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2022年5月13日 (金)

ヤキモチは怖いという話 その2

紫野十二坊町の「歯ノ地蔵尊」

市バス「千本鞍馬口」南行き停留所のそばにあります。

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 地蔵堂の脇にある「由緒書き」が面白いので、長いのですが全文を記しておきます。

 その昔、鞍馬口通には小川が流れていた。金閣寺北の鏡石あたりから折れた紙屋川の支流で、上にのぼって流れる(注1)。いわゆる”逆さ川”だった。そして、川にはちょうど千本通をまたいで小さな橋がかかり、たもとには一体のお地蔵さんがあった。”逆さ川”の(橋の)下におられるので、人々は”逆さ川地蔵”と呼んで親しんだ。
 そんな頃のこと、近くに夫婦が住んでいた。夫は大工で、仕事一筋のマジメ人間。近所の井戸端会議でも評判で、奥さん連中も口々に誉めそやした。妻も自分には出来すぎた夫と思っていたけれど、あまり評判が良すぎるので気が気ではない。
「ひょっとして浮気でもしたら」
「いやいや、他の女性に取られるかも・・・」
 心配が高じて、夫の帰宅が少しでも遅いと、出先まで迎えに出るほどの気の使いよう。
 ある日、夕方から、あいにく空は一天かき曇って、しのつく雨。
「さぞ、夫が困っているのでは・・・」
 妻が迎えに出ると、いましも向こうから夫が、美しい娘と相合ガサで歩いてくるではないか。
「人の気も知らないで、いまいましい!」
 逆上した妻は掴みかかった。驚いたのは亭主。そのまま駆け出し、逆さ川の橋の下に逃げ込むと、お地蔵さんの陰に隠れた。
 追いついた妻は、言葉より先にやにわに肩へガブリと噛みついた。
「アッ!」
 よほど気が転倒していたのか、妻が夫と思っていたのは実はお地蔵さん、そのうえ、噛みついた歯はお地蔵さんの肩に食い込み、そのまま離れない。
 たまたま通りかかった老僧がいて、「これはこれはお気の毒じゃ」と経文を読んで助けた。が、妻はそのまま息が絶えてしまった。
 以来だれ言うとなく、逆さ川地蔵を”歯形地蔵”と呼んで、女の嫉妬を戒めたとか。また、夫の身代わりになったと言うので、歯痛治療の信仰もいつしか生まれた。

注1:「上にのぼって流れる」は、北に向かって流れることです。

 ほかにも歯痛を治めてもらえる地蔵として、空豆地蔵(東山区本町新6丁目216-5大黒湯)、ぬりこべ地蔵(伏見区深草藪之内町26)、星見地蔵(上京区御前通今小路下ル西運寺)、お首地蔵(北区北野東紅梅町23-2)などがあるようです。




2022年4月29日 (金)

ヤキモチは怖いという話 その1

萬松寺の歯形地蔵

萬松寺は上京区,御前通一条下ル東竪町135にあります。

 萬松禅寺寺門の額

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 元禄年間(江戸時代)、西陣の生糸問屋の娘でお梅というのが居て、手代の吉助に懸想をした。つまり、恋い慕うようになったのですね。
 ところが吉助の方は、主家のお嬢さんと手代では余りにも身分が違うということで、お梅を避けて主家から逃げ出しました。
 お梅は恨みに思ってそのあとを追い萬松寺まできたところ、手代の吉助が墓地の中の石の地蔵尊の陰に隠れているのを見つけ、お梅は逆上のあまり手代の肩に噛み付きました。
 しかし、それは吉助ではなく石の地蔵だったのですが、女の執念が石仏の肩に歯形を残させた。
 それからこの地蔵尊を歯形地蔵というようになったということです。

「歯形石地蔵大菩薩」の石碑
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 このような伝承は他にも例があって珍しいものではないようです。いずれも仏教を信仰する人々が寺の繁栄を願って捏造したものであって、言うまでも無く信ずるに足りぬ話です。

 他にも類似した面白い話がありますから、記事にする予定をしています。




2022年4月15日 (金)

看板いろいろ その41

野一色(2点)
 下京区木津屋橋通西洞院西入
 袈裟・法衣
 寛政二年の創業、真言宗専門の仏具用

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橘 屋
 下京区油小路六条上ル
 和菓子
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2022年4月 1日 (金)

安元の大火と出火原因

 下京区には、万寿寺通御幸町の西方に「堅田町」という町があります。
 この堅田町、初めは魚屋町と称したと云う。近江国(滋賀県)から日々湖魚を運んでこれを販売したが、錦小路に市場が立ってそこに合併したとされる。
 堅田町と改称した時期は不詳とするが、町の名称はもしかすると、都に湖魚を送っていた現在の滋賀県大津市堅田に縁由があるのかも知れません。

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 上部が特に劣化していて見づらい仁丹町名表示板です。
 表記は「下京區 萬壽寺通御幸町西入 堅田町」とある。

