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2019年7月12日 (金)

看板いろいろ その28

京都古梅園
  中京区寺町通二条上ル要法寺前町
  製墨販売
  天正5年(1577)奈良で創業の日本最古の製墨業

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月 餅 (本家月餅家直正)
  中京区木屋町通三條上ル上大阪町
  和菓子(焼き菓子「月餅(つきもち)」)
  文化元年(1804)創業とか

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看板  清水末商店  2点
  中京区寺町通二条下ル
  木彫り看板製造

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2019年7月 5日 (金)

鏡 石

鏡 石

 金閣寺から鷹峯千束に通じる通称鏡石道の途中、北区衣笠鏡石町の道際にある岩です。かつて、傍に立つと鏡のように映ったことから鏡石と呼ばれ、これが町名の由来と云う。
 すぐ近くには、一條・五條天皇火葬塚がある。

 『都名所圖會』は、鏡石について次のように記しています。
 「鏡石は金閣寺の北、紙屋川のうへにあり、石面水晶のごとく影を映すをもって名とせり。
  古今物名 うば玉の我黒髪やかはるらん鏡と影にふれる白雪 貫之」

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 上記挿絵中の説明文は次のようになっています。(図にカーソルを置いてクリックすると拡大します)
 「鏡石は物の影よくうつりてあきらかなる怪石なり。むかし唐土に仙人鏡といふ石あり。形廣大にして石面皎々たり。よく人の五臓をうつす。疾あるときは則其形をあらわすとぞ。これらのたぐひとやいふべき。」とあって、鏡石に婦人が自分の姿を映している様子を描いている。

 この鏡石、永年にわたり風雨に晒されたことで、現在では次の写真のように全く鏡のようではなくなっています。

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 また、『菟芸泥赴』は次のように書いています。
 「鏡岩 平野より十町ばかり北の邊の左の山際に有  石の横二間ばかり  高さ山につヾきたる所にて九尺計  裾は五尺計也  石の色くもれる鏡の面の如く平にしてむかへば影をうつす  其故の名也」


 ちなみに、鏡石はこの他にもあって、筆者は以前にこのブログで記事にした西京区の大原野にもありました。
 花の寺として知られる勝持寺の境内、「瀬和井の泉」の畔にありました。
 特にどうと言うこともない岩でしたが、写真はその説明書きです。

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2019年6月28日 (金)

祇園祭

祇園祭神輿渡御と御旅所

 夏の京都の風物詩である祇園祭は八坂神社の祭で、その規模や歴史と云った点では我が国最大の祭です。
 八坂神社は、祇園社あるいは祇園感神院と呼ばれ、祭神は牛頭天王でした。しかし、明治元年(1868)の神仏分離令により改名されたのです。その後、牛頭天王と素戔嗚尊とが習合して祀られるようになり、いわば一心同体とされる。
 現在の祭神は、主祭神が素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八王子の10座、これに配神三座と合わせて13座です。

寺町御旅所

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  祇園祭の祭事では、八坂神社を出た神輿3基は氏子町内を巡行して、四条寺町南側(御旅宮本町)の御旅所へ行き、そして八坂神社へ戻るまでの一週間は御旅所に安置されます。
 神輿渡御で御旅所に渡る7月17日を神幸祭、八坂神社に戻る7月24日を還幸祭と云います。

長刀鉾

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函谷鉾

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 神輿渡御に先だって前触れあるいは露払いとして、山鉾の巡行が行なわれ前祭・後祭と言われています。ちなみに、前祭は四条通から南の祭であることから「下(しも)の祭」、後祭は四条以北であることから「上(かみ)の祭」と呼ばれます。
 祇園祭は前祭の山鉾巡行が祭のハイライトとして人出も多く有名ですが、神事としては7月1日から31日の間ずっと続くのです。

 ところで、渡御した神輿は祇園御旅所に入られるのですが、『京町鑑』『都名所圖会』の記述を見ると、昔は四条通の北側にも御旅所があったようです。三基の神輿は、北側の社に牛頭天王(素戔嗚尊)と八王子の2座を祀り、南側の社には少将井を祀っていたということです。
 また、それよりもさらに以前には、素戔嗚尊と八王子の2座は、烏丸通五条坊門の南(今の烏丸通仏光寺下ル大政所町)の大政所と号する御旅所に祀られていました。

