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2023年6月 2日 (金)

高 瀬 川

 高瀬川沿いの木屋町通では、三条から四条辺りにかけての一帯が京都でも主だった繁華街の一つになっている。透き通ったきれいな水が浅瀬を流れていて、京都らしい雰囲気をたたえた観光スポットになっています。
 『京都坊目誌』には、「文化文政以来鴨川に沿ひて酒楼旗亭を設け、遊宴娯楽の場と為る」とありますが、現在もなお京都で有数の飲食店街です。
 高瀬川は、鴨川の二条大橋西畔から水を取り入れて南流、南区東九条で鴨川を東岸に渡って再び南下、伏見の市街地西部を流れて宇治川に合流しています。
 そして、その宇治川は京都府と大阪府の境界辺りで桂川・木津川と合流し、淀川となって大阪湾に流入しています。

 高瀬川は方広寺大仏再建の資材を運搬するため、角倉了以・素庵親子が開鑿したものではじめは伏見から五条まで通じたが、のちに私費で二条まで延長したのです。慶長16年(1611)に竣工したともいわれますが、諸説があって明らかではないようです。
 支配者が豊臣から徳川に替わって政治の中心が伏見城から二条城に移ると、大坂から伏見に運ばれて陸上げされた物資を京の中心まで運ぶ手段は、竹田街道・鳥羽街道の陸路以外にはありませんでした。そこで、物資を舟運輸送するために開削された運河が高瀬川なのです。
 最盛時には248隻の舟が就航したといわれています。この舟運は大正9年(1920)まで使われていました。

物資を輸送する高瀬舟
 5・6隻を繋いで一組とした舟の列を、15〜16人の曳き子が「ホーイ、ホーイ」と掛け声をかけながら、柳の下の岸づたいに綱で引いてのぼったという。(画像が小さくて見づらいですが、絵をクリックすると拡大できます)

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 角倉家は高瀬川の支配と物資輸送を独占して、大坂・伏見の物資は高瀬川を経て京の中心地に輸送されました。使われた舟は舷側が高く、浅い水深に合わせて船底が平らな喫水の浅い高瀬舟で、高瀬川の名前の由来とされる。

史跡 高瀬川一之舟入碑
 背後に見える復元された高瀬舟の左手奥に、「一之舟入」があるが今では金属の柵で川と隔てられている。
 舟入は高瀬川の右岸から西に向けて、奥行き約85m・幅約10mの堀割になっていたが、今ではその周辺にまで人家が立ったため狭まっている。

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 かつて、高瀬川の川筋には物資の積み下ろしや、舟の方向転換のために9ヶ所の舟入が設けられていたようです。しかし、今では史跡に指定された「一之舟入」を除いては、全て埋め立てられてしまい無くなっています。

 おしまいに高瀬川沿いの道、木屋町通について
 高瀬舟で輸送された物資の主なものは、住民の日常生活に必要な材木・薪炭をはじめ米・塩などで、高瀬川沿岸にはそれらを商う商家や倉庫が軒を並べ、商人や職人たちが同業者町を作っていました。その名残として、樵木町・材木町などとともに船頭町・車屋町など多くの町名として残っています。
 このように川沿いの道には材木屋や薪炭・薪屋が多かったことから樵木町(こりきちょう)と称されたが、いまでは通称にしたがって木屋町通となっている。
 この木屋町通は高瀬川沿いに町並みができていったもので、初めは極めて狭い道のきわに店舗・倉庫があったが、後の明治28年ここに電気鉄道を通すことになり、これらが撤廃されて拡幅のうえ道路としました。さらに、明治43年には軌道敷き拡幅のため高瀬川畔にあった柳などの風致木を伐採して、1mほどを埋め立て今のような規模の道になったようです。





2023年5月19日 (金)

