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2011年7月

2011年7月22日 (金)

引接寺の道祖神、そして石敢當

引接寺
 引接寺(千本閻魔堂)は、本堂を閻魔の庁に擬し、閻魔大王を本尊とする。
 小野篁(平安初期の政治家で歌人・学者としても有名であるが、昼は朝廷、夜は閻魔庁に勤め、閻魔大王の臣下であったという)が閻魔大王から精霊迎えの法を授かり、船岡のほとりに閻魔堂を建てて、その法を実行したと伝え、篁を開基とする。寛仁年間に源信の法弟、定覺が引き継いで寺を開いた。
千本通は葬送の地である蓮台野へ通う道であり、そのほとりにあって賑わった寺である。
 この蓮台野に至る道に供養のため千本の卒塔婆が建てられ、一説にこれが千本通の名称由来と云われる。
 沿道には釈迦・地蔵・閻魔の諸仏が祀られ、中世には千本釈迦堂(大報恩院)、釘抜地蔵(石像寺)、千本閻魔堂(引接寺)などが、民衆の町堂として信仰を集めたそうです。
 引接寺は、大念仏狂言(台詞のつく狂言)と普賢堂桜(後小松天皇ゆかり名木で普賢象桜とも呼ばれる)が有名です。(現在の桜は佐野藤右衛門さんの寄進とのこと)

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道祖神

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 千本えんま堂引接寺と彫られた入り口の大きな石柱の後方に、表情の大変可愛い道祖神がさり気なく…というと良く聞こえるが、片隅に「ぞんざい」と云った感じで据えられている。
 以前、信州でかなりエロティックな道祖神を見た記憶がありますが、これは原田泰治さんの絵に出てくるような可愛さです。
 道祖神はサエノカミ(塞の神)と呼ばれ、道陸神(どうろくじん)ともいわれます。
 もともとは中国で行路の神をさしていたが、日本では防障・防塞の神であり、外から襲ってくる疫神悪霊などを村境や峠・辻・橋のたもとで防ぎ守ってくれる神と信じられています。
 道祖神は生者と死者、人間界と幽冥界の境をつかさどる神でもあるので、葬送地・蓮台野近くの千本閻魔堂にあるのも相応しいかなと思いました。


石敢當

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 なお、南九州や南西諸島では道路の突き当りや、辻の一角に高さ50〜100センチ程の直方体の石を建て、その上部に鬼面を、その下に石敢當(「いしがんとう」と読む)の三文字を刻んだものが据え付けられています。
 これも中国渡来で、道祖神に似て魔除けの信仰から来たものです。




2011年7月21日 (木)

路地 ーあじき路地ー

 場所は、京都市東山区大黒町通柿町上ル山城町。
 黒っぽい千本格子の古い町家が向かい合わせに6軒ずつ並ぶ。
 その一軒の襖下張りに大正2年(1913)の新聞が使われていたというから、約百年前の建物ということになる。
 路地の名前は大家さんの名前を取っているそうです。
 古いため住み手の付かない家もあったが、もったいないと云うことで、若手の職人さんやアーティストに安く貸すことにしたようです。
 以前の記事に挙げた懐古庵と同様に、雰囲気が良く味のあるの路地です。

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 同じ山城町内と東川原町に、仁丹町名表示板が残っていました。

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2011年7月20日 (水)

看板 ー種々雑駁に その1ー

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 この看板が付いている家は、現在も以前も酒を商っていたという感じは全くない。
 何なんだろう、ただの飾りなのかしら
 その家の人が外へ出てきたら聞いてみようと、暫くその近くをぶらついて待ってみたが、裏通りで通りかかる人さえ無かった。

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 はじめは(大正9年〜)「京都物産館」、そのご(昭和6年〜)「丸物(まるぶつ)」、さいごは(平成12年〜)「プラッツ近鉄」、そして解体撤去。
 現在は(平成22年〜)「ヨドバシカメラ・マルチメディア京都」になっている。

