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2022年9月30日 (金)

秋 色(1)

 秋めいてきたなと思うまもなく、初秋から仲秋へ、そして晩秋にと足早に移り変わって行きそうです。

秋の景色(南丹市美山町北)
 彼岸花・コスモス・すすき・蕎麦畑

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 突然ですが、和歌に「わが袖に まだき時雨の 降りぬるは 君が心に 秋や来ぬらむ」(古今和歌集巻第十五恋歌五763)というのがあります。この歌の「秋」は、「飽き」の掛詞(かけことば)となっています。
 私の袖に早くも時雨が降りかかったのは、あなたの心には私に対する秋(飽き)が来たからなのでしょうか。といった感じですね。そして、詠み手の女の袖にかかったのは「時雨」ではなく、女自身の涙だったのでしょう。
 そして、男女間の愛情が冷めて心が離れることを、「秋風が吹く(立つ)」と言いますが、これも「飽き(厭き)」ですね。
 ところで、「男心と秋の空」という慣用句があります。女性への男性の愛情は、秋の空のように変わりやすいという例えです。これが後になって、「男」を「女」に置き換えて「女心と秋の空」ともいうようになりました。
 ここはどちらが正しいのかなどと議論(諍い?)はやめて、「人の心と秋の空」とでもしておけば波風が立たずに、人類みな平和となるのではないでしょうか。(笑)

 それはそうと、「秋」という字の成り立ちを調べてみました。
 「秋」の元々の字(古字)、これが難しい字なのですね。「龝(穐の旧字)」の右側の「龜(亀の旧字)」の下に火を表す「灬」がついていて、「しゅう」と読むようです。(残念ながら使用しているパソコンのソフトにはこの字がありません)
 この字の意味は、「禾」が稲や穀物を表し、「龜」はイナゴなどの虫の形を表しているそうです。
 秋になるとイナゴなどの虫が大発生し、穀物を食い荒らして被害を受けるので、イナゴなどを焼き殺して豊作を祈る儀礼をしたのだろうとされる。
 この儀礼を表す字が「秋」の古字で、パソコンのワープロソフトには無いあの難しい字です。「みのり」の意味となるそうです。
 そして、のちには虫の形を意味する「龜」が省略され、火を表す「灬」だけが残されたことで、禾偏の右側に「火」が付いて「秋」となったようなのです。(白川静『常用字解』から)



2022年9月16日 (金)

黎 明 ー史跡大山崎瓦窯跡から望むー

 健康のために軽くウォーキングをやっています。
 暑さの厳しい時期は早朝に歩いているのですが、7月末から8月上旬にかけての頃は、蝉の声もめっきり少なく佗しげになっていたのですが、今ではすっかり秋の虫の音に替わってしまいました。明け鴉と合唱をしています。
 日中の日差しはまだまだ暑いのですが、早朝の微風はまぎれもなく僅かに涼気を含んだものになっています。
 間もなくススキの穂も出てきて、爽やかな季節となってきます。青空の下ノンビリと自転車でサイクリングロードを走ることができるのが楽しみです。

 次の写真は、早朝ウォーキングの途中に出会った夜明けの光景です。
 撮影した日は9月12日で、日の出時刻は5:37amでした。
 はじめの写真は5:41:40amに、後の方は5:45:24amに撮影しています。

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 ところで、ここだけの話しですが正直に言うと(!?)、夜明け前から夜が明けきる頃までの時間帯を言い表す「ことば」、これが思いのほか多いのにはビックリしました。
 べつに息巻いてひけらかす積りはありませんが、幾つかを上げてみます。

