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2019年2月22日 (金)

突抜 ー常盤井殿突抜町ー

 『京町鑑』には、常盤井殿突抜町の位置について「◯元真如堂突抜下ル町 ▲常盤井殿突抜町」とし、元真如堂突抜町(現・真如堂突抜町)の南だと記しています。


「常盤井殿突抜町」のあったと思われる所
 茂みから先(北)の今出川通までが常盤井殿突抜町だったようです。ここから南の広小路通までを中筋通と称する道が通じていました。 

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 先頃の記事『元真如堂突抜町』の中でも書いたのですが、かつては現・真如堂突抜町(今出川通の南の通りで、寺町通と中筋通の間)の西端を、石薬師門通から広小路通まで南北に通じる中筋通という道がありました。
 「常盤井殿突抜町」は、その中筋通の北端から少し南に下がった辺りまでを南北に通貫していたようです。

 もっとも、この中筋通は明治になって整備された京都御苑に取り込まれてしまったため無くなりました。その経緯については、先頃記事にした『突抜 ー元真如堂突抜町ー』(’18.11.9)に記しましたので、ここでは省略します。

ちなみに、当時(宝暦期)は御所東側の公家町の様子は次のようなものでした。
 寺町から西へ一筋目・・・梨木町通(北は石薬師通から南は広小路通まで)
 寺町から西へ二筋目・・・二階町通( 同上 )
 寺町から西へ三筋目・・・中筋通( 同上 )
 寺町から西へ四〜六筋目・・・これらの通りは御所築地塀の内側にあった

 ところで、ここで私の「思いつき」を少し・・・・
 先に記した中筋通・常盤井殿突抜の北方で、今出川通を越えた所にある細い道(現・下塔ノ段通)は常盤井殿町の東の端にあたります。

下塔ノ段通から「常盤井殿突抜町」の方向(京都御所)を望む
 
道路の右側(西側)が常盤井殿町で今は同志社女子大学のキャンパス、左側(東側)は下塔之段町です。先の方を横に走っているのは今出川通で、その向こう側(御所)が常盤井殿突抜町だったようです。

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  『京都坊目誌』によると、町名の起源を「本町南側 桂宮の殿舎あり。慶長の頃宮號を八條殿と云ふ。故に八條殿町の稱あり。元禄享保の頃宮號を常盤井殿と稱す。町名之に起る。」としています。
 と云うことで、その「常盤井殿町」へと突き抜ける道であったことが、「常盤井殿突抜町」の名称由来となったのだろうと思われます。

2019年2月15日 (金)

暖簾いろいろ その29

京都古梅園
 中京区寺町通二条上ル要法寺前町
 製墨販売
 天正5年(1577)奈良で創業の日本最古の製墨業

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豆 政
 中京区夷川通柳馬場西入
 五色豆など豆菓子、すはまだんご  など
 明治20年、当時白色しかなかったえんどう豆に青・赤・黄・黒(ニッキの褐色)の四色を加えた「五色砂糖掛豆」(現在の夷川五色豆)を考案したそうな

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二條若狭屋
  中京区二条通小川東入
  京菓子

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本田味噌
 上京区室町通一条上ル 
 味噌製造販売
 創業は200年前の天保元年とのこと

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2019年2月 8日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 29

下京区で見かけたものです
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2019年2月 1日 (金)

何でなんかなぁ? (2の2)

 承前
 それでは、南北が丸太町通と三条通、東西は寺町通と堀川通、これらの通りをを四囲とする範囲で、飛地のように分かれて存在する町と、それがいくつに分散しているかを挙げておきます。

竹屋町通・・・相生町(2ヶ所)、塀之内町(2ヶ所)、和久屋町(2ヶ所)、魚屋町(2ヶ所)
夷川通・・・・泉町(4ヶ所)、山中町(2ヶ所)、百足屋町(2ヶ所)、木屋町(2ヶ所)
二条通・・・・丁子屋町(2ヶ所)
姉小路通・・・姉大東町(3ヶ所)、木之下町(2ヶ所)
 といったところです。ところが、何故かこの一帯には顕著なかたちで存在するのですが、他の地域では殆ど見かけません。

 見落としがあるかも知れませんが、他の地域でこうした例が目についたのは次の町でした。
高辻通・・・・雁金町(2ヶ所)
万寿寺通
・・・堅田町(4ヶ所)

堅田町の仁丹町名表示板

Photo
 縦町は分断されることなく、横町は分断分散される思わしい理由が思い浮かびません。
 そこで思い切り、というよりも恐ろしく飛躍して考えてみることにしました。

