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2017年2月17日 (金)

辻子 ー陣屋辻子(妹辻子とも)ー

 姉小路通堀川東入 一筋目を北行して御池通に抜ける小路。
 鍛冶町・森之木町の南部分を通貫しています。

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 『京町鑑』は、「森之木町 此町南側下ル一町を 陣屋辻子叉一名妹辻子とも云」として、別称があったことも記しています。 
 なお同書に、「御池通 一名八幡町通」として、御池通の名称由来を記しています。
 それによれば、神泉苑前の通りであること、また、御池通両替町の人家裏にあった御池の旧跡にちなむとも云う。
 そして御池通の別称である八幡町通は、御池通高倉東入(南側)に御所八幡宮があることによるが、八幡町通と呼ぶのは烏丸通までを云うとしています。

 『京都坊目誌』では、「森之木町」に、「本町の南 字 妹之辻子 (貞享地圖にげんやの辻子とあり)に當る」としている。この「げんやの辻子」は、『京町鑑』に記している「陣屋辻子」であろうと思われます。
 そして、「鍛冶町」については、「始め毘沙門堂町 叉多聞町とも云へり 寶曆以来今の名を専稱す。姉小路北側中央より御池通に至る小路あり 之を妹ノ辻子と字す」と記しています。
 なお、多聞町・毘沙門堂前町の町名は、この辻子の東北に維新前まであった多聞寺の本尊が毘沙門天だったことによるとしています。

2017年2月10日 (金)

駄菓子屋(一文菓子屋)

 昔は、子供達が路地から路地へと駆け回る猥雑な町並みの中に、駄菓子と玩具類を狭い店頭に並べて、子供相手の商売をしている駄菓子屋(一文菓子屋とも言う)があちこちにありました。
 昭和30年代の東京下町を舞台とした映画、「ALWAYS 三町目の夕日 ‘64」にも駄菓子屋のシーンがあり、吉岡秀隆が駄菓子屋茶川商店の店主茶川竜之介を演じていました。


 駄菓子「船はしや」の店頭・店内風景

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 今では駄菓子屋を見かけることも殆ど無くなってしまい、この「船はしや」(寺町通綾小路下ル西側)以外には知りません。
 五色豆の「船はしや総本店」(寺町二条)から昭和13年(1938)から分家して開業したとのこと。


 船はしや総本店の看板

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 ところで、話は変わります。
 かつて、子供達が喜びそうな小さなオモチャを「おまけ」としてつけたキャラメルがありました。(グリコ、カバヤなど)
 おまけつきグリコは今でも販売されています。
 グリコと云えば、あのキャッチコピー「一粒300メートル」は、誰もが知っている名コピーです。
 また、キャラメルの外箱にはこのコピーとともに、「美味栄養菓子」あるいは「文化的栄養菓子」と入っていたのですが、現在では「ひとつぶ300メートル」「おいしくてつよくなる」になっています。
 ちなみに、森永キャラメルは「滋養豊富」「風味絶佳」です。


 今のグリコキャラメル

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 コピー「一粒300メートル」は、川柳結社「番傘」の主宰者であるとともに、コピーライターでもあった岸本水府(昭和40年没)という人の昭和11年(1936)の作でした。
 広告人としては、福助足袋・グリコ(現江崎グリコ)・壽屋(現サントリー)などで広告の仕事をしたようで、グリコでは広告部長を務めたそうです。

 最後に、岸本水府の川柳で私の好きなものを挙げておきましょう。
   酔っぱらい真理を一ついってのけ
   四十年かかって酒は毒と知る
   旅で見る酒という字の憎からず

2017年2月 3日 (金)

看板いろいろ その12

喫茶フランソア
 下京区西木屋町通四条下ル
 昭和9年(1934)創業
 かつては画家・映画人・演劇人・学者など著名な文化人が通ったという

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ホンダTN360
 本田技研
 昭和42〜45年(1967〜70)に発売された軽トラック
 その後の3度にわたるマイナーチェンジを経て昭和52年(1977)に生産終了

