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2018年6月15日 (金)

辻子 ー出雲寺辻子ー 《補訂》

 以前、「出雲寺辻子」(2015年7月17日記事)では、辻子の位置を明確に特定仕切れないため、「はっきりせず何とも悩ましいことです。」と腰砕けのかたちで終わっていました。
 その後も、ときどき思い出したように近世の地誌の記述や、古絵図と現代の地図を見比べて、乏しい想像力を巡らせながら考えていました。

 そこで改めて、考えついた「出雲寺辻子(出雲辻子とも)」の位置は、次のようなものです。
烏丸通上御霊前から約50mばかり南に、烏丸通から西へと入る道があります。
 この道は、現在ではごく短いものとなっていますが、この部分が「出雲の辻子」の残存部分だと見ます。

出雲辻子(址)
 後掲『京都坊目誌』に、「出雲の辻子」の「道址存す」と記す場所か。

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 そう考えるに至った理由は、次のようなものです。
 『京町鑑』には、「内構町」(上御霊前通烏丸西入の両側町)についての記述のあと、次のように記しています。
「◯此町南側 
 ▲和泉神町  叉本名◯出雲寺辻子 古出雲寺とて大伽藍ありし舊地也  故にしかいふ中頃出雲寺町といひしがいつの頃よりか文字も書誤りし也」としています。
 なので、現在の「内構町」の南側に、和泉神町=本名は出雲寺辻子があったことに間違いないのです。

 また、『京都坊目誌』では、「上御霊前町」の記述中に「(略)因に云ふ  本町西部より相國寺境内に通ずる小徑あり。出雲町叉出雲の辻子と呼ぶ。維新後自然廢道と爲る。道址存す 明治四十四年此所より南に新道を開けり。
 この記述から、以前の記事では何の疑いも無く、出雲の辻子は上御霊前町の西方、つまり内構町を東西方向に通っていたものと理解したのが、誤りだったようなのです。
 出雲辻子は相国寺に通じる小道であって、上御霊神社へ通じる小道ではなかったのです。

 ところで、その昔の相国寺の境内地は、烏丸通の西側までをも占めていたようです。そして、そこは応仁の乱以前までは下出雲寺の跡だったのです。
 それでは、どの範囲までが境内地だったのか?

 『京大絵図』貞享3年(1686)に描かれた相国寺境内地の西端は、室町通の「上柳原町」から「むろ丁かしら丁(現・室町頭町)」にかけて、そして、南北の範囲は「内構町」の南側から、「柳のつじ(現・柳図子町)」の北側にかけてが境内地として描かれています。
 したがって、現在の「下柳原北半町」と「下柳原南半町」は、かつては相国寺境内地だったようです。

古絵図に見る相国寺境内地の西部
 貞享3年(1686)『京大絵図』(日文研データベースから)
 地図をクリックすると不鮮明ながら拡大されて、内構町の南側まで相国寺境内地であったことが判ります。
 
Photo
 さて、そこで改めて『京町鑑』『京都坊目誌』の記述と、『京大絵図』の描くところを併せ考えて、出雲寺辻子の位置特定を試みた結果は次の通りです。

 「内構町」の南側にあったかつての「出雲寺辻子(別称・和泉神町)」は、現在の「上柳原町」に相当し、そこから東方の相国寺境内へと東西に通じていた。
 先に書いたように、烏丸通上御霊前の少し南から西へと入るごく短い道、これが『京都坊目誌』の云う、「出雲の辻子」の「道址存す」としている個所なのでしょう。
 元々の出雲の辻子のうち、ここと西方室町通の間(約70m)が廃道となって失われた部分だろうと見ます。

 そして、この出雲辻子の「道址」西端から、南へやや西寄りに寺之内通まで延びるのが、「明治四十四年此所より南に新道を開けり」に相当する道だと考えました。

出雲辻子址から開かれた新道
 左端に見えるのは烏丸通
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なお、言うまでもなく『京都坊目誌』の云う「出雲の辻子」「出雲町」と、『京町鑑』に云う「出雲寺辻子」とは同一です。

