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2023年12月 1日 (金)

看板いろいろ その42

井六商店 
 下京区不明門通七条下ル
 茶葉販売
 看板の文字は明治時代から大正時代にかけて活躍した書家の小川寉斎によるとのこと。
 創業は文政元年(1818)とか

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 ところで、ちょっと脱線・・・「お茶」絡みの話ですから、丸っ切り脱線というわけではありません。
 前回(23'11.17)の記事『もみじ(紅葉・黄葉)』を書くため広辞苑を眺めていると、次のような面白い記述に目が止まりました。

 もみじ【紅葉・黄葉】という語の意味についての説明の中に、次のような記述がありました。
 『茶を濃く味よく立てること。「紅葉(こうよう)」を「濃う好う」にかけたしゃれ。

 その出典として『醒睡笑』を上げて「お茶を ー にたてよ。… ただこうようにといふ事なり」を引いています。
お茶を、紅葉にいれる ⇨ 濃う好ういれる ⇨ 濃く味よくいれる、と洒落て言っているのですね。
 ちなみに、『醒睡笑』がどのような書物で、その著者がどんな人かを『日本大百科全書(ニッポニカ)』に当たってみました。

 「噺本(笑話本)。浄土宗の説教僧であった安楽庵策伝が、京都所司代板倉重宗の懇請によって編集したもの。1623年(元和9)に完成し、28年(寛永5)3月17日に重宗に進呈した。写本で伝わるもの(広本)には1000余の話を収め、それぞれ42項に分けられている。
 内容は、策伝が見聞した各地の逸話、僧界の内情、戦国武将の行状、民間説話、風俗や書物から得た説話を材料にした笑話が主であるが、経典の解釈や教訓・啓蒙的な咄も多い。
 咄の末尾に落ちをつける「落し噺」の型をもつものがほとんどであり、策伝自身がこれらを説教の高座で実演したために安楽庵策伝は後世「落語の祖」とたたえられた。
 この書は、説教僧としての策伝が、説教話材のメモを集成したものである。したがって、噺本(笑話本)ではあるが、説教本(仏書)の性格を持っている。」



2023年11月17日 (金)

もみじ(紅葉・黄葉)

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        瑞竜山南禅寺の境内

 長〜い長い、そして暑い暑〜い夏もようやく終わって秋になりました。
 日本の一年には春夏秋冬の「四季」があります。けれども、今年の夏はひどい暑さもさることながらその期間が大変長かった分、秋はアッという間に過ぎ去って冬がやってくるのかも知れません。これからの日本は春と秋がごく短い期間で終わって、夏と冬の「二季」になってしまうのでしょうか。

 ところで、秋と言って頭に浮かぶ言葉には、秋深し・秋色・秋光・山粧う・紅葉前線・秋麗・錦繍・絢爛豪華などたくさんあります。
 そして、多くの人が連想するのはやはり紅葉(もみじ)でしょうか。
 万葉の昔から、「秋の紅葉」と「春の桜」は並んで自然美の代表的なものとされたようです。
 葉の形がカエルの手にも見えることから「カエデ」と呼ばれる木の仲間で、カエデ科の木は世界に200種以上あって、日本にも30種ほどあるということです。
 「紅葉・黄葉」を「もみじ」と読むのは、上代(奈良時代)に草木の葉が赤や黄色に色づくことを「もみち」といったことから来ているそうです。また、奈良時代には「黄葉」と書き、平安時代以降では「紅葉」と書くことが多いとか。
 その「もみじ」の付く言葉、これもまたドッサリとあります。
 いろいろな感情を誘われ、また雰囲気・気分をかもす言葉がなんと多いことでしょう。