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一楽家
 下京区東洞院通高辻上ル
 居酒屋

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喜多古美術店
 東山区新門前通東大路西入
 陶磁器の器が中心の古美術商
 この看板は牡丹の透かし彫りに唐獅子という立派なものです

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2017年1月27日 (金)

辻 子(ずし)−その発生をめぐってー 2の2

3. 平安京域の変化

 大内裏の正門にあたる朱雀門から南に延びるのが、平安京の中心線となる大路で幅28丈(約85m)の朱雀大路です。その南端に建てられたのが平安京の玄関である羅城門でした。

 大極殿遣址碑

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 そして、この朱雀大路を挟んで、左(東)京と右(西)京に分けられていました。
 ところが、前回に見たように京都盆地の地形・地質の関係で、右京域の南部は沼や沢が散在する低湿地であったため、人々が住むのには適さない土地で余り開発が進まなかったようです。
 このため、延暦13年(794)の奠都から、一世紀も経ないうちに右京域はすっかり衰退して、都は大きく様変わりします。
 そうした事情から平安京の左京域、とくにその北部へと人口が集中していきます。
 もともとの都の北限は一条大路でしたが、ここから北に向かって大路・小路は延伸され、開かれることで人家が増えていきます。
 そしてまた、鴨川を東に越えて古くからの官道である三条通沿いも開かれていきます。


4. 辻子の発生とその後

 ところが、新たに北ヘ延長されたそれらの道は、それぞれが繋がっていないために、交通や生活の便からこれらの道どうしを東西に繋いで、新たに経路を開く必要が出てきます。
 この通りと通りを結んで、新たに作られたのが「辻子」でした。
 私が地誌や古地図などに出てくる辻子を調べたところでは、まだ見落としがあるかと思いますがその数は143ヶ所でした。それらのうち圧倒的に多くが現在の上京区、とりわけ烏丸通・大宮通・寺之内通・一条通を四囲とする範囲に集中しているのです。
 これは、先に述べたような辻子の発生した理由、また集中した事情の裏付けになるものと考えます。

 衣屋辻子

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 こうしてできた辻子の始めは、隣接する道へ到達するための経路といったようなものでしたから、それは野道に近いような細道・小径といった、謂わばマイナーな道だったでしょう。
 そして、その辻子沿いや近辺に所在する寺院、公家屋敷などにちなんだ名称が付けられたようです。
 こうして生まれた「辻子」に沿って、徐々に人家が建ち並んでいくに及んで、次第に「町場の道」へと様相が変わっていったのです。
 町場の道と辻子は、そのような関係にあったと言うのが私の考えなのです。

 ちなみに、地誌の記述も「町場の道」と「辻子」については、宝暦12年(1762)刊の『京町鑑』は「當時縱横小路通稱 并 辻子」、そして、貞享2年(1685)刊の『京羽二重』では「南北洛中」「東西洛中」「洛中辻子」という項目立てにしています。
 これは外でもなく、元々、「町場の通り」と「辻子」とは、全く別個のものとして認識され、扱われてきたことを表しているものと考えられます。

 *** 附 記 ***
① 「辻子(図子)」をいくつかの辞書等で引いてみました。
 広辞苑(岩波)・・・「よこちょう、路地」
 大辞林(三省堂)・・・「大路と大路を結ぶ小路、または辻」
 世界大百科事典(平凡社)・・・「細道、小路、横町」
 古語辞典(岩波)・・・「小路、横町、路地」
 いずれも、辻子の発生にまで意を払っていないため、在り来たりの説明です。
② この記事は、辻子とは何か、また、辻子ができた初期の様子を判り易く単純化して記述してみたものです。当然のことながら全ての辻子が東西方向のみに通じているわけではありません。当然、東西の道どうしをつないで南北方向に通じる辻子もできました。
③ 私が今までに諸資料の中に見出した辻子の数は143ですが、成立時期も様々であり既に消滅しているものも少なくはありません。

2017年1月20日 (金)