夜明け前・・・夜が明ける前
朝未き(あさまだき)・・・夜明け前
明け方・・・夜が明けようとするころ
暁・・・まだ暗いうちから、夜が明けるころまで
白々明け・・・明け方
彼は誰時(かわたれどき)・・・明け方の薄暗い時
夜明け・・・東の空が白んで、薄明るくなるころ
黎明・・・夜明け・明け方
曙・・・夜が明けるころ
朝ぼらけ・・・朝、ほんのり空が明るくなるころ
薄明・・・日の出前の空がほのかに明るいころ
残夜・・・夜明け方
暁天・・・夜明けの空
東雲(しののめ)・・・東の空が白んでくるころ
有明・・・月が空にあるうちに夜が明けてくるころ
未明・・・夜がまだ明け切っていないころ
払暁(ふつぎょう)・・・夜明けで、明るくなってすぐのころ
早暁(そうぎょう)・・・払暁と同じような意味
朝明け・・・朝、明るくなるころ
朝・・・夜明けから数時間の間

 オットー!ここまででもう20語、まだありそうですがいい加減にやめないと野暮天と謗られそうですから、この辺にしておきます。




2022年9月 2日 (金)

人体解剖の先駆者 山脇東洋

 山脇東洋は江戸時代の医者です。
 宝暦4年に京都所司代(江戸幕府の一部署)の許可を得て、斬首刑に処された六角獄舎の囚人屈嘉の遺体で、日本で初めての人体解剖をおこない、人体内部の構造を直接観察した。
 そして、解剖記録『蔵志』(二巻)を著し、日本近代医学の芽生えとなり、杉田玄白、前野良沢なども山脇東洋の影響を受けている。
 六角獄舎跡の現在はマンション敷地の一部となっており、「山脇東洋観臓之地」「近代医学発祥之地」の碑などが建てられている。

「山脇東洋観臓之地」記念碑

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 六角獄舎跡の碑文は次のように刻まれています。

近代医学のあけぼの 観臓の記念に
1754年 宝暦4年閏2月7日に山脇東洋(名は尚徳 1705ー1762)は所司代の官許をえて この地で日本最初の人体解屍観臓をおこなった
江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった
この記録は5年後に『蔵志』としてまとめられた
これが実証的な科学精神を医学にとり入れた成果のはじめで 日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった東洋のこの偉業をたたえるとともに観臓された屈嘉の霊をなぐさめるためここに碑をたてて記念とする
1976年3月7日
日本医師会、日本医史学会、日本解剖学会、京都府医師会

 六角獄舎の前身は平安時代に左京に設けられた左獄(東獄)で、幾度かの移転を経て六角通神泉苑西入南側(因幡町)に移っていました。
 元治元年(1864)に起きた禁門の変(蛤御門の変)による火災の折、多くの尊皇攘夷派の志士たちが投獄されていた六角獄舎にも延焼の火が及びそうになった。
 その時、混乱に乗じて過激な志士たちが脱走するのを恐れて、まだ裁定が下っていなかった37人を斬罪に処した。明治になって円町で名前が朱書きされた瓦と共に白骨が見つかり、近くの竹林寺(下立売通西大路東入 行衛町455)に埋葬されて37人の墓がある。
 この時、池田屋事件で捕らえられていた古高俊太郎も処刑されている。


 かつて、当ブログで『六角獄舎そして山脇東洋と古高俊太郎』(2012.9.21)を書いたことがありましたが、最近、別の目的で誓願寺墓地に出かけた時、山脇家の墓を目にしました。

山脇東洋の墓

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 誓願寺の墓地は裏寺町通の北端にあり、墓地の入口には「山脇東洋解剖碑所在墓地」の石碑が建っている。墓地へ入るには、誓願寺の寺務所で許可書の交付を受けて、墓地管理人のもとに持参することが必要。
 また、誓願寺墓地には「山脇社中解剖供養碑」も建立され、山脇家代々が解剖を行った14名(うち女子4名)の戒名が刻まれている。




2022年8月19日 (金)

