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2023年1月27日 (金)

善導寺の三尊石仏

 善道寺は木屋町通の北端にあたる東生洲町、二条通に南面してあります。
 宇治の黄檗山大本山萬福寺や、伏見の石峰寺(伊藤若冲ゆかりのお寺)・鞍馬口の閑臥庵、長崎の崇福寺など黄檗宗寺院の楼門は竜宮造(竜宮門)になっています。
 ところが、この善道寺は浄土宗知恩院派の寺院なのですが、その山門は珍しく中国風です。

善導寺の山門

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 本堂に向かって左手の前庭一隅に「三尊石仏」はあります。高さは1m足らずの自然石(砂岩)で、扁平にした前面に三尊を半肉彫にした立体感のある石仏です。
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 三尊のうち中央の大きい一尊は釈迦如来立像で、インドから中国に伝え、中国から日本に伝わってきた、いわゆる三国伝来の釈迦像として信仰されてきた嵯峨清凉寺本尊の釈迦如来立像(国宝)を模している。
 釈迦如来像は右手を上げ、左手を下げた与願印(施願印・施与印とも)で、衣文(えもん)は流れるように美しい襞の流水文衣文(りゅうすいぶんえもん)となっている。

 右の脇侍、普通は普賢菩薩像ですがこの石仏は弥勒菩薩像と思われ、中央の釈迦如来立像と同じような姿勢をとっている。このように脇侍として弥勒仏を配するのは珍しい例だという。
 左の脇侍は五髻(ごきつ)文殊菩薩像で、頭は五つの円いマゲを結び、右手に宝剣、左手には梵篋(経典の入った小箱)を持っている。

 石仏の右端部分には、鎌倉時代中期にあたる「弘安元年」(1278年)の刻銘があり、半肉彫に彫られた石仏は厚肉彫とはまた違った趣があって、全体に稚気のある可憐な像で、絵画的な華麗さを出すのに成功していると評される。




2023年1月13日 (金)

春の兆し

 遅まきながら
明けましておめでとうございます
皆様にとって平穏で幸多い年でありますよう!
今年も当ブログをよろしくお願いします。

 元旦の酒はあっぱれこがね色  岸本水府
 顔中をクシャクシャにして「この味や!」  露の五郎
 七日正月も過ぎて、呑むのは晩酌だけの日々に戻ってしまいました。(残念!)

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 まだ、七草粥を食べてから数日というのに、穏やかで風も無く「春めく」という言葉が合うような日でした。
 ウォーキング中に、人家の庭先で早くも蝋梅(ロウバイ)が咲き始めているのに気がつきました。蝋梅は普通、梅の花が咲く少し前頃に咲くのですが・・・。
 その蝋梅はほとんどがまだ蕾のままで、咲いているのはごく僅かです。香りもまだほとんど分かりません。

 蝋梅は唐梅・南京梅ともいい、中国原産で日本に渡来したのは17世紀の初め、徳川時代のごく初期のことのようです。蝋梅という名の由縁は、芳香のある半透明の黄色の花が、蜜蝋に似ているからとことです。
 けれども、地味な花ですね



2022年12月30日 (金)

誓願寺の六地蔵石幢

 新京極通六角に、誓願寺という浄土宗西山深草派総本山の寺院があります。
 清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことから、女人往生の寺として名高い。
また、このお寺は芸道上達のお寺としても広く信仰を集めています。  
 
 今年の夏、この誓願寺へ山脇東洋(江戸時代中期の医学者)の墓を訪ねて行きました。
 この時、誓願寺墓地の入り口を入ってすぐ近く、覆屋の中に傷んで破損した石塔があるのに気がつきました。説明書きによると「六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)」と称されるものです。
 石幢というのは鎌倉時代の頃から造られていたようで、単制石幢と重制石幢の2種類があるそうで、誓願寺のものは重制石幢です。
 重制石幢は通常、宝珠・笠・塔身(龕部)・中台・竿・基礎の六つの部分からなっていて、一見したところは石灯籠風の石塔で、笠の下の龕部(がんぶ)に六地蔵を彫ったものが多いようです。

 この誓願寺の六地蔵石幢は、、誓願寺墓地では最古の石仏だそうで、高さが約136センチで、石材を六角形に加工した六面体の石塔です。
 その六角形の幢身の各面には、浅く光背が彫られ、蓮華(れんげ)座に立った、像高約36センチの地蔵菩薩立像が肉厚に浮き彫りされています。地蔵菩薩は六角形のそれぞれの面に刻まれてているのですが、そのうち1体は欠損しています。