辻 子(ずし)−その発生をめぐってー 2の1

 今回の内容: 1. はじめに  2. 辻子発生の遠因
 次回の内容: 3. 平安京域の変化  4. 辻子の発生とその後

1. はじめに

 『酒瓮斎の京都カメラ散歩』は私が古稀の年に開設したので、5年半余りを経たことになり、今までにアップした記事は約320本にのぼります。よくもまァ続いたものと我ながら感心します。
 その中で、記事の数が最も多いのは、辻子シリーズで120本程になります。

瑞龍寺辻子

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 多くの辻子は依然として昔ながらの小さな道で、大きな通りとはまた違った佇まいを見せており、そこに住む人々の生活が感じられるような道が多いのです。
 現在では大通りとなってしまった辻子も少なからずあります。しかし、昔ながらの雰囲気が残る「まち」の佇まいこそ、私が辻子に惹かれた理由でした。

 この「ずし」ですが、辻子・図子・途子などいろんな表記があります。そして、辞書を引いて見ると、「よこちょう、路地」「大路と大路を結ぶ小路、または辻」などと説明されています。
 しかし、こうした説明では「大路」に対する「小路」といった意味合いとなり、単に大通りから入り込んだ小さな道、または細い道に過ぎないかのような印象を受けます。
 ところが、辻子の多く存在する地域とそうなった事情、つまり辻子の発生と理由を考えるとき、私としては辞書にある説明では、行き届いた説明となっていないために肯定しかねるのです。
 そこで、あくまでも「素人考え」ですが、「辻子の概念」といったようなものについて、私が折々に思いを巡らせていたところを、改めて記しておくことにしました。


2. 辻子発生の遠因

 さて、京都盆地の地形を大雑把にいえば、北から南にかけて傾斜しており低くなっていきます。
標高で見ると市内北部の北山通が約75m、九条通にある東寺(教王護国寺)の五重塔の辺りが約24mだそうですから、その高低差は約50mです。

東寺五重塔

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 東寺の五重塔は、木造建築では日本で一番高くその高さは54m余りありますから、塔の先端と北山通はほぼ同じ高さとなります。
 そして、低くなっている南部でも、東方より西方がより低くなっています。つまり、南西部が最も低いという地形になっています。

 このような京都盆地の地形から、地表の地質は北部が鴨川(賀茂川)など諸河川の作用による扇状地で水はけの良い砂礫層、西南部は桂川や巨椋池の氾濫原で粘土やシルト(砂と粘土の中間の砕屑)などの低湿地堆積物で覆われているのが特徴です。

(次回に続く)

2017年1月13日 (金)

辻子 ー花山辻子ー

 姥ヶ東西町・姥ヶ榎木町・西五辻東町を南北に通っている小路です。
 上立売通浄福寺の二筋西の通り、姥ヶ東西町中程から南行して五辻通までの間を云います。

 この南北の通りの名称について、『京都坊目誌』では「姥ヶ北町通」としており「北は寺之内に起り、南は五辻に至る」、さらに、「街名起源 元姥ヶ懐と称する字なり、開坊の時(慶長の頃)取て稱とす」と記しています。

 また、「姥ヶ榎木町」の説明の中で、「叉此町を花山ノ辻子に云ふ 近世圖に見ゆ」としています。


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 なお上掲書には、この辺り一帯から千本通にかけて、町として開ける前には原野あるいは畑地であったこと、この一帯を「姥ヶ懐(うばがふところ)」という字名だったとも記しています。
 そして、町となるにあたって町名にその字名を冠したのだとしています。 
 その字名「姥ヶ懐」については、特に説明はありません。「姥のふところ」?「老婆のふところ」?、はてさて何のことでしよう。
 ということで、この周辺の町名の多くが「姥ヶ◯◯◯町」といった名称となっているのです。
 かつて、毎年5月の今宮神社祭礼の時には、各町で掲出する神灯には◯の中に姥、懐の字を紋章として付けていたのは、こうした昔の名残りだと云っています。


「姥ケ西町」の仁丹町名表示板
 これは現存数の極めて少ない木製の一つです

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2017年1月 6日 (金)

暖簾いろいろ その13

カサ六瓢
  上京区大宮通元誓願寺下ル
  デイケアセンター
  無病息災の「むびょう」を六つの瓢簞の「六瓢」で表現しているとか

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たわらや
  上京区御前通今出川下ル
  うどん屋
  超極太のうどんが一本だけ入っている!!!

