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2011年6月

2011年6月23日 (木)

松井天狗堂

手摺製造の松井天狗堂

 百人一首・花かるた(花札)・ウンスンカルタなどを、国内で唯一手摺製造していました。ところが、残念ながら昨年、この店は廃業してしまいました。
 当世は、ゲーム機の普及などで売れ行きがすっかり落ち込んでいたところ、店主の高齢も重なって1897(明治30年)の創業以来110余年の歴史を閉じてしまいました。
 しかし、伝統の職人技が消えるのを惜しんだ同業者が教えを乞い、先々には手摺製品全ての復活を目指しているそうです。
 花かるたは、16世紀の天正時代(安土桃山時代)にポルトガルから伝わった、いわゆる南蛮カルタが原型という。

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 なお、手摺ではないが今でも京都で花札を製造しているのは、大手の任天堂を除けば、大石天狗堂(京都市伏見区両替町)・田村将軍堂(京都市伏見区毛利町)といったところのようです。


任 天 堂

 松井天狗堂にほど近いところにある、任天堂の一施設の写真です。
 事業内容は「家庭用レジャー機器の製造・販売」としているが、その他の商品として、トランプ、花札・株札、百人一首、将棋、囲碁の製造販売もおこなっています。
 1902(明治35年)日本で初めてトランプを製造販売したそうです。
 なお、任天堂は1889(明治22年)「任天堂骨牌」として創業。下の写真、建物入り口向って左手に架かっているのは創業当初の看板とのこと。

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以下の写真は、いつもの記事と同じく、近辺にあった仁丹町名表示板です。

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2011年6月21日 (火)

京都の仁丹町名表示板 ーひとつの推測ー

 このブログ記事の中で、しばしば仁丹町名表示板の写真を使っています。
 しかし、森下仁丹がこの町名表示板の設置を始めたのはいつ頃で、終えたのはいつ頃なのか?
 別にどうでもよい事なのですけれども、以前から気になっていました。そこで、この点について勝手な推測をしてみました。

 町名表示板の設置について、森下仁丹でも詳細が判明しているわけではないようです。
 森下仁丹のHPによれば、太平洋戦争末期に本社・第1工場が爆撃を受けて全焼したとのことです。そのため文書や記録が焼失し、仁丹町名表示板設置事業の終始が不分明なのでしょう。

 同HPの「森下仁丹歴史博物館」には、設置の経緯を次のように記しています。
 町名の表示が無く、来訪者や郵便配達人が家を探すのに苦労していたため、明治43年(1910)から大礼服マークの入った町名表示板の設置を始めた。大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートし、やがて日本全国にまで広げていったとしています。

 現在では、主要企業の多くが社会貢献活動を行なっており、それによる宣伝効果をも狙いとしています。もっとも、最近では景気の悪化で縮小・撤退する企業が出てきていますが…
 当時の森下仁丹も、当然そういうことからの企図でしょう。

 さて、京都における町名表示板の設置はいつ頃なのか?
 私の推測の結論を先に云ってしまいます。それは、大正10年前後から昭和7年前後にかけての約10年のことではなかったかと見ています。
 但し、これは琺瑯製のものに限定したもので、初期の木製のものについては考えていません。
 それでは、はじめます。

 

大正7年・・・愛宕・葛野・紀伊3郡の大部分が、上京区と下京区(旧市内)に編入されて、京都市の面積は二倍に、そして人口は64万人へと急激に増えた。
仁丹町名表示板の設置は、まず旧上京区と旧下京区から、次いで順次整備が進んで町並みも整っていった編入地域へと広げていった。本格化したのは、凡そ大正10年頃からだろうと考えます。

昭和4年・・・明治22年以来続いた上京・下京の2区から分区して成立した、中京・左京・東山の3区を加えて5区となる。
そして、既にこの頃までには旧上京区域・旧下京区域の町名表示板については設置を終えていた。

 それは次のようなことから判る。
 新設の中京区では「中京區」表示のものは皆無であり、「上京區」か「下京區」表示のものだけであること。
 さらに、基本的には、左京区に設置のものは全てが「上京區」表示、東山区に設置のものは全てが「下京區」表示となっている。
 しかし、少数ながらも新行政区表示のものが存在する。これは、その地域の京都市編入がもう少し後となったため、幸いにも新行政区名の町名表示板での設置が可能となったからである。

昭和6年・・・右京区と伏見区が新設されて7区となる。
伏見区は、これに先立つ昭和4年5月1日、紀伊郡伏見町が市制施行して「伏見市」となった。
これは、京都市への合併を前提とした市制施行で、昭和6年4月1日に周辺の紀伊郡1町6村と宇治郡醍醐村が合併のうえ、京都市に編入を果たしている。
なお、伏見区に現存する町名表示板は「伏見市」表示となっている。したがって、製作・設置された時期は、昭和4年から6年までの二年の間に特定することができる。