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 ところが、惜しいことにはこの石幢は完全な形ではなく、幢身(どうしん)部分だけが残されていて、龕部の上部にあったとみられる笠や宝珠は失われてしまってありません。
 この幢身頂部には龕穴(がんけつ)が開いており、ここには経典が納められていたようで、その上に笠石を載せて閉じられていたと考えられます。

〈 幢身の左上部が欠損している 〉
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 錫杖(しゃくじょう)を持った地蔵菩薩の下部には、次のように願文が刻まれています。
「一結衆并無縁六親/右意趣者為/眷属乃至法界平等利益故也/永享11年11月24日敬白」とあることから、室町時代の初期にあたる永享11年(1439)に造られたことがわかります。




2022年12月16日 (金)

俳人山頭火と京都

 俳句には、季題を含んだ五・七・五の定型を基本とするものと、定型と季題に捉われない自由な音律による俳句があります。
 自由律俳句は河東碧梧桐・荻原井泉水などが提唱したもので、種田山頭火はこの井泉水に師事しました。

種田山頭火像(山口県 JR防府駅前)

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 山頭火は、句作の力量ではずば抜けていました。しかし、いきさつは省略しますが、人生の後半には家と家族を捨て、放埒三昧と酒のため「脱落者」としてもちょっとした人でした。また、人の温情・好意に頼りすぎて毀誉褒貶の相半ばする人だったようです。

 人生に挫折し酒に溺れ、大正14年3月43歳の時に俗世を捨てて出家得度します。
 しかし、一代句集『草木塔』に「大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。」と前書きを付けた句、「分け入っても分け入っても青い山」を入れています。
 9歳の時の母の自殺に始まる生家の不幸・悲劇が山頭火には呪縛となっていたが、この呪縛から抜け出して俳句に生きるため、一所不住・雲水不住の放浪の旅に出ました。
 うしろすがたのしぐれてゆくか
 鉄鉢の中へも霰
 あるけばかっこういそげばかっこう 

 この時の3年もの長旅を初めとして、59歳で亡くなるまでまでに1ヶ月以上に及ぶ旅を8回もおこなっています。
 この間、昭和11年には7ヶ月にわたる大旅行に出ました。『旅日記』によれば3月18日〜23日は、句友を頼って京都で過ごしています。

芭蕉堂(東山区鷲尾町)
 芭蕉堂は芭蕉の句「しばの戸の月やそのままあみだ坊」を生かし、高桑闌更(江戸時代の俳諧師)が営んだ草堂。堂内の芭蕉木像は蕉門十哲の一人森川許六が刻んだとか。
 なお、山頭火・芭蕉ともに西行法師の影響を強く受け、各地を放浪して多くの句を残したが、芭蕉堂の東隣には西行庵がある。
 西行庵の北東の雙林寺にあった塔頭蔡華院で、西行が諸国行脚の後で杖をとめて広く知られる次の歌を詠んだ。
  願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃

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3月18日……石清水八幡宮、南禅寺、夜に新京極
3月19日……八坂の塔、芭蕉堂、西行庵、知恩院、南禅寺、永観堂、銀閣寺等々
3月20日……北野、鷹ヶ峰、庵(源光庵か?)、光悦寺、金閣寺
3月21日……雨で滞在
3月22日……宇治、木津
3月23日……大河原、笠置、月ヶ瀬

 この間の作句で、『草木塔』の「鉢の子」に納められているのは、
  あてもない旅の袂草こんなにたまり
  たたずめば風わたる空のとほくとほく
  雲のゆききも栄華のあとの水ひかる
  春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏
  うららかな鐘を撞かうよ

 この後、伊賀上野、津、伊勢を経て東上し、無一文ながら行乞はほとんど行わず、禅僧姿で俳友を訪ね招かれて、鎌倉・東京・甲州路・信濃路・新潟・山形・仙台・平泉を経巡り、福井にとって返して永平寺に参籠、ようやく7月22日に小郡の其中庵に帰っています。この旅では芭蕉・一茶・良寛の跡をも訪ねています。

 山頭火は酒好きで身を誤ったともいえ、俗事を離れて心から酒を楽しむ酒仙ではなく、しばしば泥酔から醒めてのちに自己批判をしており、日記(昭和6年12月28日)に「あゝ酒、酒、酒、酒ゆえに生きてもきたが、こんなにもなった、酒は悪魔か仏か、毒か薬か」と書いています。
 そして、昭和10年8月8日、山頭火は其中庵(山口県小郡)の草庵で自責と孤独に耐えかね、また句作の行き詰まりもあり、大量のカルモチンを呷って自殺を図るも未遂に終わっています。
 この自殺騒ぎの後に、先に記した7ヶ月及ぶ大旅行を敢行していたのです。



2022年11月25日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その3

東京市の木製仁丹は他でも見つかるか?