以上です。さてどんなものでしょうか。
  

2018年6月 8日 (金)

看板いろいろ その20

壱銭洋食
  東山区縄手通四条上ル
  お好み焼き

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夢工房

  東山区新門前通花見小路西入
  古美術

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戀壷堂

  東山区新門前通縄手東入
  古陶器

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新門前通の案内看板
 
古門前通とともに古美術商が多い。

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2018年6月 1日 (金)

空・光・水・風 その21

雲 いろいろ

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2018年5月25日 (金)

辻子 ー百々辻子ー

 百々辻子(どどのずし)は、寺之内通の小川通と堀川通間で、
 百々町を東西に通っている。

百々の辻子

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 『京都坊目誌』に、百々町の町名起源を「百々は元地名なり寶鏡寺あり百々の御所と云ふ。古老の傳説に昔時百々某と云ふ武士の第宅。今の寶鏡寺の地にありしと。今按百々某は何人たるを知らず」と記す。
 地名の由来となった武士の百々氏については詳しい事は判らないと云う。
 また、百々の名が伝わる最も古い例としては、『今昔物語』に地名「どとの辻」として出ている由。このことから、少なくとも平安時代中期には開通していたことが判ります。

宝鏡寺(百々御所)
 
宝鏡寺は代々歴代の皇女が住持となる門跡尼院で百々御所と呼ばれた。光格天皇遺愛の人形や市松人形などを蔵することから、人形寺としても知られる。

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「小川」跡
 
今は小川通と町並みになっています。
 通りの右手には表千家不審庵と裏千家今日庵が並びます。

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百々橋の礎石

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 「百々橋 小川の流れに架す。乃ち當町より寶鏡寺東町に通す。石橋なり。長四間一分幅二間二分。都下の名橋なり」とありますから、長さは7m余りで幅は4m弱の橋だったらしい。
 このように百々橋は、百々町と宝鏡寺東町の境界を流れる小川(賀茂川の分流)に架けられた石橋で、都下の名橋とされたようです。
 応仁元年5月に始まった応仁の乱では、山名宗全の西軍と細川勝元の東軍が、この百々橋を挟んで数度にわたって交戦したと云う。

2018年5月18日 (金)

暖簾いろいろ その23

細 野
  中京区高倉通御池下ル
  仏壇・仏具

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紙司柿本
  中京区寺町通二条上ル
  紙製品
  弘化2年(1845)の創業で、元(享保期)は竹屋だったと云う

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嵩山堂はし本
  中京区六角通麩屋町東入
  書筆文房具など

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清課堂
  中京区寺町通二条下ル
  錫・銀はじめ金属工芸品
  天保9年に錫師として創業

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2018年5月11日 (金)

時雨亭(しぐれのちん)

 藤原定家は「百人一首」を嵯峨小倉山の山麓にある山荘で編んだと伝わることから、「小倉百人一首」とも云われます。しかし、実は撰者・成立年ともに確認できていると云うわけではないようです。
 定家のこの山荘は小倉山荘あるいは嵯峨山荘とも呼ばれたのですが、のちには「時雨亭(しぐれのちん)」と称されるようになりました。
 ところが、実はこの「時雨亭」跡として伝わるものがあちこちにあって、小倉山の近辺だけでも厭離庵・二尊院・常寂光寺の三ヶ所にあります。

 「百人一首」は鎌倉時代の初めの頃に、藤原定家が各時代の著名な歌人百人の歌を一首ずつ選んだものです。(定家は「新古今和歌集」の撰者であり、「新勅撰和歌集」をも撰集しています)
 定家は藤原俊成の息(次男)で、京極殿あるいは京極中納言と称されました。
 この百人一首は、鎌倉幕府御家人で歌人の宇都宮頼綱(出家して蓮生)から、山荘の襖の装飾のために色紙の作成を依頼された定家が、選んだ歌をしたためたものだそうです。

《定家山荘跡の歌碑(常寂光寺)》
  小倉山みねのもみじ葉心あらば
     今ひとたびの行幸待たなむ 貞心公(藤原忠平)

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 時雨亭の古跡とされる所が、何故このようにあちこちに存在するのか?

