2018年2月
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2018年2月16日 (金)

空・光・水・風 その18

雲 いろいろ

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2018年2月 9日 (金)

夕顔ノ塚

 堺町通の高辻から松原の間に、「夕顔町」という町があります。
 この町にある古跡「夕顔之墳」と夕顔伝説が町名の由来となっていますが、これは『源氏物語』第四帖「夕顔」に起因しています。


「夕顔之墳」碑(夕顔ノ塚碑)
 この写真、碑文は少し見辛いのですが、次のように彫られています。

    源語伝説 
         夕 顔 之 墳
    五 條 辺

 この「五條」というのは現在の「松原通」にあたります。

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 「夕顔」は『源氏物語』の登場人物です。もとは頭中将(とうのちゅうじょう)の愛人で、「常夏(ナデシコの古名)の女」と呼ばれていた。
 光源氏が乳母(随臣藤原惟光の母でもあった)の「五条なる家」へ見舞いに訪れたとき、その隣家の荒れ果てた家に頭中将の愛人という境遇から身を引いた夕顔が住んでいた。
 その隣家の垣根に咲くユウガオの花に惹かれた光源氏は、侍臣の惟光に花を貰いに行かせた。
 そうすると、隣家の女あるじ(夕顔)は花に添えて歌を贈った。ユウガオの花が光源氏と夕顔を引き合わせるような筋書きとなっています。

 『京都坊目誌』に「夕顔家ノ址 夕顔墳と稱し。石塔高三尺許り。寳筐印塔式の苔に蒸されて。古雅なるものあり。今言ふ松原は。古昔の五條なり。源氏物語夕顔ノ巻二。光君五條渉りを過ぎ給へるに。荒たる家に夕顔の花あり。随臣惟光をして彼の花を求めしむるに夕顔の宿の主の女。之を折りて奉り。併せて和歌を詠す。
  心あてにそれかと見るしらつゆの
      ひかりをそへたる夕顔のはな
 後人右の由縁により。墳を築きしなり。或は云ふ。夕顔と稱する女ありて此地に住す。紫式部彼の物語の趣向に附會して。夕顔ノ巻を作意せしものなりとも云へり。」

 この謂れは、『京羽二重』『山州名跡志』『山城名跡巡行志』などにも記されている。


夕顔ノ塚 (『都名所圖会』より)
   
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 図中の文を次のように読みました。しかし、くずし字についての知識が全く無いため、正しく読み解いていないかも知れません。

  夕顔塚は五条にあり 
  今の堺町松原の北にあり
  源氏物語に出る夕
  かほの寓この所に住
  みたるよしいひ侍べり

 新古今
  白露のなさけおきけることの葉や
     ほのぼの見えし夕顔の花   
          前太政大臣(藤原頼実)

2018年2月 2日 (金)

暖簾いろいろ その21

萬龜楼
 上京区猪熊通出水上ル
 有職料理
 烏帽子、袴、狩衣姿で俎板の上の魚や鳥に手を触れないで、包丁刀でめでたい形に切り分ける生間流式包丁でで有名

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富田屋(西陣くらしの美術館)
 上京区大宮通一条上ル
 元呉服商
 町家建築で国の登録有形文化財、京都市の重要景観建造物に

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木村卯兵衛商店
 上京区大宮通元誓願寺下ル
 西陣織

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木乃婦
 下京区新町通仏光寺下ル
 京料理

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2018年1月26日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の4

Ⅳ. 「長坂口」から「長坂越え」を行く

 「長坂口」(「北丹波口」「蓮台寺口」とも)は、千本通北端の鷹峯にありました。「長坂越え(北丹波路)」は、鷹峯から京見峠を経て杉坂に至る道で、丹波・若狭へ通じており古道「丹波道」にあたる。

