に移転せしむ。今尚ほ新東洞院と云ふ。」
 さらに、「新東洞院町 新東洞院通二條下るより二王門までを云ふ。寶永五年の開発にして元東洞院丸太町以北、三本木一・二・三町目の町民を此に移す」と、鴨川の東側の二条通と仁王門通間の新東洞院通に移転させられたことを記しています。


 新東洞院通

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 このように、上三本木一町目から三町目の住民は、鴨川の西と東の2カ所に分かれて移転させられたのでした。


3. 移転して新たに開かれた町々

 ところが、移転させられたのは東洞院通から烏丸通沿いの住民だけではありませんでした。丸太町通から北側については、西は烏丸通から東は寺町通までの間の全ての民家が移転させられたのです。
 このように大規模な移転でしたから、移住先となった主な代替地だけでも次の4カ所に及びました。
 そして、人々が移住した先の町名や通り名には、旧地を偲んで次のような名称がつけられました。

① 鴨川西岸と河原町通の間で、丸太町の北側の一帯
 ここには先に書いた東洞院通丸太町以北の民家が移転しました。そして、旧地の通り名を採って、「東三本木通」「西三本木通」と名付けました。
② 鴨川東部(いわゆる河東)で、二条通と孫橋通の間
 ここには西は烏丸通、東は寺町通の間の丸太町通以北の民家が引き移りました。この鴨川東部の移転地では、通り名の全てが「新車屋町通」「新東洞院通」「新間之町通」などというように、旧地の通り名に「新」を付して「新◯◯◯通」という呼称にしました。
③ 寺町通と河原町通の間で、北は荒神口通から南は二条通に至る間
 ここへは丸太町以北の烏丸通東側にあった民家が移ります。そして、通り名は「新烏丸通」と命名されました。なお、天正期の秀吉による京都改造以来この一帯に輻輳して存在した多くの寺院は、賀茂川東部の仁王門通付近に移転させられています。
④ やはり寺町通と河原町通の間で、北は丸太町通から南は二条通までの間
 椹木町通烏丸から東の民家をここに移して、「新椹木町通」と称しました。


 それらの町の仁丹町名表示板

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   (追補 '17.1.11)
 『山州名跡志』中に、「三本木」の名称由来などの記述を見つけました。
 原文は仮名交じり文で読むのが煩わしいため、主要な点のみを現代文の体裁で要旨を記しておきます。

① 東洞院通の出水から南を上三本木町、下立売通の南を下三本木町と云った。
② 古老が云うには、平安時代にはこの辺りに監獄があり、その門外に三本の木(樗とも榎とも云われる)が植えられていた。これが地名「三本木」の名称由来となった。
③ 古くは、斬首された罪人の首は獄舎の木に懸けられた。このことから獄門と云った。

2016年12月23日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の1

1. 消滅した「上三本木町」

 現在の「三本木町」は、東洞院通の丸太町通と竹屋町通の間に位置する両側町です。

 三本木町の町並み

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 ところが、その南隣の町名は「三本木五町目」(竹屋町通と夷川通の間)となっていています。

 三本木五町目の町並み

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 「三本木五町目」が存在しているにもかかわらず、その北にあるはずの三本木一町目から四町目、そして南側の六町目以降が存在していません。
 これはどうしたことなのでしょうか? どのような事情があってのことなのか、大いに興味をひかれます。

 その辺りの事情を『京都坊目誌』の記述から見ていきます。
 同書の「三本木五町目」について説明した個所に、その答がありました。
 「東洞院通出水下る所を上三本木町と云ひ、一町目と呼ぶ。下立賣下るを二町目と呼び。椹木町下るを三町目と唱へ。丸太町下るを四町目と云ひ。當町に至り五町目となる。」としているのです。

 今では京都御所苑地となっていますが、かつての東洞院通には出水通と丸太町通の間に一町目から三町目までが存在したのです。
 そして、現在では丸太町下ルの町名は「三本木町」となっていますが、元々ここは「四町目」と称していたことが判ります。
 また、その南側(竹屋町通と夷川通の間)の現「三本木五町目」は、慶安の頃には「井筒屋町」「西井筒屋町」と称していましたが、明治2年2月に両町が合併して「五町目」という旧町名に戻したのだとしています。

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 そして、「三本木五町目」の南隣、つまり、夷川通から二条通までの現町名は「壷屋町」となっています。しかし、ここも始めは「三本木六町目」と称していたのですが、慶安期から現町名に改めたと記しています。(右の仁丹町名表示板、劣化が激しく見辛いのですが「壷屋町」のものです)

 以上に見てきたように、かつての東洞院通には北は出水通から南の二条通までの間に、「三本木一町目」から「三本木六町目」までの6町が連なって存在していたのです。
 ところが、丸太町通から北にあった一町目から三町目までの地は、宝永5年(1708)の大火のあと、京都御所が拡張されることになり、苑地に取り込まれてしまい消滅したのです。
 そして、その一帯に居住していた住民は立ち退きを余儀なくされ、代替地に移住させられました。


【註】「宝永五年の大火」とは
 宝永5年(1708)3月8日の午の刻(現在の正午12時頃)に油小路通姉小路下ル、西側二軒目の両替商伊勢屋市兵衛方から出火。強風のために東北方向また東南方向へと燃え広がり、多くの公家・武家屋敷や社寺が灰燼に帰し、御所までもが炎上した。その被害区域は東は鴨川、西は油小路通の西、南は四条、北は下鴨の河合神社辺りにまで及んだという。
 民家13,051戸、神社7、寺院74が焼失し、出火の翌9日未の刻(現在の午後2時)になって漸く鎮火したと云う大火事でした。