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また、下記地域には、編入等による行政区域の変更が反映した町名表示板が存在することから、京都市に表示板が設置された最後の時期は、昭和6年を少し下る頃であることが判る。
昭和6年4月1日、左京区に編入された旧愛宕郡修学院村・松ヶ崎村・高野村における表示板。
昭和6年4月1日、京都市に編入して右京区となった地域のうち、旧葛野郡太秦村で見られる表示板。
昭和6年4月1日、下京区で「柳原」を冠した2町が「一橋」と変更し、「東山區   一橋宮ノ内町」の表示板が存在する。

 ということで、京都市で設置が本格化したのは主に大正10年頃から昭和3年頃までの約7年間、そしてその後、さらに昭和6〜7年頃まで継続したうえ設置事業を終えた。…と推測しました。

 さて、仁丹町名表示板のあれこれに通暁した方々から見て、この推測は如何なものでしょうか。
見当外れ?、はたまた、「遼東の豕」? (^-^;


2011年6月18日 (土)

辻子 ー膏薬辻子とその周辺ー

膏薬辻子(こうやくのずし)

 新町通と西洞院通の間を、四条通から綾小路通に抜けるクランク状に折れ曲がった細い辻である。幅は約2メートル長さは約160メートル。京都市指定有形文化財に指定された「杉本家住宅」の西側になる。
 ここは、平安時代中期の武将、平将門の首を晒したところという伝承があり、神田明神の祠もある。東京都文京区の神田明神(千代田区の神田神社ではない)と同じく平将門を祀る。
 のちに、空也上人がこの地に将門の霊を弔うため御堂を建てた。人々はこれを「空也供養の道場」と呼び、「空也供養」が転訛して「膏薬」になったという。
 註:『都名所圖会』には、「膏薬道場といふは、むかし四條の南、新町と西洞院の間にあり、今膏薬の辻子といふ。」とあります。(’18.9.4記)

【追記】『京町鑑』には、「㋟膏藥辻子 此辻子中ほど少し西へ曲る所迄を ㋟北膏藥辻子  此南を ㋟南膏藥辻子」とも記述しています。('15.10.29記)

《膏薬辻子とその中にある工房》

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《神田明神の祠 平将門の霊を祀る》

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《杉本家住宅 京都市指定有形文化財》

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《膏薬辻子にあった仁丹町名表示板》

* 二枚目の「矢田町」には誤記がある(西院→西洞院)
* 四枚目の木製「新釜座町」は、琺瑯製より以前のもの

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2011年6月15日 (水)

看板 ー化粧品 その1ー

レート白粉

 これは、明治11年から昭和29年頃まで、東京の岳陽堂(のちにレートと変更)から発売されていた「レート化粧料」の一つ。
 明治から大正にかけて、大阪・中山太陽堂の「クラブ化粧品」と人気を競い、「東のレート、西のクラブ」と称されたとのこと。

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 先の「レート白粉」看板の近くに、次の仁丹町名表示板がありました。

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 後の方の「レート白粉」看板の近くに、以前の記事『痛々しい仁丹町名表示板たち』で挙げていた、町名表示板「南門前町」があります。

 ところで、作曲家で歌手でもある平尾昌晃氏は、このレート化粧料製造発売元の創業者二代目平尾賛平氏の孫に当たるそうです。
 その平尾昌晃の名前の入ったミュージックスクールの看板を、これも以前の記事『辻子 ー白梅辻子とその周辺』で挙げた「大猪熊町」内で見かけました。

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2011年6月12日 (日)

看板 ー飲料 その2ー

トリスウ井スキー  ウ井スキーの、「井」が何とも云えずイイ感じ!

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 「トリスウイスキー」は1946(昭和21年)の発売だとのこと。これは安価であったため、戦後の洋酒ブームを巻き起こす起爆剤となり、庶民を対象とするロングセラー商品となった。
 1960年代にトリスバーというのがあったが、この店は安く飲めるため若者をはじめ庶民に親しまれた。欲求を最大限に叶えるために、限られた財をどう有効に遣うか!! 無闇に飲み代に回せるほどのゆとりもなかった若年の当時、トリスウイスキーやトリハイとはおおいに親しくなったものだ。
 一方その頃、サントリーバーというのもあった。ここはオールド(通称ダルマ)・角壜など、やや高価なウイスキーを飲むオトナ達の行く店だった。当時の小生にとってはオトナに連れられて行きご馳走になる店であり、自腹で行った記憶は余り無い(ような気がする)

 ところで、トリスウイスキーといえば、1950年代後半頃のテレビCMで、イラストレーター柳原良平氏によるアンクルトリス(イメージキャラクター)が懐かしい。トリスを飲む程にどんどんと身体は大きくなり、顔も赤くなって行くという面白いCMだった。(電通賞など色んな賞を受けたようだ)
 その頃の壽屋(現・サントリー)宣伝部には、柳原良平のほか、小説家の開高健や山口瞳などといった錚々たる面々が活躍し、CMやポスターのキャッチコピーを次々と放っていた。『トリスを飲んでハワイへ行こう!』というのがあり、懸賞金としてハワイ旅行の費用が当たるものだった。
 最近、何でもハイボールで飲むのが大流行りのようで、サントリーも角ハイ・白ハイと共に、トリハイのCMを出しており、アンクルトリスも再デビューしている。


