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2020年1月17日 (金)

昔の「旅」 ー寺社参詣と物見遊山ー

 現代の私達にとって「旅行」や「観光」の目的は、普段の生活から脱け出して異なる風景・景色・町並みの中に身を置いて、非日常的な経験を求めることにあると言えるでしょう。
 仕事や労働の必要から、生まれそして住み着いた在所を離れて、遠方に出かける「たび(旅行)」は近世以前においてもあったでしょう。
 けれども、仕事目的ではなく観光的な旅行に出ることが可能だったのは、貴族や僧侶など上流階級の人々に限られていました。

 近世(江戸時代)になっても、各地に関所や口留番所(関所の小規模なもの)が設置されおり、人々の自由な移動は厳しく制限されていました。このため、一般庶民が自由に旅行するというようなことはできなかったのです。
 とはいえ、庶民でも伊勢神宮の参拝や、信仰・祈願のために聖地や霊場を巡拝する「たび」については、庄屋・名主・旦那寺などの発行する往来手形(身分証明書)があれば黙認されていたようです。
 そのため、各地の寺社や山岳に集団で参拝することを目的に、参拝旅費の積み立て制度として伊勢講や富士講など多くの講組織が作られました。頼母子講や無尽講などは、こうした相互扶助制度から派生したものです。

弥次喜多像

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 ところが、こうした「たび」は寺社参詣だけではなく、行楽もまた大きな目的となっていました。というより、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多に見られるように、むしろ社寺参詣を口実にした物見遊山の方が主たる目的だったでしょう。こうした「たび」が今言うところの「観光旅行」の始まりだったのです。

宿屋の夕刻(『拾遺都名所圖會』巻二左青龍尾  から)
 (いつも通り、挿絵は画像をクリックすると拡大できます)

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 近世になると幕府の宗教政策によって、主要な仏教宗派の本山はそのほとんどが京都に集中します。そして、それら寺院の壮麗な伽藍や庭園は、京都観光の主要な対象となっていました。神社の社殿・境内もやはり同じです。

 先に記したように、昔の人々にとってはこうした神社仏閣への参詣は、信仰と行楽を兼ねていました。
 したがって、寺社の門前や周辺は多くの人々が集まる「盛り場」となり、旅籠屋をはじめ料理茶屋・水茶屋、様々な店や物売りが建ち並ぶとともに、芝居小屋では見世物の興行がおこなわれ、幕間には芝居茶屋で飲食をして寛ぎました。

阿国歌舞伎発祥地の碑

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出雲阿国像

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 『京雀』には、樵木町通(現在の木屋町通)の四条から「東のかたをみれば四條川原いろ〻見物の芝居ありその東は祇園町北南行ながら茶やはたごやにて座しきには客の絶る時なし祇園殿西の門只一目にみゆ」と、その賑わいを記しています。

 ということで、清水寺・南禅寺・上賀茂神社・下鴨神社などの著名な名刹古社も、その門前は参詣の人々で大いに賑わった。

四條河原夕涼の躰(『都名所圖會』巻二  から)

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 物見遊山・社寺参詣が広く行われるようになると、平安時代以来の都として憧憬される京都には地方から多くの人々が訪れるようになり、名所案内記(謂わば観光ガイドブック)が多数刊行されます。そうした京都の名所記の数は二百数十種にも及んだそうです。

 ちなみに、『京都名所圖會』の凡例には次にように記しています。「(略)神社の芳境  佛閣の佳邑  山川の美観等  今時の風景をありのままに模写し  舊本花洛細見圖を増益して時々其遺漏を巡歴し  攝社艸庵たりとも一宇も洩ず  幼童の輩坐して古蹟の勝地を見る事を肝要とす」

 最後に、そうした名所案内記のいくつかを挙げておきます。

『京童』明暦4年(1658)と『京童跡追』寛文7年(1667)共に中川喜雲著、これは案内記・名所記の先駆をなすものとされます。
『京雀』寛文5年(1665)浅井了意著、『京雀後追』延宝6年(1678)著者不詳、『京童』の遺漏を補うとともに実用的地誌を考慮した新しい形式。