「もみじ〇〇」のように、頭に紅葉がつく言葉
 紅葉葵、紅葉苺、紅葉卸し、紅葉笠・紅葉傘、紅葉襲(もみじがさね)、紅葉唐松、紅葉狩、紅葉衣、紅葉月、紅葉鳥、紅葉賀(もみじのが)、紅葉の笠、紅葉の衣、紅葉の帳(もみじのとばり)、紅葉の錦、紅葉の橋、紅葉・黄葉(もみじば)、紅葉楓(もみじばふう)、紅葉袋、紅葉鮒、紅葉見、紅葉蓆、紅葉のような手、赤葉を散らす

「〇〇もみじ」のように、末尾に紅葉がつく言葉
 紅紅葉、夕紅葉、銀杏黄葉(いちょうもみじ)、青紅葉、黄紅葉、柿紅葉、草紅葉、黄櫨紅葉(はじもみじ)、下紅葉、蔦紅葉、初紅葉、花紅葉、卯月の紅葉、心の紅葉、伊呂波楓(いろはもみじ)、山紅葉、桜紅葉




2023年11月 3日 (金)

暖簾いろいろ その38

本家たん熊 本店
 下京区木屋町通佛光寺下ル
 京料理
 店名は、初代店主の栗栖熊三郎が出身地である丹波の「丹」と熊三郎の「熊」を由来としているそうな。

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枡 儀
 下京区松原通寺町西入
 オリジナルハンドバッグの製造・販売
 暖簾には正徳3年(1713)創業とあるので、500余年も袋物一筋の歴史❗

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2023年10月20日 (金)

淀・淀城そして淀川

 京都の北郊から嵐山を経て流れる桂川、三重と奈良を主な水源とする木津川、そして琵琶湖を水源とする宇治川、これら三つの川の合流点であり、またかつて存在した山城盆地中央の南部を占めた広大な巨椋池の下流である「淀」が淀川の起点でした。(現在では三川の合流する京都府と大阪府の境界付近が淀川の起点となっています)
 もっとも、この巨椋池は太平洋戦争の前に食糧増産のため干拓されて水田地帯に変わってしまいましたが、それまでは周囲が約16㎞で面積は8平方㎞もある京都府下の淡水湖では最大の面積でした。

与杼神社の石標
 元の鎮座地は桂川右岸(西岸)の西淀ともいわれた水垂でしたが、明治の淀川改修のため現在地の淀城址に移されました。
 「淀」は古い文献では「與杼」「與等」「與渡」とも記されましたが、平安期以降になって「淀」の文字が使われるようになったようです。

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 平安時代から中世までの巨椋池は、淀川の水量調節機能をも果たす遊水池でした。そして、その西端には淀津が、東岸には宇治津や岡屋津などが設けられていて、近江・大和・丹波・摂津・河内の諸国に通じる水上交通の要所となっていました。
 淀津は諸国からの貢納物がこの「淀」に陸揚げされて、陸路を京の都へ運搬される外港だったのです。陸揚げされた貨物を納めておく倉庫のあったところが「納所(のうそ)」で、これが地名の由来となっています。

 このように、「淀」の地は水運の要所でしたが、一方、山城盆地および摂津・河内平野を抑えるうえで軍事的な要衝地でもあったのです。京都の護りを固めるためにも、また京都を目指して攻め上るうえでもこの地は重要な根拠地とされたのです。

 ところが、近世初めの文禄3年(1598)に豊臣秀吉が伏見山(木幡山)に伏見城を築造したとき、宇治川の流路を巨椋池の東側から北側へと迂回させて、巨椋池西端にあたる納所の西方で桂川と合流するように改修しました。つまり、納所は宇治川と桂川が合流する三角州に位置することになり、そのやや下流で木津川が合流していたのです。
 往時は桂川・宇治川・木津川が合流する一帯の低湿地(現在の桂川右岸で水垂・大下津の一帯は西淀ともいわれた)を「淀」と呼んでいたのです。
 ちなみに、この「淀」の地名由来には二説あるようです。一つは3本の川が寄り合う土地で「よりと(寄処・寄門)」からきているとする説、もう一つがそこを流れる川水が淀んでいる土地とする説です。