大政所御旅所跡

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 そして、少将井の1座は、烏丸通二条の北(今の少将井御旅町)の御旅所に祀られていたということです。

少将井御旅所跡の説明板
 京都新聞社社屋の北端壁面に設置されています。
 (写真をクリックして拡大すると幾分は読みやすくなります)

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 このように2ヶ所に分かれていた御旅所を1ヶ所に統合したのは、太閤豊臣秀吉であり天正19年(1592)のことだったそうです。

【註1】素戔嗚尊
 素戔嗚尊(スサノオノミコト)は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の子で日本神話に登場する
 天津神。牛頭天王は釈迦が説法をおこなった祇園精舎の守護神。
 神仏習合により両者は同体だとされる。
【註2】八王子
 八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)で素戔嗚尊の八人の王子
【註3】少将井
 櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)で素戔嗚尊の妻


祇園祭の起源と怨霊の祟り

 平安時代の京都は、人が亡くなると死骸は野ざらしにされる風葬で、主な葬送地は鳥辺野(東部)・化野(西部)・蓮台野(北部)の3ヶ所がありました。
 しかし、貧しい庶民や行き倒れて死んだ人の死骸は、葬送の地に移されることなく路傍に打ち捨てられたまま、あるいは鴨川に流されることも珍しくはなかったようです。
 当時は下水道はありませんでしたから、側溝には雨水と共に生活汚水なども流されます。そして、道路は人・動物の死骸やゴミの捨て場であり、屎尿の排泄場所ともなり、現代とは違って衛生環境は劣悪でした。
 そして、当時の飲料用水は井戸水に頼っていたため、汚水・汚物で地下水は汚染の危険にさらされています。
 このような環境のもとでは、豪雨による洪水で河川が溢水して汚物が広がり散ってしまうと、疫病が発生した時にはたちまち感染が拡大流行してしまいます。

八坂神社(祇園社)

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 平安の昔、疫病の流行や天災は、政争に敗れて非業の死をとげた人の怨霊が祟りをなすものと考えられていました。そして、怨霊の祟りを鎮め宥めて災厄を避けるために御霊会が行なわれました。
 貞観5年(863)疫病が流行したとき、平安京大内裏の南東、二條大路を挟んで南側の神泉苑で朝廷が催したのが御霊会の始まりとされる。
 そして、貞観11年(869)祇園社で執り行った御霊会は、祇園御霊会また祇園会といわれましたが、これが祇園祭の起源とされています。
 祇園御霊会の祭事で、神輿渡御に先立つ山鉾の巡行をともなうようになったのは、いつ頃のことなのか定かではないようです。













2019年6月21日 (金)

饅頭屋町(まんじゅうやちょう)

 烏丸通の三条と六角の間に饅頭屋町という町があります。
 『京雀』には、「◯まんぢうやの町 此町の饅頭屋は日本第一番饅頭の初なるよし家名の書付にあり」とあって、饅頭屋発祥の地だとしています。

饅頭屋町の町並み

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 『京都坊目誌』でも、この饅頭屋町の町名起源について、次のように説明しています。
 「天正以前阿彌陀堂前ノ町と云ふ。頂法寺の阿彌陀堂西門のありし所とす。當時鹽瀬九郎右衛門と云ふ者此町に棲して。饅頭舗を開きしより稱となる」

頂法寺の山門

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 ここ饅頭屋町は、天正以前には頂法寺(通称・六角堂)阿弥陀堂の西門があった所で、天正期以前の町名は阿弥陀堂前ノ町と云ったが、この町に住む塩瀬九郎右衛門という人が饅頭屋を始めたことから饅頭屋町と云う町名になったと言うのです。

頂法寺の本堂
 頂法寺の正式名称は紫雲山頂法寺、通称の「六角堂」は本堂が六角宝形造(ろっかくほうぎょうづくり)であることによる。

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 ところで、この塩瀬家について伝わっているところを記します。