 東京市は太平洋戦争の際、昭和17年(1942)4月18日の空襲を初めとして、敗戦までに100回を越える空襲で罹災しています。
 特に昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲の折には、主にいわゆる下町の深川区(現・江東区)本所区(現・墨田区)浅草区(現・台東区)の広範囲にわたって罹災しました。

 ところが、観光ガイドブックに「谷・根・千(やねせん)」とある一帯(台東区西端にあたる谷中、文京区の根津から千駄木にかけて)と、本郷(現文京区の東部)は大空襲による戦災を免れていました。そのため、現在でもその一帯の裏通りには東京の下町情緒・雰囲気が残っているのです。

「夕やけだんだん」から谷中銀座を望む

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 かつて、私は鶯谷をスタートして、谷中・根津・本郷にかけての一帯を歩いて回ったことがあるのですが、表通りからちょっと裏手に入ると多くの古い民家が残っていました。

 しかし、東京も他の都市と同様に『住居表示に関する法律』などの影響により、見境いなく従来の町名地番を大町名に変え、さらには◯丁目◯番地といった形に整理してしまったことから、元の町名は根こそぎ抹殺されてしまいました。このため、元々の地名の由来や意味などが全く分からなくなるという愚を犯していたのです。

 この根津も昭和40年(1965)4月1日に、根津須賀町、根津清水町、根津藍染町、根津片町、根津八重垣町、根津宮永町、根津西須賀町など根津全町と、向ヶ丘弥生町の一部を併せた町域が現在の「根津」となりました。そして「不忍通り」を境界として、西側が根津一丁目、東側が根津二丁目となっています。ちなみに、この一帯の行政区名は元々は「本郷区」だったのですが、現在では文京区に属しています。

 このように町名変更があったため、元々設置されていた町名表示板は用をなさなくなって、そのほとんどが姿を消すことになったのでしょう。今回発見された木製仁丹町名表示板の「本郷区 根津須賀町四番地」は、たまたま生き長らえていた貴重な一枚なのです。
 戦災を免れた一帯について悉皆調査をすれば、このように幸運にも関東大震災と東京大空襲による被災から免れて、今なお残存している町名表示板が見つかったとして不思議ではないと思われます。

本郷の路地のような細道

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 上の写真、本郷四丁目にある樋口一葉旧居跡の近辺なのですがこのイー雰囲気たまりませんネ!
 菊坂下通りの一帯を歩くと、なんとも言えないいい感じの路地のような細い道があり、多くの古い建物やまだ現役の手押しポンプなどもあり、古い仁丹町名表示板が残っていそうな感じです。
 そして、周辺をぶらぶら歩きしていると、樋口一葉・宮沢賢治・金田一京助・石川啄木・坪内逍遥など、文人の旧居跡に行き当たるのも楽しいものです。



 

2022年11月11日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その2

東京市の木製町名表示板のレプリカ

 前回に見た東京の『町名札製作仕様書』と、実際に発見された木製の仁丹町名表示板をもとに、レプリカが作製されました。

東京市の木製町名表示板レプリカ
 この写真は、レプリカ製作者でもあるテント虫さんに使用の許諾を得ています。

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 このレプリカの配色は、下地が白、文字と商標が黒、外枠が赤という3色配合となっています。
商標の色…オリジナルの商標の色は褪色していて定かではないが、レプリカでは基調を黒色としている。
ちなみに、京都の木製仁丹の場合は「仁丹」の文字は黒色で、その周りを囲む枠と人物は赤色。
商標の位置…発見された町名表示板と古写真に倣って、商標は下部に入れている。
外枠とその色…『町名札製作仕様書』に記述はないが、京都の木製仁丹に倣い赤色としている。ただし、京都の木製仁丹にある額縁状の木枠は付けていない。