『近畿歴覧記』延宝6年(1678)~貞享4年(1687)黒川道祐著、洛中洛外各地の紀行を集めたもの。
『菟芸泥赴』貞享元年(1684)北村季吟著、平安京内裏をはじめ洛中洛外の社寺や名所を説明。
『京羽二重』貞享2年(1685)と『京羽二重織留』元禄2年(1689)狐松子著、これらは趣味と実益を兼ねた京都案内記。
『山州名跡志』元禄15年(1702)釈白慧著、山城1国8郡386村を実地に踏査して克明に描写している。 
『京城勝覧』宝永3年(1706)貝原益軒著、洛中洛外の名所旧跡を17日間で巡覧できるように日程を組んでおり、各コースとも三条大橋を起点として1日で巡れる範囲にとどめている。
『山城名跡巡行志』宝暦4年(1754)釈浄慧著、洛中の寺社旧跡を北は一条から六条まで、西の京を東から西へ書き進めて巡行の便を旨として編まれている。
『京町鑑』宝暦12年(1762)白鷺著、京町鑑の最も代表的なもので、京都の町を縦町通・横町通ごとに各町の説明を中心としており、京都の町の研究に不可欠となっている。
『都名所圖會』安永9年(1780)秋里籬島著、実地を踏査して書き描いた本文と挿絵は読者を名所旧跡に遊ぶ思いにさせる。

 

2020年1月10日 (金)

看板いろいろ その32

百味飲食
 下京区若宮通五条上ル
 薬膳料理

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夜明屋
 下京区諏訪町通松原下ル
 産業用資材並びにコットンファブリック及び生活雑貨製造卸
 
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明星軒
 下京区仏光寺通烏丸西入
 呉服問屋
 (俳人与謝蕪村終焉の地)

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京都酒蔵館
 下京京区仏光寺通室町東入
 居酒屋

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2020年1月 3日 (金)

イルミネーション

 謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
 そして、いつもこのブログを訪れてくださっている皆様、誠にありがとうございます。

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 新年はじめての記事は地味なものではなく、10日ばかりの時期遅れですが華やかにイルミネーションの写真です。
 (写真をクリックすると拡大してご覧いただけます) 


ローム本社と名倉公園周辺


Xmas
 
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同志社大学(今出川キャンパス)

 ヒマラヤスギのイルミネーションと彰栄館(重文)

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クリスマスイルミネーション

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京都駅駅ビル

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駅前の京都タワー

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2019年12月27日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(3)

3. 「東山通」成立当時の地域の様子

 前回は、東山通(現・東大路通)がどのような順に整備拡張・新設されて、軌道の敷設と市電が開通したのかを見ました。
 今回は、それぞれの地域がその当時はどのような状態だったのかを、整備されていった順を追って見ていきます。

1) 三条東四丁(三条通)〜広道馬町(渋谷通)

① 三条通〜菊屋橋(白川)
 三条通の北にある孫橋通から南の古門前通までは、もともと取り立てて云う程の道はありませんでした。ここに町地を南北に貫通して道路を新設しました。
② 菊屋橋〜八坂神社石段下

《菊屋橋から見た白川》

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 この白川に架かる菊屋橋から南は「こっぽり通」と称した幅員4m余りの細い道でしたが、これを拡幅しました。
 東山通の成立により、「こっぽり通」の呼称は自然消滅する。
③ 八坂神社石段下〜松原通
 祇園石段下から、南の安井門跡(現・安井金毘羅宮の辺り)を経て松原通まで通じていた、「くちなは(蛇)の辻子」と称する細い道を拡幅。
 東山通が成立したことで、「八軒(俗称・藪ノ下)」の呼称は自然消滅する。
④ 松原通〜広道馬町(渋谷通)