七福神信仰と町名

革堂(行願寺)の七福神石像

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 七福神というのは写真の七福神像に見るように、(左から順に)恵比寿天・大黒天・毘沙門天・弁才天・寿老人・福禄寿・布袋尊の七柱で、福徳長寿をもたらす神をいう。(写真をクリックすると七福神の顔がはっきりと見えます) 
 初めは今のような七柱の神様で定まっていたわけではなく、寿老人のかわりに吉祥天や猩猩が入っていたこともあるそうな。

 七福神信仰は室町時代から江戸時代にかけて成立したもののようで、その発祥地は京都だということです。江戸時代中期に、聖数(縁起のよい数)とされる七の数に合わせて今のような七柱となったようです。現在でも新年には福徳を祈って七福神の社寺を巡拝する「七福神詣で」として人気がある。
 これら七柱の神様はその出自が国際色豊かで、恵比寿天だけが日本、大黒天・毘沙門天・弁財天はインド、福禄寿・寿老人・布袋尊は中国の神様だということです。

 ところで、京都には七福神の名前の絡んだ町名が数多く存在します。
 七福神の中でもとりわけ、蛭子町(恵比寿・夷・恵比須などと表記する場合もある)及び大黒町の二つの町が圧倒的に多い。
 そしてなぜなのか、蛭子・大黒の二つの町が隣接しているか、隣接していなくてもそれほど離れていない場所にセットのようにして存在していることが多い。これは案外単純に、縁起の良い恵比寿・大黒にあやかって対になるよう命名したのかもしれません。
 蛭子(恵比寿・夷・戎と表記することもある)は商売繁盛・福の神として広く信仰を集めていて、大黒は福徳の神として民間の信仰を集めている神様です。

 七福神は不老長寿・商売繁盛・五穀豊穣・家内安全・所願成就にご利益があるとして信仰された。七神の中でも大黒天・弁財天・毘沙門天・蛭子などが次第に神格化する中で、蛭子・大黒天は他の五神から抜きん出た存在となり、併祀されるようになったようです。
 七福神にまつわる町名は、他にも毘沙門・弁天(弁財天)・布袋があります。ところが、福禄寿と寿老人が絡んだ町名というのは全く見当たりません。

・・・と、ここまで書き上げてからふと気づいたのですが、七福神は以前にも書いたような・・・。
調べてみるとやはり書いていました。(ウーン!被ったなー。マーいっか)




2022年8月 5日 (金)

道切り(ミチキリ)

 人々が生活の場としている領域に、悪霊、疫病神、災厄などが侵入してくるのを防ぐため、村の境界に設けられる「呪い(まじない)」を道切り(ミチキリ)と呼んでいる。
 道切りは村や部落で共同しておこなわれ、村境や村の入り口に注連縄(勧請吊り)を渡したり、お札を立てたりする。
 この注連に呪物として巨大な草鞋をぶらさげる風習があるが、この草鞋を履くほどの大きな荒神が居るから入ってくるなと云う脅しの意味だとされる。
 さらに、八手や南天の枝を下げたり、石を置いて人形を立てたりするところもある。つまり、道切りには悪霊・疫病や災厄の侵入を防ぎ止めるために諸々の呪いものを伴っている。

道祖神
南区の道祖神社社頭に鎮座
 悪霊を防いで道をゆく人々を守護する神に道祖神がある。これは、サヘノカミ(障の神・塞の神)とも道陸神とも呼ばれ、名前のとおり元々は防障・防塞の神で、外部から侵入してくる疫神や悪霊などを防ぐため、村境や峠・辻・橋のたもとなどの道端に祀られた。これはまた、旅の安全を守る神、生殖の神や縁結びの神ともされる。

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石敢當
 この石敢當は、かつて勧進橋の袂で竹田街道を通行する旅人を守護していたもので、常夜灯と石敢當が結合していて珍しい形。現在は元・陶化小学校の敷地にある。
 石敢當は中国伝来の災除けとして、道路の突き当たりに「石敢當」と刻んだ石柱を立てることが、沖縄諸島を中心に本土の鹿児島をはじめ九州南部・中国地方でも見られるが、これも道切りの一つと言える。