 しかしながら、前回の記事に書いたように東京の『町名札製作仕様書』には、商標の色と位置、および外枠については全く記されていません。
 その辺りに関わることですが、『町名札製作仕様書』には「検査ヲ受ケ合格ノ後ニアラサレバ町名ヲ記入スル事ヲ得サルモノトス」とありますから、町名札に余計なものを書き入れることは不可能のように思えます。にもかかわらず、商標を入れることが許容された経緯について知りたいものです。

 そんな外枠と商標ですが、自由に勝手な想像を巡らせてみました。
① 外枠の有無は?
 外枠が無く周囲が空白のままでは、どうにも間が抜けたようで締まりませんから、やはり外枠が有ったと考えたいです。
 ところで、その外枠はただ色を塗っただけだったのか、それとも京都の木製仁丹のように色付けした額縁状の木枠が取り付けられていたのか。その点、発見された東京の町名表示板では、木枠が装着されていた痕跡が認められません。
② 外枠の色とその色調(色合い)は?
 レプリカでは外枠は赤色としています。その色調(色具合)は、茜色(やや沈んだ赤色)または緋色(濃く明るい赤色)で、赤は赤でもパーッとした目立つ色合いにしています。
 さて、東京市の町名表示板に外枠があったとすれば、それはどんな色調の赤だったのでしょう?
 私の好みでイメージしたのは、「小豆色(くすんだ赤)」もしくは、「マルーン(赤みの茶色)」といった渋い赤色です。この色、実はあの木製仁丹表示板が見つかった場所のごく近くにある、根津神社の華表(鳥居)の色で渋く深みのある赤色なのです。どの神社でも鳥居の色は通常は朱色ですが、この根津神社のそれは朱色ではありません。

根津神社の鳥居

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 ところで、古代中国では朱色は権威の象徴でした。日本でも宮城の正門(朱雀門)は朱色でしたし、神社の鳥居や本殿などの神社建築も朱色です。そして、根津神社の場合も楼門・唐門・拝殿、そして境内にある乙女稲荷神社の千本鳥居も朱色なのですが、なぜか鳥居だけが全く違う色合いの赤(小豆色)なのです。
 ちなみに、中国南西部から日本にかけての照葉樹林文化帯では、赤色というのは特別な色で、小豆の赤(小豆色)には災いや疫病を避ける呪力があるとされていました。現在の私たちも、小正月(1月15日)には邪気を払うため小豆粥を食する風習があります。




2022年10月28日 (金)

東京の木製仁丹町名表示板 その1

発見された木製仁丹町名表示板

 先ごろ、東京都文京区根津一丁目の一劃で発見された木製仁丹町名表示板が、京都仁丹樂會のブログ記事『東京の木製仁丹 保存へ』で公開されました。

東京の木製町名表示板 
 この記事中の写真2枚は、京都仁丹樂會会員grv1182さんに使用の許諾を得ました。

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 その町名表示板は経年劣化で少し読み辛いのですが、往時の住所表記で「本郷區 根津須賀町四番地」となっています。
 大正7年(1918)12月から同9年4月にかけての間に、東京市の15区と周辺の9地域に総計90,440枚の仁丹町名表示板が設置されました。このたび発見された町名表示板は、本郷区(現・文京区)に設置された5,588枚のうちの1枚です。

 写真に見るように、住所表記の文字は黒色、下地は白色であることが見て取れます。

町名表示板の仁丹商標部分

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 そして、炭化の著しい住所表記の文字部分の下の方には、辛うじて仁丹商標の痕跡(凹凸)が認められます。このことから、商標の色は文字の部分のように黒色ではなかったために、炭化が進まないまま褪色したのではないかとも考えられます。
 また、京都市の木製仁丹町名表示板に見られる外枠は、東京市の町名表示板ではその痕跡も認め難いように思われました。

 それはそれとして、この町名表示板の発見に先だって京都仁丹樂會会員idecchiさんにより、東京都公文書館の収蔵資料から『大正十年 町名札ニ関スル書類』が見付け出されていました。
 この一件資料の簿冊から、東京市における町名表示板の製作枚数、製作費その他の経費、掲示作業に要した日数と人員、設置場所と時期などの詳細が判明しました。
 また、その簿冊中には次のような『町名札製作仕様書』も含まれていました。