白雲の練貫座 ー京都機業の盛衰ー

 西陣織は高級絹織物で有名ですが、西陣織工業組合のサイトには次のようにあります。
 『西陣織とは、「多品種少量生産が特徴の京都(西陣)で生産される先染(さきぞめ)の紋織物」の総称です。昭和51年2月26日付で国の伝統的工芸品に指定されました。 西陣の織屋は、平安朝以降連綿と積み重ねられてきた高い技術の錬磨に加えて、優れたデザイン創作のための創造力や表現力への努力を重ねています。』
 
 平安京が造営される前、5〜6世紀の頃の山城盆地には賀茂氏など土着の豪族と、渡来系の氏族である秦氏が住みついていて、秦氏は農耕・養蚕・絹織物の技術や土木技術をもっていました。
 飛鳥時代の大宝元年(701)に大宝律令が制定・施行されて、律令制のもと朝廷の役人や貴族のための綾,錦など高級織物は、「織部司」が独占的に生産していました。
 下って平安京に都が移ってのちも織部司が置かれ、織部町に織り手を集住させて、官営の工房で織物作りと衣服の生産・調製を行なっていました。
 有職故実書『拾芥抄』によると、織部町は大宮と猪隈(猪熊)の間に、土御門大路(現・上長者町通)を挟んで北側と南側の二町に位置していた。そして、北側の織部町の東隣にも猪隈(猪熊)と堀川の間にもう1つの織部町が描かれています。
 しかし、平安時代も中期になると律令制が崩壊して、織部司の官営織物工房はその維持が困難になります。
 鎌倉時代になると織り手たちは織部町の東隣の大舎人(猪熊の上長者・下長者間)に集住し、大舎人座を組織して織物作りは役所から独立した民営の機業へと変わっていきました。

 ところが、室町時代の応仁元年(1467)、守護大名の山名宗全と細川勝元がそれぞれ諸大名を引き入れ西軍と東軍に分かれて、京都を主な戦場とした応仁の乱が始まります。
 この時、山名氏の邸を中心として西軍が陣を張った一帯がのちに「西陣」の地名起源となったのです。
 織り手たちは戦乱を避けて京都近郊や堺などに疎開しますが、11年間にも及んだ戦乱が収まると京都に戻って機業を再開します。

かつての白雲村(元新在家町の仁丹町名表示板)
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 西軍本陣跡の大宮一帯(西陣)に集住して組織された大舎人座に対して、東軍本陣跡の白雲村(新町通今出川上ル)に集住して組織されたのが練貫座でした。この練貫座の織った羽二重が純白であったことから白雲の名称が生まれ、その白雲の地は新しくできた集落であるために「新在家」と称したのです。白雲村は現在の元新在家町(新町通今出川上ル)を中心に、おおよそ南北二町東西一町ほどの一帯にあたるようです。
 そして、この練貫座と大舎人座が京都における主要な機業組織として、技術や市場の主導権をめぐって対立しながら発展してゆきました。

 ところが、やがて古くからの伝統を持つ西陣の大舎人座が足利幕府から特権と保護を得る一方、練貫座の白雲村は人家が込み合い水質も絹織物生産に適さなくなって多くが西陣へと移動・吸収されていきました。そして、別の一団は天正16年(1588)に今の京都御苑の南西部に共同して移り住み、そこを新たに「新在家」と称したことで元々の新在家(新町通今出川上ル)の方は「元新在家」と称されるようになりました。
 しかし・・・、やがて練貫座は衰えて行き文献史料からも姿を消していくこととなったのです。
 なお、「宝永の大火」と呼ばれる宝永5年(1708)の大火災の後に、御所と公家町の拡張整備を理由として、御所の南西部および椹木町通から南側のすべての町屋の住民とともに、新在家の人々も住み慣れた地を追われて、二条河東・内野・公家町東側の鴨河原・鴨川の西河原へと移住させられました。

