2017年9月
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2017年9月22日 (金)

看板いろいろ その16

繪 惣(上羽繪具) 
  下京区東洞院通高辻下ル
  日本画絵具
  宝暦元年(1751)の創業とか

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西田松月堂
  下京区北小路通西中筋東入
  表具表装

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西 利
  下京区堀川通七条上ル
  漬物

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帯屋捨松
  上京区笹屋町通大宮西入
  西陣織帯
  創業は安政年間とのこと

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2017年9月15日 (金)

暖簾いろいろ その18

いづう
  東山区祇園清本町
  すし

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ぎおん斎藤
  東山区新門前通大和大路東入
  和装品

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祇園おくむら
  東山区切通し四条上ル
  フランス料理

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祇園吉今
  東山区新門前通大和大路東入
  旅館

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2017年9月 8日 (金)

辻子 ー長光寺辻子ー

 高倉通万寿寺上ル 福田寺町を西行して突き当たりを南行する鉤型の小路が長香寺辻子です。

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 「長光寺辻子」の名称は、現町名の「福田寺町」へ変わる前の呼称で、すぐ北隣の樋之下町にある長香寺に由来します。
 ちなみに、『京町鑑』には万寿寺中之町の「北側に高辻へ出る辻子を 新堀上之町 叉俗に長光寺辻子と云」、樋之下町の「南の方西入所 ㋵福田寺新地上之町 長光寺新地とも云則此町に長光寺と云浄土宗の寺あり」と記しています。

 また、「福田寺町」の由来は、慶長3年の豊国社造営に際して、東山汁谷(現東山区渋谷)からこの地に移転してきた福田寺が町名の由来です。その後さらに移転して、現在では六条通河原町西入に所在します。


福田寺町の仁丹町名表示板
 木製で希少なものです

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2017年9月 1日 (金)

空・光・水・風 その15

晩夏から仲秋へ

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向日葵(ヒマワリ)

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(すすき)

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2017年8月25日 (金)

儚くも消えた聚楽城 2の2

2. 聚楽第の築かれた場所と規模は?

 聚楽第の四囲・規模と構造については、記録が残っておらず確かなことは判らないため、諸説があるようです。 
 それらは、いずれも北限を一条通とする点ではほぼ共通していますが、その他はばらついています。
「南北は一條より二條迄 東は堀川 西は内野をかぎりて城地として聚楽と號し給ふ」(『京羽二重織留』)、『雍州府志』も同じ範囲を記す。
「東は大宮より西は千本迄 北は一條に限り南は春日今いふ丸太町に至る」(『京町鑑』)、『菟芸泥赴』『京都坊目誌』も同じ範囲を記している。
「一條の南、二條の北にして、東は大宮を限り、西は朱雀通今の千本通なり を堺とす」(『都名所図会』)としています。
多く残る洛中洛外図屏風からは、外堀を含めると東は大宮通、西は千本通、北は元誓願寺通、南は下立売通を範囲とする見方もあるようです。


松林寺(新出水通智恵光院西入南側)
 松林寺の境内は周辺より低い凹地なっていて、新出水通に面した寺門を入ると、かなり低いところに本堂や墓地がある。これは、聚楽第南外堀である天秤堀の跡だとされています。

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 このように、聚楽第の規模について記述に違いが見られるのは、本丸と内堀以外のどこまでを含めて考えるかで大きな違いが出るようです。つまり、外堀までとするのか、あるいは周囲に設けられた諸大名の屋敷までを含めるのかによって、その範囲は変わってきます。
 聚楽第の周囲、特に東側には諸大名や武家の屋敷が建ち並びました。『京都坊目誌』には、それらの人々の名前に由来するとして伝承される多くの町名が記されており、そうした町名は約25にも上っており、現代の地図でも目にすることができます。


如水町の仁丹町名表示板
 黒田如水(名は官兵衛孝高)の屋敷跡であることが町名の由来とされる。

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 さらに、聚楽第の園池、通用門などの城郭構造、あるいは配下の武士達の組屋敷に由来するとされる町名も約30に上ります。


亀木町の仁丹町名表示板
 聚楽第庭園の池に、木製の噴水用巨亀が設けられていたことが町名の由来とされる。

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 先に見たように、聚楽第の確かな位置と範囲は不明ですが、従来の発掘調査結果では、一条大宮の民家敷地から花崗岩の礎石、智恵光院中立売では金箔を貼った鬼瓦と軒丸瓦そして耳付き茶壺・天目茶碗、丸太町智恵光院付近で金箔軒瓦が発掘されているようです。
 しかし、聚楽第跡と見られる一帯は現在では住宅密集地となっているため、従来から大規模な発掘調査おこなうことは極めて困難だったのです。