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ゆば長
  上京区室町今出川上ル
  京湯葉

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魚 新
  上京区中道通浄福寺西入
  有職料理安政2年(1855)創業

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2017年1月 1日 (日)

明けましておめでとうございます

 皆様には良いお正月をお迎えになりましたでしょうか。
 私は朝からおおっぴらに呑めるお正月が大好きです。けれども、薬臭いお屠蘇は省略して御酒をいただいています。

 屠蘇の酒曲水花見月見菊
   年わすれまでのみつゞけばや  蜀山人

 
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 このところ、世相・政治ともにタガが外れてしまったかのようで、何処へ向かうのか判らない危うさを感じます。
 今年は何とか穏やかな、そして良い年になってほしいものです。

 皆様にはいつもこのブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。
 実はこのブログ、古稀に達したのを切っ掛けとして、惚け防止のために始めたものでした。(少しばかり動機が不純かも知れませんhappy01
 けれども、気付けばいつの間にやら5年余りを経て、記事の数も320本を越えました。(よくもま〜続いたものと、我ながら感心しますsign01confident
 地味なブログではありますが、まだ当分の間は閉鎖せずに続けたいと思っています。
 今後も時折覗いていただけると嬉しいです。

2016年12月30日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の2

2. 三本木町は何処へ?

 前回に見た東洞院通丸太町上ルに存在していた上三本木各町の移転について、『京都坊目誌』には次のように記しています。

 「寶永五年の大火に内裏炎上す。尋(つい)で築地の取擴けあり。東洞院より烏丸まで。北は下長者町より南は丸太町迄の町地を買収し。皇宮地に編入せらる。此時一町目より三町目の転地を命せらる。仍(かさね)て其替地たる丸太町の北。鴨川の西に移住す。今尚三本木の稱あり」と。


 東三本木通

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 西三本木通

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 そして、東洞院通についての記述では、「當時上長者町まで通ぜしが。寳永五年皇宮地に入るを以て。丸太町まで閉塞す。其間にありし町家を。河東二條に移転せしむ。今尚ほ新東洞院と云ふ。」
 さらに、「新東洞院町 新東洞院通二條下るより二王門までを云ふ。寶永五年の開発にして元東洞院丸太町以北、三本木一・二・三町目の町民を此に移す」と、鴨川の東側の二条通と仁王門通間の新東洞院通に移転させられたことを記しています。


 新東洞院通

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 このように、上三本木一町目から三町目の住民は、鴨川の西と東の2カ所に分かれて移転させられたのでした。


3. 移転して新たに開かれた町々

 ところが、移転させられたのは東洞院通から烏丸通沿いの住民だけではありませんでした。丸太町通から北側については、西は烏丸通から東は寺町通までの間の全ての民家が移転させられたのです。
 このように大規模な移転でしたから、移住先となった主な代替地だけでも次の4カ所に及びました。
 そして、人々が移住した先の町名や通り名には、旧地を偲んで次のような名称がつけられました。

① 鴨川西岸と河原町通の間で、丸太町の北側の一帯
 ここには先に書いた東洞院通丸太町以北の民家が移転しました。そして、旧地の通り名を採って、「東三本木通」「西三本木通」と名付けました。
② 鴨川東部(いわゆる河東)で、二条通と孫橋通の間
 ここには西は烏丸通、東は寺町通の間の丸太町通以北の民家が引き移りました。この鴨川東部の移転地では、通り名の全てが「新車屋町通」「新東洞院通」「新間之町通」などというように、旧地の通り名に「新」を付して「新◯◯◯通」という呼称にしました。
③ 寺町通と河原町通の間で、北は荒神口通から南は二条通に至る間
 ここへは丸太町以北の烏丸通東側にあった民家が移ります。そして、通り名は「新烏丸通」と命名されました。なお、天正期の秀吉による京都改造以来この一帯に輻輳して存在した多くの寺院は、賀茂川東部の仁王門通付近に移転させられています。
④ やはり寺町通と河原町通の間で、北は丸太町通から南は二条通までの間
 椹木町通烏丸から東の民家をここに移して、「新椹木町通」と称しました。