《梅林町の傾斜地》

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 小島町・梅林町の一帯は東から西へ傾斜した地形で、明和年間の頃までは概ね菜園や葬送地でした。ここに盛り土をして、幅員5m程の道を通し「広道通」と称していました。これを拡幅して、僅か十余年前までは幽寂の地であったのが、交通上枢要の地域に変貌したと云う。
  
2) 三条東四丁(三条通)〜熊野神社前(丸太町通)

① 三条東四丁(三条通)〜冷泉通
 法皇寺北門前町一帯は道路を拡幅して、一筋西側の「西寺町通」に対応して「東寺町通」と称することとなる。
  法皇寺東門前町・寺南門前町も拡幅して、仁王門通から南は孫橋通で行き止まりとなっていたのを、南北に貫通する道路とした。
② 冷泉通〜竹屋町通

《琵琶湖疎水に架かる徳成橋》

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 岡崎町字徳成地(現・岡崎徳成町)の畑地を南北に道を新設し、琵琶湖疎水に徳成橋を架橋する。
③ 竹屋町通〜熊野神社前(丸太町通)
 聖護院字山王(現・聖護院山王町)の田畑を南北に道路を新設した。

3) 広道馬町(渋谷通)〜妙法院前(七条通)

 渋谷通から南については広道通を拡張するとともに、妙法院前側町の大部分を占める妙法院から収公した境内の道を利用して道路を開いた。

 以上の区間については大正初期に開通していたが、以下の区間はずっと遅れて、昭和も3年に入ってからの開通でした。

4) 熊野神社前(丸太町通)〜百万遍(今出川通)
5) 妙法院前(七条通)〜東福寺(九条通)

 そして、最後に開通した次の区間は東山通ができてから約30年後、戦時中の昭和18年7月10日のことでした。
6) 百万遍(今出川通)〜高野上開町(北大路通)

  (以上の記事は主に『京都坊目誌』を参照しました) 



2019年12月20日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(2)

2. 東山通と市電「東山線」の開通

 道路の整備(拡張と新設)とともに、電気軌道の敷設と路線開通が進められました。
 まず最初は大正元年(1912)12月25日に、現・東大路通三条から五条通の南の馬町との間に市営電車を開通させて、その路線名を「東山線」としました。
 そして、翌大正2年3月にこの通り名を「東山通」と命名しました。

 ところで「東山通」は、かつては「東山線通」と呼称したことがありました。これは、市電の路線名称「東山線」を道路名称としても使用したのです。

《南門前町の仁丹》

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 なお、旧称「東山(通)」は現在でも使用されており、「東山三条」「東山安井」など市バス停留所名や交差点表示に使われています。
《東山安井の標識》

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 その東山通(現・東大路通)は、次のような順で道路を拡幅あるいは新設して軌道の敷設が進められ、市電東山線が開通していきました。    
1) 大正元年12月25日  
    三条東四丁(三条通)〜広道馬町(渋谷通)
2) 大正2年3月15日   
    三条東四丁(三条通)〜冷泉通
3) 大正2年4月5日   
    広道馬町(渋谷通)〜妙法院前(七条通)
4)  同  4月16日   
    熊野神社前(丸太町通)〜竹屋町通
5)  同  5月6日   
    冷泉通〜竹屋町通
6) 昭和3年1月13日   
    熊野神社前(丸太町通)〜百万遍(今出川通)
7) 昭和3年11月8日   
    妙法院前(七条通)〜東福寺(九条通)
8) 昭和18年7月10日  
    百万遍(今出川通)〜高野上開町(北大路通)

 ここで、京都における電気軌道開通の揺籃期を見ておきましょう。
《京都電気鉄道伏見線石碑》
 七條停車場前に(現・京都駅)

