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2019年9月13日 (金)

京都の「上ル・下ル・東入・西入」

 京都のいわゆる旧市街地では、特定の場所の位置を表現するとき、あるいは進む方向を示すときには、南北道路(縱の通り)と東西道路(横の通り)の交差する地点を基準として表現します。
 北ヘ行く(移動する)のを「上ル(あがる)」、南に行くのを「下ル(さがる)」と表現します。また、東西への移動は「東入(ひがしいる)」「西入(にしいる)」と表現します。
 そして、これに町名・番地を付け加えることが、形式として慣習・慣例として定着しています。

仁丹町名表示板

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 ここで気を付けたいのは、「東入」「西入」の場合には慣習として送り仮名の「ル」は省略して付けません。
 しかし、「上ル」「下ル」の場合は「上(かみ)」「下(しも)」との混同を避ける必要があり、送り仮名「ル」を入れます。ただし、「ル」であり「ガル」とはしません。

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 ちなみに、江戸時代前期の儒学者(朱子学)である貝原益軒は、『京城勝覧』[宝永3年(1706)刊]で次のように、極めて簡潔に言い表しています。
 「京都の町南北を縱とし。東西を横とす。縦町なれば北にゆくをあがるといふ。南にゆくをさがるといふ。横町なれば。何の町を東へ入。西へ入と云。すべて此四言をもつて町を尋れば。まぎれなく尋やすし。」と、大変判りやすく表現しています。
 このような慣例がスタンダードとなったのはいつの頃なのか、確かなことは判っていません。
 しかし、近世に著された地誌類を見ると、すでに江戸時代初期の寛文期のものにはそのような表現を見ることができます。(例:寛文5年刊『京雀』など)

 ところで、「東入」と「西入」については特に説明がなくても判ります。しかし、北へ行くのを「上ル」、南に向かうのを「下ル」と表現するのは何故なのでしょうか。
 そうなった理由(らしいもの)として、二つばかり思い浮かびます。
 一つには、古代中国では「天子南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治をおこない、宮殿も南に向けて造営される習わしが影響しているようなのです。
 こうしたことから、お上(天皇)のおわす北は上(かみ)に上ル(あがる)、それに対して南は下(しも)へ下ル(さがる)と観念されることになったのでしょうか。
 もう一つは、京都盆地の地形は北から南西に向かって傾斜しており、鴨川や桂川などの主要河川は概ね北から南へと流れています。そのため、北が上流・上(かみ)・上手(かみて)で、南は下流・下(しも)・下手(しもて)と認識されることも影響しているのではないかと思われます。

 さて、『京町鑑』などの地誌書でも、南北の通りでは「上ル」と「下ル」、東西の通りでほ「東入」と「西入」という表現が普通に広く使われています。
 それでは、その使い方には法則性や基準といったものがあるのでしょうか。

 広がりのある地所、例えば町(ちょう)や広い境内地を持つ寺社などの所在位置を示す場合であれば、大雑把でおよその表現であっても、特に差し支えはありません。
 ところが、特定の狭い地点を表示する場合には、もっと的確でピンポイント的な表現をしなければ、正確さに欠けて用を足すのには不十分です。

 例えば、ある目標地が東西に通っている2つの通りの間にある場合、北側の通りに近いのか、それとも南側の通りに近いのか。その目的地が距離的には南側の通りに近いときには「下ル」ではなく、「上ル」と表記したほうが正確ということになります。

 これを具体的に例を挙げて説明しましょう。

京都市学校歴史博物館

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 写真の、京都市学校歴史博物館(元・開智小学校跡)の所在地は、京都市下京区御幸町通仏光寺下ル橘町437番地です。
 この表記の意味するところは、京都市学校歴史博物館は御幸町通の「仏光寺を下がったところ」にあるのであって、御幸町通の「高辻を上がったところ」ではないのです。判りやすくいえば、京都市学校歴史博物館は高辻通よりも、仏光寺通のほうに近いところに所在することを示しているのです。
 註:ちなみに、橘町は「たちばなチョウ」と読み、「たちばなマチ」ではありません。旧市内に限って言えば、町名の場合は「◯◯チョウ」であって、「◯◯マチ」と読むのは極めてまれです。

 そういう点では、江戸前期の地誌『京羽二重』や『京羽二重織留』などでも、例えば、目的の商家や諸職がその通りのどこに位置しているのか、北側の町筋に近ければ「下ル」と記し、南側の町筋に近い場合には「上ル」というように、現実に即して的確に位置を記述・説明しています。
 これは、東西の通り沿いにある目的地の場合においても同様となります。