 『都名所圖会』中の「厭離庵」に、その理由を次のように記しています。

 「京極黄門定家卿の山荘あるひは時雨亭と號る舊跡、ところ〴にあり、かの卿の詠歌により、又は少しき因になづみて後人これを造ると見えたり。
 続拾遺 いつはりのなき世なりせば神無月
         誰まことより時雨そめけん 定家
此歌を種として謡曲を作したり、時雨亭も是より出たり、実あるにあらず。」

 

 つまり、「時雨亭」を称する旧跡はあちこちにあるけれども、これは定家の読んだ歌、あるいは何らかのつながりや縁故をもとに、後世の人達が造り出したと見られるとしています。
 
 また、宝生流謡曲の「定家」、そして「時雨亭」という名称も、定家の歌「いつはりのなき世なりせば・・・」を素材としているとされるが、事実ではないとする。 
 

 なお、『都名所圖會』以外の地誌においても、時雨亭は「舊跡所々ニアリ(『山州名跡志)」、「いづれか其所さだかならず(『京羽二重織留』)」などとしています。

 次下は、時雨亭跡の記述がある諸本をいくつか拾ってみました。 

1. 厭離庵 (右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2)
 「小倉の山荘といふは、清涼寺西の門より二尊院までの道、二町ばかりの民家ある所を中院町といふ。いにしへは愛宕山の末院あり、今絶て所の名とせり 此半を北ヘ入る細道あり、竹林の後のかたに門ありて東に向ふ、これを厭離庵といふ。門の内に柳の水といふ清泉あり、草庵の跡は西の高き所と見えたり。(後略)」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』『山州名跡志』などにも記述あり。

 《小倉山荘旧址碑》

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 《厭離庵》

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2. 二尊院 (右京区嵯峨二尊院門前長神町27)

 「黄門定家卿の山荘といふ舊地は、仏殿のうしろの山腹にあり。かの卿より以前諸堂魏々たり、後世小倉山に寄りて號る物か。」『都名所圖會』
 『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡》

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 《二尊院境内》

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3. 常寂光寺 (右京区嵯峨小倉山小倉町3)

 「定家卿の社は南の山上にあり。此所も彼卿の山荘のよし。(後略)」『都名所圖會』
 『京羽二重織留』『山城名跡巡行志』などにも記述あり。

 《時雨亭跡碑》

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 《常寂光寺からの展望》

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 その他にも、次のようなものがありました。
4. 相国寺塔頭普光院 (上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701)
  『京童跡追』『山州名跡志』『京羽二重織留』

5. 般舟三昧院(元・歓喜寺跡) (上京区今出川通千本東入般舟院前町151)
  『都名所圖会』『山城名跡巡志』『山州名跡志』『京羽二重織留』

6. 白毫院  『京童跡追』  雲林院の末院だったらしく、南北朝期までは存続したが応仁の乱で荒廃したとみられ、伝わる所在地も一定しない。

7. 小倉山 『京童』

8. 衣笠山東麓 『山州名跡志』

2018年5月 4日 (金)

空・光・水・風 その20

光と影

アオキ

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羊歯(シダ)

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御所の御池庭
 
水面の樹影

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大山崎桜公園
 
散り敷く落葉

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2018年4月27日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 3