 ちなみに、御所南西部にあった新在家の位置は、概ね今の新在家御門(蛤御門)の南東一帯にあたり、西は烏丸通、北は今の中長者町通を東方に延長した線、東は間之町通を北方に延長した線、南は元・新在家南町通(護王神社の南側の通り)を東方に延長した線、これらの通りを四囲とする範囲だったようです。
 その場所を分かりやすく言うと、現在の烏丸通の東側で北は新在家御門(蛤御門)から南は護王神社の東向かい側の間、東西は皇宮警察本部とその東側の桃林・梅林から白雲神社の前あたりの一帯に相当するようです。




2023年5月 6日 (土)

思いのまま

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 前回は遅咲きで薄緑色の花を咲かせる桜、御衣黄の花をアップしました。
 今回は遅咲きの絞りの梅の花です。遅咲きとは言うものの、時期が外れ過ぎて可笑しいのですが・・・。
 写真の梅の花、撮った時期は普通の梅よりかなり遅くて3月24・31日でした。
 その名は「思いのまま(思いの儘)」、またの名を「輪違い(りんちがい)」と言われています。

 1本の木のしかも同じ枝に、紅・ピンク・白の八重の花が咲くのは「咲き分け」「源平咲き(源平仕立て)」と言い、紅白まだらの花が咲くのは「絞り」と言われるようです。
   
 梅の花の色は本来は白色なのだそうです。
 突然変異で花の色に変種が生じると、それを接ぎ木や挿し木によって増やしていくようです。接ぎ木や挿し木をした場合は、その枝に咲く花は元の木と同じ色になります。

 品種改良をするとき思うような花に咲かせられなくて、木が勝手に思いのままに色を咲き分けたのが「思いのまま」ですが、これも突然変異なのでしょう。



2023年4月21日 (金)

御衣黄(ぎょいこう)

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 この花、御衣黄という桜の一種です。

 ソメイヨシノがとうに散ってしまった4月の中旬から下旬の頃に咲く、とびきり遅咲きの桜です。
 咲き初めは上品な感じの黄緑色の花ですが、徐々に白っぽい黄色に変わって、そのあと花の中央が赤くなります。赤くなると枯れ初めなのだそうですです。
 アサヒビール大山崎山荘美術館でこの御衣黄の花を見たのですが、庭園の手入れをしていた造園の職人さんは「私たちはこの桜を青ザクラと呼んでいます」とのことでした。そういえば、信号機の色で緑色のことを青色ということもありますね。
 御衣黄には、浅葱ザクラ、緑ザクラ、黄桜(あの ♪キーザクラ〜 ドンッ♪ の日本酒ではありません)などの別称があるようです。
 ちなみに、緑色の花が咲く桜には「鬱金(うこん)桜」というのもあります。
 どちらの桜も初めて見たのは大阪の造幣局でした。





2023年4月 7日 (金)

宝永大火と京都の整備改造

 江戸時代の京都では、三大大火といわれた大火災が、ほぼ80年ごとに発生していました。
宝永の大火 宝永5年 (1708)3月 8日
天明の大火 天明8年 (1788)1月30日
元治の大火 元治元年(1864)7月19日
 このうち、「天明の大火」についてはかつて(2021.10.22『天明の大火(団栗焼け)』)で
記事にしたことがありました。今回は「宝永の大火」についてです。
 これら京都三大大火の他にも大小多くの火災が発生しています。これは、近世までの住環境は家屋が密集しているうえ、板葺きや茅葺など容易に燃える構造の家屋が多かったことにもよります。

 宝永5年3月8日、京都中心部の広範囲を焼失して、翌9日にようやく治まるという大火災が発生しました。
 『京都坊目誌』にはこの宝永の大火について、「午の刻今の正午十二時也油小路姉小路下る、西側二軒目、両替商伊勢屋市兵衛方より出火し、悪風忽ち吹て或は東北に、或は東南に焚け広がり、延て宮城を炎上し、公卿の第宅、武家の邸舎、神祠仏宇灰燼に帰し、火飛て下賀茂河合社を焚き延て村民の家八十七戸焼く。」とあります。
 消失した区域は、「京町数三百六十四町、一万三千五十一戸、神社七、寺院七十四、其他被害挙て数ふへからず。」
 被害区域は、「東は賀茂川、西は油小路西入、南は四條上る。北は油小路椹木町より東北に進む、寺町頭に至り九日未刻今の午後二時に止む。」という大規模な火災でした。