淀城本丸付近の石垣

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二つの淀城

 いま、伏見区淀本町に残る城址、これは近世に築城された淀城(新淀城)の跡なのです。しかし、それ以前に中世以来の淀城(旧淀城)が宇治川の北側の納所にあったのです。
 この納所の淀城は天正15年(1587)豊臣秀吉が修築して、側室(幼名は茶々)を住まわせ「淀の者」「淀の女房」と呼ばれ、のちに「淀君」とも呼ばれたことで地名の「淀」は有名になりました。
 この淀城で淀君が鶴松を産んで間もなく共に大阪城に移り、文禄3年(1594)には伏見城が建設されたため、淀城の機能は伏見城に移されました。
 こうして、納所の旧淀城は廃されて、伏見城も関ヶ原の戦いのあと徳川家康によって破却されてしまいます。
 今では旧淀城の城址は全く残っていないため、城の規模・構造・位置いずれも明らかではないのですが、「納所」にあったのは確実だとみられます。
 なぜなら、納所に残る地名の「北城堀」と「南城堀」は旧淀城の堀跡であることを示すと考えられ、「薬師堂」は淀城鎮護のため創建された堂宇の跡と伝承されています。

 それではいま、淀本町に城址の残る新淀城はいつ誰によって築城されたのか。
 豊臣が滅亡して徳川幕府が伏見城を廃城したあと、二代将軍秀忠は京都守護のために松平定綱に入部と新淀城の築城を命じました。こうして、松平定綱は納所の南側を流れる宇治川対岸の淀島に新淀城を築造しましたが、天守など多くの建物は伏見城や二条城から移築して新淀城を完成させたのです。



2023年10月 6日 (金)

梟(フクロウ)

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 この置物、頭に冠羽(羽角)があるのでフクロウではなくミミズクのようです

 運動目的でやっている軽いウォーキング、この数年来は暑さの厳しい夏季の3ヶ月程だけ明け方に歩くことにしていました。
 今年、早朝ウォーキングを始めたのは6月30日で、日の出時刻は4時46分でした。
 そして、10月に入った今頃の日の出はかなり遅くなり6時前で、さすがに早朝は少し肌寒さを感じる程の心地よい季節となってきました。
 日の出の少し前にスタートするのですが、この時間はまだ夜が明け切る前なので東の空は朝焼けで見惚れるほど綺麗です。

 ウォーキングコースとしているのは、それほど高くはない天王山の山裾を通る道です。
 コースそばの深い木立でフクロウの鳴き声を聞くことがあります。フクロウは夜行性の猛禽類ですから、夜間とその前後の薄明の頃に捕食活動をしています。もちろん、姿を見ることは無いのですが、人家にかなり近いところまで降りてきているのです。
 鳴き声は、「ホー、ホー」「ホッホッ」と聞こえます。姿が見えないため「フクロウ」か「ミミズク」なのかは分かりませんが、鳴き声は種類や個体によって異なるのでしょう。
 普通、鳴き声は「ゴロスケ、ホーホー」と表現されることが多いようですが、人によってその聞こえ方も表現も異なると思います。
 鳴き声を日本語に置き換えた表現としては「五郎助奉公」や「ボロ着て奉公」「糊付け干せ」などがあって、「糊付け干せ」については「フクロウの染め物屋」という昔話があるようです。

 ところで、「漂泊の俳人」と称され一所不住・漂泊流転で知られる、種田山頭火(1882〜1940)という自由律の俳人がいます。かつては毀誉褒貶の相半ばする人でしたが、現在では小・中・高校の国語教科書にもその句が載っているほどで、名前を知らないという人は居ないと思われます。
 この山頭火には、フクロウやフクロウの鳴き声を詠み込んだ句が四十数句もあるのです。そして、面白いことにフクロウの鳴き声を「ふるつくふうふう」と表現しています。適当に三句ばかり上げておきます。