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 名前の由来は民間伝承の「子育て幽霊」(バリエーションはいろいろ有り)から。
 昔、この辺りで夜な夜な飴を買い求めにくる若い女が居た。調べると、身重のまま死んだ女が死後出産し、赤ん坊に舐めさせるため幽霊になって飴を買いにきていたという。
 六道参り(精霊迎えの日)の8月7日〜10日お参りの折に買い求める人が多いという。

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 ハグルマ株式会社(創業明治27年)、和歌山県紀の川市に所在。
 販売品目は「ソース、トマトケチャップ、トマトピューレ、焼肉のたれ、ゆずぽん酢、ドレッシング、ごまだれ、その他農産加工品」となっている。
 しかし、固形即席カレーは入っていないので、現在は製造販売していないのだろう。



2011年7月15日 (金)

仁丹町名表示板 ー表示と現実の乖離 2ー

 前回に続いて、仁丹町名表示板の表示と現実の場所が一致していないケースに関して書きます。
 今回は今出川通の位置です。
 次の写真を見てください。

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 上の「真盛町」の一枚目は、御前通から通称・上七軒通を東に入ったお茶屋に付いていました。
 そして二枚目は、上七軒歌舞錬場の南側を御前通から真盛辻子に抜ける、東西の細い小路にある民家に付いていました。
 ところが、現実の今出川通は、上七軒通りの西端から南方へ約340メートル、上七軒歌舞錬場南側の小路入り口からでも約170メートル南方になります。
 何故、このように表示と現実にズレがあるのでしょう。

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 上の「北町」の一枚目は、御前通と交差する北野天満宮北側の道を、東へ入った民家に付いています。
 二枚目は、御前通をさらに北上、北区との境界となる小路(角は北野温泉)を東に入った民家に付いています。
 このように、二枚とも真盛町よりさらに北方に存在しますから、表示にある今出川通と、実際の今出川通のズレはさらに大きくなっています。


 そこで、前回の七本松通の場合と同じく今出川通も、仁丹町名表示板が設置された当時と現在では異なるのではないかと考え、調べてみました。(「角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻」に依りました)

 中世の「北小路」が今出川通にあたる。
 近世になり、東は鴨川から西は新町通あたりまでが今出川通と呼ばれていた。(相国寺の近くを今出川という川が流れていたためだそうです)
 そして、「須磨町通」が小川通から北野神社の東鳥居にかけて東西に走っていた。
 近代になって、今出川通と須磨町通を結ぶ道(新町通辺りから小川通辺りにかけて斜め北に屈曲している部分)が大正元年に開削され、市電が走るようになるとともに、今出川通は須磨町通を合併して御前通まで延長された。
 さらに市街地の拡大に伴って今出川通は、七本松通からやや南に斜行して西大路まで延びるとともに、東は鴨川・東大路通を越えて銀閣寺(東今出川通)へ達した。

 こうして、須磨町通の上七軒交差点から北野天満宮の東鳥居前まで、いわゆる上七軒通の部分は今出川通ではなくなった(外れてしまった)のです。
 上の写真にある仁丹町名表示板は、まだ今出川通がこのように変化する前に設置されたため、表示と現実の間にズレが生じてしまったことが判明しました。
 愉しくも面白い暑さ凌ぎになりました。



2011年7月14日 (木)

仁丹町名表示板 ー表示と現実の乖離 1ー

 本日、真盛辻子の記事を書きましたが、その時に思い出したことがあります。きょうは暇なためもう一度…。
 それは、上七軒周辺をあちこちと歩いていて、仁丹町名表示板の表示と現実の場所が一致しないものが何枚もあり戸惑いを覚えたことでした。その辺りを二回に分けて記事にします。

 今回は七本松通の位置について。
 まず、次の仁丹町名表示板を見てください。

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 上の「東柳町」の二枚は、いずれも五辻通を七本松東入にある建物に設置されています。しかし、表示は「七本松西入」となっています。