 現在の京都御苑は、東は寺町通・西は烏丸通・北は今出川通・南は丸太町通に囲まれていて、整然とした長方形の形になっています。
 宝永の大火の前、御所と公家屋敷の集中する公家町の範囲は狭いものでした。現在の京都御苑の南の部分、丸太町通から北の椹木町通までの間と、烏丸通から東の東洞院通までの間は町地だったのです。
 大火の後、復興にあたっては公家町の拡張のためにこれら町屋地域は立ち退きを命じられて、人々が住み慣れた町は破壊されてしまいます。

頂妙寺
「仁王門通」の名称由来は、山門の奥に見える仁王門に安置されている二天に因むというのだが・・・?

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 移転を命じられた町屋の多くは鴨川東部の、仁王門通を挟んだ二条通と三条通の間、頂妙寺周辺に移転させられました。その時、もと住んでいた土地に思いを馳せて、移転先の居住地で通り名や町名を名付けるにあたって、旧地の名称に「新」を付けて新車屋町通・新東洞院通・新間之町通・新丸太町通・新麩屋町通・新富小路通・新柳馬場通・新堺町通・新高倉通などと命名しています。
 また、西寺町通りは寺町通の荒神口から二条の間にあった多くの寺院が、移転してきたのです。

 二条河東へ移転を命じられた町屋とともに、高倉通椹木町の北にあった頂妙寺も仁王門通川端東入大菊町に移転させられています。
 ところで、世間では「仁王門通」という名称は頂妙寺の持国天・多聞天の二像を安置する仁王門にちなむとしていますが、これ実は誤りなのだそうです。頂妙寺の公式HPにもそのようには記されていません。
 『京都坊目誌』によると、元来、仁王門通という名称は頂妙寺がこの地に移転してくる前からあった通り名であり、むかし平安時代に現・岡崎法勝寺町(市立動物園のあたり)に造営された六勝寺の一つ、法勝寺(白河天皇の御願寺)の仁王門に由来していて、「法勝寺仁王門通」を意味するのだそうです。

 なお、公家町の拡張と新しい町屋建設のため、御所南部の町屋が移転を命じられて移住して行った先は鴨東の二条河東以外にも、内野(西陣や聚楽第跡)の一番町から七番町の一帯、御所・公家町東方の鴨河原の西三本木・東三本木などがありました。



2023年3月24日 (金)

白川(白河)⇒ 岡崎

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 琵琶湖疏水が流れる岡崎公園の一帯は約14万平方メートルの広さがあり、そこには多くの文化施設が集中していて京都の文化ゾーンとなっています。
 この「岡崎」という地名は、神楽岡(吉田山)や粟原岡(黒谷山)が、南の平地に向かって岬のように突き出した地形となっていることからきた名称です。
 鴨川の東側で三条通の北となる「岡崎」は白川の下流に位置しています。滋賀県との境界にあたる比叡山と如意ヶ嶽の間を水源とする白川は花崗岩地帯を流れて北白川に至り、浄土寺・鹿ヶ谷・南禅寺・岡崎を経て鴨川に合流します。
 「岡崎」の旧称である「白河(白川)」は白川流域にあることに由来しているが、この白河の地は平安京洛外の景勝地で、平安時代前期の頃から貴族が別業(別荘)を構えたり、遊山に出かけたりしました。
 中世になると、応仁の乱などで寂れ荒廃して岡崎村の耕地となっていたのですが、江戸時代になると風光を愛でる文人墨客が多く移り住んで居を構えました。