      《次回に続く》

2016年12月16日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 16

今回は東山区です


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2016年12月 9日 (金)

辻子 ー長寺辻子ー

 河原町通仏光寺上ル富永町から西行し、勝円寺の門前を経て寺町通へと抜ける小路です。
 富永町・中之町を通貫しています。

長寺辻子

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 『京都坊目誌』は、長寺辻子について次のように記しています。
 「文化年中 或は七年 {1810} 也と云ふ 勝圓寺境内を割きて新開せしものなり。然れとも河原町に達する少許の地は 民有にして公の道路にはあらさりしか」と記しています。
 つまり、勝円寺の境内地であった所を割いて辻子に振り向けたというのです。
 そして、民有地であった河原町通に近い部分は、明治28年にここを買収して道路敷にしたようです。

 なお、勝円寺は、もとは東洞院五条(この五條は現在の松原通です)の北にありましたが、天正5年(1587)に豊臣秀吉のおこなった京都改造のため、この地に移転させられたのです。 中世のこの一帯は、妙法院(東山区妙法院前側町)の寺領として永らく畑地でしたが、寛文10年(1670)10月に町地となり富永町と名付けられたそうです。
 妙法院は、青蓮院・三千院とともに「天台三門跡」と称される寺院です。

 富永町は隣接する稲荷町とともに、西側は秀吉の築いた御土居の藪であったのを開いて町地としたようです。


2016年12月 2日 (金)

看板いろいろ その11

ぎんなん
 上京区一条通七本松西入
 酒 処

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とようけ屋山本
 上京区七本松通一条上ル
 京豆腐

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やまきぬ
 上京区中筋通浄福寺西入
 西陣織

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長五郎餅
 上京区一条通七本松西入
 京菓子
 豊臣秀吉が北野天満宮で開いた大茶会の時に用いたそうですから、天正期以来ざっと400年は続いている餅菓子のようです。

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2016年11月25日 (金)

暖簾いろいろ その12

北野上七軒で
 京都六花街の一つ「上七軒」は京都で最古の花街です。北野天満宮東門前から東へ延びる町並みで、天神さん修造の折に出た用材で、茶屋を七軒建てたのが始まりとされる。
 花街らしい雰囲気で、元はお茶屋であった建物を店舗として使っているところも多い。

くろすけ
 とうふ料理

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まつひろ(上七軒店)
 財布・バッグなど袋物

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弓月京店
 和装の店

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老 松
 和菓子

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2016年11月18日 (金)

辻子 ー萬年寺辻子ー 《補訂》

 以前(2014.5.2)に書いた記事「辻子 ーマンネンジノヅシー」、実はその辻子の位置がはたして正しかったのかどうか、ずっと気になっていたのです。
 しかしその後、新たに知り得たことが幾つかあって、誤りの訂正とあわせて足りない点を補い、全面的に書き直したものが本記事なのです。(当時の記事は、それはそれとして削除せずに残しています)

 ここで、まず「萬年寺辻子」とその界隈について簡単に説明しておきましょう。
 五条通河原町の一筋西にある道(現在の地図では「富小路通」となっている)は、本塩竈町を西寄りに斜行して六条通まで南下しています。そして、六条から南は真っ直ぐに上珠数屋町通(上枳殻馬場通とも云う)に至ります。
 この通は、かつて下寺町通と称していました。寺町通の南端は五条通まででしたが、明治になって五条通以南が通じたのです。このように、寺町通の下(しも)に当たることから、下寺町通と呼称されました。

 そして、この富小路通(元・下寺町通)を六条通まで南下すると、下寺町通はそこから真っ直ぐ南へ萬年寺の門前を通って上珠数屋町通に至りますが、ここが萬年寺辻子なのです。

 辻子の突き当たりは上珠数屋町通、築地塀の中は枳殻邸(東本願寺別邸)です。

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 その萬年寺辻子の途中、本塩釜町の南端と唐物町の境界にあたる地点から西方に延びる道があります。この道、かつては萬年寺通と称していたのですが、現在では花屋町通となっています。

仁丹町名表示板
 かつての萬年寺通=花屋町通沿いの家屋に設置されていました。

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 ここから本題の「萬年寺辻子」に戻ります。
 『京都坊目誌』中の「本鹽竃町」の記述から引用してみましょう。
 「元街名にして下寺町と称す。左右皆寺院なり。・・・(略)・・・此町南に於て萬年寺辻子と字す。萬年寺あるを以てなり。叉下寺町中央より東に通ずる小巷あり。市姫ノ辻子と稱す。市比賣神社あるを以てなり」とあります。
  つまり、下寺町通(本塩竈町)の南には、萬年寺があることから萬年寺辻子と云い、また、下寺町通の中程から東に入ると市姫神社があるので市姫辻子と称したのです。市姫辻子」については、以前(2014.4.11)に記事にしました。
 なお、萬年寺については、「萬年寺通烏丸の邊にありと。天正十九年豊臣氏の命に依り。現在の地に移轉す」と記していて、秀吉の京都大改造の折に花屋町通烏丸から今の場所へ移転させられたようです。

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 ということで、萬年寺辻子の所在する場所は、改めて次のように訂正します。
 「富小路通(元・下寺町通)六条の南、萬年寺の門前を南行して上珠数屋町通へと抜ける小路。栄町と本塩竈町の境界、唐物町、唐物町と八軒町の境界を南北に通貫しています。」
 したがって、当初は「本塩竈町を南北に通貫しています。(富小路通の五条〜六条の間)」としていたのは取り消します。実際には、この部分の南側だったのです。


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