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 道祖神・石敢當の他にも各地で見られる呪いものには、地蔵尊・馬頭観音・庚申塔や二十三夜塔などの石塔・庚申塚などがある。

奈良県明日香村の稲渕と栢森に伝わる綱掛神事
 稲渕の男綱

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 この神事は、稲渕では飛鳥川に男綱と呼ばれる注連縄をかけて陽物(男根)を象ったものを下げ、その上流の柏森では女綱と呼ばれる注連縄に陰物(女陰)を象ったものを下げる。この注連縄は毎年1月11日に掛け替えられる。
 子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などがこの道と川を通って侵入してこないようにするために行われる。
 なお、この神事は稲渕では神式で、栢森では仏式で行われる。

 道切りは元々、災厄が降りかかったときに疫神送りをおこない、その後にすることが多かったようだが、現在では村の行事として定期的に行っているところが多い。




2022年7月22日 (金)

奔放な女流歌人 ー和泉式部ー

 和泉式部は平安時代中期の女流歌人で、勅撰和歌集に収録された歌は246首にもおよぶ。才色兼備の閨秀歌人で、その奔放にして情熱的な歌いっぷりは有名です。
 中古三十六歌仙の一人とされ、女流歌人では清少納言や紫式部なども入っている。
 
世の中に 戀てふ色は なけれども 深く身にしむ ものにぞありける
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの あふこともがな
 これらは『後拾遺和歌集』に収録され、百人一首にも選ばれている歌ですが、まさに艶歌(つやうた)ですね。

和泉式部塔(宝篋印塔)
 新京極通六角下ル東側に、和泉式部寺と俗称される誠心院(正式には華嶽山東北寺誠心院)という寺院がある。ここには古くから式部の墓といわれる宝篋印塔があって、塔身正面に阿弥陀三尊の梵字を刻している。
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 御堂関白藤原道長の娘で、一条天皇の母である上東門院彰子の勧めで建立された三昧堂東北院の内に和泉式部のために小堂を建立、式部の死後、法名の誠心院専意法尼に因んで誠心院としたのが起こりとされる。
 (*東北院=上東門院彰子の発願による三昧堂は、道長の建立した摂関政治期最大の寺院である法成寺の艮(東北)の角に位置したことで東北院と称された)
 東北院が廃絶したあと、誠心院は上京区一条小川の誓願寺のそばに再建されたが、天正年間には誓願寺の移転に伴って現在地に移っている。


 和泉式部は越前守大江雅致の娘で、はじめ和泉守橘道貞と結婚したことで和泉式部といわれた。しかし、生まれつき放蕩であったことから離婚する。ちなみに、道貞との間に生まれた娘の小式部も母譲りの和歌の才能があった。
 まだ道貞の妻であった時、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋愛関係になり、世間にその仲を言いはやされる。しかし、親王が亡くなるとその弟である敦道親王と密通し、親王が式部を屋敷に迎え入れようとしたために敦道親王夫人は家出。式部もまた道貞との夫婦生活が破綻して離婚、父の雅致からも勘当される。
 『和泉式部日記』は、この敦道親王との2年間にわたる恋の記録で、わが国の女流文学を代表する一つとしてよく知られている。
 敦道親王の死後、式部は上東門院彰子に仕えるが、まもなく彰子の父の家臣である藤原保昌に再嫁する。そして、保昌が丹後守に任ぜられたため共に丹後にくだる。しかし、晩年の消息については明らかでない。

和泉式部の歌碑
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 「霞たつ 春きにけりと 此花を 見るにぞ鳥の 声も待たるる」
 本堂脇にある碑の傍に、式部が生前愛でた「軒端の梅」にちなんで梅が植えられいた。この歌にある「此花」は梅を指していて、『都名所圖會』には「泉式部塚」のかたわらに彼女が生前に愛した「軒端(のきば)の梅」が描かれている。




2022年7月 8日 (金)