 白河に設けられた別業の中でも、古くから藤原家代々の別業であった「白河院」は有名でした。
 承保2年(1075)に左大臣藤原師実がこの白河院を白河天皇に献上して、天皇はここにかつてなかったような壮大な寺院の法勝寺を建立しました。金堂をはじめ多くの堂塔が建立されましたが、なかでも高さが約82メートルの途轍もなく壮大な八角九重塔が聳えるさまは、さぞ人々を驚かせたことでしょう。
 その後、代々の天皇が「勝」の字がつく五つの御願寺、尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺を建立して、法勝寺と合わせて「六勝寺」と称されました。
 琵琶湖疏水沿いの散策路は「六勝寺のこみち」と名付けられていて、桜や柳の緑陰をそぞろ歩きが楽しめます。
 六勝寺の寺院名は、岡崎法勝寺町・岡崎最勝寺町・岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町といった町名となって今に伝わっていますが、尊勝寺と延勝寺については残っていません。

 六勝寺が造営されたことで、大寺院の堂宇が聳えて並び立つ白河の地は一変しました。
 さらに白河天皇は皇位を堀河天皇に譲り、自身は上皇となって院政(政治)を開始し、院政を行う白河御所が造営されます。この白河上皇の白河御所(白河南殿)や白河北殿が、御願寺の法勝寺の西側の造営されます。そこで始まった院政が長かったゆえに院政時代とも言われる時代となりました。
 さて、ここからがこの記事の本題(のつもり)なのです。冒頭の仁丹町名表示板「岡崎南御所町」と共にご覧ください。
 法勝寺跡にあたる京都市立動物園の西側に位置している、岡崎南御所町とその北隣の岡崎北御所町という町名は、白河南殿と白河北殿の名残を留めているものと考えても、あながち見当はずれとは言えないと思うのですがどんなものでしょう。

 こうして、「京=ミヤコ」(平安京)の東の境界である鴨川を越えて、洛外であった「白河」の地が政治の中心地になると、「京」と「白河」の両方を含めた地名(固有名詞)として「京都」という言葉が使われるようになりました。
 ちなみに、その後も院御所は、後鳥羽上皇の時代に押小路殿と岡崎殿が造営されています。
 【注】押小路殿は、鴨川東の押小路末南で、左京区頭町・正往寺町・福本町の一帯にあった。岡崎殿は、法勝寺の北東にあったとされるので、冷泉通の北になるようです。




2023年3月10日 (金)

ウ メ

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 梅は中国中部の原産で、日本で野生化したとされている。
 梅にはビックリするほど多くの異称があって、好文木(こうぶんぼく)、花の兄(はなのあに)、春告草(はるつげぐさ)、匂草(においぐさ)、香散見草(かざみぐさ)風待草(かぜまちぐさ)、香栄草(かばえぐさ)、初名草(はつなぐさ)といった具合です。
 7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された『万葉集』には、ウメを詠んだものが118首もあって、サクラの約3倍もあるということです。ちなみに、一番多いのはハギなのだそうです。
 現在では花といえば桜ですが、このように奈良時代・平安時代の頃は梅だったようです。もっとも、ウメもサクラもバラ科の植物ですから遠い親戚になります。

 次の言葉は、室町時代中期の臨済宗の僧で、一休宗純禅師(一休さん)のものです。
 「花は桜木 人は武士 柱は檜 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの」
 いずれもトップと目されるものを挙げているいるのですが、一休さん、花は梅ではなく桜が一番としています。花では散り際の見事な桜が最も優れていて、人なら死に際の潔い武士でしょう、と言っています。
 脱線ついでに、一休さんの言葉をもう一つ。
 「世の中は 起きて箱して 寝て食って 後は死ぬるを 待つばかりなり」
 蓋し名言ですね (*^-^)
 *「箱(はこ)」は、ふたの付いた入れ物、また、いまのオマル(室内用に持ち運べる便器)のことで転じて糞を意味します。