 さて、平安時代も末期の安元3年(1177)4月28日、樋口富小路の東にある、この堅田町から出火した。樋口は樋口小路のことで現在の万寿寺通、富小路は現在の麸屋町通にあたる。
 この火災は、世に安元の大火(太郎焼亡とも)と称された。風に煽られて北西に延焼、左京の三分の一を焼き尽くす大火災で、都が平安京に遷ってから最も大きな被害となった。
 『平家物語』には、朱雀門・応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司・八省・調所など宮城の諸施設までもが一時のうちに炎上したと記述している。
 このような大事態となったために、元号を「安元」から「治承」に変えたほどなのです。元号には呪術的な要素があるため、これを改めること(改元)で災いを除いて、世を一新すると考えられていた。

 『源平盛衰記』にも、安元の大火についての記述があるので見てみます。もっとも、これは軍記物語(文学)であるため、どこまでが真実なのかは不明です。
 さて、安元の大火は武士の狼藉が出火原因なのですが、そのえげつなさと乱暴さには空いた口が塞がらないといった感じなのです。その記述を大雑把に見てみましょう。
 平重盛(平清盛の長男で小松殿と称された)の乳母の子である成田兵衛為成など7人の者が、十禅師の神輿に矢をいかけるという狼藉を働いたのです。その責を問われて磔の刑や簀巻きにして水に投げ込む刑に処されるところを、重盛に免じられ伊賀国へ流罪と決まった。
 そこで、成田為成は同僚などとの別れを惜しんで酒盛りをした。ところが、皆んなが酒に酔っぱらい正気を失った状態になってきた。その時、伊賀の田舎に流される成田へ進めるべき酒の肴が無いぞ。そこで、肴にしようと髷を切って差し出す者、ヤー面白い負けてなるものかと耳を斬って出す者、命に勝る宝は無いぞその命を肴にしようと腹を掻き切って倒れ伏す者、とエスカレートしていく。
 ついには成田兵衛本人も、俺は再び都に戻って酒を飲むこともないだろうから、俺も肴を出すぞと云い自害して死んだ。
 そして、家主の男は自分が生き残っても、六波羅に召し出されて無事には済まないだろうと言って、家に火をつけて飛び込み焼け死んだ。

 ちなみに、安元の大火について記述のあるものに、公卿九条兼実の日記『玉葉(玉海)』、公卿三条実房の日記『愚昧記』など、史書『百錬抄』。また文学にも、鴨長明『方丈記』、作者未詳『平家物語』などがあるようです。





2022年3月18日 (金)

鴨川運河を稲荷から藤森まで歩く

 先頃、快晴で暖かい絶好の散歩日和でしたから伏見まで出かけ、のんびりと琵琶湖疏水(鴨川運河)の畔を稲荷から藤森まで散歩してきました。
 疏水べりの遊歩道を行きつ戻りつ、西側の師団街道や東側の伏見街道にも足を伸ばしました。疏水べりの桜は開花にはまだ早いものの、額が少し汗ばむほどの陽気の中をソレなりに快適な時間を過ごしてきました。

 鴨川運河には大小多くの橋が架けられています。伏見稲荷近くの「横縄橋」から歩き始めて、下流の藤森神社近くにある「藤森ノ橋」までの僅か約2kmの区間に、何と15もの橋が架けられていました。その多くは親柱と共に小ぢんまりした人道橋でした。

 それら橋の橋脚の上部には四角の枠の中に星形マークが付けられています。(四角の枠だけのものもありました)
 そして、これら星形マークのほとんどが六芒星なのです。

横縄橋の六芒星
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 この星マークは、京都市建設局のHP『京の橋しるべ』によると「京都市水利事務所徽章」で、疏水路発電事業の管理等を行っていた水利事務所や電気局の水利徽章(きしょう)として用いられていたということです。

 ところが、多くの橋のうちただ一つ師団橋だけは、旧・大日本帝国陸軍のシンボルマークである五芒星(☆)が付けられています。

師団橋の五芒星
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 深草(旧紀伊郡深草村)には、この師団橋の☆マークだけではなく、現在も旧大日本帝国陸軍の名残を留めるものが多くあります。

京都聖母学院本部(第十六師団司令部)
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 京都聖母女学院本館は、陸軍第十六師団司令部として建設されたものでした。
 龍谷大学や京都府警察学校は、かつて第十六師団の練兵場のあったところ。
 京都教育大学は、同じく歩兵連隊が置かれていたところ。
 国立病院機構京都医療センターは、陸軍衛戍病院の後身です。

師団街道と第二軍道の交差点標識
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 京都市街地と十六師団司令部を結ぶ道路として師団街道、伏見街道(本町通)沿いの陸軍諸施設と師団街道を結ぶために造られた第一軍道・第二軍道・第三軍道があります。

 そして、こんな面白いのもありました! 銭湯です。
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 さて、今回の散歩をスタートした時点に話を戻します。
 稲荷の疏水端に着くと何とマー、疎水の川底にはチョロチョロとみすぼらしいく細い流れがあるだけ。あの豊かで勢いのある水流はありまへんがな、せっかく来たのに何でやねん。
 ガッカリしながらも、しゃーないなァと気を取り直し、水の流れていない疎水の畔を下流へ歩き始めましたがな。へー。
 帰宅してネットで調べると、京都市上下水道局のHPに『琵琶湖疏水(第1疏水)の停水について』というお知らせページがありました。
 「琵琶湖疏水(第1疏水)の流下能力を回復するため,毎年冬期に停水し,疏水路内の土砂の浚渫(しゅんせつ)及び清掃作業を行っています。
 また,今年度は第1疏水の機能維持のため,必要な補修工事を行うこととしており,下記のとおり停水を実施します。」
 停水期間は、今年の1月5日〜3月15日までの間だという。
 ガーン残念!ナンジャこれは!!あと一週間もしたら豊かな水流に戻ってたんかい!!!