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 上の「老松町」は、二枚とも七本松通に面して立つ建物に付けられています。しかし、表示は「七本松西入上ル」となっています。

 このズレは俄には理解し難いことで、困惑させられました。
 仁丹町名表示板にも誤字や脱字が意外に多く見られますが、表示そのものが誤っている例は見かけたことがありません。
 この四枚の表示があくまで正しく間違いでは無いとすれば、そこに書かれた「七本松」は、現在の七本松通よりも東方になければならない筈です。
 そこで、「角川日本地名大辞典26 京都府上巻」で「七本松通」の項を見ると、「北は五辻通の千本釈迦堂(大報恩寺)の門前から南は十条通に至り、…」とあります
したがって、北端は五辻通であり、千本釈迦堂で行き止まるのです。
 現在の地図では、「上七軒」交差点の六叉路を北北西の方向に五辻通まで斜行し、そこから北行して寺之内通に至る道を七本松通としており、今出川通(元・須磨町通)から北の部分が異なっています。
 故に、これらの仁丹町名表示板を設置した当時は、本来の七本松通を基に表記していたことが判りました。しかし、判ってみるとなにか拍子抜けと云った感じです。




辻子 ー真盛辻子と上七軒、地獄辻子ー

真盛辻子(しんせいのずし)
 上七軒通(旧・須磨町通)の西方寺東側に沿って今出川通まで南下する小路で、真盛町と東今小路町を貫いている。
 辻子・町名の由来は、町内にある西方寺の開基が真盛という僧であることによるという。

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 真盛町は江戸時代以降、社家長屋町・鳥居前町とともに上七軒と呼ばれる花街を形成した。室町期に北野天満宮修造の際、用材で七軒の茶屋を建てたのが始まりと云われ、祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町とともに京都五花街の一つである。(かつては島原を合わせて六花街であった)
 因に、島原はわが国最初の官許(天正17年)の郭で伝統的な行事を伝えてきたが、現在では茶屋営業は無くなっている。しかし、郭は無くなったが旧揚屋(現在の料亭にあたる)の角屋、旧置屋(遊女を抱えている)の輪違屋が残っており観光地化している。

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地獄辻子(「釈迦突抜」とも称した)
 「真盛辻子」のすぐ近くにあります。
 千本釈迦堂の門前、五辻通を少し東へ行ったところを今出川通まで南下する小路です。(六軒町通りの一筋西の小路との言い方もできる)
 しかし、『京都坊目誌』には「地獄ノ辻子と呼ぶは誤也。實は地奥ノ辻子なり」としており、正しくは「地奥辻子」だと云っています。
 なお、「地奥」については、この町が開かれた頃に西洋から奥縞と呼ぶ織物を輸入、一時は流行を極めたのでこの町の織工がこれを模製して販売した。それ以来、遠来のものを唐奥と云い、京都で製するものを地奥と云うようになり、これが町の名になったとしています。

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2011年7月 9日 (土)

路地 ー懐古庵路地ー

 五軒長屋になっている明治時代の建築で、リフォームしてレンタル町家として使われており、一軒毎に「式部」「小町」など名前がついている。
 今では滅多に見かけない井戸水を汲み上げる釣瓶や手押しポンプ、おくどさん、五右衛門風呂などがある。

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 懐古庵路地は新高倉通孫橋上ル(法皇寺町)にあるが、この新高倉通は北は仁王門通から南は孫橋通に至る通りである。
 ところで面白いことに、この新高倉から西へ順に、新堺町、新柳馬場、新富小路、新麩屋町と南北に通る道は、全て「新」の文字を冠した通り名や町名となっている。そして、これらは鴨川西方にある「新」の付かない道とは並び方が逆になっている。
 これは、約14,000軒が焼失したといわれる宝永5年(1708)の大火の後、炎上した内裏(現在の御所)の敷地が南へ拡張されたため、丸太町通以北の各通りは消滅してしまったことと関係している。
 消滅した地域に住んでいた人々は移住を命ぜられ、それまで人の住まなかった土地に旧地の通り名や町名とともに新しい居住地を形成した。
 このように罹災者達が引き移っていった新しい居住地は、他にも東西三本木、新烏丸、新椹木町、かつての平安京大内裏跡である一番町から七番町などとあちこちにある。また、先程の仁王門通の北側で二条通までの地域の新車屋町、新東洞院、新間之町、西寺町もまたそうした新開地であった。


