京都の仁丹町名表示板 ーひとつの推測ー
このブログ記事の中で、しばしば仁丹町名表示板の写真を使っています。
しかし、森下仁丹がこの町名表示板の設置を始めたのはいつ頃で、終えたのはいつ頃なのか?
別にどうでもよい事なのですけれども、以前から気になっていました。そこで、この点について勝手な推測をしてみました。
町名表示板の設置について、森下仁丹でも詳細が判明しているわけではないようです。
森下仁丹のHPによれば、太平洋戦争末期に本社・第1工場が爆撃を受けて全焼したとのことです。そのため文書や記録が焼失し、仁丹町名表示板設置事業の終始が不分明なのでしょう。
同HPの「森下仁丹歴史博物館」には、設置の経緯を次のように記しています。
町名の表示が無く、来訪者や郵便配達人が家を探すのに苦労していたため、明治43年(1910)から大礼服マークの入った町名表示板の設置を始めた。大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートし、やがて日本全国にまで広げていったとしています。
現在では、主要企業の多くが社会貢献活動を行なっており、それによる宣伝効果をも狙いとしています。もっとも、最近では景気の悪化で縮小・撤退する企業が出てきていますが…
当時の森下仁丹も、当然そういうことからの企図でしょう。
さて、京都における町名表示板の設置はいつ頃なのか?
私の推測の結論を先に云ってしまいます。それは、大正10年前後から昭和7年前後にかけての約10年のことではなかったかと見ています。
但し、これは琺瑯製のものに限定したもので、初期の木製のものについては考えていません。
それでは、はじめます。
大正7年・・・愛宕・葛野・紀伊3郡の大部分が、上京区と下京区(旧市内)に編入されて、京都市の面積は二倍に、そして人口は64万人へと急激に増えた。
仁丹町名表示板の設置は、まず旧上京区と旧下京区から、次いで順次整備が進んで町並みも整っていった編入地域へと広げていった。本格化したのは、凡そ大正10年頃からだろうと考えます。
昭和4年・・・明治22年以来続いた上京・下京の2区から分区して成立した、中京・左京・東山の3区を加えて5区となる。
そして、既にこの頃までには旧上京区域・旧下京区域の町名表示板については設置を終えていた。
それは次のようなことから判る。
新設の中京区では「中京區」表示のものは皆無であり、「上京區」か「下京區」表示のものだけであること。
さらに、基本的には、左京区に設置のものは全てが「上京區」表示、東山区に設置のものは全てが「下京區」表示となっている。
しかし、少数ながらも新行政区表示のものが存在する。これは、その地域の京都市編入がもう少し後となったため、幸いにも新行政区名の町名表示板での設置が可能となったからである。
昭和6年・・・右京区と伏見区が新設されて7区となる。
伏見区は、これに先立つ昭和4年5月1日、紀伊郡伏見町が市制施行して「伏見市」となった。
これは、京都市への合併を前提とした市制施行で、昭和6年4月1日に周辺の紀伊郡1町6村と宇治郡醍醐村が合併のうえ、京都市に編入を果たしている。
なお、伏見区に現存する町名表示板は「伏見市」表示となっている。したがって、製作・設置された時期は、昭和4年から6年までの二年の間に特定することができる。
また、下記地域には、編入等による行政区域の変更が反映した町名表示板が存在することから、京都市に表示板が設置された最後の時期は、昭和6年を少し下る頃であることが判る。
昭和6年4月1日、左京区に編入された旧愛宕郡修学院村・松ヶ崎村・高野村における表示板。
昭和6年4月1日、京都市に編入して右京区となった地域のうち、旧葛野郡太秦村で見られる表示板。
昭和6年4月1日、下京区で「柳原」を冠した2町が「一橋」と変更し、「東山區 一橋宮ノ内町」の表示板が存在する。
ということで、京都市で設置が本格化したのは主に大正10年頃から昭和3年頃までの約7年間、そしてその後、さらに昭和6〜7年頃まで継続したうえ設置事業を終えた。…と推測しました。
さて、仁丹町名表示板のあれこれに通暁した方々から見て、この推測は如何なものでしょうか。
見当外れ?、はたまた、「遼東の豕」? (^-^;
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