 以上、京都に独特な方角・方向の表現について考えてみました。













2019年9月 6日 (金)

悪王子と悪王子社

エーっ! 悪王子?
 八坂神社の境内、本殿の東側に悪王子社(摂社)があります。

 悪王子社
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 「悪王子」という名前からは、何となく荒々しく粗暴で不吉な神といったイメージを持ちます。
 実はこの悪王子社、祀られているのは素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒御魂(あらみたま)なのです。
 神の霊魂には、荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)の二つの働きがあるとされていて、荒御魂は荒々しく活動的な作用をすると考えられました。
 古事記や日本書紀によると、素戔嗚尊は出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したことから、「悪王子」の称号を贈られた尊敬される神様だったのです。

 ところで、この悪王子社は、最初に鎮座した地から八坂神社に遷座するまでには、以下のように幾度かの遷座を繰り返しています。


元悪王子町
 悪王子社ははじめ、素戔嗚尊の御魂を祀る八坂神社の摂社として、東洞院通四條下ル(現・元悪王子町)に建立されました。鎮座の年月については詳らかではありません。

 悪王子社小祀
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 『京町鑑』には、「東洞院通」の項に「◯四条下ル  ▲元惡王子町 天正年中まで此町に惡王子社ありしを慶長年中に太閤秀吉公今の寺町四條祇園御旅所に移し給ひし也」と記しています。 
 しかし実際には、四條祇園御旅所に遷る前に、烏丸通五条上ル(現・悪王子町)の地に遷座しています。
 そのため、この東洞院通四條下ルの元鎮座地は「元悪王子町」と呼ばれることとなります。

 元悪王子町の仁丹町名表示板

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 なお、平成10年(1998)この元悪王子町に小祀を設けて分霊が祀られましたが、駒札には悪王子社は「天延2年(974)建立」としています。
 また、この小祀の少し北方の西側には「悪王寺社之址」の石碑が建ち、鎮座の地であったことを示しています。


 悪王子社之址碑
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悪王子町
 次に悪王子社は、天正18年(1590)太閤秀吉の命により、東洞院通四條下ル(元悪王子町)から烏丸通五条上ル(悪王子町)に遷座します。町名は旧称を踏襲しました。
 『京町鑑』には、「烏丸通」の項で「◯萬壽寺下ル  ▲惡王子町 此町いにしへ惡王子社ありし舊地也」と記しています。
 ちなみに、『京都坊目誌』は、この悪王子町について「此地は稲荷神社の氏子なるも、本町のみ八坂神社の神事に加はる、今猶然り、蓋し古例に據るなり。」と記しています。
 つまり、松原通が祇園祭と稲荷祭の境界だったのですが、悪王子社が所在したことから祇園祭の前祭で神輿臨幸の際には、この悪王子町から神供を備える神事に参加していたという。
 かつて昭和30年(1955)までは、祇園祭前祭(下祭)の山鉾は松原通も巡行していました。


祇園御旅所

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 次いで、慶長元年(1596)に四条寺町の祇園御旅所へ遷座します。
 『京都坊目誌』に、「御旅宮本町にあり。今詳ならす。慶長の初め豊臣氏の命に依り。四条旅所内に移る。」とあります。
 『京町鑑』「◯寺町東入 ▲御旅町」の記述によれば、当時の祇園御旅所は四条通を挟んで北側と南側の両方にあったようです。
 そして、『都名所圖会』には、「惡王子社 御旅所北側にあり 祇園會神輿臨幸の時 烏丸通五條の北 惡王子町より古例によって神供を備ふ」としています。


祇園町南側の大和大路東南角
 次に遷座したのは、『京都坊目誌』によると「其後 祇園町大和大路東南角に遷る 年月詳らかならす天明火災後乎」としています。
 いま、お茶屋「一力」のある場所です。一力は、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』にも登場して、祇園でもっとも格式高く由緒あるお茶屋だということです。

八坂神社
 そして最後に、明治10年(1877)、現在のように第二摂社として八坂神社境内に遷座します。(八坂神社本殿の東側にあり西面する)
 『京都坊目誌』には、「明治十年四月。京都府令して。八坂神社境内に遷座し。第二攝社とす。」と記しています。













2019年8月30日 (金)

空・光・水・風 その28

秋の空 5態

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2019年8月23日 (金)

結界石

 結界石というのは、境を示す標(目印)であり、「聖の領域」と「俗の領域」を分ける標識なのです。
 寺域や修行の場など特別な地域(結界)では、宗教上の妨げとならないよう秩序を維持する必要から、結界(聖域)と俗界(俗世)とを分けるために建てられています。