 次は、トリスウ井スキーの看板がある酒屋の二階にあった仁丹町名表示板です。

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2011年6月10日 (金)

衣笠球場とプロ野球

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 これは関西電力の電柱に付けられているプレートで、維持・管理のための識別標なのでしょう。

 この「衣笠球場」は、現在の立命館大学衣笠キャンパス(京都市北区等持院北町)の地に、立命館大学硬式野球部の専用球場として設けられました。
 かつて、1950(昭和25年)にプロ野球球団の大陽ロビンスからチーム名を変更した松竹ロビンスが本拠地として使用していた球場でもあります。
 しかし、翌年、交通至便の大阪球場にナイター設備が完成し、本拠地をそこへ移してから衣笠球場が使用されることは徐々に減っていきました。
 その後、松竹ロビンスは経営悪化のため、1953(昭和28年)に大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズの前身)と対等合併して大洋松竹ロビンスとなります。(まもなく洋松ロビンスと名称変更)
 しかし、松竹は大映(球団・大映スターズを経営)に対抗する目的だけで球団経営に参加していたため熱意に乏しく、1954(昭和29年)限りで球団経営から撤退してしまい、球団名は再び大洋ホエールズに戻ってしまいます。僅か五年間のことでした。

 この衣笠球場からほど近い平野神社のそばに、つぎの仁丹町名表示板がありました。

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2011年6月 4日 (土)

辻子 ー白梅辻子とその周辺ー

白梅辻子(しらうめのずし)

 河原町今出川の南三筋目を西に入る辻で寺町通までの間、栄町・新夷町・扇町の3町と南側の北之辺町との境界になっている通りをいう。(辻子の概念の説明は省略し、ここでは取り敢えず通りと通りを繋ぐ道としておく)
 この地には江戸時代元禄期から明治初期まで遊郭があった。(白梅辻子とその中程を北行する中筋通の新夷町が範囲)
 「白梅辻子」の由来は、白梅という美しい遊女が居たからとも、また、下級遊郭のため客が虱(しらみ)を貰ってくるので、「虱の辻子」と呼んだのが訛ったともいわれる。

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詩人・中原中也が下宿した家

 白梅辻子の北方、中筋通と石薬師通=今出川通りの一筋目南の通り=  の交差点南西角の家。
 中原中也(1907〜1937)は山口県湯田温泉の生まれ。長じて山口中学(現・県立山口高等学校)に入学するが、三年生の時に落第、京都の立命館中学第三学年に編入したとき一時この家に下宿。(二年後には早稲田入学を志し、同棲していた劇団表現座の女優と共に上京する)
 スペイン窓(と中也本人が称していた)が今も残っている。ただし、当時の写真を見ると窓のある壁面はモルタルではなく板壁だった。
 なお、一階左側面の角に近い壁に仁丹の町名表示板が付いている。

 

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近くに大久保利通邸址と仁丹町名表示板がもう一枚

 先の「大宮町」と、この「大猪熊町(明治に入って大黒町と猪熊町が合併)」ともに、京都所司代屋敷拡張のため二条城の北辺を立ち退かされて、移り住んだ人々の元の居住地名に由来する。

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御土居跡と大原口跡

 白梅辻子の南、寺町沿いにある廬山寺(紫式部邸址)には、秀吉が京都改造事業の一つとして京都の外周に設けた御土居跡が史跡として保存されている。
 また、寺町今出川の北東角に近い歩道には京都の出入り口として御土居に設けられた京都七口の一つであった大原口跡がある。

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2011年6月 1日 (水)

痛々しい仁丹町名表示板たち

 土地不案内の人々のお役に立ってきた仁丹町名表示板も、設置されてから約80年を経ています。
 そして彼らの現在の境遇は、今でもそれはそれは大事にされている幸せモノ、逆に錆だらになったうえ電柱に縛り付けられて薄倖の身となったモノ、そして隠遁生活入りしたかのように余り人目につかないようにしているモノ、はては、いつしか行方知れずとなってしまったモノ・・・など、様々です。
 さて以下は、身を引き裂かれながらも、いまだお役に立ち続けている健気なモノ達です。

欠損部分は「・・・東入 南門前町」と考えられます。
 今では、下にあるフジイダイマル版と合わせて一人前といったところです。
 東山線というのは、昭和53年9月末をもって廃止された京都市電「東山線」(高野〜東福寺間)の通っていた道です。現在の東大路通のことですが、「聖護院山王町」のものなどには東大路と表記されているので、東山線通というのは通称名だったのでしょう。

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欠損部分は、「相之町」と仁丹マークです。

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欠損部分は、「扇酒屋町」と仁丹マークです。

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「継孝院町」の「町」の部分と仁丹マークが切損しています。

 最近、近くを通った時に寄ってみたところ、設置されていた家は解体撤去して建築中でした。
 新築完成しても町名表示板は姿を消したままになってしまうのかも・・・。

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