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2011年7月14日 (木)

辻子 ー真盛辻子と上七軒、地獄辻子ー

真盛辻子(しんせいのずし)
 上七軒通(旧・須磨町通)の西方寺東側に沿って今出川通まで南下する小路で、真盛町と東今小路町を貫いている。
 辻子・町名の由来は、町内にある西方寺の開基が真盛という僧であることによるという。

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 真盛町は江戸時代以降、社家長屋町・鳥居前町とともに上七軒と呼ばれる花街を形成した。室町期に北野天満宮修造の際、用材で七軒の茶屋を建てたのが始まりと云われ、祇園甲部・祇園東・先斗町・宮川町とともに京都五花街の一つである。(かつては島原を合わせて六花街であった)
 因に、島原はわが国最初の官許(天正17年)の郭で伝統的な行事を伝えてきたが、現在では茶屋営業は無くなっている。しかし、郭は無くなったが旧揚屋(現在の料亭にあたる)の角屋、旧置屋(遊女を抱えている)の輪違屋が残っており観光地化している。

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地獄辻子(「釈迦突抜」とも称した)
 「真盛辻子」のすぐ近くにあります。
 千本釈迦堂の門前、五辻通を少し東へ行ったところを今出川通まで南下する小路です。(六軒町通りの一筋西の小路との言い方もできる)
 しかし、『京都坊目誌』には「地獄ノ辻子と呼ぶは誤也。實は地奥ノ辻子なり」としており、正しくは「地奥辻子」だと云っています。
 なお、「地奥」については、この町が開かれた頃に西洋から奥縞と呼ぶ織物を輸入、一時は流行を極めたのでこの町の織工がこれを模製して販売した。それ以来、遠来のものを唐奥と云い、京都で製するものを地奥と云うようになり、これが町の名になったとしています。

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