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2016年9月23日 (金)

辻子 ー狗の辻子 2(上京)ー

 武者小路通(むしゃのこうじどおり)の烏丸と室町の間。
 梅屋町、北小路室町と福長町の境界を東西に通貫する小路です。
 武者小路通の名称由来は不明。
 無車小路と書くこともあり、町名も「武者小路町(室町通西入)」と「西無車小路町(新町通西入)」の両方が存在する。

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 『京都坊目誌』には、「本名東武者小路町也。天正以前狗(イノコロ)の辻子と云ふ。慶長以来今の名になる」としていて、この辻子の読み方は「イノコロのずし」としています。
 「狗」は犬の子のことで、子犬のことを「いぬころ」とも言いますから、これが「いのころ」に転じたものでしょうか。
 ちなみに、先頃、下京の「狗の辻子」について記事にしましたが、その辻子の読み方は「イノコのずし」でした。

 なお、「梅屋町」の名称由来については、この町の住人某の茶寮に大きな梅の木があったことによると云う。上に引用したように、天正以前の町名は東武者小路町で、この辻子名は通称だったようです。

2016年9月16日 (金)

形(かたち・フォルム) その2

本隆寺の築墻(ついじ)

 築地塀に軒丸瓦(巴瓦)や平瓦などを埋め込んでいて、意匠が面白いと思いました。

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 本隆寺は本妙法華宗の寺院です。(智恵光院通五辻上ル紋屋町)
 長享2年僧日眞が六角西洞院に草創、その後四条大宮に移転。
 天文5年(1536)7月27日、京都の法華宗21ヶ寺が比叡山延暦寺の僧兵に焼かれた折、本隆寺も焼滅して同年11月に現在地に移ってきました。
 この本隆寺には、不焼寺(やけずのてら)という異名があります。これは、享保15年(1730)の西陣焼けや、天明8年(1788)の大火でも本堂が焼け残ったためで、本堂に安置された鬼子母神による奇瑞と云われたそうです。

 なお、元はこの地に佐々木氏の類族杉若若狭守の邸宅がありました。このため、紋屋町の西側の町は杉若町と称しています。

2016年9月 9日 (金)

辻子 −桶屋ノ辻子ー

 大宮通花屋町下ル 大宮二町目から西方に通じる小路を桶屋辻子と称した。
 「大宮二町目」は、始め「寺の内二丁目」と呼ぶ西本願寺の境内地でした。


桶屋ノ辻子

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 大正元年に大宮通の西側を拡張して、同年11月12日に京都市電大宮線が開通します。

 そのとき、大宮二町目から西行する桶屋辻子を拡幅して、「丹波口停車場」へ通じる大きな道路にしました。
 この丹波口停車場というのは現在のJR山陰本線「丹波口」駅です。ただし、現在では丹波口駅は五条通の南側へ移動しています。
 この道路、当時は「丹波口駅前通」と称したようですが、現在の地図では「正面通」と表示しています。

裏片町の仁丹町名表示板
 通の名称が「丹波口駅前通」となっています。

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 紛らわしいことですが、「丹波口通」という名称の通りもあるのです。
 大宮通花屋町一筋北の通を、西方に向かう道です。この道を大宮通から少し西に入った所が「丹波街道町」です。
 この町名由来は、豊臣秀吉の開いた京七口「丹波口」で、丹波への出入り口だったことによります。

丹波街道町の仁丹町名表示板
 通の名称が「丹波口通」です。

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2016年9月 2日 (金)

形(かたち・フォルム) その1

JR京都駅ビルの天井

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 平成9年(1997)の駅舎建て替えにあたっては、巨大なため高さ制限の緩和を必要とし、デザインも斬新すぎて古都京都のイメージを大きく損なうとして反対論も強く、賛否両論があってその論争はそれは賑やかでした。結果は高さは60mに押さえることで落着したようです。
 しかし、空中経路や屋上広場からの眺めは、京都の景色が一望できてなかなかのものです。


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 ところで、景観論争と云えば、京都駅前(塩小路通を挟んで北側)の京都タワービルも巨大なローソクを連想するもので、今ではすっかり景色に融け込んでいますが初めの頃は評判が悪かったのを覚えています。
 ここも京都の市街地を一望できるのが売りでしょうか。


2016年8月26日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 15

今回は下京区です。

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2016年8月20日 (土)

辻子 ー中ノ町辻子ー

中ノ町辻子

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 蛭子町と銭屋町を通貫している。
 新町通と室町通の中程を、鍵屋町通から南行して的場通までの小路で、現在では西堀川通となっています。

 「蛭子町」の名前は、東隣の「大黒町」に対する呼び名で、蛭子大黒で一対となる。
 この界隈は、慶長年間に二條柳町から移転した遊郭の跡で、六條柳町と称されました。


蛭子町の仁丹町名表示板
 町名表示板は琺瑯加工してあるためあまり褪色しないのですが、これは劣化が著しいです。

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 「銭屋町」も「蛭子町」同様に元遊郭地で、的場新地と称した。新地というのは新開地を意味しています。


銭屋町の仁丹町名表示板

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2016年8月12日 (金)