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《伏見線終点(伏見油掛町)》

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 まず、明治28年(1895)平安遷都1100年祭の年、2月1日に日本で最初の路面電車として、京都電気鉄道(略称「京電」)の伏見線が、七條停車場(東洞院塩小路)と伏見下油掛の間で営業運転を開始。4月には岡崎の第4回内国勧業博覧会々場に至る木屋町線が開通しています。
 そして、京電は順次に、営業路線を増やしていきます。
 その後、明治45年(1912)6月11日、京都市電気軌道事務所が発足して京都市営の路線が開設され、京電と京都市電が競合する時代となりますが、大正7年(1918)京都市が京電を買収し、市電の営業路線として一本化されました。

 なお、市電の路線全体としては、東は東大路通(東山通)・西は西大路通・南は九条通・北は北大路通を外周として、その内側に碁盤の目状に路線を開通させました。
 昭和33年には京都市電の営業路線は總距離が76.83Kmとなり、市民や観光客の足として最盛時の昭和38年度には乗客数が1日平均546,488人に達しました。
 しかし、全路線の乗客数は、昭和36年の2億2千万人をピークに減少の一途を辿り、昭和52年にはついに2千万人にまで落ち込みました。
 そして、自動車の普及とともに乗客数の減少で市電経営は悪化して、路線は順次に廃止へと追い込まれ、バス路線への転換が進みました。
 最後は、明治28年2月1日の京都電気鉄道による日本初の路線営業開始から85年間を経て、ついに昭和53年(1978)9月30日には京都市電の全路線が廃止となりました。

   【続く】



2019年12月13日 (金)

東山通と市電東山線のできた頃(1)

このシリーズは、次のような内容で3回にわたって書いてみます。
 内容:1. 東山通ができた頃の京都
    2. 東山通と市電「東山線」の開通
    3. 「東山通」成立当時の沿道の様子

蒲団着て寝たるすがたやひがし山  嵐雪  
 緩やかな起伏を見せる東山連山(東山三十六峰)を、蕉門の高弟であった服部嵐雪はこのように詠んでいます。
 『都名所圖会』は東山三十六峰を、「此橋上の半より東に向へば、洛東の勝地木の間〳〵に顕れて平安の佳景こゝに止る。」と褒め立てています。(ここに言う「此橋」とは五条橋のこと)
 この東山連山の西麓を南北に通っているのが、現・東大路通=旧称・東山通です。京都市街地を南北に通るメインストリートの一つで、生活上だけではなく、「東山三十六峰」が西に向かって緩やかに傾斜する一帯には多くの名刹・古社や名所などの観光地、また岡崎地区には多くの文化施設の建造物や庭園などが多数散在する重要な道路なのです。

1. 東山通ができた頃の京都

 京都の地位は江戸期の半ば頃から低下していたのですが、明治維新で首都が実質的には東京へ遷るとさらに衰退していきます。
 このような状況にあった京都は復興と近代化のため、インフラ整備とともに産業振興が喫緊の課題となりました。
 こうして、京都市は明治41〜45年(1908〜1912)に、「三大事業」と称して大規模にして近代的な都市基盤整備事業を実施します。
 三大事業とは、① 第二琵琶湖疎水の建設、② 疎水を利用した上水道の整備、③ 道路拡築と電気軌道敷設、の3つを言います。

 今回の記事では、今でこそ繁華な「東山通(現・東大路通)」ですが、上記三大事業の「③ 道路拡築と電気軌道敷設」との関わりで、成立当時の沿道の様子を見てみようと思います。

 『京都坊目誌』は、大正初期当時における「東山通(現東大路通)」の様子を次のように記しています。
 「東山通 北は聖護院町東丸太町に起り。南は大佛七條以南に至る。大正元年或は舊道に沿ひ擴築し。或は町地を貫通し軌道を敷設す。同年東山通と命名す。丸太町以北は吉田町を貫通し。愛宕郡田中村に到る。」
 そして、東山通と町並の整備については、次のように記しています。
 「始め二條。仁王門間を東寺町と稱す。其南を法皇寺門前と稱す。其以南白川筋菊屋橋までは町地を新に貫通す。其南コツポリ 小堀叉骨堀なと書す。正字なし。八軒等の小名あり。四條松原間は舊道を擴け。松原以南は新道を擴け。馬町以南は舊寺院境内の道路となるものを應用し。此名稱を下せしものなり。二條以北は岡崎町。聖護院町。吉田町。七條以南二町にして今熊野町あり。」