《長坂口跡付近》 

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 現在、料亭「然林房」の東側を北上する道(府道31号)は新しい道であり、然林房の西側の千束から一ノ坂・長坂を経て堂ノ庭に出る旧道が、本来の「長坂越え」だったのです。
 鷹峯は古代末から軍事上の要衝であり、また物資の集散地でもありました。
 しかし、近代になって京都西北の双ヶ丘の西側を起点に、宇多野・高雄を経て周山に至る「周山街道」が開通します。そのために、杉坂口で長坂越えと合流してはいるのですが、かつての要衝地としての鷹峯は寂れ衰えてしまいます。 
 なお、近世までの山国庄(現・京北町のR477沿道一帯)は禁裏御料所(皇室の所有地)であったため、長坂越えはその経路にあたることから「山国路」とも称されたようです。
 ちなみに、明治28年に始まった京都の時代祭は10月22日に行なわれますが、この日は桓武天皇が平安京に奠都した日に当たると云うことです。この祭の時代行列では山国鼓笛隊が先頭を勤めています。これは明治維新の戊辰戦争の折に山国隊を組織して戦った功により参加しているとのことです。

《長坂越え》 千束付近

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《手作りの道標》

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「長坂口」から長坂越えで若狭へ向かう経路には、杉坂の先で幾つかのルートに分かれていました。
 ちなみに、『山城名跡巡行志』には、「杉坂ノ村口ニ石標有リ 右ハ山國周山道 左ハ若狭道ト」とある。

1. 雲ヶ畑を経由するルート
 このルートは『稚狭考』の「八原へ出ずして澁谷より弓削・山國に出て行道」に該当します。
 《経路》 長坂口、杉坂、持越峠、雲ヶ畑、岩屋、桟敷ヶ岳東麓、祖父谷峠、(京北)井戸、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里、田歌、五波峠、(名田庄)染ヶ谷・堂本を経て小浜へと至る。

2. 深見峠から北ヘ美山を経て名田庄まで縦断するルート
 このルートは『稚狭考』の「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道」に該当します。
 《経路》 長坂口、杉坂、周山、深見峠から北上、河内谷(ホサビ山の東麓)、美山の「中」へ、知見口から北上、知見・八原を経て、八ヶ峰知見坂(山城・若狭の国境)、(名田庄)槙谷・堂本を経て、小浜に至る。
 このルートは、前記「1.雲ヶ畑を経由するルート」に比べて距離が相当短くなるため、古くから利用されていたようです。

3. 清滝川沿いに行くルート
 《経路》 長坂口、杉坂、供御飯峠、(笠峠手前)小野、清滝川沿いに大森へ、西、茶呑峠、天童山、飯森山、(京北)井戸へ。
 そして井戸から先は、上記「1.雲ヶ畑を経由するコース」と同じ。

4. いわゆる西の鯖街道ルート
 《経路》 長坂口、千束、長坂、京見峠、杉坂、中川、小野、笠峠、細野、周山、弓削、深見峠、美山、堀越峠(山城・若狭の国境)、口坂本、名田庄、小浜へ至る。

   ー以上で本シリーズは終りですー

2018年1月19日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の3

Ⅲ. 「鞍馬口」から「鞍馬街道」を行く

 「鞍馬口」は、賀茂川に架かる出雲路橋の西詰め辺りにあったようで、「出雲路口」とも呼ばれた。 「鞍馬街道(丹波路)」は鞍馬寺・貴船神社への参詣道で、丹波・若狭へとつながる道でした。

《出雲寺鞍馬口石碑》
 鞍馬口から賀茂川の左岸(東側)へ渡り、深泥池を経て鞍馬街道は延びる。

Photo

 

 『京羽二重』は鞍馬街道の道筋を、「寺町通の北の頭町野へ出る みぞろ池 はたえだ村 市わら くらまみち也」と記しています。
 引用文中の「みぞろ池」というのは「深泥池」のことで、時代により「御菩薩池」「泥濘池」「美度呂池」「美曾呂池」などといろいろに表記されたようです。 なお、その昔には深泥池の西側付近に「若狭口」というのがあったようです。

 それでは、「鞍馬口」を起点とする「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 その《経路》はいずれも、鞍馬口、深泥池、幡枝、市原、野中、二ノ瀬、貴船口(落合)までは同じですが、その先で分岐しています。
 鞍馬川と貴船川が合流する落合(貴船口)で鞍馬街道から別れて、貴船川に沿った貴船道を行くと、貴船・丹波へと至る丹波路となります。

《鞍馬街道》
 右手の川は鞍馬川です 

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1. 鞍馬を経由するルート 
①久多の東部から針畑越えを行くコース

