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2016年8月26日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 15

今回は下京区です。

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2016年8月20日 (土)

辻子 ー中ノ町辻子ー

中ノ町辻子

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 蛭子町と銭屋町を通貫している。
 新町通と室町通の中程を、鍵屋町通から南行して的場通までの小路で、現在では西堀川通となっています。

 「蛭子町」の名前は、東隣の「大黒町」に対する呼び名で、蛭子大黒で一対となる。
 この界隈は、慶長年間に二條柳町から移転した遊郭の跡で、六條柳町と称されました。


蛭子町の仁丹町名表示板
 町名表示板は琺瑯加工してあるためあまり褪色しないのですが、これは劣化が著しいです。

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 「銭屋町」も「蛭子町」同様に元遊郭地で、的場新地と称した。新地というのは新開地を意味しています。


銭屋町の仁丹町名表示板

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2016年8月12日 (金)

辻子 ー狗の辻子 1(下京)ー

 西側の下魚棚四丁目・西八百屋町と、東側の八百屋町の境界を為している小路です。
 七条通と下魚棚通の間で、現在の地図では西堀川通としている。

狗の辻子
 この辻子の名前は、普通なら「こいぬのずし」または「いぬのずし」と読むのでしょうが、『京都坊目誌』では「いのこのずし」としています。
 「いぬのこ」が「いのこ」に変化したものでしょうか。

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西八百屋町の仁丹町名表示板

 「八百屋町」と「西八百屋町」は、遠い昔この付近は市(いち)の立つ町だったようです。しかし、中世には荒廃したのですがその遺風は残り、天正の頃には蔬菜の市場となったことが町名の由来とされる。
 なお、八百屋町の南裏(下魚棚通)の北側は、「魚棚三町目」と称していましたが、明治3年に「八百屋町」に合併しました。

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2016年8月 5日 (金)

辻子 ー觀世辻子ー

觀世辻子

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 上立売通にあって、智恵光院通と浄福寺通の間を通っている。
 伊佐町・聖天町・大黒町と、紋屋町の境界となっている小路です。

 『京羽二重』には、「観世辻子 大みやどをりあぐいんにしへ入所」とあります。
 『京雀』では、「上立賣通 あぐゐ通西へ くはんぜの辻子」としています。
 「あぐゐ通」と云うのは、現在の大宮通のこと。
 したがって、上記二書のいずれの記述も、辻子の所在地を「上立売通を大宮通の西方に行った所」と理解すれば、実際の辻子位置とは矛盾しないわけです。

 なお、「あぐいん」については下の【註】をご覧ください。

紋屋町の仁丹町名表示板

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【註】上掲書にある「あぐいん」と「あぐゐ」は、「安居院(あぐい)」のことです。
少し長くなりますが、安居院について紹介しておきましょう。
 安居院というのは、比叡山延暦寺東塔竹林院の里坊で平安時代後期の頃に建立されたようです。安居院の旧地は今の大宮通上立売辺りとも、また大宮通寺之内辺りにあったとも言われるのですが不詳。
 一方、「あぐい」はこの一帯の地名としても用いられてきたようで、現在の「前之町」は元禄9年刊『京大絵図』で見ると「安居院前町」となっています。
 また、『京羽二重』によれば、「安居院(あくいん) 寺の内通大宮通南北の間を云」としていて、大宮通寺之内の一帯を言ったのだと記述しています。
 そして『京都坊目誌』には、「安居院ノ址 按るに大宮以東 寺之内以北の地なるべし」として、現「仲之町」の旧称が「安居院仲之町」であったこと、現「前之町」の旧称も「安居院前之町」であったことを記しています。
 ちなみに、近代(昭和初期)になって道路改修工事が行なわれた時に、前之町で石造五輪塔の残欠や卒塔婆石などが出土したと云う。
 なお、安居院(「あごい」とも)は応仁の乱で廃滅しましたが、文禄2年に新シ町に再興されて後は、真言宗寺院の西法寺となりました。
 なお、「安居院」の読み方に付いて、『京雀』には「安居院(あぐゐ)はもとこれ 山門の一院にて安居院(あんごゐん)とかうす 音の連(つゞき)よろしき故にあぐゐといふ」としていて、元は「あんごいん」と号したのだが、音のつながりが良いので「あぐゐ」に変化したと云うのです。

2016年7月29日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 14

いずれも北区で見かけたものですが、路地と云うにはためらいを感じるものが含まれています。

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2016年7月22日 (金)