 古代日本では、新しく都を構える場所を選定するにあたっては、地形、風や水の流れ、陰陽五行説など古代中国が起源の世界観を重視していました。
 平安京は北に船岡山(玄武)、東は鴨川(蒼竜)、西が木嶋大路(白虎)、南は巨椋池(朱雀)という風水の四神信仰にかない、都を設けるのに絶好の場所として選定されたのです。

 そして、中国では「天子、南面す」といわれ、皇帝は南を向いて政治を行うとされたことから、平安京では都の北部に大内裏(御所)が置かれました。

【註】「天子、南面す」の出典
『新訂中国古典選1』(朝日新聞社)第1巻『易』本田 済著を参照しました。
その中の『説卦傳』に、次のようにあります。
「聖人南面而聽天下。嚮明而治。」
これを読み下し文にすると、「聖人南面して天下に聴き、明に嚮(むか)いて治む。」
専門家が易しく読み解くと、「聖人が君位に就けば、南に向かって座り天下の政治を聴く。すなわち明るい方向に向かって治める。」となるそうです。


 平安京では大内裏の正門である朱雀門から南に向かって、メインストリートの朱雀大路(現・千本通)が通じていました。
 この朱雀大路は道路幅がなんと28丈(約85メートル)もあったそうです。これに次いで広いのが、朱雀門の前を東西に通っている二條大路などの17丈(約50メートル)ですから、朱雀大路はダントツの規模の道路だったようです。
 そして、朱雀大路の南端(九條大路)には、北端の朱雀門に相対して、平安京の入口・正門である羅城門がありました。

羅城門遺址碑

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 このように南に向かって開いた平安京でしたから、南北の街路が東西の街路に比べて優位な立場にあり、東西の道路は位負けしたのかも知れません。
 なので、横町は縦町に分断されてしまうこととなった⤵︎。そうだ、そういうことにしておこうsign03(これ、JR東海のCMコピー「そうだ 京都、行こう!」みたいやなー)

2019年1月25日 (金)

何でなんかなぁ? (2の1)

 どうしてそういう奇妙なことになっているのか、気になっていたのです。
 市内の中心部をうろついているとき、時々それを思い出します。けれども、納得のできる説明が思い浮かばなくて、何とももどかしかったのです。

 そんな疑問を感じたわけを簡単に記してみます。

 京都の町(ちょう)は、通り(道路)を挟んで向かい合う家々により、人々の生活単位となる町が成り立っていることが多く、両側町と呼ばれます。もちろん、通りの片側の家々だけで成り立つ町もあって、これは片側町と呼ばれます。
 中・近世を通じ、こうして京の町は形成されてきたようです。

 ところで、地図を眺めていると、南北に通る道路沿いの町(縱町)と東西に通る道路沿いの町(横町)には、奇妙で面白い違いのあることに気がつきます。

 それを、南北に通じる縦通りの新町通を例に引き、これと交差して東西に走る横通りの丸太町通と御池通の間にある町を見てみましょう。
 新町通の、丸太町通と竹屋町通の間に大炊町、竹屋町通と夷川通の間に弁財天町、夷川通と二条通の間に二条新町、二条通と押小路通の間に頭町、押小路通と御池通の間に仲之町があります。そして、それぞれの町が新町通を挟む両側町です。

大炊町の仁丹町名表示板

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 そして、これらの町はことごとく、すっきりと東西に通る道路と道路の間に位置しており、町は通りと通りの間で途切れることはありません。つまり、東西に走る各通りが町と町の境界ともなっているのです。

 これに対して、縱通りの新町通と交差して東西に走る横通りの夷川通を例にとって見てみます。
 そうすると、南北に通る新町通沿いの町のように通りが町の境界となっておらず、町の境界が極めて不規則に見えるのです。
 つまり、南北の縱通りに属する両側町は、それと交差する東西の横通りが町と町の境界となっているのに対して、横通りに属する町はそれに接する縱通りに属する町によって分断された形になっているのです。
 例えば、夷川通には泉町という町は4ヶ所に分かれて存在しています。西洞院と釜座の中程、釜座と新町の中程、新町と衣棚の中程、衣棚と室町の中程に分散して位置しています。

泉町の仁丹町名表示板

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 それでは、このように縱通り沿いにある町は一ヶ所にまとまっていて分断されることが無いにもかかわらず、なぜ、横通り沿いの町の場合はばらばらに分散させられた形となっているのでしょうか。sign02
 これが、始めに書いたように、今に至るも答が判らずにいる疑問なのです。
 縱通りとその通り沿いの町々が、分断されずに済むという優位な位置にいられるのは、何らかの理由があってのことでしょうか。
 一方の横通り沿いの町々は、縱通りの町々とは異なり分断されることに甘んじなければならない劣位な位置にあったのでしょうか。
 縱と横の町の間にそうした優劣があったとすれば、それぞれの町の間は折り合いが悪かったでしょうね。