3. 日本で最初の小学校設立

 京都の再興と近代化では、「官」「民」挙げての努力がありましたが、前回に見た「産業振興と都市インフラ整備」は、「官」の主導によるものでした。
 今回は「民」つまり市民が大きな役割を果たして進められた、教育環境の整備=「小学校の創設による人づくり」を取り上げます。
 明治元年(1868)、江戸時代の庶民のための初等教育機関は寺子屋でしたが、これに代わる小学校を各町組に一校ずつ創設することが計画されました。
 特記すべきはその設立方法で、土地・施設などの一切を町組(住民)の負担により設置するというものでした。

 明治新政府は、明治5年(1872)7月に「太政官布告第二百十四号」により、日本で最初の学校制度を設けます。
 ところが!ナント!!京都ではそれに先駆けること3年、全国で最も早く明治2年(1869)、各町ごとに「番組小学校」を独自の方法で設立していたのです。

《太政官布告第214號》

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 太政官布告の一部を抜き書きしてみます、
「(略)自今以後一般ノ人民 華士族卒農工商及婦女子 必ス邑ニ不學ノ戸ナク 家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス  人ノ父兄タルモノ宜シク此意ヲ體認シ 其愛育ノ情ヲ厚クシ其子弟ヲシテ必ス學ニ従事セシメサルヘカラサルモノナリ(略)」としています。
 そして、そのあとに「幼い子供は男女を区別せず、小学校で学ばせなければその父兄の落ち度とするゾ!」として、「屹度(強く)申し付けるからナ」と云った感じで権柄尽くに命じています。この高圧的なところは、現代の感覚からするとむしろ可笑しさを覚えます。
 しかし、寺子屋の頃は女子は学べなかったようですから、画期的な学制といえます。

 明治元年、京都府は小学校設置にあたって、近世までの住民自治組織「町組」を改組します。
 そして、住民自治の組織である町組の再編と併せて、各町組の町会所に附設する形で1校ずつの小学校設置を決定したのです。
 翌明治2年、さらに町組の編成替えをして上京・下京ともに各33町組、計66町組としました。そして、この再編に合わせて各町組に番号を付して「番組」としたのです。
 こうして、番組ごとに上京・下京とも32校ずつ、計64校の番組小学校を一斉に建設・開校しました。
 【註】:学校数が番組の数と同じ66校ではなく2校少ない64校となったのは、番組の区域が狭小であるため上京では八番組と九番組で1校(のちの仁和校)を、下京は二十二番組と三十二番組で1校(のちの淳風校)を建設したためでした。

 こうして、全ての番組で小学校を建設・運営することとなり、そのため、番組の有力者が用地を寄付し、建設と運営のための資金は竃金あるいは醵金により、つまり住民が分担金を出し合い独立採算で学校を設置しました。
 その際、番組によっては会社組織(小学校会社)を設け、集まった資金を運用してその利益を充てましたが、資金が不足する場合には10年返済の条件で府から貸し出しを受けました。

 このとき、自分達の番組小学校として、教室等の教育施設だけではなく、住民自治に必要な町会所等の施設が併設されました。そして、総合庁舎的に京都府の出張所としての機能も持たせるよう構想されたようです。
 こうした設置の経緯から、現在に至るまで小学校と地域(住民)との結びつきには強いものがあるのです。
 各校が所蔵する資料・沿革史などによると、自治・行政機能を果たす施設が校舎の前面に配置され、教室などの施設はその背後あるいは上階に付設する形で配置されたようです。
 教育施設と同居していた地域行政・住民自治のための施設としては、番組役員の詰める役場・町総代溜・総代溜・区内事務室など、そして巡査詰所や消防の詰所、防火や時刻を知らせるのための太鼓望楼などが設けられた。

《旧有済小学校の太鼓望楼》
 太鼓を叩いて番組の住民に時刻や火事を知らせた。各校に設けられていたが明治末には姿を消し、残るのはこれだけとなり登録有形文化財に指定されている。
 昭和に入って建て替えに際して屋上に移設された。