辻子 ー狗の辻子 1(下京)ー

 西側の下魚棚四丁目・西八百屋町と、東側の八百屋町の境界を為している小路です。
 七条通と下魚棚通の間で、現在の地図では西堀川通としている。

狗の辻子
 この辻子の名前は、普通なら「こいぬのずし」または「いぬのずし」と読むのでしょうが、『京都坊目誌』では「いのこのずし」としています。
 「いぬのこ」が「いのこ」に変化したものでしょうか。

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西八百屋町の仁丹町名表示板

 「八百屋町」と「西八百屋町」は、遠い昔この付近は市(いち)の立つ町だったようです。しかし、中世には荒廃したのですがその遺風は残り、天正の頃には蔬菜の市場となったことが町名の由来とされる。
 なお、八百屋町の南裏(下魚棚通)の北側は、「魚棚三町目」と称していましたが、明治3年に「八百屋町」に合併しました。

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2016年8月 5日 (金)

辻子 ー觀世辻子ー

觀世辻子

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 上立売通にあって、智恵光院通と浄福寺通の間を通っている。
 伊佐町・聖天町・大黒町と、紋屋町の境界となっている小路です。

 『京羽二重』には、「観世辻子 大みやどをりあぐいんにしへ入所」とあります。
 『京雀』では、「上立賣通 あぐゐ通西へ くはんぜの辻子」としています。
 「あぐゐ通」と云うのは、現在の大宮通のこと。
 したがって、上記二書のいずれの記述も、辻子の所在地を「上立売通を大宮通の西方に行った所」と理解すれば、実際の辻子位置とは矛盾しないわけです。

 なお、「あぐいん」については下の【註】をご覧ください。

紋屋町の仁丹町名表示板

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【註】上掲書にある「あぐいん」と「あぐゐ」は、「安居院(あぐい)」のことです。
少し長くなりますが、安居院について紹介しておきましょう。
 安居院というのは、比叡山延暦寺東塔竹林院の里坊で平安時代後期の頃に建立されたようです。安居院の旧地は今の大宮通上立売辺りとも、また大宮通寺之内辺りにあったとも言われるのですが不詳。
 一方、「あぐい」はこの一帯の地名としても用いられてきたようで、現在の「前之町」は元禄9年刊『京大絵図』で見ると「安居院前町」となっています。
 また、『京羽二重』によれば、「安居院(あくいん) 寺の内通大宮通南北の間を云」としていて、大宮通寺之内の一帯を言ったのだと記述しています。
 そして『京都坊目誌』には、「安居院ノ址 按るに大宮以東 寺之内以北の地なるべし」として、現「仲之町」の旧称が「安居院仲之町」であったこと、現「前之町」の旧称も「安居院前之町」であったことを記しています。
 ちなみに、近代(昭和初期)になって道路改修工事が行なわれた時に、前之町で石造五輪塔の残欠や卒塔婆石などが出土したと云う。
 なお、安居院(「あごい」とも)は応仁の乱で廃滅しましたが、文禄2年に新シ町に再興されて後は、真言宗寺院の西法寺となりました。
 なお、「安居院」の読み方に付いて、『京雀』には「安居院(あぐゐ)はもとこれ 山門の一院にて安居院(あんごゐん)とかうす 音の連(つゞき)よろしき故にあぐゐといふ」としていて、元は「あんごいん」と号したのだが、音のつながりが良いので「あぐゐ」に変化したと云うのです。

2016年7月29日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 14

いずれも北区で見かけたものですが、路地と云うにはためらいを感じるものが含まれています。

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2016年7月22日 (金)

辻子 ー西本願寺辻子ー

西本願寺辻子

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 『京町鑑』には、「西本願寺と興正寺の間也 即西へ壹町ほど辻子を行即西本願寺臺所門の前へ出る 其所を南へ出れば七條通也・・(略)・・扨叉右臺所門前をすぐ西へ行ば大宮通へ出る」とあります。
 この記述から、辻子の位置は北小路通の堀川から大宮通にかけて、東西に通っていたことが判ります。しかし、その所在は判るのですが名称が載っていません。

 辻子の北側は門前町、南側は花園町・西八百屋町・大工町・御器屋町があって、辻子はその境界を為しています。
 寺社の門前や傍を通る辻子には、その寺社の名称を冠していることが多いので、それに倣ってこの無名の辻子を「西本願寺辻子」と勝手に名付けました。


西本願寺四脚門(唐門)
 この唐門は辻子に面して建っています。
 勅使門と称し、桧皮葺の唐破風作りで寛永7年に伏見城から移築されたという。
 左甚五郎の作と伝わる花鳥等の彫刻で装飾されています。しかし、経年劣化で漆・金粉などの彩色がかなり剥落してはいますが、今もなお往時の豪華な様子を窺わせます。

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 つぎに、いくつかの町名について、『京都坊目誌』からその由来を見ておきましょう。
 「門前町」は、明治2年に上地していた本願寺境内が、同6年12月に「本願寺門前町」と名付けられ、略して「門前町」と呼ばれるようになった。
 「御器屋町」は、本願寺が大坂の天満から移転した時、紀州黒江の塗器商である御器屋甚右衛門と云う商人が共に移転してきてこの町に住みついた。そして、同寺の注文を受け膳椀器具を製造して納めていた。
 真宗では供膳の仏器を御器と称したことから町名になったと云う。
 「大工町」は、足利氏の元家臣であった水口某と云う者が、本願寺の棟梁となってこの地に住んだことが町名の由来だとする。

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