行願寺(革堂)

 行願寺は、中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町にあります。もともとは、平安時代の寛弘元年(1004)に一条小川の北、一条北辺堂跡に僧行円によって創建されたことから一条北辺堂とも称されたとか。
 幾たびもの戦乱や火災によって焼けるが、豊臣秀吉の京都改造により今の寺町通荒神口のあたりに移り、宝永の大火(宝永5年)で類焼したことで現在地に移転しています。

 行円の生没年は不詳ですが、一説に鎮西(九州)の人と言い、また比叡山の横川(よかわ)出身の聖とも言われる。
 ある時、山中で身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿から子鹿が生まれ出るのを見て、殺生の非を悟って仏門に入ったといわれる。
 藤原道長(御堂関白)の三男の藤原顕信は、寛弘9年(1012年)に行円の教えに感銘を受けて剃髪出家したとされる。

 行円上人は夢の中で神のお告げにより、賀茂神社にある槻(けやき)の木を得て八尺の千手観世音菩薩を彫り、これを一条の小川辺に本尊として安置して行願寺と名付けた。この旧地には、革堂町・革堂仲之町・革堂西町などの町名として残っています。

 行円は頭に仏像を戴き、身には鹿皮の衣を着けていたため、人々は皮聖(かわのひじり)とも皮上人とも呼び、寺は革堂(こうどう)と呼ばれた。

加茂明神石塔
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五輪塔水輪の中に祀られた不動明王石仏

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 境内の西北隅に五輪塔の「加茂明神石塔」が立つ。高さ約3メートルで花崗岩製。
 行円が加茂明神の夢告により、加茂社の槻の木で本尊の千手観音像を刻んだとき、報恩のために加茂神を勧請し、この塔を造立して祀ったという。しかし、塔の造刻年代は平安時代ではなく鎌倉時代のものとされる。
 塔の水輪に方形の穴を穿って、不動明王石仏が安置されているが、これは当初からのものではない。
 笠石(火輪)の軒裏に一重の垂木型作り出しがあるのは珍しいものといわれる。高さ3m、花崗岩製。




2022年6月24日 (金)

暖簾いろいろ その37

すし岩
 下京区下珠数屋町通間之町角
 寿司・割烹
 Apple 創業者の一人、スティーブ・ジョブズが訪れたという店。

 私が60歳にして初めて買ったパソコンは、ボンダイブルーのプラスティックケースに入ったスケルトンタイプのiMacでした。

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わた亀
  東山区宮川筋四町目
  京料理

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貴匠桜
 東山区松原通大和大路轆轤町
 創作フレンチ

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慶有魚
  宮川筋四丁目 319 番地 5
  宿泊施設

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2022年6月10日 (金)

都の鬼門を守る幸神社

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 幸神社は、上京区寺町通今出川上ル西入 幸神町にあります。旧村社で出雲路道祖神ともいわれました。
 『都名所圖會』に、「出雲路神は京極の西今出川の北にあり、祭る所猿田彦神命にして道祖神なり、今 幸神といふ。旧地は京極の東なり。」とあり、もとは京極の東、賀茂川畔(今の青龍町あたり)に祀られていた出雲路道祖神だったようです。
 祭神は、猿田彦神が主神で、天御中主神・加美葦牙彦舅神・天照大神・瓊瓊杵尊・天鈿女命・大國主命・少彦名命・事代主命の八神を併祀しています。

 現在では小ぢんまりとした神社ですが、歴史は古く創建は平安遷都の時に遡り、都の東北の鬼門を護るために置かれた守護神として造営されました。
 本殿の東側奥に置かれている猿の神像を、格子を通して見ることができます。猿は烏帽子を被り鬼門の東北を睨んで、疫神・悪鬼・邪気を祓うため忌串(いみぐし)を肩にかかげています。
 平安遷都の際、御所の鬼門に鬼門封じのため「猿が辻」が造られました。北東から鬼がやってこないように角(かど)を凹ませて鬼門に強い猿を祀っています。
 この「京都御所の猿ケ辻の猿」から鬼門の方角である東北に向かって、「幸神社の猿」、「赤山禅院の屋根の上の猿」、「比叡山延暦寺の麓の日吉大社の猿」と連なっています。