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 なお、近年は小中学校の統廃合が進んでいますが、校舎などは歴史的価値があるため、新しい機能・役割をもって引き続き保存活用されているものが多い。
下京第三番組小学校(明倫小学校)⇒京都芸術センター
下京第十一番組小学校(開智小学校)⇒京都市学校歴史博物館
下京第十八番組小学校(菊浜小学校)⇒ひと・まち交流館京都
ほかに、第二日赤救命救急センター・こどもみらい館・教育相談総合センター・養護学校・特別養護老人ホームなども元小学校の施設が活用されている。

《京都芸術センター(元・有隣小学校)》

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《京都市学校歴史博物館(元・開致小学校)》

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【註】:ちなみに、その後、地域行政組織の単位名称は「番組」から、明治4年(1871)に「区」へ、明治12年(1879)には「組」へ、そして明治25年(1892)に「学区」へと変わりました。
 「番組」から「組」の時期までは小学校名称は番号だったのが、「学区」に変わった時にそれぞれに固有の名称が付けられました。その命名の仕方は地元の町名に合わせたり、平安京内裏の施設名や条坊名、四書五経などの漢籍から選んだ熟語と云ったように、学区ごとに自由に選んで命名しています。
 また、昭和16年4月には「小学校」が「国民学校」と改称されます。そして、この時期をもって地域が学校を運営する「学区」は終り、小学校の土地・建物といった学区財産は京都市へ移管(寄附)されました。
 しかし、「学区」がかつてのような行政上の単位でなくなっても、また、住民自治の単位であった旧番組小学校が統廃合で無くなっても、依然として現在に至るまで「元学区」が行政からの伝達単位として機能し続けています。

2018年4月20日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 2

2:産業振興とインフラ整備

① 産業振興
 東京への遷都によって京都は政治面での再興は望むべくも無いことから、危機を乗り越えるためには産業振興を拠り所として経済的な復興を目指すことになります。
 こうして、京都の再生と復興を懸けて、「京都策」と呼ばれた近代的な殖産興業政策に取り組みます。

 欧米の最新技術を導入して勧業事業に取り組むため、明治3年(1870)10月に舎密局を、明治4年(1871)には産業振興を図って勧業場を設置します。
 舎密局では、ドイツの化学者ワグネルを招聘して新技術の導入を図るだけではなく、人材育成のため科学技術の教育・研究にも取り組みました。

《ワグネル》
 
岡崎公園 府立図書館の脇にある。島津製作所の創業者島津源蔵もワグネルに教えを受けた。

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《舎密局跡

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 産業振興のための中枢組織である勧業場は、欧米の先進的な技術を導入して諸々の製造施設を設置します。このために、産業基立金として国から15万円を借り入れました。

《勧業場址碑》

 元長州藩屋敷跡で払い下げをうけて常盤ホテルとなる。(その後、京都ホテルから京都ホテルオークラに)

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 殖産興業策の実施にあたって、とりわけ大きな影響をもたらしたのが琵琶湖疎水の開削でした。
 当初の目的は、水運・灌漑・上水道・水車による動力でした。しかし、水車を動力源とする計画については、疎水を利用した水力発電に計画変更されました。
 明治18年(1885)琵琶湖疎水工事を起工、明治23年(1890)には疎水工事が完成して、翌年には蹴上水力発電所が送電を開始します。

《蹴上発電所》

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 産業振興に関して主なものをランダムに挙げて見ると、京都電燈会社の設立と火力発電所設置、京都織物会社・京都陶器会社の設立営業、京都電気鉄道が開業、京都電話交換局の設置などが挙げられます。
 