一、材料 杉板極小節ニシテ充分乾燥セシメタルモノ
一、寸法 長壱尺七寸、横五寸六分、厚サ四分ノモノニシテ表面及側面上下ハ仕上ケ鉋ヲ用フル事
一、塗  白ペンキ三遍塗ニシテ充分乾燥セシメタル後、黒色ペンキニテ町名ヲ楷書體ニテ記入スル事
一、検査 町名ノ文字記入前、材料、寸法、塗等ノ検査ヲ受ケ合格ノ後ニアラサレハ町名ヲ記入スル事ヲ得サルモノトス、但シ検査場所ハ請負人指定ノ場所ニ検査吏員出張ス 
一、納入場所 町名記載ノ各区役所
此他詳細ナル事項ハ庶務課商工掛ニ照会スルコト

 この『製作仕様書』から、木製町名表示板の下地の色、住所表記の文字の色と定めていたことが明らかとなりました。
 一方、その町名表示板の現物には、下部にウッスラと仁丹の商標が見えているようです。ところが、『製作仕様書』では仁丹の商標についての記載がありません。
 また、京都の木製町名表示板には赤色に塗られた額縁状の外枠が付いていますが、これも東京の『製作仕様書』には何らの記載もありませんでした。




2022年10月14日 (金)

秋 色(2)

 「秋色(しゅうしょく)」とは、深まる秋の気配や秋の景色をいいます。
 その「秋」でイメージする色といえば、やはり色づく草木の赤や黄色ではないでしょうか。
 山野が錦のように色とりどりに美しく染まる秋のことを「錦秋」と言い、澄んだ空気の中、紅葉・黄葉に彩られた山を「山粧う」と言います。

 紅葉(黄葉)するカエデやもみじの木は「カエデ科」の仲間で、日本では自生種が30種近くのあるそうです。
 葉の形が蛙の手のひらにのように見えるため、「蛙手」が「カエデ」となったということですが、葉の切れ込みの深いものが「モミジ」、葉の切れ込みが浅いものは「カエデ」と呼ばれています。

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 ところで、「色」という字は、「人」と「卩(せつ)」を組み合わせて成り立っています。
 卩は人が跪いた(ひざまずいた)形を表していて、その人の後ろからまた人が乗った形になっています。したがって、これは人が相交わること、つまり男女の情欲を表しているのだそうです。
 古代中国で「色」といえば「美しい女の顔色」、セックスで最高潮にあるときの女の顔色を指していたようなのです。(ただし、この説の出所は確かめていません)
 それで改めて気付くのは、色の付く言葉には「色気」「色っぽい」「色めく」「色香」など、直接・間接に性に関連する言葉が存外に多いことです。
 これは、有性生殖をおこなう生物としてのヒトが、新しい個体を生み出す切っ掛けとなる性的な衝動や欲求といった、生物として存在する根源に関わるからなのでしょうかネ。(チョットこれは大袈裟?)  

 ちなみに、『広辞苑』で「色」を引いてみると、次のように説明しています。
① 色彩
② 社会的・慣習的に定まった色
 階級で定まった染色、禁色、喪服のにびいろ、婚礼や葬礼のとき上に着る白衣、おしろい・化粧、醤油や紅の異称
③ 容姿などが美しいこと
④ ものの趣
⑤ 愛情・情事、その相手
 なさけ、色情・情欲・情事、情人・恋人・色男・色女、遊女
⑥ 種類、品目
⑦ 邦楽で主旋律でない修飾的な節


 話は変わりますが、繊維や皮革・紙などに着色するための染料には、天然染料と合成染料(人造染料)があります。 
 天然染料には、植物・動物・鉱物から得た染料があり、合成染料が出てくるまでは染料の多くは草木など植物から採っていました。そして、染料を得るために栽培される植物としては藍・鬱金・紅花などがあります。
 「采」の字の元の意味は、手で木の上の実を採ることですが、これが草木から色をとる色どりの意味にも使われるようになったようです。
 この「采(いろどり)」に、色や形が美しいことを示す「彡」を添え「彩」としたことで、「いろどり、あや、模様、色、つや、輝き」といった意味になったのだとか。

いやー、それにしても「色」には多様で異なった意味があることに驚きました。




2022年9月30日 (金)

秋 色(1)