 したがって、結界石に刻まれた銘文は、聖域の秩序を維持するうえで禁止されている行為等が刻字されています。

諸肉五辛不入山林(大山崎・山崎聖天)

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不許酒肉五辛入山内(上京区三軒町・安楽寺)

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 以下は結界石に刻まれた銘文のいろいろです。

1. 結界であることを示す
  大界外相
  摂僧大界

2. 結界への持ち込みを禁じるもの
  禁酒肉五辛入門内
  諸肉五辛不入山林
  不許酒肉五辛入門内   
  不許葷酒葷酒入山門
  不許葷辛酒肉入山門
  不許葷肉入門
  不許葷酒入山門
  禁葷酒   
  山門禁葷酒
   
3. 結界に立ち入りを禁じられた者や禁止行為
  従是女人結界   
  不許藝遊客
  禁藝術賣買之輩
  

禁じれれている事柄とその理由は次のようなものです。
① 五辛(五葷とも)
 葫(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・韮(らっきょう)・蘭葱(ひる)を云う。
 みんな辛味や臭気が強いこと、また食べると精力がついて性的な欲望を生じるそうな。
② 酒・肉
 酒池肉林、紂王やないんやから贅沢きわまりない酒宴はやったらアカン、ダメダメ!。
 酒食をすると気分晴朗・気宇壮大になって、仏道修行も大いに捗ると思うんやけどな。
③ 女人(にょにん)
 女の人の艶やかな容色は出家の心をも乱して、仏道に励むうえで妨げになるらしいわ。
 紅灯緑酒はアカンね。ンッ?紅灯の巷で坊主を見かけるけど、禁じられた遊びやんか!




2019年8月16日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 31

今回は東山区の4ヶ所です

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2019年8月 9日 (金)

宴の松原

「宴の松原」址碑

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 「宴の松原」というのは、平安京大内裏の内裏西側、武徳殿の東側、豊楽院の北側にあった広大な空閑地で、南北が約430m、東西が約250mの広さの鬱蒼とした松原であったという。
 その場所は、大内裏(平安宮)の正門である朱雀門と北端の偉鑒門をつなぐ中心線の西側、つまり内裏(御所)のちょうど西側となります。現在の上京区出水通七本松付近が、当時の「宴の松原」の中心にあたるでしょうか。
 この「宴の松原」が何を目的とした用地であったのかは明らかではありませんが、天皇の代替わりに際して内裏建て替えのための用地という説、宴(うたげ)を催すための広場という説などがあるようです。

 「宴の松原」の話は、「今ハ昔(今となっては昔のことだが)」という書き出しの部分と、「トナム語リ傳へタルトヤ(・・・と語り伝えられている)」の締め括りで有名な、平安時代後期の説話集『今昔物語集』にも、鬼・妖怪の出る不気味な場所として描かれています。
 ちなみに、この話は『三代実録』では、仁和3年(887)8月17日夜の出来事としています。

 まずその原文を、そして酒瓮斎による下手糞な現代語訳をご覧ください。

『今昔物語集』巻第二十七
「於内裏松原鬼成人形噉女語」第八
 今昔、小松ノ天皇ノ御世ニ、武徳殿ノ松原ヲ、若キ女三人打群テ、内様へ行ケリ。八月十七日ノ夜ノ事ナレバ、月キ極テ明シ。
 而ル間、松ノ木ノ本ニ、男一人出来タリ。此ノ過ル女ノ中ニ、一人ヲ引ヘテ、松ノ木ノ景ニテ、女ノ手ヲモ捕ヘテ物語シケリ。今二人ノ女ハ、「今ヤ物云畢テ来ル」ト待立テケルニ、良久ク見エズ。物云フ音モ為ザリケレバ、「何ナル事ゾ」ト怪シく思テ、二人ノ女寄テ見ルニ、女モ男モ無シ。「此レハ何クヘ行ニケルゾ」ト思テ、吉ク見レバ、只、女ノ足手離レテ有リ。二人ノ女、此レヲ見テ、驚テ走リ逃テ、衛門ノ陣ニ寄テ、陣ノ人ニ此ノ由ヲ告ケレバ、陣ノ人共、驚テ其ノ所ニ行テ見ケレバ、凡ソ骸散タル事無クシテ、只足手ノミ残タリ。其ノ時ニ、人集リ来テ、見喤シル事限無シ。「此レハ、鬼ノ人ノ形ト成テ、此ノ女ヲ噉テケル也ケリ」トゾ、人云ケル。
 然レバ、女、然様ニ人離レタラム所ニテ、知ラザラム男ノ呼バハムヲバ、広量シテ、行クマジキ也ケリ。努怖ルべキ事也トナム語リ伝ヘタルトヤ。