2022年3月11日 (金)

形(かたち・フォルム) その9

京都駅ビル

空中経路

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光のドーム
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2022年3月 4日 (金)

二条城撮影所

二条城撮影所跡の碑

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 京都の太秦(うずまさ)には、幾つもの映画撮影所があります。
 現在も東映京都撮影所(京都市右京区太秦西蜂岡町)と松竹撮影所(京都市右京区太秦堀ケ内町)があります。
 そしてこの地には他にも、昭和3年(1928)日活太秦撮影所が設立され、同17年(1942)には大映がこれを引き継いでいたのですが、同社は昭和46年(1971)に倒産して撮影所も閉鎖されました。

 ところで、初めて京都に撮影所が開設されたのは明治43年(1910)のことでした。
 その場所は、二条城の西南の地(西ノ京北聖町)で、今の京都市立中京中学校のグラウンド際にあります。江戸時代のこの地は、西町奉行所の一角ということになります。
 かつて、牧野省三と組んで横田永之助が興した横田商会が、京都で初めての撮影所をここに開設しています。
 美福通押小路の交差点北西角に「二条城撮影所跡」碑があって、それには次のように記されています。

 「この撮影所の規模はおよそ300坪の土地に2間×4間の低い板敷の舞台をしつらえ、それを開閉自由の天幕で覆うという簡単なもので、背景はすべて書き割りであったと言うが、大正から昭和初期の日本映画隆盛の一時代を築いた京都の映画産業の礎となった。
 ここで、日本映画の父と言われる牧野省三が、尾上松之助とコンビを組み、最初の作品「忠臣蔵」を撮影し」たとあります。

 しかし、この二条城撮影所は手狭となったために2年ほどで閉鎖されました。その後、幾多の変遷を経てやがて太秦の地に移って行き、日本のハリウッドと呼ばれたということです。

 ちなみに、現在の東映京都撮影所には、「東映太秦映画村」という映画のテーマパークを併設していて、人気の観光地となっています。
 ここでは、昭和50(1975)年にオープンセットの一部を開放して、実際の映画撮影が見られる「日本初のテーマパーク」として、活きた映画撮影所を体感できる施設となっています。



2022年2月25日 (金)

形(かたち・フォルム) その8

京都駅ビルにて

オブジェ(烏丸小路広場で)

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オブジェ(室町小路広場で)

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2022年2月18日 (金)

鴻臚館のこと

東鴻臚館址の碑
 下京区西新屋敷揚屋町(「角屋もてなしの文化美術館」横)

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 東鴻臚館はこの碑からおよそ100mほど南に位置した。
 ちなみに、旧遊郭島原の大門から花屋町通東方の櫛笥通までを薬園町という。この町名は渤海国の使節がもたらした薬草を栽培した薬草園に由来するとも言われる。

 「鴻臚館」は、音読して「こうろかん」と読みます。
 古代に日本へ来た外国使節を接待した施設で、言ってみれば迎賓館にあたるもの。奈良朝のころ太宰府・難波に置かれ、平安期になって平安京に置かれたようです。

 平安京の鴻臚館は、はじめは朱雀大路の羅城門を入ったところに、左右の2カ所設にけられた。
 しかし、延暦15年(796)に国家鎮護・王城鎮守のため官の寺、東寺と西寺を造営するにあたって七條大路の北に移転された。
 新たに造営されたのは現在の七条通と正面通の間で、朱雀大路(現・千本通)を挟む形で、東西対称に東鴻臚館と西鴻臚館が設けられ、二町四方の土地を占めていたようです。
 東鴻臚館は、西新屋敷(島原)の南、七条通から北で現在の朱雀正会町・夷馬場町にあたる。
 西鴻臚館は、七条通から北で中央卸市場と七本松通の間。現在の朱雀堂ノ口町・朱雀宝蔵町・朱雀北ノ口町にあたる。

 この鴻臚館で接待したのは渤海国の使者で、日本との通交は神亀4年(727)に渤海使が来日したのに始まり、延喜8年(908)までの間に34回にわたって日本に来ている。その後に鴻臚館は衰微したようです。
 渤海というのは、現在の中国東北地方東部・ロシア沿海地方・北朝鮮北部にあった国で、698年に建国し、926年に契丹の侵攻を受けて滅亡しました。



2022年2月11日 (金)

形(かたち・フォルム) その7

京都駅ビルにて

オブジェ(室町小路広場で)

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オブジェ(東広場で)

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