【註】上記の引用文にあって、現在では目にすることのない地名を簡単に説明しておきましょう。これらの地名・通り名は明治末期の頃までの呼び名です。道路が拡築されあるいは新設され、京都市電の開通とともに「東山通」と命名されました。これがいまの「東大路通」なのです。

1:「コツポリ(小堀叉骨掘)」
 《元・コッポリ通界隈》

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 知恩院前の白川に架かる菊屋橋から南にかけて、祇園(八坂神社)石段下へ出る狭い道がありました。この道を「こっぽり通」あるいは「こっぽり町筋」と称していた。
 ちなみに、四条通北裏(いま祇園会館のある辺り)には、幕末まで近江の膳所藩邸があり、明治の廃藩後は膳所裏と称される道でした。

2:「八 軒」
 《元・八軒(藪ノ下)界隈》

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 八坂神社(祇園)石段下から南側の一帯、南は神幸道(八坂神社南樓門前を経て長楽寺・東大谷廟へと続く道)までを云い、俗に「藪ノ下」とも称された。
 ちなみに、八軒から南の松原通にかけては、「蛇(くちなは)の辻子」と云われる道でした。これは、元禄期に太秦安井から移転した安井門跡(いまの安井神社の辺り)への参詣道で、蛇(くちなわ)のように細長い道だったことに因む呼称でした。

   【続く】

2019年12月 6日 (金)

看板いろいろ その31

きんなべ
  大和大路四条下ル博多町
  鍋料理

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わらじや

  東山区七条通本町東入
  うぞふすい(鰻のコース料理)
  寛永元年(1624)創業とか、400年の歴史

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亀屋清永
  東山区東大路通四条下ル
  和菓子
  元和3年(1617)創業、江戸幕府から禁裏御用達の上菓子司を許される

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鍵甚良房
  東山区大和大路四条下ル小松町
  和菓子

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御翠簾(安村すだれ店)
  大和大路四条下ル博多町
  各種すだれ、神社仏閣用の御簾(みす)

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安村すだれ店ショーウインドーにありました

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2019年11月29日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 34

左京区で(さらに)

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2019年11月22日 (金)

地名の発生を考える

 ことさら言うまでもなく、「地名」というのは文字通り土地につけられた名前(固有名詞)です。
 そして「地名」が発生したのは、「ことば(言語)」の発生とほぼ同時だっただろうと思われます。

 それでは、地名はどのようにして生じたのでしょうか。
 「あそこ」と言うだけではどこを指しているのかは判りません。その場所にふさわしい《記号》を付けておかなければ用を足すことができません。

 そうしたことを、柳田国男は『地名の研究』で次のように言っています。
 「地名とはそもそも何であるかというと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。」

 したがって、生活上なんらかの必要があって、その土地に付けられた《記号》が「地名」なのです。 言い方を変えると、仲間同士でコミュニケーションを図り、情報を共有するために付けられた《記号》が「地名」なのです。その意味では、地名というのは人々の生活に根ざした、きわめて実用的な《記号》だと言えます。

 「人間社会がある所には地名がある」あるいは「地名は社会生活と同時に発生した」といわれる所以なのでしょう。

 話を戻しますが冒頭に書いたように、「地名」は「ことば(言語)」の発生とほぼ同時だっただろうと思われます。
 元来、日本は固有の文字を持たない無字社会でしたから、中国から文字(漢字)が移入されるまでの長い間、日本語は言葉を口づてで伝える原始的な口承伝承でした。