 ふるつくふうふう酔ひざめのからだよろめく
 ふるつくふうふうあてなくあるく
 ふるつくふうふういつまでうたう

 突然また話は変わりますが、次は「ミネルバの梟」です。
 哲学者ヘーゲルは著書『法の哲学』の序文で、『ミネルバの梟(フクロウ)は迫りくる黄昏に飛び立つ』という言葉を記しています。
 ローマ神話の女神ミネルバは技術・職人の守護女神で学校と教育をも司り、ギリシャ神話では学問・技芸・知恵・戦争を司るアテナと同じ権能を持つとされます。そして、ミネルバの肩には、従者であるフクロウが止まっていて、そのフクロウは知性や叡智の象徴とされています。
 謎めいた『ミネルバの梟は   云々 』という言葉の意味は、次のように解釈されてきたのではないかと思います。(知らんけど)
 「梟は日が暮れてのち夜になってから活動を始めるように、知性や叡智の象徴であるミネルヴァの梟は、一つの時代が終わって混迷の暗闇となろうとするその時になって、ようやく終わろうとしている時代と世界がどういうものだったのかを人間に教えるために飛び立つのである」



2023年9月22日 (金)

岩 神 ー禿童石(かむろいわ)ー

岩神 別の名を禿童石(かむろいわ)という。
浄福寺通上立売上ル大黒町の東側にあり、高さは人の背丈ほどもある赤っぽい大きな岩で、明治維新前までこの地にあった岩上神社の御神体です。

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 堀川通の一筋西にある通りの名前は、二条城より北を葭屋町通、御池通から南は岩上通といいます。
 葭屋町通の名称由来は不明ですが、岩上通については面白い由緒があります。
 『京町鑑』によれば、岩上通というのは、かつて六角通下ルにあった「岩神神社」が通り名の由来となっています。ちなみに、その地は今も岩上町として町名にその名が残しています。

 この岩神神社とその霊石(御神体)は、元々は二条猪熊にあったのだが岩神町(現・岩上町)に移されたという。
 二条猪熊といえば、現在は二条城のあるところです。徳川家康が二条城を造営するにあたって、慶長7年に岩神神社は旧地を立ち退かされて岩上町へ移転させられたのです。

 さらに、霊石は中和門院(後水尾天皇の母)の屋敷にある池の畔に移されると、吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたりといった怪異現象が起きたという。子供に化けたということから禿童石(かむろいし)とも呼ばれました。
 持て余された禿童石は、寛永7年に現在地の浄福寺通上立売上ル大黒町の東側に、かつてあった蓮乗院というお寺に引き取られてきました。
 『京町鑑』には、浄福寺通寺之内下ル大黒町(別名鶴屋町とも)の東側に蓮乗院という寺があって、その寺内に「石神の社」があると記しています。
 この蓮乗院という寺は享保の大火(西陣焼け)で類焼して再建されますが、天明の大火で再び罹災して小堂を一宇残すだけとなっていたが、明治維新には廃寺となり霊石の「石神(禿童石)」と称する大石を残すのみとなったのです。

 この禿童石のいわれについて、『菟芸泥赴』の「石神」には凡そ次のように記されています。
 「禿童石といわれる岩は、元は後水尾院(後水尾天皇)のお庭にあった。ところが、この大岩が奇怪な現象を起こすという噂があったので、今出川の南の八条殿の築地の辺りに移されたがなお異様な現象は止まず、禿童(かむろ)に化けて夜に出歩くなどして人々を恐れさせたため、寛永の初めの頃にこの地へ移された。そして、世間の人々はこれを神と崇めて尊び敬うようになってからは奇怪な現象はピタリと止んで、むしろ逆に乳の出が少ない婦人が祈願すると霊験があらたかで乳が良く出るようになった。」




2023年9月 8日 (金)