 建仁寺の僧である龍山徳見禅師が、嘉元元年(1305)元に留学、元には45年のあいだ留まり修行、貞和5年(1349)に帰国したと云います。そして後に建仁寺35世・南禅寺24世・天龍寺6世の住職に就任、その曾孫が建仁寺塔頭の多くの文化財両足院を創建しています。
 龍山徳見が帰朝したときに随行して来日したのが、林浄因(りんじょういん)という人でした。
 この林浄因が日本(京都)に帰化して塩瀬を名乗り饅頭の製法を伝えたといい、塩瀬総本家の始祖にあたるそうです。

 浄因の子孫から禅僧や商人を輩出して饅頭屋も継承されますが、その後、京都の林家と奈良の林家に別れたようです。
 京都の林家は姓を「塩瀬」と改め、烏丸通三条下ルで塩瀬饅頭を販いだといわれる。このとき、室町幕府八代将軍の足利義政から授かった「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を掲げて営業したと云う。

 しかし、応仁の乱で荒廃した京都を逃れた林家は奈良へ移住します。
 奈良で饅頭を製造し、奈良饅頭として販売したのは林宗二という人でした。
 ちなみに、この林宗二という人は文学や歌学に精通していて、室町時代に刊行された『節用集』(国語辞書)を改訂しましたが、これは「饅頭屋本節用集」とも呼ばれるそうです。

2019年6月14日 (金)

路地(ろーじ) ーそのいろいろー 30

下京区の4件です

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2019年6月 7日 (金)

突抜 ー社突抜町ー

 竪社通(大宮通の西裏)の、竪社北半町と同南半町との間を西に入って行く道をいう。
 社突抜町を東西に通貫しています。

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社突抜町の仁丹町名表示板

 この表示板、劣化褪色して文字の判読が厳しいですが、近づいてジックリ見ると次のような表記になっています。
 「上京區 大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入 社突抜町」

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 『京町鑑』の「大宮通」では、「▲竪社町 北半町南半町二町にわかる(略)此北半町西入所を㋵社突抜町 叉一名○山椒屋町とも云」としていおり、山椒屋町という別称があったようです。

 社突抜町の町名由来については、『京都坊目誌』は次のように記しています。
「此の近傍  竪社、社、社突抜、社横、仲社、東社等の名稱は皆 七社(ナゝノヤシロ)に對する謂ひなり。突抜とは行當りを意味するなり。」とあって、 それら町名の名称は、七社(ナゝノヤシロ)、つまり櫟谷七野神社に因むのです。

櫟谷七野神社

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 ところで、櫟谷七野神社の社名は、はじめは春日明神を勧請して社地の近傍にある七野の総社として祀ったことによるとされる。
 さて、その七野とは『京羽二重』など多くの地誌で、内野・北野・紫野・上野・萩野(栗栖野)・平野・蓮台野としている。しかし、『京都坊目誌』では一部が異なっており、上野・萩野にかえて柏野・浅野としており諸説があったようです。
 また、「七社(ナゝノヤシロ)」については、『京内まいり』によれば、初めに春日明神が勧請され、後になって勧請された伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の六神とを合わせることで七社としたように記しています。

賀茂斎院跡

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 この櫟谷七野神社から東および南にかけての一帯には、かつて賀茂神社の祭祀に奉仕した未婚の内親王(斎院)の居所である賀茂斎院のあった所で、紫野斎院とも称されたと云う。

2019年5月31日 (金)

形(かたち・フォルム) その4

京大西部講堂瓦屋根に描かれた星

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透かし彫りの看板
(喜多古美術店)


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東華菜館エントランス

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濱長本店(心太)の煙り抜き?と煙突

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亀型の飛び石(鴨川荒神橋そば)

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2019年5月24日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その7

八瀬と大原

 八瀬は上高野の北に、大原は更にその北部に位置しています。

 八 瀬

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   (以下の図もいずれも『都名所圖会』から)