 このルートは『稚狭考』の「遠敷より根来・久田・鞍馬へ出る」に該当します。 『山城名跡巡行志』には、このコースを「久多越え」「小川越え」と記している。
 貴船口から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、百井、大見、尾越、八丁平、オグロ坂峠、久多川合から針畑川を上流へ、朽木小川、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。
 これは、若狭小浜と京都を結ぶ数あるルートの中では、距離的に最も短いルートとなっています。
②広河原から美山を経るコース

 落合から先の《経路》は、鞍馬、百井別れ、花背、大布施、広河原、佐々里峠(山城・桑田郡界)、佐々里、芦生、田歌から北上して五波峠(丹波と若狭の国境)を越え、染ヶ谷、堂本、名田庄、小浜へ至る。

2. 貴船経由で丹波路を行くルート
 落合(貴船川と鞍馬川の合流点)から先の《経路》は、貴船、芹生、灰屋、(京北)上黒田へ。
 そして、上黒田から先は、次の2ルートがある。
①上黒田から西行して井戸を経由するコース
 井戸から北上する。
 井戸から先の《経路》は、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里へ。
 佐々里からは、上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。
②上黒田から東行して大布施を経由するコース

 大布施から先の《経路》は、これも上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

3. 久多の西部から美山を経由するルート
 《経路》 久多、能見峠(久多峠)、広河原下之へ。
 広河原から先は、やはり上記1.の「②広河原から美山を経るコース」に同じ。

4. 上賀茂から雲ヶ畑を経由するルート
 《経路》 上賀茂、柊野、車坂、雲ヶ畑へ。
 雲ヶ畑から先は、次のような《経路》となる。
 雲ヶ畑、岩屋、桟敷ヶ岳東麓、祖父谷峠、(京北)井戸、小塩、ソトバ峠、八丁、品谷峠、佐々里、田歌、五波峠、(名田庄)染ヶ谷・堂本を経て小浜へと至る。
(これは、次回の記事中「Ⅳ.長坂口から長坂越えを行く」の「1.雲ヶ畑を経由するルート」に同じ)

2018年1月12日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の2

Ⅱ. 「大原口」から「若狭街道」を行く

 「大原口」(「今出川口」「龍牙口」「出町口」とも)は、寺町通今出川の北「出町」、いま賀茂川(鴨川)に架かる出町橋の西詰め辺りにあったようです。
 賀茂川と高野川が合流する出町から高野川左岸を北上して、八瀬・大原を経て若狭・北国につながっているのが「若狭街道(朽木越え)」です。
 この道は、大原への経路であることから「大原路」とも称された。

《大原口道標》

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 ちなみに、この「大原口」は、若狭だけではなく諸方面との出入り口となっていました。そのことを、『山城名跡巡行志』は次のように記しています。

「此口 正東ノ大道ハ白河村ヲ歴テ江州山中村ニ至 又河中ヨリ北ヘ折上リ下賀茂ニ至 亦賀茂河ヲ渡リ堤ヲ南へ行路三條通ノ橋へ出ヅ  亦北ヘ川端ヲ行路新田山端ヲ經テ高野ニ至ル若州街道也  亦河ヨリ一町餘ニ北へ上ル路アリ田中村ヲ經テ一乗寺村ニ至ル是比叡山雲母路也  亦百萬遍ノ東ニ吉田路アリ岡崎ニ至  白河村ニテ左右ニ小路アリ南ハ淨土寺又近衞坂ニ至リ北ハ一乗寺ニ至ル  叉出町ノ北端ヲ河原へ出ル假橋アリ下賀茂路也 亦同所堤ヲ上ヘ行大道上鴨道也」

 それでは、「大原口」が起点となっている「若狭街道」のいろいろを見てみましょう。
 それらの《経路》はどれも、「大原口」から高野川東岸沿いに北上、新田(現・高野)、山端、上高野、八瀬、大原小出石、途中峠(山城と近江の国境)、その先の途中越え(龍華越え・橡生越えとも)に至るまでは同じですが、その先で分岐しています。