『今昔物語集』巻第二十七
「内裏の松原で鬼、人の形となって女を喰うこと」 第八
 今となってはもう昔のことだが、小松天皇の御代に、武徳殿の松原を若い女が三人で連れ立ち内裏の方へ歩いていた。八月十七日の夜の事ということでもあり、月は大変明るかった。
 やがて、松の木の下に一人の男が出てきた。この通り過ぎる女達の一人を呼び止めて、松の木の陰で、女の手を取って話し始めた。もう二人の女は「すぐに話し終わって戻ってくるでしょう」と待っていたけれども、戻って来る気配が無い。
 話し声も聞こえないので、「どうしたのかしら?」と怪しく思って、二人の女が近寄って見ると、女も男もいない。「これはどこに行ってしまったのかしら?」と思ってよく見ると、ただ、女の足と手だけがバラバラに残っていた。
 二人の女はこれを見て、驚き走って逃げ、警護詰所に駆け込んで、衛士にこの事を告げると、衛士達も驚いてそこへ行って見たけれど、死骸は散らばっておらずに、ただ、手足だけが残っていた。
 その時、人々が集まって来て大騒ぎとなった。
 「これは、鬼が人の形に化けてこの女を喰ったのだ」と人々は言い合った。
 だから、女はそのような人気の無い所で、知らない男から呼びかけられても、気を許してついて行ってはならない。忘れないようにしなければならない事だと語り伝えられている。


「宴の松原」の位置
  図をクリックすると拡大して見やすくなります
 (『武徳殿』「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」から転載)
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2019年8月 2日 (金)

橋の名前の不思議

 イヤー、これでもかという連日の猛暑・酷暑にはへこたれてしまいます。
 なので、暑さ凌ぎにどうでもよいような事を気楽に考えてみました。

 以下の写真で、橋の親柱に刻字された橋の名称をご覧ください。

くわう志んはし
  荒神橋(上京区)=荒神口通の鴨川に架かる

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志よめんはし
  正面橋(下京区)=正面通の高瀬川に架かる

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ゑちぜんはし
  越前橋(伏見区)=越前町で琵琶湖疎水放水路に架かる

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 いずれも、***ばし」ではなく、***はし」と彫られています。
 何故なのでしょうね。

 《国語学》というのには全く縁がないので、チョット調べて見ました。
 そうすると、『広辞苑』で次のような言葉と説明に行き当たりました。
 「【連濁】 二語が複合して一語をつくるときに下に来る語の初めの清音が濁音に変わること。「みかづき(三日月)」の「づき」、「じびき(地引)」の「びき」の類。」

 フムフムそうなんや! ムムッ!!それならなんで橋の名前のときは濁らんのじゃ!!!
 そこで、信憑性と云う点では疑問符がつくものの、安直に答が得られるということではすこぶる便利な方法、「ネットでググって」みました。

 そうすると、「***ばし」としないで「***はし」とするするのは、全国的と言ってよいほどに広く行なわれてきた慣行・しきたりで、それは何故なのかが判りました。

 前近代は、架橋などの土木技術、築堤や排水などの治水技術が未熟な時代でした。
 そんな時代には、橋の名前が「***ばし」と濁ると、橋を流失させる濁流、つまり、大水・洪水や氾濫といったことを連想させて縁起がよろしくない。そのため濁音を忌み嫌って清音とすることが風習となったと云うことのようです。

 さらに、橋の名前の表記の仕方でも、縁起を担いだ字の選び方をすることがあるようです。
 「くわう志ん(荒神)」「志よめん(正面)」では、「し」に「志」をあてています。
 「し」という音は「死」に通じると考えるのですね。従容として死を畏れない心の持ち方ができれば良いのですが、普通の人々であれば死を畏れることから縁起を担いだのでしょう。

 如何でしたか、軽い読み物で暑気払いになったでしょうか?



  

2019年7月26日 (金)

暖簾いろいろ その30

美 齢
 上・黒門通元誓願寺上ル 
 中国料理

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静 屋
(西陣店)
 上京区大宮通今出川下ル
 ゆば料理・ゆば販売

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なごみ煉
 下京区仏光寺通室町東入ル釘隠町
 居酒屋

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簡易宿泊所

 上京区中立売通浄福寺西入
 民泊

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2019年7月19日 (金)

辻 子 ー宇賀辻子ー (補訂)

宇賀神社

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 過去の記事『辻子 ー宇賀辻子とその周辺ー』(2013.6.28)は、辻子の位置をめぐって訂正と補足の必要が出てきました。