 ところで、明治初期のそうした難儀の折も折、米価が非常に暴騰して府財政が困窮したため、救貧のための備米(つみまい)50万石の下付を太政官に出願し、東京へも出向いて行って陳情しました。
 その結果、請願が認められて産業基立金として5万両を下げ渡されました。(【註1】参照)
 さらに、翌3年7月には再び5万両の追加下付金があり、このときの政府の措置は京都にとっては空前の恩恵とも云えるもので、俗に「朝廷からのお土産金」とも「天皇から京都への手切れ金」とも称されたそうです。
 ちなみに、明治2年に「両」を「円」に改めているため、二度の下げ渡し金は合計で10万円の下付金となった。(【註2】参照)
 この10万円を明治3年から同13年までは京都府で管理運用していたが、同14年に上・下京の両区役所へ移し、両京連合区会の評決により公債証書を購入しました。そして、さらに利殖方法を工夫したところ、同22年には元利合せて39万6,970円50銭の多額を数えるに至ったそうです。
 京都市は、これを明治23年(1890)に完成した第一琵琶湖疎水の工事費として支払うこととしました。そして、翌年には蹴上に水力発電所が建設され、琵琶湖疎水は京都の再生と近代化に大きく貢献したのです。

【註1】明治3年3月付太政官示達「今般格別之御詮議を以て其府下人民産業基立金として五万両被渡下候間、取計方行届候様、御沙汰候事 太政官」
【註2】昔のお金と今のお金の価値を比べるのは簡単なことではありません。人々の生業や賃金、生活様式も違い、生活に必要な用品も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、同じ明治時代でもその前半と後半では大きな違いがあったでしょう。
 明治5年の米価を基準にして比較すると、当時の1円は現在の1万円位に相当するようですから、下付金の10万円はざっくり言って今の10億円程度に相当するのでしょうか。



② 都市インフラ整備
 明治28年(1895)4月から7月まで開催された「第四回内国勧業博覧会」は、京都復興の成果を内外に広く喧伝するイベントとなりました。
 この内国博覧会は、それまで東京で開催されていたものを京都へ誘致することに成功したもので、「平安遷都1100年記念祭」の一環として岡崎で開かれ、その入場者は最多の114万人を越えたと云う。
 そして、平安神宮が建立され、時代祭の始められたのもこの時でした。
 なお、京都電気鉄道が日本で最初の路面電車を塩小路東洞院と伏見油掛の間を営業運転した電車が、この内国博覧会開催の時に岡崎まで路線が延伸されました。

《電気鉄道発祥地碑》

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 そして、インフラ整備という点では、明治末期の明治41年(1908)から4年間をかけて、「三大事業」と称した大規模にして近代的な都市基盤づくり事業を実施して完成しています。
 一つは、第二琵琶湖疎水の開削。
 二つは、第二琵琶湖疎水を利用した上水道の整備。
 三つは、道路の拡張・延長整備と市営電気軌道敷設。
 これらを集中的に実施したことで、京都市街地の都市基盤整備は飛躍的に進みました。

2018年4月13日 (金)

凋落と再興 ー維新の京都ー 1

このシリーズの内容
 今 回:1. 明治政府の成立と東京遷都
 次 回:2. 産業振興とインフラ整備
 次々回:3. 日本で最初の小学校設立

1:明治政府の成立と東京遷都

 慶応3年(1968)10月に大政奉還、同12月に王政復古で幕府が廃止されて、倒幕派(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)による明治政府が成立します。
 そして、翌4年(1868)9月8日に「明治」と改元しました。なので、言ってみれば今年はちょうど明治150年にあたります。
 延暦13年(794)、桓武天皇が都を京都に移し平安京と称して以来、明治2年(1869)まで千百年もの長い間、京都は王城の地(首都)でした。
 けれども、江戸時代も中期以後になってくると徐々に政治の中心は江戸へ、経済の中心は大坂へと移っていき、王都としての京都はその地位が徐々に低下していきます。しかし、古くから受け継がれてきた伝統芸能をはじめ、さまざまな文化の継承や、天皇のおられる王城の地としての自信と誇りは保っていました。