喫茶店いろいろ 4 ーそのほか雑多にー

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上の写真の店は、進々堂 京大北門前 です。
  大正2年(1913)にベーカリーショップとして創業した進々堂が、昭和5年(1930)に京都大学農学部の横でフランス風カフェとして開店しています。ある意味で正統派の喫茶店と言えるかもしれません。
 百万遍交差点の東方にあって、京都大学界隈の文教地区に相応しい外観の建物です。店内は普通の喫茶店のような小さなテーブルと椅子ではなく、書籍を何冊も広げて置ける程に大きなテーブルと長椅子がそれぞれ何脚も据えられていて、昔の図書館の閲覧机のような感じです。
 このテーブルは、漆芸・木工作家の黒田辰秋(人間国宝)がまだ無名時代に作ったものという。黒田は、のちに柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司などによる民芸運動にも関わっている。
 場所柄、主な客層は京大の学生・院生や教授などで、その点は東大正門前の「万定フルーツパーラー」とよく似ている。

 シリーズ『喫茶店いろいろ』として、いろんな形式の喫茶店を見てきました。
 最終回の今回は「そういえば、あの頃はこんな店も・・・」とかすかに記憶に残る喫茶店や、聞いたことがあるけれど足を踏み入れたことはない店も含めて取り上げました。


タンゴ喫茶
 1950年代から60年代にかけて日本でもタンゴが流行して、多くのタンゴバンドが活動していました。
 その頃、木屋町通四条上ル二筋目(現・十軒町橋通)を西木屋町から西に入ったところに、タンゴ喫茶「クンパルシータ」がありました。その後、店は閉店してしまいましたが。
 本場のアルゼンチン・タンゴに対して、ヨーロッパで作られたものをコンチネンタル・タンゴと称していました。日本でもよく知られたタンゴバンドは、
アルゼンチン・タンゴ・・・・フランシスコ・カナロ、ファン・ダリエンソ
コンチネンタル・タンゴ・・・アルフレッド・ハウゼ、マランド
日本では、早川真平とオルケスタ・ティピカ東京
オルケスタ・ティピカ東京に加入した歌手の藤沢嵐子は、1950年代日本のタンゴ・ブームの立役者の一人で、後に早川真平と結婚。
 ちなみに、菅原洋一はこの楽団からデビューしています。

歌声喫茶
 もう半世紀も前のことになるでしょうか、四条河原町西方の北側に歌声喫茶「炎」という店がありました。
 あいにく、「歌声喫茶」というものには関心がなかったため行ったことはないのですが、「炎」に用意された歌集の歌や、その時に流行している歌をリーダーが客の皆んなと一緒に歌うというもののようでした。
 その当時、学生で「炎」でアルバイトをしていたという人のサイトを見つけました。
 内田誠一郎(Bapak Uchida)さんという人のHPで、その中の『炎 学生時代の思い出』というページは、当時の世の中や歌声喫茶「炎」の様子などがわかる大変に興味深いものです。
 ちなみに、内田誠一郎さんはプロフィールによると、定年でヤマハ株式会社を退職されて後、郷里へお戻りになって作曲活動に没頭されているということです。


同伴喫茶
 記憶は定かではありませんが、遥か昔、西木屋町を龍馬通から少し下がった辺りにもあったような気がします。
 何でも、店内は狭い個室が並んでいて、その入口と内部壁面には分厚いカーテンが掛かっている。そして、個室にはロマンスシートと小さなテーブルが置かれているだけといったものだったようです。
 そんな作りと調度であるため、よくは分からないけれどもカップルがデートで利用した店なのでしょう。
 ちなみに、ロマンスシートというのはかつて映画館や喫茶店に設けられた二人掛けの座席を言った和製英語なのだそうです。なお、英語では「love seat」と言うそうです。
 ネットで検索してみると、今でも「カップルシート」や「二人個室」などと称して、二人きりで過ごせるカフェがあるようです。

 それから、これは先輩に聞いたことがあるだけで、実際がどんな店だったのかについては全く知りませんが、美人喫茶・和風喫茶といったものがあったようです。多分1960年代のことなのでしょう。