《大原路と道標》

 道標の左手を行く道は旧道で、寂光院の傍を経て古知谷で新道と合流し、途中越えへと続く。
 右手の新道を行けば、三千院前を経て途中へと続く。

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1. 琵琶湖から九里半越えを行くルート
 このルートは『稚狭考』に言う「湖畔の道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、伊香立龍華を経て琵琶湖の和邇へ下り、湖岸の「西近江路」を北上して今津へ、今津から九里半越え(九里半街道)で、保坂、水坂峠(近江と若狭の国境)、熊川宿、上中を経て小浜に至る。
 「龍華越え」は古い歴史を持つ道で、はるか昔には京での戦に敗れた人々が都から近江・北国へと落ち延びる退路ともなっていたようです。
 京から志賀越え(山中越え・今道越えとも)で琵琶湖に出て、坂本(のちには大津)から琵琶湖西岸を若狭や敦賀など北国とをつなぐ街道が「西近江路」でした。 なお、今津と京都間は陸路の「西近江路」だけではなく、琵琶湖水運で坂本を経由する方途もあった。

2. 朽木越えのルート
 このルートは『稚狭考』の「朽木道」に該当します。
 途中越えから先の《経路》は、花折峠、安曇川沿いに朽木谷を北上、保坂から九里半越え(九里半街道)で水坂峠(近江・若狭の国境)を経て、熊川宿、上中、小浜に至る。
 このルートは、主に若狭の海産物を京都へ運んだ街道で、前記の「1.  琵琶湖から九里半越えを行くルート」の距離を短縮したコース。鯖輸送のために最もよく利用されたことから、狭義の「鯖街道」と言えるでしょう。
 ところが、往時は大見尾根を経る山道が若狭街道の本道だったようです。この道については、次回の記事の「1.鞍馬を経由するルート」の「①  久多の東部から針畑越えを行くコース」をご覧ください。

3. 上記「朽木越えのルート」の間道 
①葛川梅ノ木から針畑越えに入るコース
 途中越えから先の《経路》は、葛川梅ノ木、安曇川に流入している針畑川を上流へ、久多川合から針畑川沿いに朽木小川へ、桑原、小入谷、おにゅう峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来を経て、小浜遠敷に至る。
②朽木市場から木地山峠を越えるコース
 途中越えから先の《経路》は、朽木市場から麻生川沿いに上流へ、麻生、木地山を経て木地山峠(近江と若狭の国境)、上根来、下根来、小浜遠敷へと至る。

2018年1月 5日 (金)

京七口と鯖街道 ー若狭路のいろいろー 4の1

I. 京と若狭をつなぐ道

 かつて、若狭の小浜は敦賀とともに、日本海の水運では重要港の一つであり、米や海産物などを京都へ輸送する拠点として繁栄したところでした。
 小浜では、「京は遠ても十八里」と言われ、物流、ことに魚介類の京都への流通ルートとなっていたのがいわゆる「鯖街道」でした。一方でこの「鯖街道」は、古の京都から若狭への文化伝播ルートでもあったのです。

 ところで、京都の北部山間部を抜けて若狭小浜とを結ぶルートとして、主要な街道がいくつかあります。さらに、それらの街道から分岐する脇道・間道も多数あります。一説にその数は17とも言われたようで、それらの道を総称して「若狭路」あるいは「鯖街道」と呼ばれました。

《鯖街道口道標》

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 板屋一助が、明和4年(1767)に著した『稚狭考(わかさこう)』で、鯖街道の数々について次のように記しています。

 「丹羽八原通に周山を經て鷹峰に出る道あり。其次八原へ出ずして澁谷より弓削・山國へ出て行道あり。叉遠敷より根來・久田・鞍馬へ出るもあり。此三路の中にも色々とわかるゝ道あり。朽木道、湖畔の道、すべて五つの道あり」

【註1】:板屋一助(1716ー1782、本名・津田元紀)は江戸時代中期の民間研究者で、小浜の材木商「板屋」の主人だったが、家業は弟に任せて上掲書をはじめ随筆や歌集などを著した。
【註2】:上記引用文中の地名は、丹羽八原通=現在の府道369号に相当し美山町知見・ハ原に至る(南丹市)、澁谷=染ヶ谷(福井県おおい郡名田庄)、弓削・山國=京北(右京区)、久田=久多(左京区)のことです。