 八瀬の名称由来は、高野川はこの辺りで急な流れの瀬が多くなることによる。
 「矢背」とも表記したようで、これは大海人皇子(のちの天武天皇)は兄の天智天皇の子である大友皇子と位を争っていたとき、大友皇子の軍勢が射掛けた矢を背に受けて負傷しました。その時、矢で傷ついた背中の手当を里人がすすめた「竃風呂」でされたことによると云われる。
 
竃風呂


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 竃風呂は土饅頭のような形をしていて、狭い入口が一ヶ所ある。この中で青松葉を焚いて竃の土が熱したところで火を引き、塩水を浸したムシロを敷いた上に寝転び暖まるもの。謂わば一種の蒸し風呂です。


 大 原
 大原は小原とも書き、平安の昔から貴人の隠棲地となっていて、山里の自然の美しい眺めは多くの歌人に詠われてきました。
 「朧の清水」「世和井」「大原山」「音無の瀧」など、和歌に詠まれる名所は歌枕となっている。
 また、「炭竃の里」として和歌に多く詠われ、昔は里人の多くが薪柴を製して、それを京のまちに出て売り歩いたのが「大原女」です。

 大原川(高野川)の上流を望む
 高野川の源流は、大原の最北部、京都・滋賀の府県境に近い小出石(「こでし」と読み、「小弟子」とも書かれた)の山中です。

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 寂光院
 平清盛の娘で安徳天皇の母である徳子が出家し、建礼門院として隠棲した旧跡。

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 ところで、このシリーズで見てきたように、高野川沿いの地域にも下流から上高野までは、琺瑯製の仁丹町名表示板を見ることができます。
 しかし、八瀬と大原では全く見かけることがありません。

 市内各所に設置されている仁丹町名表示板は、その設置状況が京都市域の拡大に見合うことから、昭和6年(1931)からそう遅くない時期、具体的には昭和7〜8年頃までには、既にその設置が終わっていたと考えられるのです。

 ところが、八瀬と大原が京都市左京区に編入されたのは、戦後の昭和24年(1949)のことでした。
 なので、時期的に八瀬・大原には仁丹町名表示板が設置されることは無かったのです。

 お断り:
 高野川右岸(西岸)と鴨川左岸(東岸)に挟まれた形の下鴨の西側部分、つまり下鴨本通の西側にも僅かながら仁丹町名表示板が残存しています。
 しかし、それらはいずれもが鴨川旧河道跡とその東側にあたる地域に存在しています。したがって、その一帯は高野川沿いとは言えず賀茂川沿いといった場所であるため、本シリーズからは除外しました。

2019年5月17日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その6

上高野

 上高野は、山端・松ヶ崎の北にあり、八瀬の南に位置します。
 昭和6年(1931)に松ヶ崎とともに、京都市左京区に編入されました。
 都が平安京に遷った頃は狩猟場であったことから、はじめは「鷹野」と言ったのを、のちに「高野」と表記を改めたと伝える。

上高野畑ヶ田町と同鐘突町の仁丹町名表示板

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 高野川の古名である「埴河(はにかわ)」の由来は、この流域で埴(粘土)を産したことによるそうです。
 右岸の小野町には平安時代の瓦窯跡が残っていて、これは宮内省木工寮に属する国営の瓦工場「小野瓦屋(おのがおく)」の跡だということです。
 瓦窯跡である「おかいらの森」は、「お瓦の森」の転じたものと考えられている。こんもりした小丘の一部から平窯一基が発掘されており、この丘は瓦生産の際に出た不良品、現在でいう産業廃棄物が堆積したもので形成されているそうです。

おかいらの森

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 西明寺山にある崇道神社は早良親王を祀っています。桓武天皇の弟ですが、長岡京建都の折に藤原種継暗殺事件に関わったとの疑いで捕らえられ、淡路島へ配流される途中、無実を主張して絶食のうえ憤死しました。
 その後、悪疫や天災が続いたのは早良親王の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために桓武天皇は尊号「崇道天皇」を追贈しました。