2023年8月25日 (金)

喫茶店いろいろ 3 ー名曲喫茶ー

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 小洒落た喫茶店で、クラシックやジャズが会話や読書の邪魔をしない程度に、うるさ過ぎず低過ぎず快い音色と音量で流れている。そんな店でコーヒーが美味いとなるとこれはもう嬉しくなります。


 昔は「名曲喫茶」というのがあちこちにありました。
 ちょっとしたコンサートホールのような音響で優れた楽曲を聴かせるのですが、ルールとマナーの厳しい店が多く、クラシックだのバロック・古典派・ロマン派などと聞くだけで腰が引けてしまう人種にとっては、「名曲喫茶」というのは敷居が高く店に入るのに勇気が必要でした。

 今ではすっかり珍しくなってしまった名曲喫茶は、「私語厳禁」でひたすら音楽に向き合わなければならない堅苦しく、偏屈で暗いイメージの空間でした。もちろん、そんな厳しい音楽鑑賞のルールを定めた店ばかりではなく、オーナーの考え方次第で緩やかなルールの店もありました。
 そうした店のオーナーの多くは自身がクラシック音楽好きであり、音響システムに凝っていてオーディオ機器は真空管アンプやスピーカーのコーンを手作りしているという店も珍しくなかったのです。そして、曲調によってスピーカーを使い分けるという徹底ぶりでした。

 現在では、音源はコンパクトディスク(CD)が普通で、音楽をデジタル化して記録したディスクをCDプレーヤーでレーザー光を使って読み出し再生しています。
 しかし、1980年代の初めくらいまでは音を記録したレコード盤から、レコードプレーヤーで音の信号を取り出していました。その頃はレコードプレーヤーのターンテーブルに乗せたLPレコードが微かにパチパチと独特のノイズを発するのも、それはそれで何かチョット良いものでした。

 ところで、昔ながらの厳しいルールやマナーを今も貫いている店、名曲喫茶「柳月堂」が叡山電車出町柳駅のすぐそばにあります。
 チャージ料を支払ってリスニングルームに入室。音楽鑑賞の妨げとなるため「私語厳禁」を初めとして、物音を発生させるような行為は一切を禁じるというルールになっています。
 音楽に耳を傾けることに没頭する場所と時間であれば、耳障りで余計な雑音を発することは許されないというのも、あながち偏屈なルールだとは言えません。  
 また、静粛を保つため声を発することはできないので、曲や飲み物のリクエストはオーダー用の五線紙ノートに記入するのです。
 ミニステージのセンターにはピアノが据えられ、その両側に大きくて立派なスピーカーが設置されています。そのステージに向かってソファーの座席が設けられていて、ちょっとした小さなコンサートホールのようです。




2023年8月11日 (金)

喫茶店いろいろ 2 ージャズ喫茶ー

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ジャズ喫茶「ろくでなし」の出入り口
 ドアーに雑然と貼られたフライヤー、ちょっと気圧されそうな雰囲気ですね。
 この店は、京都でジャズ喫茶の草分け「しゃんくれーる」が閉店する10年前に開店したそうなので、店の歴史はかれこれ40有余年になるようです。

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 トップの写真とは打って変わりますが・・・。
 かつて、京都のジャズ喫茶の草分けとされる「しゃんくれーる」 Champ Clair という店がありました。(1956年のオープンで1990年に閉店)
 当時、巷間言われた「思案に暮れる」が店名の謂われというのは俗説とのこと。
 河原町通荒神口の北東角にあって外壁は煉瓦色のタイルを貼った建物でした。1階はBGMにクラシックのレコードを流し、2階はモダンジャズをレコード演奏していました。
 この「しゃんくれ」の跡地、今ではコインパーキングになっています。