 秋めいてきたなと思うまもなく、初秋から仲秋へ、そして晩秋にと足早に移り変わって行きそうです。

秋の景色(南丹市美山町北)
 彼岸花・コスモス・すすき・蕎麦畑

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 突然ですが、和歌に「わが袖に まだき時雨の 降りぬるは 君が心に 秋や来ぬらむ」(古今和歌集巻第十五恋歌五763)というのがあります。この歌の「秋」は、「飽き」の掛詞(かけことば)となっています。
 私の袖に早くも時雨が降りかかったのは、あなたの心には私に対する秋(飽き)が来たからなのでしょうか。といった感じですね。そして、詠み手の女の袖にかかったのは「時雨」ではなく、女自身の涙だったのでしょう。
 そして、男女間の愛情が冷めて心が離れることを、「秋風が吹く(立つ)」と言いますが、これも「飽き(厭き)」ですね。
 ところで、「男心と秋の空」という慣用句があります。女性への男性の愛情は、秋の空のように変わりやすいという例えです。これが後になって、「男」を「女」に置き換えて「女心と秋の空」ともいうようになりました。
 ここはどちらが正しいのかなどと議論(諍い?)はやめて、「人の心と秋の空」とでもしておけば波風が立たずに、人類みな平和となるのではないでしょうか。(笑)

 それはそうと、「秋」という字の成り立ちを調べてみました。
 「秋」の元々の字(古字)、これが難しい字なのですね。「龝(穐の旧字)」の右側の「龜(亀の旧字)」の下に火を表す「灬」がついていて、「しゅう」と読むようです。(残念ながら使用しているパソコンのソフトにはこの字がありません)
 この字の意味は、「禾」が稲や穀物を表し、「龜」はイナゴなどの虫の形を表しているそうです。
 秋になるとイナゴなどの虫が大発生し、穀物を食い荒らして被害を受けるので、イナゴなどを焼き殺して豊作を祈る儀礼をしたのだろうとされる。
 この儀礼を表す字が「秋」の古字で、パソコンのワープロソフトには無いあの難しい字です。「みのり」の意味となるそうです。
 そして、のちには虫の形を意味する「龜」が省略され、火を表す「灬」だけが残されたことで、禾偏の右側に「火」が付いて「秋」となったようなのです。(白川静『常用字解』から)



2022年9月16日 (金)

黎 明 ー史跡大山崎瓦窯跡から望むー

 健康のために軽くウォーキングをやっています。
 暑さの厳しい時期は早朝に歩いているのですが、7月末から8月上旬にかけての頃は、蝉の声もめっきり少なく佗しげになっていたのですが、今ではすっかり秋の虫の音に替わってしまいました。明け鴉と合唱をしています。
 日中の日差しはまだまだ暑いのですが、早朝の微風はまぎれもなく僅かに涼気を含んだものになっています。
 間もなくススキの穂も出てきて、爽やかな季節となってきます。青空の下ノンビリと自転車でサイクリングロードを走ることができるのが楽しみです。

 次の写真は、早朝ウォーキングの途中に出会った夜明けの光景です。
 撮影した日は9月12日で、日の出時刻は5:37amでした。
 はじめの写真は5:41:40amに、後の方は5:45:24amに撮影しています。

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 ところで、ここだけの話しですが正直に言うと(!?)、夜明け前から夜が明けきる頃までの時間帯を言い表す「ことば」、これが思いのほか多いのにはビックリしました。
 べつに息巻いてひけらかす積りはありませんが、幾つかを上げてみます。

夜明け前・・・夜が明ける前
朝未き(あさまだき)・・・夜明け前
明け方・・・夜が明けようとするころ
暁・・・まだ暗いうちから、夜が明けるころまで
白々明け・・・明け方
彼は誰時(かわたれどき)・・・明け方の薄暗い時
夜明け・・・東の空が白んで、薄明るくなるころ
黎明・・・夜明け・明け方
曙・・・夜が明けるころ
朝ぼらけ・・・朝、ほんのり空が明るくなるころ
薄明・・・日の出前の空がほのかに明るいころ
残夜・・・夜明け方
暁天・・・夜明けの空
東雲(しののめ)・・・東の空が白んでくるころ
有明・・・月が空にあるうちに夜が明けてくるころ
未明・・・夜がまだ明け切っていないころ
払暁(ふつぎょう)・・・夜明けで、明るくなってすぐのころ
早暁(そうぎょう)・・・払暁と同じような意味
朝明け・・・朝、明るくなるころ
朝・・・夜明けから数時間の間

 オットー!ここまででもう20語、まだありそうですがいい加減にやめないと野暮天と謗られそうですから、この辺にしておきます。




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