梅雨の井
 『京町鑑』には「梅雨の井」の名称由来を、「清水町 此町東側中程人家の裏に井有 梅雨の井とよぶ 昔聚楽御城有し時太閤秀吉公御茶の水にし給ふ 井の深さ一丈餘梅雨の入より水井筒の上ヘ越して外へ流れわたる 因て清水町と云」と、井と町名の由来を記している。
 今では井桁も無くなり、打ち込まれていた手押しの汲み上げポンプは破損しています。

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 ところで、2015年10月〜翌16年1月にかけて、京都府教育委会文化財保護課と京都大学防災研究所が共同して実施した調査では、地面を叩いて発生させた地震波を検知する「表面波探査」と云う手法を、考古学調査に適用しました。
 これは、堀などの地盤の弱い所では、地震波の伝わり方が遅くなる性質を利用することにより、地下の遺構を探るというものだそうです。そして、この方法で道路沿いに44地点約5,400mにわたって探査しました。
 その結果、本丸などの外側、東・西・北の三方に5つの外堀があったとみられ、南側からは検出されなかったというのです。
 この探査結果から、聚楽第の範囲は東西が約760m・南北が約800m以上となって、従来考えられていたよりも約1.6倍に広がる見込みであることから、やはり単なる公邸にとどまるものではなく、天守や外堀を備えた城郭であったとみられるそうです。
 こうしたことから、単なる政庁を兼ねた邸宅といったものではなく、秀次が聚楽第を譲り受けたあとで、軍事拠点としての城郭構築を企図していた可能性が見て取れる結果が出たようなのです。

2017年8月18日 (金)

儚くも消えた聚楽城 2の1

1. 聚楽第の造営と破却

 天下を平定して文字通り「天下びと」となり、関白・太政大臣に任ぜられた豊臣秀吉は、天正15年(1587)平安京の大内裏跡である内野に、その地位にふさわしい政庁兼邸宅として聚楽第を造営して、大坂から移り住みました。
 そして完成翌年の4月には、この豊臣政権の京都における象徴とも言える聚楽第に、後陽成天皇の行幸が行なわれました。
 贅を尽くした荘厳で華麗な聚楽第のありさまを、『京町鑑』には「其構へ四方三千歩の石の築垣山のごとく 樓門を堅め鐵の柱銅の扉金銀を鏤め瑤閣星を錺り 御庭には水石を疊み花木を植さしめ造立し給ふ 結構譬るに物なし 城外の四方に諸侯の第宅をかまへ 樂を聚め觀樂を極め給ふによって 世人聚樂の城とも聚樂の御所とも称す」と記しています。


聚楽第跡の碑

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 また、日暮通の名称由来について『菟芸泥赴』には、「聚樂第の正門此街に當る。門の構造装飾極めて華麗にして。望見するもの日の暮るを知らずと。街名之に起る」書かれています。 つまり、日暮門があまりにも華やかで美しいため、それを眺める人々は日の暮れるのにも気がつかなかったと云うのです。

 実子に恵まれなかった秀吉は、天正19年(1591)養子とした甥の秀次(姉である日秀の子)に、関白職とともに聚楽第を譲り、自身は太閤となります。そして、秀吉自身は宇治川や巨椋池を望む指月の丘に隠居屋敷を造営します。これが初期の伏見城にあたります。
 しかし、聚楽第は完成から10年も経たない文禄4年(1595)、うたかたのように儚い結末を迎えます。
 秀吉の愛妾である淀君が実子秀頼を生んだのをきっかけに、秀次は秀吉に疎まれることとなるのです。
 そして、秀次は文禄4年(1595)6月謀反の疑いをかけられ、石田三成等の讒言もあって秀吉に高野山へ追放されます。そして、7月15日には切腹に追い込まれ、家臣5人も殉死します。
 秀次の首は8月2日に三条大橋西南の河原で晒し首にされ、その首の前で係累を根絶するために遺児(若君4人・姫君)や側室・侍女・乳母ら39人も公開処刑で斬首されました。刑場脇に掘られた大きな穴にその多くの遺骸とともに秀次の首を埋めて塚が築き、その塚の頂上には石塔を据えて「秀次悪逆塚」と刻まれた。「畜生塚」とも「せっしょう(摂政・殺生)塚」とも呼ばれたと云う。
 しかしその後、鴨川の氾濫などで塚は荒廃していたのですが、慶長16年(1611)角倉了以が高瀬川を開削しているときに墓石が発掘され、その地(木屋町通三条下ル)に秀次一族の菩提を弔うため瑞泉寺と墓を建立しました。