辻子 ー西本願寺辻子ー

西本願寺辻子

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 『京町鑑』には、「西本願寺と興正寺の間也 即西へ壹町ほど辻子を行即西本願寺臺所門の前へ出る 其所を南へ出れば七條通也・・(略)・・扨叉右臺所門前をすぐ西へ行ば大宮通へ出る」とあります。
 この記述から、辻子の位置は北小路通の堀川から大宮通にかけて、東西に通っていたことが判ります。しかし、その所在は判るのですが名称が載っていません。

 辻子の北側は門前町、南側は花園町・西八百屋町・大工町・御器屋町があって、辻子はその境界を為しています。
 寺社の門前や傍を通る辻子には、その寺社の名称を冠していることが多いので、それに倣ってこの無名の辻子を「西本願寺辻子」と勝手に名付けました。


西本願寺四脚門(唐門)
 この唐門は辻子に面して建っています。
 勅使門と称し、桧皮葺の唐破風作りで寛永7年に伏見城から移築されたという。
 左甚五郎の作と伝わる花鳥等の彫刻で装飾されています。しかし、経年劣化で漆・金粉などの彩色がかなり剥落してはいますが、今もなお往時の豪華な様子を窺わせます。

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 つぎに、いくつかの町名について、『京都坊目誌』からその由来を見ておきましょう。
 「門前町」は、明治2年に上地していた本願寺境内が、同6年12月に「本願寺門前町」と名付けられ、略して「門前町」と呼ばれるようになった。
 「御器屋町」は、本願寺が大坂の天満から移転した時、紀州黒江の塗器商である御器屋甚右衛門と云う商人が共に移転してきてこの町に住みついた。そして、同寺の注文を受け膳椀器具を製造して納めていた。
 真宗では供膳の仏器を御器と称したことから町名になったと云う。
 「大工町」は、足利氏の元家臣であった水口某と云う者が、本願寺の棟梁となってこの地に住んだことが町名の由来だとする。

2016年7月15日 (金)

辻子 ー鎗ノ辻子ー

鎗ノ辻子(跡)

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 この辻子、現在では京都御苑に取り込まれてしまい無くなっています。
 京都御苑の乾御門から入ると、左手(北西辺り)に児童公園がありますが、往時、辻子はこの辺りを南北に通っていました。


現在の乾御門

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 「鎗ノ辻子」があった場所を絵図で見ると、次のようでした。
 烏丸通から少し東に入り込んだ位置にあった乾御門の前から、北方の今出川通へ出る南北の小路だったようです。
 「鎗ノ辻子」の東側は近衞殿屋敷・舟橋殿屋敷が、西側は一條殿屋敷の北端・堀川殿・久我殿といった公卿屋敷に挟まれているのがわかります。

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 【註:上の写真は、伊東宗裕著『京都古地図めぐり』所載の「文久改正内裏御絵図」を写真撮影のうえ、辻子部分を中心にトリミングしています】


 上記絵図の全体図からは、江戸時代までは天皇の住む禁裏御所・上皇法皇の住まう仙洞御所を中心に、五摂家(近衞家・九条家・鷹司家・一條家・二條家)、天皇の親戚である宮家(有栖川宮家・桂宮家など)、昇殿を許された公卿家の屋敷町が取り巻くように建っていた様子が見て取れます。

 現在見る京都御苑のように、今出川通・烏丸通・丸太町通などの外周が、築地塀や石垣で囲われたのは、明治2年に実質的な東京遷都が行なわれて以降のことなのです。
 それ以前の御所西側がどのような様子だったか、各種絵図で見ると次のようなことが判ります。
 御所の正門にあたる中立売御門は現在と同じく烏丸通に面していました。
 しかし、乾御門・蛤御門(新在家御門)・下立売御門は少し東へ引っ込んだ位置にありました。
 なお、蛤御門と御苑の東側にある清和院御門は、現在とは違って南向きに建っていたようです。

2016年7月 8日 (金)

辻子 ー宗忠辻子ー

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 堀川通寺之内上ル 一筋目を西行して行き当たりを寺之内通に抜ける鉤型の小路。
寺之内竪町・東西町を通っている。

