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2018年12月14日 (金)

看板いろいろ その25

大西京扇堂
  中京区三条通寺町東入
  京扇子

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田 沢  木屋町店
  中京区二条通木屋町西入
  ガラス製品

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彙文堂書荘
  中京区丸太町通寺町東入
  古書店

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船はしや
  中京区三条通河原町東入
  五色豆・豆菓子

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2018年12月 7日 (金)

突抜 ー仁王門突抜町ー

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 仁王門突抜は、車屋町通の二条通と押小路通の間をいう。
 仁王門町・仁王門突抜町・西押小路町を南北に通貫しています。

 『京町鑑』はこの突抜の位置を、「◯車屋町通」の「◯二條下ル ▲仁王門突抜町」としています。
 なお、仁王門町・仁王門突抜町の町名由来について、『京都坊目誌』では念仏寺の二王門があったとも、また、今では鴨川東にある頂妙寺がこの地にあった当時、仁王像があったとも云われるが、由来としては信じ難いとしています。

「仁王門町」の仁丹町名表示板

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 なお、車屋町通の通り名由来については、
 『京雀』は、「◯車屋町通 これはつきぬけ也 下 あねがこうじに車借(*ルビは「くるまかし」とある)おほくあるゆへに その町筋の名とす」とあって、車屋町通姉小路にある車屋町を「此町はみな車借の住ける家也」と記しています。
 『京都坊目誌』では、「天正以来。車輛製造の者此街の南に住居せしより名とす」としています。そして「一に車屋町突抜と稱せしと。」記して、「車屋町突抜」という別称があったとしています。

2018年11月30日 (金)

暖簾いろいろ その27

吉 川
 中京区富小路通御池下ル
 天ぷら・料理旅館

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ホステル  オトロ  ムンド
 上京区下長者町通千本西入ル六番町
 宿泊施設

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織部司  宗 悦

 上京区下立売通下の森東入 西東町
 西陣織
 店の名前が一風変わってますね。「織部司(おりべのつかさ)」は、古代律令制の大蔵省に属した役所で、高級絹織物の生産を司った。
 「宗悦」は、明治時代に民衆的工芸品を称揚して民芸運動を起こした思想家の柳宗悦から?。

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京町家  小鳥遊(高梨)
 中京区新町通六角下ル
 京町家の宿泊施設

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2018年11月23日 (金)

空・光・水・風 その25

水5態

 梨木神社の手水場

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 アサヒビール大山崎山荘美術館庭園で 1

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 アサヒビール大山崎山荘美術館庭園で 2

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 アサヒビール大山崎山荘美術館庭園で 3

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 アサヒビール大山崎山荘美術館庭園で 4

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2018年11月16日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 28

上京区の2件

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下京区の2件

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2018年11月 9日 (金)

突抜 ー元真如堂突抜町ー

 元真如堂突抜町は、今出川通から一筋南の通りで、現・石薬師通の寺町通と「中筋通」の間を云いました。
 元真如堂突抜町は、真如堂前町と真如堂突抜町を東西に通貫していました。

 ところで、「中筋通」というのは、かつては寺町通から西へ三筋目、今の梨木通から二筋西にあった道です。したがって、今では京都御苑に取り込まれてしまったため無くなっています。

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 元真如堂突抜町は、この写真の背後(東)の寺町通から、正面に見える京都御苑石垣築地の向こう(西)にあった「中筋通」までを通る道でした。

 『京町鑑』は、「◯寺町より西へ中筋通まで ㋵元真如堂突抜町」と記しています。
 この「中筋通」というのは、北は石薬師通から南は清和院御門(当時は今より西にあって南面していました)のある広小路通までを南北に通じる道でした。
 石薬師御門を入ってすぐの所にある公衆トイレの辺り、そして、いまの京都迎賓館東側を南北に通る道だったようです。

 また、『京都坊目誌』には「▲眞如堂突抜町 寺町今出川一筋下る西入町を云う  開通年月詳ならず。或云元祿五年新開すと。此町東は眞如堂前町。西は道路を隔てゝ皇宮地。南は染殿町。北は大原口突抜町に境す 町名起原 眞如堂前町に突入する故なり」と、突抜周辺の位置関係を記しています。

 ちなみに、明治2年に実質的な東京遷都がなされ、多くの公家達も東京へ引き移りました。
 このため、公家町はすっかり荒廃したことから、明治10年から16年にかけて、公家屋敷の撤去・外周石垣土塁工事・道路工事・樹木植栽など「大内裏保存事業」がおこなわれました。
 こうして、現在のような京都御苑の体裁になりましたが、このときに公家屋敷とともに「中筋通」などの道も消滅したのです。