2023年2月24日 (金)

京都の顔 ー鴨川の移り変わりー

 京都と言えば思い浮かぶのは何でしょう。情景では、祇園や先斗町などの花街や寺社の堂宇でしょうか。また、食べ物では京料理・京野菜・京菓子・京漬物など、他に幾つも数え上げることはできるようです。
 そして、鴨川とその両岸の自然景観、これもその一つに挙げることができるでしょう。

鴨川(荒神橋付近)

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 この鴨川、桟敷ヶ岳付近を源流として南流、下鴨神社の南で高野川が合流しますが、通常はここまでを「賀茂川」と表記し、そこから下流を「鴨川」と表記します。その鴨川は市街地を南下し、下鳥羽に至って桂川に合流。そして桂川は京都府と大阪府の境界付近で、宇治川・木津川と共に一つになって淀川となり大阪湾に流れ込んでいます。

 さて、京都市街の中心を流れる鴨川は、京都の顔あるいはシンボルに見立てられることがありますが、それはいつ頃からのことで、また何故なのでしょう。
 鴨川とその両岸の景観は、時代とともにどう変化してきたのかを考えてみたいと思います。

 平安京は、その東側の境界を鴨川としていました。
 大昔の鴨川は治水対策を講じていないため、大雨のために洪水が発生したときには、上流から押し流された大量の岩石や砂礫が堆積して、河川敷は広かったと思われます。
 そして、流路は細かい網の目のようで、水の流れは一定していなかったでしょう。
 古来、頻繁に発生する鴨川の洪水による危険から逃れられなかったので、平安時代に院政を始めた白河上皇は「賀茂河の水、双六の賽、山法師」だけは自分の思う通りにはならないと言ったそうですが、治水というのは権力者にとって世を治めるうえで重要な政治課題でした。

 ところで、平安京は右京の南部が湿地であったことから「人家がだんだんと疎らになって幽墟に近い。人は去ることがあっても来ることがない。家屋は崩壊することがあっても建造されることがない。」といったありさまだったことを、慶滋保胤が天元5年(982)に著した『池亭記』に記しているそうです。
 そんな土地だったため、貞観13年(871)の太政官符では、この右京の西南隅付近を葬送並びに放牧地に指定することを定めたそうです。
 このように右京が衰退した反面、左京は発展・繁栄していくことになります。人々の居住域が平安京の北限であった一條通から北方ヘと拡大し、政治の中心も鴨川を東側に越えて白川(岡崎)へと移っていきました。
 平安期の鴨川の河原は死体の捨て場所や葬送の地に使われ、のちの時代には戦場や処刑場となっています。そして、さらに時代が下ると見世物の興行や遊興の場所として使用されました。

 応仁・文明の乱をはじめ長い戦乱で京都の町は荒廃していましたが、そんな京都の再生の一貫として、豊臣秀吉は京の町の外周に御土居を築造しました。その目的は、軍事目的や鴨川の洪水対策、美観などがいわれています。
 御土居の東外側は鴨川の河原でその左岸(東岸)から東は、田畠や寺院が散在するところでした。
 この御土居の築造によって、京都は「洛中」と「洛外」の地域区分が明確になりました。しかし、江戸時代になると洛中と洛外の間の往来が頻繁となって、御土居は交通の障害になり京七口と共に壊されるようになります。それとともに、御土居のすぐ東外側の鴨河原には新しい町並みが形成されていき、これが後の河原町通となりました。

 江戸幕府は寛文9年(1669)に京都所司代の板倉重矩を責任者として、頻発する鴨川の洪水から京の町を守るため、上賀茂から五条までの両岸に新しく堤を築造しました。(寛文の新堤といわれる)