 1960年代には、モダンジャズの大物ミュージシャンが次々と来日していました。
 彼らが京都で公演をするときは、「しゃんくれ」の女性オーナーがアテンドをしていて、舞台にも上がって花束を贈呈していました。
 その頃、京都会館第1ホール(今のロームシアター京都メインホール)でおこなわれたモダンジャズのプレーヤー達の公演をよく聴きに行ったのを思い出します。
 マイルス・デイビス(tp)、キャノンボール・アダレイ(as)、チャーリー・パーカー(as)、ソニー・ロリンズ(ts)、セロニアス・モンク(p)、ホレス・シルバー(p)、アート・ブレイキー(ds)、マックス・ローチ(ds)、モダン・ジャズ・カルテット(combo)などでした。

 また、ニューヨーク在住の日本人ジャズピアニストで作曲家、穐吉敏子(秋吉敏子)が京都公演をおこなったときも行きました。彼女は、1999年に日本人でただ一人「国際ジャズ名誉の殿堂」入りを果たし、2007年にはジャズ界では最高の栄誉とされるアメリカ国立芸術基金の「NEAジャズ・マスター賞」を受賞しています。

 ところで、モダンジャズの歴史、これはチョット手に負えないくらい大きくて難しいテーマなのですが、無手っ法ながら大まかに眺めてみたいと思います。(細かい説明は抜きです)
 モダンジャズは、スイングジャズが衰退した1940年代初め頃に生まれたビ・バップに始まって、40年代末辺りからのクールジャズ、50年代のハードバップにファンキー(ソウル)、60年代はモードジャズがモダンジャズの主流となり、70年代になるとジャズを基調としつつロックやラテン音楽、クラシックなどのとのフュージョン(融合)へと変遷しています。




2023年7月28日 (金)

喫茶店いろいろ 1 ー純喫茶ー

 かつて、若い人達の間では喫茶店のことを略して、また気取って「さてん(茶店)」という言い方がありました。昔の「ちゃみせ」「ちゃや」に相当するのでしょう。
 その喫茶店、現在はチェーンの珈琲店が幅を利かせていますが、1970年代頃までは純喫茶をはじめとして、ジャズ喫茶・名曲喫茶・タンゴ喫茶・歌声喫茶・美人喫茶・同伴喫茶・和風喫茶などなど、いろんな喫茶店がありました。そして、今ではインターネットカフェ・メード喫茶・漫画喫茶などと言うのもあるようです。
 そこで気の向くまま、また気ままにいくつかの喫茶店を取り上げてみたいと思います。
 まず、今回は純喫茶です。

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純喫茶

 純喫茶は純粋に喫茶だけの店であって、メニューはコーヒーと紅茶・ジュースといったものが基本で、店によっては軽食・甘い物やフルーツを供しますがアルコール飲料は供しません。
 純喫茶に限りませんがコーヒー豆やその淹れ方(抽出方法)へのこだわりには一家言あるオーナーが少なくありません。

ネルハンドドリップ・・・湯を落とす時間と温度を調節できる
ペーパーフィルター・・・ネルドリップの簡易なもの
サイフォン・・・抽出の過程が見ていて楽しく、あっさりした味わいの旨みが出る
ボイリング・・・挽きたての豆を鍋で炊き出して晒しで濾すスタイルのため、短時間で旨味を引き出すので味が安定する(ホテルやレストランが大人数にサーブするのに適している)
コーヒーアーン・・・これは営業用のドリップ式抽出器具で保温もできる

 また、一般的ではないものにダッチコーヒー(水で抽出する)、ウインナーコーヒー(ホイップした生クリームを浮かせる)、アイリッシュコーヒー(ウイスキーを入れる)、ルシアンコーヒー(ココアを入れる)、ベネディクティンコーヒー(強いリキュールと交互に飲む)などもあります。

 ・・・、「コーヒー? 紅茶? ハーン!! そんな子供騙しみたいなモンを飲むくらいなら、まだビールの方がマシじゃ〜!!!」などと言う奴輩に純喫茶は向きません。そんな輩は不純な喫茶店?にでも行きなはれ。




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