 古代史を研究するうえで貴重とされる歴史書の一つに、大同2年(807)に成った斎部弘成の『古語拾遺』というのがあります。
 その序では「上代之世  未有文字 貴賤老少 口口相傳」(上代の世は  未だ文字を有せず 貴賤老少ともに 口頭で受け継ぎ伝えた)としています。

 日本に漢字が伝わったのは、確かなことは判りませんが『論語』の伝来した3世紀の終りの頃のことではないかとされています。
 また、3世紀末に編纂された中国の史書『魏志倭人伝』に見られるように、倭国(日本)と魏国(中国)の間には外交使節の往来がありました。そこではやはり、漢字による外交文書を遣り取りしていました。

 中国から日本に漢字がもたらされた最初の頃は、漢字を訓読みしたり、漢字の音を借りることで日本語を記したようです。
 使用方法は、その漢字が持つ意味(表意性)を無視して、音(表音性)を利用することにより一字で一音を表わしました。つまり、「万葉仮名」的な用字法で、記録したり伝達することが可能となったのです。 
 こうして、日本語を音で伝える口承伝承から、漢字を使って伝える書承伝承が可能になったことは画期的な進歩だったといえます。

 ところで、柳田國男は前掲書で次のようにも記しています。
 「元来字(あざ)や小字の名は久しい間人の口から耳に伝えられていたもので、適当な文字はなかったのである。しかるに地図ができて文字を書き入れなければならぬようになって村の和尚などと相談してこれをきめた。その文字は十中の八九までは当字である。しかも大小種々な知恵分別をもって地名に漢字を当てたのは近世の事業であって、久しい間まずは平仮名で通っていたものである。」


 さて、どのようにしてその土地を特徴付ける地名が名付けられたのか、諸本を参考にしながら気軽に考えてみました。
 地名研究の世界では、地名を大きくは「自然地名」と「人文地名(文化地名とも)」に大別しているようです。
 地名はというのは、まずその立地の自然を描き出すことで名付けられることが多かったようです。(自然地名)
 これに対しやがて、人間の営為によって形成された歴史的・社会的・文化的な地域要因を地名として命名します。(人文地名)
 人文地名はさらに、行政地名・交通地名・経済地名・歴史地名・宗教地名・人名地名などに区分され、それがさらに細分化されるようです。
 なお、京都では歴史地名・宗教地名・人名地名が圧倒的に多く見られ、自然地名はほとんど見られません。


 最後に、命名された地名の来由の幾つかを例示してみます。
 人々にとって危険な場所は仲間同士で注意を喚起するために、その土地の地形や特徴を地名にしたでしょう。
 例えば、大雨が降ったり地滑りを起こすと、崖(ホキ・ホケ)が崩壊する土地はボケ谷・大歩危・小歩危などと名付ける。

JR大歩危
 JR四国、土讃線「大歩危駅」のホーム表示

Gif
 また、洪水になれば川水が氾濫して水の引きにくい低地には泓・沮沢・湛など付ける。
片 泓
 長岡京市の「片泓」交差点表示

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 農耕地名(産業地名)で多いのが、水田や畑地につけられた「○○田」「○○畑・畠」など。また、ある植物が多く生える場所にはその植物を地名にする、例えば芹生・芦生・栃生などと言ったようにです。

 交通地名の例として、二本の道が出会いそして分かれるところには「追分」「別れ(分れ・岐れ)」、また、二つの川が合流するところには「落合」、峠への登り口や下り口では旅の履物を供えて旅の安全を祈願するところとして「沓掛」というように名付けました。

追 分
 「みぎハ京ミチ ひだりハふしミミち」、側面には「柳緑花紅」と刻まれている。
 東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点に立っている道標。 

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五条別れ
 「左ハ五条橋  ひがしにし六条 大佛  今くまのきよみず道」「右ハ三条通」と刻まれている。
 東海道と伏見街道の分岐点に立つ。

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沓 掛
 国道9号線の沓掛交差点に。

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2019年11月15日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 33

左京区で(続々)

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