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2011年6月 4日 (土)

辻子 ー白梅辻子とその周辺ー

白梅辻子(しらうめのずし)

 河原町今出川の南三筋目を西に入る辻で寺町通までの間、栄町・新夷町・扇町の3町と南側の北之辺町との境界になっている通りをいう。(辻子の概念の説明は省略し、ここでは取り敢えず通りと通りを繋ぐ道としておく)
 この地には江戸時代元禄期から明治初期まで遊郭があった。(白梅辻子とその中程を北行する中筋通の新夷町が範囲)
 「白梅辻子」の由来は、白梅という美しい遊女が居たからとも、また、下級遊郭のため客が虱(しらみ)を貰ってくるので、「虱の辻子」と呼んだのが訛ったともいわれる。

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詩人・中原中也が下宿した家

 白梅辻子の北方、中筋通と石薬師通=今出川通りの一筋目南の通り=  の交差点南西角の家。
 中原中也(1907〜1937)は山口県湯田温泉の生まれ。長じて山口中学(現・県立山口高等学校)に入学するが、三年生の時に落第、京都の立命館中学第三学年に編入したとき一時この家に下宿。(二年後には早稲田入学を志し、同棲していた劇団表現座の女優と共に上京する)
 スペイン窓(と中也本人が称していた)が今も残っている。ただし、当時の写真を見ると窓のある壁面はモルタルではなく板壁だった。
 なお、一階左側面の角に近い壁に仁丹の町名表示板が付いている。

 

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近くに大久保利通邸址と仁丹町名表示板がもう一枚

 先の「大宮町」と、この「大猪熊町(明治に入って大黒町と猪熊町が合併)」ともに、京都所司代屋敷拡張のため二条城の北辺を立ち退かされて、移り住んだ人々の元の居住地名に由来する。

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御土居跡と大原口跡

 白梅辻子の南、寺町沿いにある廬山寺(紫式部邸址)には、秀吉が京都改造事業の一つとして京都の外周に設けた御土居跡が史跡として保存されている。
 また、寺町今出川の北東角に近い歩道には京都の出入り口として御土居に設けられた京都七口の一つであった大原口跡がある。

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