 『京羽二重』に、「宋忠辻子 天神の辻子にしへ入所」とする。天神辻子は、鞍馬口通堀川西入ル 一筋目を南行して堀川通に抜け、上御霊前通までをいう。

 「寺之内竪町」の町名由来は、『京都坊目誌』によれば、「寺之内の竪(たて)にあり故に號く。寺之内と云ふは安居院の寺内と謂ふ意也」と記しています。


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 「東西町」については、前掲書に「始め寺之町内と稱す。寺之内とは安居院の舊地を貫通し道路を拓きしより名とす。」とし、さらに「其後 寺之内横東半町 横西半町に分る 叉 北方に當町より折れて堀川に通する小街あり。突抜町と號す世俗妙蓮寺突抜と呼ふ。正徳四年の圖にそうくの辻子とあり。(以下略)」とあって、明治維新に上記の3町を合併して「東西町」となった。
 そして、上記引用文中のそうくの辻子と云うのは、宗忠辻子のことと思われる。

註:記事中の「安居院」とは
 平安末期の頃、延暦寺の里坊である竹林院のあった所とされるが、その所在地については現在の大宮通寺之内辺りとも大宮通上立売あたりとも云われるが不詳。
 この「安居院」の読み方には、あぐい・あぐいん・あごい等いろいろ見られるようですが、この地一帯の地名としても用いられてきており、現在の「前之町」は元禄9年刊「京大絵図」で見ると「安居院前町」となっています。
 なお、「安居院」という名称は、以後の辻子シリーズにおいても度々出てきますので、記憶に留めておいてください。

2016年7月 1日 (金)

空・光・水・風 その13 

枯れ蓮

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噴 水

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シバザクラ

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石 塔

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2016年6月24日 (金)

阿弖流為(アテルイ)のこと

 古代の大和朝廷から見ると、蝦夷地(東北地方)は、戦に必要な資源である馬や鉄、そして金などを産する魅力的な地域でした。朝廷の権力者は蝦夷地とその住民(蝦夷)を支配下に置くため、大和朝廷の時代からたびたび蝦夷討伐を行なってきましたが、奈良時代になると激しさを増します。
 延暦8年(789)、巣伏村(現・水沢市辺り)で征東将軍の紀古佐美の率いる朝廷軍と、阿弖流為(蝦夷の指導者で阿弖利為とも)の率いる蝦夷軍が戦い、朝廷軍が大敗するという「巣伏村の戦い」が起こりました。この戦は、朝廷の権威が傷ついたばかりでなく、蝦夷地支配の計画を根底から揺るがす重大な事件として、蝦夷征伐の機運がさらに激しさを増していきます。(『続日本紀』)


阿弖流為と母禮の顕彰碑(清水寺境内)
 清水寺の創建は宝亀9年(778)で、平安京建都の延暦13年(794)よりも前ということになります。

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 ところが、蝦夷の人々は言語や風俗が和人とは異なり、朝廷による度重なる侵略にも容易に服属しようとはせず、強く抵抗をつづけました。
 強大な朝廷軍を相手とした10年余りに及ぶ抵抗で蝦夷は疲弊します。そこで、蝦夷住民の安泰を望んだ阿弖流為と盟友の母禮(モレ)は、延暦21年(802)投降を選択して、朝廷の統治下に入ります。
 征東副使の坂上田村麻呂に伴われて、阿弖流為と母禮は都へと向かいます。
 田村麻呂は、二人(阿弖流為と母禮)の武勇と人物を惜しむとともに、支配下に収めた蝦夷地の経営には両名の協力を得る必要があるとして、胆沢へ還すように朝廷へ助命を進言したのですが聞き入れられません。
 そして、朝廷に抵抗した反乱軍の首謀者として河内國椙山(現・大阪府枚方市)で斬殺されました。(『日本紀略』)

阿弖流為と母禮の説明文
 (写真をクリックすると拡大して見られます)

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 《史書》は権力者・覇者によって書かれますから、常に正義は勝者にあって敗者は悪とされてしまいます。
 朝廷の側が版図を拡げるために蝦夷征伐の軍を派遣して侵略したのですが、侵略された側の蝦夷は朝廷に服属することを忌避して抵抗したのです。
 したがって、蝦夷の人々は朝廷に対して反乱を起こした反逆者ではなく、ましてや、都まで攻め上って行って戦ったのではないのです。
 ですから阿弖流為は、討たれるいわれの無い蝦夷の人々とその土地を守るため、侵略に抵抗して戦った英雄だったのです。
 そういう阿弖流為ですから、今までに歌舞伎・映画・テレビドラマ・アニメで、「北の英雄」として演じられ描かれてきました。近くは、明6月25日から「シネマ歌舞伎」として、市川染五郎主演の「歌舞伎NEXT 阿弖流為」が各地で上映されます。

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