《二条城二の丸御殿》
 徳川家康が将軍の宣下を受けたのも、徳川慶喜将軍が在洛中の40藩重臣を招集して大政奉還を諮問したのもここでのことでした。
 つまり、江戸幕府(徳川幕府)の始まりも、終焉を迎えたのもここだったのです。

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《京都御所  建礼門》
 御所の正門です。背後に見える大きな屋根は紫宸殿で、即位礼など重要な儀式が行なわれるときに建礼門が開扉された。

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《御常御殿》
 御池庭から見た御常御殿。天皇の住いで、儀式・対面のための場所や神器を納める部屋もあった。

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 ここで、江戸末期から明治維新にかけての、京都の変化を大雑把に見てみましょう。 

慶応2年(1866) 12月25日 孝明天皇が崩御
慶応3年(1867)正月9日 皇太子が天皇の位を受継ぐ
   同3年(1867)10月14日 徳川慶喜が大政奉還を請う
慶応4年(1868) 7月17日  江戸で政務を執り東京と 改称する
   同年 8月27日  皇太子が御所紫宸殿で即位し明治 天皇となる
   同年 9月8日 「明治」と改元され明治元年となる
明治元年(1868)10月13日 天皇が東京へ行幸
   同年 10月13日 江戸を東京と改称
   同年 12月22日 天皇が京都にひとまず還幸
明治2年(1869)2月24日 太政官を東京に移し京都に は代理者の留主官を置く
   同年 3月28日   再び天皇が東京に行幸(崩御まで東 京に居住)

 江戸幕府(徳川幕府)が崩壊して、新政府の樹立で明治維新を迎えると、初めは京都に中央政府が設けられました。
 天皇が最初の東京行幸から戻られた翌年の正月6日、京都の町人総代として各町から1人ずつを建礼門前に召され、紫宸殿を拝して天盃を賜る栄誉に浴します。

 しかし、明治2年(1869)、正式に東京遷都の勅(天皇の命令)が出されることもなく、天皇皇后が再び東京に行幸啓されて東京城(元・江戸城)に入城、三種の神器も奏された。
 そして、政府の最高機関である太政官が東京へ移設されたのをはじめ、京都にあった中央行政機関も廃止されて、事実上の東京遷都が行なわれたことで京都は衰退に追い打ちをかけられます。

 かつて、天皇の住いである「御所」の周囲は、皇族や公家達の屋敷が建ち並ぶ公家町でした。
 しかし天皇だけではなく、皇族・華族(公家)とともに有力商人たちもが東京に引き移ってしまったため、一帯はすっかり寂れ果ててしまい、さながら「狐狸の棲家」といった様子になったと云う。
 現在の御所と京都御苑は、その四囲が寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通沿いに石築地で囲まれ、都会の喧噪と隔絶した緑の豊かな空間となっています。これは、かつてあった多くの公家屋敷を取り壊してできた跡なのです。

《清水谷邸の椋》
 御所の南西角の近くで公家の清水谷家屋敷の跡です。この椋は幹周り約4mで樹齢300年程とされる。
 幹の左脇遥か後方に「禁門の変」で知られる「蛤御門(新在家御門)」が見えている。

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 幕末の元治元年(1864)7月19日、御所蛤御門付近で尊王攘夷派(長州藩)と公武合体派(会津藩・薩摩藩など)が起こした「禁門の変」では、御所蛤御門付近と長州藩屋敷(今の京都ホテルオークラ)付近から出火して、21日まで燃え続けた。
 この夥しい被災で京都市街地の大半、約800町・27,517軒の家屋が焼失したが、この大火は「どんどん焼け」とも「鉄砲焼け」とも云われた。
 そして、この大火による被災地の復興は明治維新にまで延引したため、京都にとっては近代化の事業とともに大きな課題になったようです。


 ともあれ、衰微の危機に瀕した京都は、復興と近代化をかけて起死回生の策を講じる必要に迫られます。

 次回と次々回の2回にわたって、どのような復興策を採ったのかを見たいと思います。

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