2019年1月18日 (金)

看板いろいろ その26

清課堂
 中京区寺町通二条下ル
 錫・銀はじめ金属工芸品
 天保9年に錫師として創業

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田 毎
  中京区三条通寺町東入
  蕎麦屋

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富田歯科医院
 中京区三条通寺町西入
 一部屋をうずらギャラリーとしている

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鳴門鯛焼本舗
  中京区三条通寺町東入
  鯛焼き

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2019年1月11日 (金)

突抜 ー稲荷町突抜ー

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 「いなり町突抜」は、間之町通の高辻と松原間を云う。
 稲荷町と本燈籠町を南北に通貫しています。

「本燈籠町」の仁丹町名表示板
  
本燈籠町の町名由来については、『京都坊目誌』に「東洞院松原上る燈籠町より本町北側に亘り。之を燈籠堂浄教寺の舊地とす。故に稱す。」とあります。

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 「稲荷町」について『京都市の地名』には、「寛永14年洛中絵図に“いなり町つきぬけ”と記しており寛文後期洛中洛外之絵図に“いなり町”とある。しかし寛文12年(1672)洛中洛外大図には“稲荷町突抜町”とみえ、江戸中期までは両者を併用していたらしい。宝永2年(1705)洛中洛外絵図以後の絵図は、“稲荷町”となるから、17世紀の半ばには現町名に固定したと推察できる。」としています。

 ちなみに、寛文5年(1665)刊の『京雀』には「たかつじさがる  ◯つゞらや町」とあります。

 稲荷町あるいは稲荷町突抜の名称由来は、江戸初期の俳人・歌人・歌学者である松永貞徳が、自身の宅地に勧請した稲荷社(花咲稲荷社)が当町にあることによる。
 なお、稲荷社が花咲稲荷と称されるのは貞徳が花咲亭逍遥軒と号したことによる。

花咲稲荷社

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松永貞徳の花咲亭址

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2019年1月 4日 (金)

謹賀新年

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 皆様、良い正月をお迎えになりましたか。
 穏やかな天気の新年となりました。酒瓮斎は今年も早速に美味しいお酒をいただいています。

 皆様にはいつも当ブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 ところで、残念ながら世間は政治も経済も先行き不透明で、波乱含みの年となりそうな感じです。

 あすよりの後のよすがはいざ知らず
    けふの一日は酔ひにけらしも  良寛

 私が古稀となった年にボケ防止のために始めたブログも、喜寿も過ぎて8年となりました。私事ながら昨年は取り込みごとがいろいろ起る中、記事の更新はなんとかこなす事ができました。
 しかし、まだもう少ししぶとく続けてみたいと思っていますので、お付き合い願います。
 

 

2018年12月28日 (金)

暖簾いろいろ その28

十八屋(おはこや)
  中京区寺町通夷川上ル
  木版画の箱専門店 

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長谷川松寿堂
  中京区三条通高倉東入  
  和紙工芸品

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京都古梅園
  中京区寺町通二条上ル要法寺前町
  製墨販売
  天正5年(1577)奈良で創業の日本最古の製墨業

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総本家河道屋
 中京区姉小路通御幸町西入
 蕎麦ほうる

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2018年12月21日 (金)

突抜 ー衣棚突抜町ー

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 衣棚突抜町とは、衣棚通の姉小路通と三條通の間を言う。
 突抜町と衣棚町を南北に通貫しています。

 町名「突抜町」は、いうまでもなく「衣棚突抜町」を略称したものです。

「突抜町」の仁丹町名表示板

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 『京町鑑』はこの突抜の位置を、「◯衣棚通」の「◯姉小路下ル  ▲衣棚突抜町」と記しています。
 なお、衣棚通については「北は下長者町より南三條にて行當 叉松原より下へ五條橋通迄」とあります。

 そして、衣棚通の名称由来は、「此通 古 三條上ル町に袈裟衣商ふ店多く有によって衣店といふ 然るにいつの頃よりか 店を棚に書かへたり 今も三條邊に衣屋あり」と記し、袈裟・法衣を売る店が多かったからとています。

 『京雀』の「◯衣棚突抜通」には、「◯長はま町 南は三條衣のたな也  此南行に突抜  只一町連忍の辻子と云  其南に出れば六角通玉蔵町にて行當也」とする。

*上記引用文中の「連忍の辻子」というのは「了頓の辻子」の別称です。
当ブログで「辻子 ー了頓辻子ー」(2016.2.5)として記事にしています。

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