2011年7月 3日 (日)

辻子 ー紋屋辻子と西陣ー

 紋屋辻子の呼称は、「聖天ノ図子」「かんやの辻子」「紋屋ノ辻子」「紋や図子丁」など、絵図によって記載はいろいろとあるようです。
 五辻通と上立売通の間で、智恵光院通から大宮通までの東西の通りです。絹織物を中心とした西陣機業の町で、今もそういう仕事に関連した家々が多い。

紋屋辻子

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仁丹町名表示板「紋屋町」

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 元々は智恵光院から東へ入り、行き止まりになる袋小路(路地)であった。
 天正15年、ここに住んでいた御寮織物司で紋屋の井関七右衛門宗鱗が、袋小路の東を塞いでいた芝大宮町の家屋敷を私財で買い取り、大宮通まで通り抜けられるようにした。この功をたたえ、それまで「聖天の図子」と称していたのを宗鱗の屋号「紋屋」の名をとって「紋屋の辻子」に改称したという。
 なお、後年の『京町鑑』(宝暦12年刊)に記述の「聖天辻子」は、雨宝院の西側一帯の聖天町の中央から東の伊佐町へ通じる小道としており、同名ながら別の辻子のようです。
 なお、紋屋町には感じの良い面白い路地があるのですが、他の幾つかの路地と共に機会を改めて取り上げたいと思います。

雨宝院と仁丹町名表示板「聖天町」

 「聖天の図子」の聖天とは、一筋北の上立売通の聖天町にある雨宝院(西陣聖天と通称される)のこと。元々は千本五辻にあった大聖歓喜寺が応仁の乱で焼け、残った一宇がこの寺になったといい、天正年間に現在地へ移ったそうです。

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 境内の「染殿ノ井」は、西陣五水の一つで、その水は染色に用いると色が美しく上がるとの伝承がある。
 五水のあと四つは、千代野井(雨宝院の南に隣接する本隆寺)、桜井(現在の首途八幡宮社務所内炊事場の位置にあったと伝わる)、安居井(個人宅)、鹿子井(個人宅)

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地名としての「西陣」

 ところで、西陣の名はよく知られるように応仁の乱に因んだものです。室町幕府の有力守護大名である細川氏と山名氏が京都を主戦場として東軍・西軍に分かれ10年余に亘って戦いました。
 細川方は花の御所(室町今出川の北方)、山名氏は山名宗全邸(堀川上立売下ル)を本陣としたため、その位置により細川方を東軍、山名方を西軍と呼び、堀川を挟んで相対したそれぞれの本陣地域を東陣・西陣と呼びました。
こ うして地名「西陣」の起源となった山名宗全邸跡地が山名町という地名となり、町内に「山名宗全旧蹟」の石碑が建っています。

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 やがて、応仁の乱によって焼け野原となったいわゆる「西陣」一帯に織物関係業者が戻ってきました。その中心になったのは、古い伝統を持つ大舎人座の機織家たちだそうです。
 西陣地域に集住した大舎人座に対し、東陣跡地の白雲に威勢を張ったのが練貫座の機織家たちだったといわれます。
 こうして、西陣の大舎人座と白雲の練貫座が技術や市場をめぐって、競合・対立したことにより京都の機業界が大いに発展したといわれます。
 西陣は紋織、唐織、金襴といった新技法を導入し、高級衣料としての西陣織は他の追随を許さない飛躍的発展を遂げますが、井関七右衛門宗鱗は紋織の発達に貢献した機業家だったようです。

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