崇道神社

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 慶長18年(1613)、崇道神社の背後の山中で、崩れた古い墓の石室から丁丑年(天武5年[677])の銘がある黄銅製の墓誌が発見され、この墓誌から小野毛人(おののえみし)の墓であることが判明しました。
 この墓誌は、はじめ法幢寺に保管されていたのですが、大正3年(1914)重要文化財に指定されからは京都国立博物館に保管されている。
 『東北歴覧之記』には、「近世此ノ社ノ後ニ、土人之ヲ踏メバ音ヒゞキケル所アリ、各々怪シミ思ヒ、是ヲ掘レバ石ノ唐櫃アリ、内ニ一物モナク、金色ノ牌アリ、其記ヲミレハ、小野毛人ヲ葬シ石槨ニテ年月アリ」と記しています。

 いまでは自然石が置かれ、表は「小野毛人朝臣之塋」と彫られている。(「塋」は墓のこと)

小野毛人朝臣の墓

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 なお、小野毛人は遣隋使小野妹子の子です。小野氏は大和国和珥(現天理市)から近江国和邇に移り住み、その後に現在の上高野の地(愛宕郡小野郷)に移住して、小野氏の本拠地となっていた。小野篁・小野道風などはその子孫です。

2019年5月10日 (金)

高野川沿いの町をめぐる その5

松ヶ崎

 松ヶ崎は下鴨の北東、高野川の西側に位置します。深泥池の東南、宝ケ池の南になる。
 昭和6年(1931)に京都市左京区に編入されました。

 松ヶ崎は南に向かって開けた景勝地で、昔からよく和歌に詠まれていた地です。
 平安時代には、朝廷のための氷を製造して貯蔵した松ヶ崎氷室が、宝ケ池の東側にあったとされます。

松ヶ崎東町の仁丹町名表示板

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 平安時代の女流歌人、小馬命婦(こまのみょうぶ、命婦=女官のこと)の家集『小馬命婦集』に、「すさきに松いと(非常に)いたう(甚だしく)たてり、見に行けばちどりみなたちぬ」と前置きを付した一首、「ひとりねを みにこそきつれ 我ならで まつがさきにも 千鳥住みけり」があるそうです。
 この歌により、西から東にかけて起伏する丘陵が岬のように高野川へ突き出た洲崎の一帯に、松林があったことが判る。そして、これが松ヶ崎という地名の由来となったことを窺わせます。

松ヶ崎中町の仁丹町名表示板

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松ヶ崎大黒天

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 正式には松崎山妙円寺と号する日蓮宗立本寺に属するお寺で、江戸初期に建立された。大黒堂に安置されている大黒天は古来福運を授ける神と信じられ、京都七福神巡りの第一番札所とされる。
 ちなみに、七福神信仰は京都が発祥の地で、室町期に始まるそうです。日本最古の七福神めぐりは「都七福神めぐり」ですが、ゑびす神(恵美須神社)・大黒天(松ヶ崎大黒天)・毘沙門天(東寺)・弁財天(六波羅蜜寺)・福禄寿神(赤山禅院)・寿老神(革堂)・布袋尊(萬福寺)の七神を巡ってお参りします。

 松ヶ崎は比叡山の西山麓にあり、宗教的には天台宗の強い土地柄でしたが、永仁2年(1924)日蓮の法孫日像がこの地で布教活動してのち、松ヶ崎一村を挙げて日蓮宗に改宗しました。
 毎年8月16日の夜には、盂蘭盆の精霊送り火が背後の山で焚かれます。
 西山(133m)の「妙」と東山(186m)の「法」、あわせて「妙法」の送り火が点火されるのですが、これは法華信仰と精霊送り火が結びついたもので、江戸時代の初期には行なわれていた行事のようです。

送り火「妙法」の「法」の火床
 「法」の火床の数は75ある。「妙」の方は画数が多いので103床だそうです。
 送り火が近づくと下草を刈って整備されるのですが、今はまだ火床がポツポツと見えるだけです。
 それでも、かすかに「法」の字の形に火床を見ることができます。

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 盂蘭盆会の送り火はこの松ヶ崎の他にも、如意ヶ嶽の「大文字」、西賀茂の「舟」、衣笠大北山の「左大文字」、奥嵯峨の「鳥居」があり、合わせて五山の送り火と言われる。



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