 京と小浜を往来する若狭路は、その主要なルートのいずれもが、次のように「京七口」と言われる出入り口が起点となっています。
 1. 「大原口」を起点とする「若狭街道(朽木越え)」
 2. 「鞍馬口」を起点とする「鞍馬街道(丹波路)」
 3. 「長坂口」を起点とする「長坂越え(北丹波路)」
 そして、それら街道には抜け道・枝道も多くあったことは先に書いたとおりです。 
【註】:京七口は、かつての京と地方をつなぐ街道の出入口でした。この「七口」というのは、出入口が7ヶ所あったということではなく、出入口の総称したものでした。
 また、時代によりその数や場所・名称もかなり変化しており、一定していません。
 例えば、江戸時代前期の比較的近い時期に刊行された地誌書でも、記されている「京七口」には次のように異同が見られます。
 貞享元年(1684)刊『菟芸泥赴』では、大津口・宇治口・八幡口・山崎口・丹波口・北丹波口・龍牙口。
 元禄2年(1689)刊『京羽二重織留』は、東三條口・伏見口・鳥羽口・七條丹波口・長坂口・鞍馬口・大原口。
 ちなみに、江戸時代中期の宝暦4年(1754)刊『山城名跡巡行志』では以下のように記す。五條口、三條口、今出川口  一名大原口、出雲寺口  一名鞍馬口、蓮臺寺口  一名長坂口、七條口  一名丹波口、東寺口。

 それでは次回から3回にわたり、「鯖街道」についてその主要ルートだけではなく、多くの間道・脇道のなかでも主立ったものを幾つか取り上げ、『稚狭考』の記述とも照らし合わせながら見て行きます。

2018年1月 1日 (月)

あけましておめでとうございます

 皆様には良い正月をお迎えになりましたでしょうか。

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 それにしても、世間はこのところずっときな臭く、また危なっかしい様相が続いています。
 「酒は憂いの玉箒」と言い、また「酒は天の美禄」とも言うようです。
 新年を祝い良い年であることを願って、ただいま美禄をいただいているところです。

  朝もよし晝もなほよし晩もよし
    その合々にちょいちょいとよし  蜀山人

  なにもかもウソとなりたる世の中に
    マコトは酒のうまさなりけり   山頭火


 このブログは古稀になってから始めたのですが、早くも6年余りとなりました。
 始めたきっかけは、惚け防止のためでした。 動機が不純か?!
 しかしよくぞ続いたものと我ながら感心します。
 地味〜なブログですが、訪問いただく方々がそれなりに増えてきました、ありがたいことです。
 そんなことで、できればいま少しは続けたいものと思っています。(やめるのはいつでもできますから)
 今後ともお付き合いいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

2017年12月29日 (金)

看板いろいろ その18

麹種もやし(菱六もやし) その1
  東山区松原通大和大路東入二町目  
  種麹
  「もやし」というのは種麹のことで、酒造をはじめ醸造業には欠かせないもの。
  種麹を扱っているのは京都ではここだけで、全国でも六軒だけだそうです。

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麹種もやし(菱六もやし) その2

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宝蔵館 
  下京区正面通烏丸東入
  仏教書出版
  慶長7年(1602)創業とのこと

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芳 巌
  下京区東洞院通仏光寺上ル
  組紐

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2017年12月22日 (金)

「伏見城」は幾つあったの? (2の2)

2. 指月の丘(指月の森)とはどこ?

 慶長大地震で「指月城」が倒壊した後、指月の丘から木幡山(伏見山)に移り「木幡山城」として再建します。その場所は、いまの明治天皇陵のある一帯でした。

 それでは、秀吉が指月隠居屋敷・指月城を築いた「指月の丘(指月の森とも)」と言うのは、どのようなな所だったのでしょうか。

 前回の記事で記したように、指月城が築かれた指月の丘というのは、現在の桃山町泰長老の一帯にあたります。
 ところが、そこは明治末から終戦までは陸軍の京都師団工兵隊が駐屯し、以後は観月橋団地・桃山東合同宿舎などが建てられました。そのため現在では、地表に現れた遺構の残存は見ることができません。
 しかし、4度にわたる発掘調査の結果、とりわけ平成27年(2015)の調査では、石垣や北堀跡と見られる遺構、金箔瓦などの遺物が見つかっています。
 このことから、一帯の現在は団地や民家が密集していてるため、広範囲にわたる発掘調査は困難ながらも、やはりこの辺りが指月城跡であった可能性が強まったとされています。
 そうした発掘調査の結果や地形などから推定される指月城の範囲は、東は船入通から西の豊後橋通(国道24号)までの約500m、南は宇治川北岸の崖から北の立売通までの約250mと見られます。