 それらの町の仁丹町名表示板

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   (追補 '17.1.11)
 『山州名跡志』中に、「三本木」の名称由来などの記述を見つけました。
 原文は仮名交じり文で読むのが煩わしいため、主要な点のみを現代文の体裁で要旨を記しておきます。

① 東洞院通の出水から南を上三本木町、下立売通の南を下三本木町と云った。
② 古老が云うには、平安時代にはこの辺りに監獄があり、その門外に三本の木(樗とも榎とも云われる)が植えられていた。これが地名「三本木」の名称由来となった。
③ 古くは、斬首された罪人の首は獄舎の木に懸けられた。このことから獄門と云った。

2016年12月23日 (金)

御所の拡張で消えた町生まれた町 2の1

1. 消滅した「上三本木町」

 現在の「三本木町」は、東洞院通の丸太町通と竹屋町通の間に位置する両側町です。

 三本木町の町並み

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 ところが、その南隣の町名は「三本木五町目」(竹屋町通と夷川通の間)となっていています。

 三本木五町目の町並み

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 「三本木五町目」が存在しているにもかかわらず、その北にあるはずの三本木一町目から四町目、そして南側の六町目以降が存在していません。
 これはどうしたことなのでしょうか? どのような事情があってのことなのか、大いに興味をひかれます。

 その辺りの事情を『京都坊目誌』の記述から見ていきます。
 同書の「三本木五町目」について説明した個所に、その答がありました。
 「東洞院通出水下る所を上三本木町と云ひ、一町目と呼ぶ。下立賣下るを二町目と呼び。椹木町下るを三町目と唱へ。丸太町下るを四町目と云ひ。當町に至り五町目となる。」としているのです。

 今では京都御所苑地となっていますが、かつての東洞院通には出水通と丸太町通の間に一町目から三町目までが存在したのです。
 そして、現在では丸太町下ルの町名は「三本木町」となっていますが、元々ここは「四町目」と称していたことが判ります。
 また、その南側(竹屋町通と夷川通の間)の現「三本木五町目」は、慶安の頃には「井筒屋町」「西井筒屋町」と称していましたが、明治2年2月に両町が合併して「五町目」という旧町名に戻したのだとしています。

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 そして、「三本木五町目」の南隣、つまり、夷川通から二条通までの現町名は「壷屋町」となっています。しかし、ここも始めは「三本木六町目」と称していたのですが、慶安期から現町名に改めたと記しています。(右の仁丹町名表示板、劣化が激しく見辛いのですが「壷屋町」のものです)

 以上に見てきたように、かつての東洞院通には北は出水通から南の二条通までの間に、「三本木一町目」から「三本木六町目」までの6町が連なって存在していたのです。
 ところが、丸太町通から北にあった一町目から三町目までの地は、宝永5年(1708)の大火のあと、京都御所が拡張されることになり、苑地に取り込まれてしまい消滅したのです。
 そして、その一帯に居住していた住民は立ち退きを余儀なくされ、代替地に移住させられました。


【註】「宝永五年の大火」とは
 宝永5年(1708)3月8日の午の刻(現在の正午12時頃)に油小路通姉小路下ル、西側二軒目の両替商伊勢屋市兵衛方から出火。強風のために東北方向また東南方向へと燃え広がり、多くの公家・武家屋敷や社寺が灰燼に帰し、御所までもが炎上した。その被害区域は東は鴨川、西は油小路通の西、南は四条、北は下鴨の河合神社辺りにまで及んだという。
 民家13,051戸、神社7、寺院74が焼失し、出火の翌9日未の刻(現在の午後2時)になって漸く鎮火したと云う大火事でした。

      《次回に続く》

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