2018年11月 2日 (金)

看板いろいろ その24

亀屋良永
  中京区寺町通御池下ル
  御池煎餅

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菊一文字
  中京区三条通寺町東入
  打刃物(鋏・包丁・ナイフ)

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三条タナカ
  中京区三条通寺町東入
  バッグ

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芝金聲堂
  中京区二条通河原町東入
  本(佛教書)

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2018年10月26日 (金)

形(かたち・フォルム) その3

元・陶化小学校のステンドグラス
 平成24年(2012)、統廃合により東和小学校・山王小学校と統合し、陶化中学校をも併せて施設一体型の小中一貫教育校として新発足している。
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京都市章が入った街灯の笠
 この市章は明治24年(1951)10月に「京」を図案化して制定された。その後に制定された紋章は、この市章の周りに御所車を配したもの。
 明治24年(1891)6月、京都市は左京区粟田口鳥居町1番地に、第1期蹴上発電所を完成して送電開始。
 昭和26年(1951)5月、電気事業再編により関西電力(株)に移管される。
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相国寺の経蔵
 相国寺の正式な名称は萬年山相國承天禅寺で、臨済宗相国寺派の総本山。
 足利幕府三代将軍の足利義満により創建された。
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相国寺法堂の破風
 「破風(はふ)」は、屋根の妻に施された装飾で、寺社建築や城郭建築にみられる。
 破風には、入母屋破風・比翼入母屋破風・切妻破風・千鳥破風・比翼千鳥破風・唐破風などと、多くのデザインがあるようです。
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2018年10月19日 (金)

突抜 ー因幡堂突抜通ー

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 『京町鑑』には、「◯不明門通 ◯叉 因幡堂突抜通」とあって、因幡堂突抜通というのは不明門通の別称なのです。
 不明門通(因幡堂突抜通)は車屋町通の南部にあたり、烏丸通から一筋東の通りなのですが、烏丸通の丸太町通と塩小路通の間が明治45年に東側へ拡築されたとき、東本願寺前の部分だけ両方の道が一体となってしまい、不明門通は烏丸通の東側歩道部分と化したのです。

 『京羽二重』は、「松原ゟ南へ七條通まで因幡堂つきぬけとをりとも あかずのもん通共云」とする。
 つまり、因幡堂突抜通の元々は不明門通松原通の因幡堂町から南下して、七条通の真苧屋町まで通貫していました。

「大堀町」の仁丹町名表示板

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 しかし、この不明門通は明治10年に七条通を南へ越え、塩小路通(東塩小路町)まで延長されました。

「東塩小路町」の仁丹町名表示板

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 以上は、稲葉堂突抜通(不明門通)と云う「通り名」について見てきました。

 次に、「因幡堂突抜」という「町名」があったのを『京雀』の記述から見てみます。「五條松原さがる ◯いなば堂のつきぬけ ◯同二町目 五條はし通さがる ◯平野町 (略)」とあります。
 つまり寛文期には、現在の松原通から万寿寺通までを「因幡堂突抜」と云い、万寿寺通から五条通までを「因幡堂突抜二町目」と称していたのです。

 最後に、通りの名称(車屋町通・因幡堂突抜通・不明門通)の由来を地誌書から拾ってみました。
 『京町鑑』は、「◯車屋町通 ◯不明門通(あけずのもんどおり)◯因幡堂突抜通」の項で、通り名の由来を「△此通 いにしへ姉小路邊に牛車屋住居せしゆへ號く  △但 松原より下は不明門通といふ 叉因幡堂突抜通とも云」とする。

 『京都坊目誌』では、車屋町通の名称由来を「車輛製造の者 此街の南に住居せしより名とす。一に車屋町と稱せし」と記しています。
 そして、不明門(あけずのもん)の名称由来については、「松原の北に因幡堂平等寺あり。往昔 正門此街に面す。常に鎖して開かず。街を開くに當り名とす。一に藥師突抜町とも稱す。」と記しています。

2018年10月12日 (金)

暖簾いろいろ その26

くろちく大正館
  中京区新町通錦小路上ル
  和雑貨など

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にしむら
  中京区六角通高倉西入
  京料理

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むかで屋
  中京区新町通錦小路上ル
  京料理

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みこう
  中京区新椹木町通夷川上ル
  京料理 

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