 そして、猿田彦神命は道祖神信仰と習合され、縁結びの神としても崇められた。
 幸神社が、縁結びのご利益があるとされるのは、日本最古の縁結びの神様である「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)」と「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」を祭神として祀っていることに由来しています。猿田彦大神は天鈿女命の道案内をした縁で結ばれました。

神 石

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 境内の東北隅にあります。『新撰京都名所圖會』は「その形が男性の性器に似ているので珍重視されている。猿田彦は古来生殖の神ともいわれるので、かかる形の石を祀ったものであろう。」としています。




2022年5月27日 (金)

京都の住所表示 ーその明快さー

 去る5月2日、京都市内の繁華街でブランド腕時計買取り販売店に強盗が入り、ハンマーでショウケースを叩き割り時計が盗まれるという事件がありました。この荒っぽい犯行で盗まれたのは高級腕時計約50点、被害額は数千万円ということでした。
 強盗に押し入られて被害に遭った店の所在地は、朝日新聞京都版の記事では「中京区手洗水町」とありました。最近ではどの新聞もこのような表記方法を採っているようです。
 ところが、京都に生まれ育った私達でもこのように町名表記だけに省略されてしまうと、そこがどの辺りなのかもう一つよく判りません。
 何かと忙しない現代社会にあって、まどろっこしい表記方法はやめて簡略化しているのでしょうか? 根っからの京都人であれば、このように不親切な表現はしません。

 手洗水町の町域は烏丸通に面する両側、蛸薬師通と錦小路通の間を占める町です。
 そして強盗に入られた店舗は、烏丸蛸薬師の交差点南東角のビル1階にあり、店が公称する所在地は「京都市中京区手洗水町646−2 烏丸第三スタービル」となっています。
 元々の京都人であれば、このような位置関係にある場所は次のように表記します。これを京都方式とでもしておきましょう。
 「京都市中京区烏丸通蛸薬師下ル手洗水町642-2 烏丸第三スタービル」となります。
 このように表記することで、手洗水町は烏丸通蛸薬師の交差点の南にあることが分かります。
 いわゆる旧市内(現在の京都市内中心部)では、◯◯通◯◯上ル、◯◯通◯◯下ル、◯◯通◯◯東入、◯◯通◯◯西入とした後に町名を表記することで、通りと通りの交わる所(交差点)を基点として、どちらの方向なのかが判るのです。このような形式の表記は室町時代の末期に始まるようです。
 なお、「上ル」は北方へ行く、「下ル」は南方に行くことを意味しています。「東入」と「西入」は言うまでも無いでしょう。

下京区鍵屋町の仁丹町名表示板
 この「鍵屋町」のケースでそれを見ると、若宮通と正面通との交差点より南側に位置していることが判ります。

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 ちなみに、京都では同一の行政区内に同じ名称の町名が複数あることが珍しくありません。
 例えば、上京区の亀屋町、下京区の鍵屋町などは、同じ町名が四つもあります。このため、下京区鍵屋町だけではどこの鍵屋町なのか判らないのです。
 極端なケースでは、下京区の万寿寺通には堅田町というのが四つ、中京区では夷川通に泉町が四つ、いずれも僅か200メートル余りの間にひしめくように存在しています。

 なので、京都の場合は周辺部の地域は別として、旧市内と称されることもある中心部では住所地や所在地を表すとき、「行政区名+町名」だけで要をなさないことがあるのです。
 したがって、京都方式の住所表記は長くて面倒といえば面倒です。しかし、目指す地点がどこにあるのかを明瞭に認識できるという点では、親切で丁寧な良さがあるのです。





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