 以前の記事を作製するにあたって、手持ちの地誌から参考にした記述は次のようなものでした。
 『京羽二重』「◯宇賀辻子 ひがしのとういん通七條のみなみ」
 『都すヾめ案内者』「▲うかノ辻子 ひがしのとう院七でうのみなみ」
 『京町鑑』「▲烏丸 ▲御領町 ▲茶木町 ▲宇賀辻子 以上東九條の分也」
 『都名所圖会』「宇賀社は九條の東にあり、祭所宇賀神なり。此所の東西の徑を宇賀辻子といふ。」
 しかし、そのいずれも辻子が所在する位置を具体的に記していません。
 
 そこで、これらの記述を総合して考えてみると、宇賀辻子の位置は、「東洞院通七條の南方」(つまり竹田街道)の「東九條」辺りで、辻子は「東西の道」ということになります。
 辻子名称由来の通例からすると、宇賀辻子は宇賀神社に通じる道・傍を通る道ということになります。

 それでは、竹田街道から宇賀神社に至る「東西の道」とは、具体的にどこを指しているのでしょうか。
 ところが、この一帯では現・札辻通の他に「東西の道」は見当たりません。また、現在の札辻通の様子からは、「辻子」をイメージすることができませんでした。これが盲点となっていたのです。

はじめに宇賀辻子と考えていたところ

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 なので、当初の記事では宇賀辻子の位置を、「宇賀神社(東九条東札辻町)東側を北東に延びる小路で、東九条宇賀辺町・東九条南松ノ木町・東九条東札辻町を通貫している。」としたのです。
 つまり、東西に通る道が見当たらないことから、やむを得ず苦し紛れに「社頭から東北方向に斜行する道」を辻子としたのでした。
 とは言うものの、『都名所圖会』の「東西の徑を宇賀辻子といふ」なる記述には、無視しかねる思いが残りました。

 ところが最近、当時の記事に対して、先頃まで宇賀神社の氏子総代を努められた方からコメントをいただきました。 
 その方と何度か遣り取りする中で、かつての宇賀神社周辺の環境や状況について、いろいろご教示をいただくことができたのです。
 その結果、宇賀辻子の位置を次のように改めることにしました。
 「宇賀神社社頭から南に出たところ、現・札辻通を西へ竹田街道までの間をいう。辻子は、東九条東札辻町と東九条中札辻町を通貫している。」


新に宇賀辻子跡と考えたところ
 いまの札辻通北側歩道部分で、竹田街道(信号と横断歩道が見える)まで

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 ちなみに、宇賀神社元総代からいただいた情報は、凡そ次のようなものでした。
① この地の旧家(長谷川邸・「歴史・文化・交流の家」)の昔の当主が画家で、100年程前に描かれた風景画が残されている。
 その絵は今の札辻通から神社を望んだもので、畠の中にある鳥居・本殿・社の森などの神域と用水路などが描かれている。
② 往時の宇賀神社周辺一帯には畠が広がっていた。
 当初に、宇賀辻子としていた神社社頭から北東へと延びる道は、古老の話によれば、いわゆる農道(畦道)に近いような道で、傍らには農業用水路が流れていた。古地図によるとこの農道は北東へ高瀬川まで通じていたようで、後になってから現在の九条跨線橋すぐ際の東山橋まで通じる道となった。
③ その農道と用水路は、神社社頭を経て20m余り南(現・札辻通)に出たところから、西方の竹田街道へと続いていた。そして、この部分が昭和11年に拡張されて札辻通となった。
 当時の農道は現・札辻通の北側歩道部分に相当し、現・車道部分には農業用水路が東から西へ流れていて南側の家々専用の石橋が架かっていた。
④ 社頭の南の現・札辻通へ出た所から西方へ約130m、竹田街道までの農道が参道となっていたようで、竹田街道札辻交差点の北東角には今も石碑「宇賀神社参道」が建っている。

石碑「宇賀神社参道」(宇賀辻子跡とされる)

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 なお、石碑脇には宇賀神社敬神会により建てられた駒札があり、「ここから東へ約100mの宇賀神社までが山城名勝誌などに記された宇賀の辻子跡です」とあって、敬神会ではこれを宇賀辻子と比定している。



2019年7月12日 (金)

看板いろいろ その28

京都古梅園
  中京区寺町通二条上ル要法寺前町
  製墨販売
  天正5年(1577)奈良で創業の日本最古の製墨業

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月 餅 (本家月餅家直正)
  中京区木屋町通三條上ル上大阪町
  和菓子(焼き菓子「月餅(つきもち)」)
  文化元年(1804)創業とか

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看板  清水末商店  2点
  中京区寺町通二条下ル
  木彫り看板製造

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