西石垣(通)の町並
 この町並みの右手(東側)が鴨川の流れです
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 特に、三条と五条の間の川端には堅固な石垣の堤を設けました。いま、四条から下流の西岸が西石垣(さいせき)と言われるのはその名残りです。そして、その西岸の新河原町(先斗町通)・木屋町通や、北方にある土手町通・中町通・東三本木通・西三本木通などは、新堤の築造以後に新しくできた町並みです。
 東岸でも、東石垣(とうせき)が現在の宮川町筋となり、四条と三条の間には縄手通の町並みができ、川端通も寛文の新堤が通りになったということです。

 一方、祇園社(のちの八坂神社)門前には古くから祇園町の町並みが発達していたのですが、鴨川の新堤築造の後には両岸に新たな町並みが発展します。鴨川東側の芝居小屋(南座・北座)の周辺には祇園町外六町と呼ばれる祇園新地が誕生し、ついで内六町が誕生しました。
 こうして開かれた両岸の町並みには、遊郭・茶屋・料理屋などができ遊興の地として発達し、鴨河原は人々の納涼場所となったのです。

 このように寛文の新堤が築かれて鴨川の治水が成ると、両岸の市街地化が急速に進みました。そして、鴨川を中心とした景観が大きく変わるなかで、鴨川は京都の顔あるいはシンボルと言われるようになっていったのです。








2023年2月10日 (金)

大変珍しい灯籠

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 前回、記事にしたと釈迦三尊石仏と同じく、善道寺にあります。
 善道寺型灯籠は中国風山門内の右手にあって、江戸時代の作とされる。
 火袋の周囲には、茶碗、炭斗(すみとり)、火鉢、火著、茶釜、柄杓、五徳が刻まれている珍しい灯籠で、善導寺型灯籠と称されています。茶人が珍重し、摸して愛玩する者が多かったという灯籠です。
「善導寺型燈籠」と称される灯籠の本科(原品)であり写しではありません。宝珠・笠・中台などは全体的に膨らみと厚みがある。
 ところが、残念なことには現在ではその浮き彫りの彫刻は甚だしく風化してしまっているため、はっきりとは見ることが出来ません。



2023年1月27日 (金)

善導寺の三尊石仏

 善道寺は木屋町通の北端にあたる東生洲町、二条通に南面してあります。
 宇治の黄檗山大本山萬福寺や、伏見の石峰寺(伊藤若冲ゆかりのお寺)・鞍馬口の閑臥庵、長崎の崇福寺など黄檗宗寺院の楼門は竜宮造(竜宮門)になっています。
 ところが、この善道寺は浄土宗知恩院派の寺院なのですが、その山門は珍しく中国風です。

善導寺の山門

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 本堂に向かって左手の前庭一隅に「三尊石仏」はあります。高さは1m足らずの自然石(砂岩)で、扁平にした前面に三尊を半肉彫にした立体感のある石仏です。
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 三尊のうち中央の大きい一尊は釈迦如来立像で、インドから中国に伝え、中国から日本に伝わってきた、いわゆる三国伝来の釈迦像として信仰されてきた嵯峨清凉寺本尊の釈迦如来立像(国宝)を模している。
 釈迦如来像は右手を上げ、左手を下げた与願印(施願印・施与印とも)で、衣文(えもん)は流れるように美しい襞の流水文衣文(りゅうすいぶんえもん)となっている。

 右の脇侍、普通は普賢菩薩像ですがこの石仏は弥勒菩薩像と思われ、中央の釈迦如来立像と同じような姿勢をとっている。このように脇侍として弥勒仏を配するのは珍しい例だという。
 左の脇侍は五髻(ごきつ)文殊菩薩像で、頭は五つの円いマゲを結び、右手に宝剣、左手には梵篋(経典の入った小箱)を持っている。

 石仏の右端部分には、鎌倉時代中期にあたる「弘安元年」(1278年)の刻銘があり、半肉彫に彫られた石仏は厚肉彫とはまた違った趣があって、全体に稚気のある可憐な像で、絵画的な華麗さを出すのに成功していると評される。




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