指月の丘と指月城があったと見られるところの現在。

《指月の丘の東側・・・舟入通から見た傾斜面》
  宇治川から指月城の東側へに引き込まれた舟入(水路)の跡が現在の舟入通です。南北が約300m・東西は約90mです。

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《指月の丘の西北部・・・豊後橋通(R24)と立売通が交差する地点の南東角》
  集合住宅のある辺りから石垣が発掘された。石垣の方向から城の北西角にあたると思われるそうです。

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《指月の丘の南側・・・宇治川北岸の崖》
  現・外環状線道路沿いにある西岸寺の裏、この崖上が指月の丘(指月の森とも)にあたる。月橋院はここの少し東方にある。

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《指月の丘の北側・・・大光明寺陵参道下の立売通》
  参道から立売通に落ち込む斜面が指月の丘の北端になる。この大光明寺陵の辺りに本丸があったのか。

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 それでは、『山州名跡志』から「指月」の記述を見てみます。
「指月 地名 橋ノ北東ニ至ル二町餘ノ内ヲ云フ 此ノ地景色アリ。東南西ニ渺々タル流アリ。巽二巨椋ノ入江。東ニ伏見ノ澤アリ。爾バ便チ月ヲ愛スルニ無雙ノ景色也。故ニ此ノ名ヲナス地ニ月橋院在リ。此院ノ後ノ丘ノ上。北ノ方二町許ニ東西ニ通ル街アリ。是ヲ立賣ト號ス 秀吉公在城ノ時開ク所也。指月ハ此街ヨリ南  東西三町許ノ惣名也」としています。
【註1】:上記引用文冒頭の「橋」は「豊後橋(現・観月橋の辺り)」を指す。文祿3年指月城と対岸の支城向島城との間の宇治川に長さ140間(約250m)の豊後橋を架けた。小倉まで巨椋堤を築造して、大和街道に通じている。
【註2】:引用文中の「月橋院」は曹洞宗寺院で、現在も宇治川北岸の京都外環状線の北側道路沿いにあり、その背後(北)の崖上が所謂「指月の丘」です。
【註3】:同じく「立賣」は指月の丘の北側にあたります。現在のJR桃山駅南側の町名が「桃山町立売」、西の豊後橋通(国道24号)と東の船入通との間を東西に通っている道が「立売通」です。

 つまり、「指月の丘」とは眼下の宇治川に架かる豊後橋の北詰にあたり、東西2町余りの丘陵を云う。
 東には伏見の沢、宇治川の南には巨椋池を見晴るかす地で、古く平安時代以来、月を愛でるのに無類の場所として知られていたようです。
 水面に映る月影が四ヶ所に見えることからこの丘陵地は、旧名を「四月(しげつ)の丘」と言ったが、後に「指月(しげつ)の丘」と書くようになったそうで、地名はこうしたことを由来としていると云う。

 ちなみに、指月城の次に築かれた木幡山城があった木幡山(伏見山)については、『山城名跡巡行志』に次のように記述しています。
「木幡山 同所ノ西ニ在  古城山半ハ木幡山也  木幡山伏見山元ト一山也  東ヲ木幡山ト謂  西ヲ伏見山ト謂」 
 *「同所」とは、古城山の東方にある八科峠を指している。また、「古城山」と云う地名は現在の地図にも載っており明治天皇伏見桃山陵のある一帯です。
 木幡山城(伏見山城)が廃城となった後、木幡山と伏見山とを合わせて古城山(故城山)と称されることになったようです。

 ところで、指月の丘と木幡山(伏見山)、これら伏見の地に政権があったのは約30年間です。そのうち徳川家康が木幡山城を再建してから廃城までの期間は20年です。
 そしてこの間、初代の家康から秀忠・家光に至る三代にわたり、伏見城において征夷大将軍の宣下を受けています。
 また、家康が在城したのは江戸城よりも伏見城の方が長かったとも見られるようです。このため、264年間続いた江戸幕府(江戸時代)ですが、その最初期の徳川政権の主要拠点は京都伏見だったとも云えるようです。
 その意味で、徳川家康が開いた幕府(徳川幕府)の揺籃期は、「江戸幕府」ではなくて「伏見幕府」と云ってもよいのではと見る向きもあるようです。

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