豊臣秀次と一族の墓(瑞泉寺)
 正面奥の六角石塔が秀次の墓とされ、その手前左右には遺児・妻妾など一族の墓がずらりと並んでいます。

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 秀次の切腹から程ない8月、秀吉は竣工後僅か8年にして聚楽第を徹底的に破却してしまいます。
 先に引いた『京町鑑』には、「關白秀次公に此御所を譲り給ひしに程なく秀次公滅亡有 殿舎四方の樓門等諸寺に分て荒廢す 其地今人家となり(略)聚樂といひ地名に呼ぶ 今 町の小名に舊名所々に殘れるのみ」と記しています。
 そして、聚楽第の建物は、その一部が築造中の伏見城に移築され、寺院へも寄進されたようで、西本願寺の飛雲閣・大徳寺の唐門はその遺構だとされます。


2017年8月11日 (金)

空・光・水・風 その14

暑い〜ッ、水浴びしたい〜ッ
 このたまらない暑さ! 8月7日が「立秋」だったと云うことに腹立たしさを感じます。
 空の色、雲の形と流れ、水の色、風の向きと強さ、どれをとっても秋の気配は全く無し!! 立秋のあとの暑さを見舞うことを残暑見舞いと言うのも、なるほどなァですね。朝夕に涼風の立つのは今月の末くらいになるのでしょうか。
 水生植物の写真で少しばかり暑さを凌いでください。

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 睡 蓮2

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 睡 蓮3

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 ガガブタ

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2017年8月 4日 (金)

路地(ろーじ)ーそのいろいろー 21 

下京区で見かけたものです

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2017年7月28日 (金)

辻子 ー蛇辻子(じゃのずし)ー

 蛇辻子は、下松屋町通五条下ルの付近を東へと通じていたようです。

 下松屋町通は、かつて「一貫町通」と称していました。
 その由來は判りませんが、『京町鑑』には、「△此通一貫町と名付たる事詳ならず ●此通は松原より南は丹波口下ル所迄の通にて大宮の西の通也」としています。
 そして、蛇辻子の位置については「▲下長福寺町 此町中程東側下よりに辻子有㋵蛇辻子」としています。

 上の記述から蛇辻子の位置は、下長福寺町の町域(北は万寿寺通から南は五条下ルまで)のうち南の方、つまり、下松屋町通(一貫町通)の五条(辺り)を東行する小路であったものと思われます。


次の写真、この辺りが辻子跡と見立てた五条通南側歩道です。

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 ところで、この五条通ですが、ずっと後の太平洋戦争末期になってから大きく変貌しているのです。
 昭和18年(1943)に「防空法」を改正して大都市の建物の疎開強化要綱を策定します。
 空襲による延焼を防ぐため道路を拡幅して防火帯を設けるために、大きな道路沿いの建物を市や町が強制的に取り壊す建物の強制疎開の措置がとられたのです。
 京都でも昭和19年10月から三次にわたって強制的な建物疎開がおこなわれて道路が拡幅されています。同20年3月の第三次強制疎開で五条通・堀川通・御池通などで実施され、1万世帯以上の家屋が強制的に取り壊されました。
 五条通の場合は、その南側部分が強制疎開の対象となり、現在の北側歩道にあたる部分が元の五条通(約5m)だったのですが、家屋が取り壊されたことで現在のような約50mの広い道路になったのです。

 蛇辻子は旧五条通の南側、つまり、強制疎開で家屋が消滅してしまった現在の五条通の車道部分から、その少し南の町境界までの間の下長福寺町を、下松屋町通(一貫町通)から東行していたものと考えられるのです。

 町名の由來は、『京町鑑』に「松原通大宮西入町に長福寺あり。町名之に起る。」とし、下松屋町通について「始め上長福寺町。下長福寺町。突抜一町目。突抜二町目。の四ヶ町を新町と稱す。蓋し新開を意味せしなり。」と記しています。
 そして、下長福寺町については、「開坊の初め二町目と呼べり。此町東側南方より東に通する小路あり。俚俗蛇辻子と字せり」としています。

2017年7月21日 (金)

看板いろいろ その15

魚 新
  上京区中筋通浄福寺西入
  有職料理(京料理)
  安政2年(1855)創業で御所のお祝い事の料理(宮廷料理)の御用達をした老舗

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玉壽軒
  上京区千本通今出川上ル
  干菓子

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おかもと紅梅庵
  上京区上七軒(北野天満宮東門前)
  京料理

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鍵長法衣仏具店 
  下京区油小路通正面東入
  仏具・法衣

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