2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 松井天狗堂 | トップページ | 路地 ー懐古庵路地ー »

2011年7月 3日 (日)

辻子 ー紋屋辻子と西陣ー

 紋屋辻子の呼称は、「聖天ノ図子」「かんやの辻子」「紋屋ノ辻子」「紋や図子丁」など、絵図によって記載はいろいろとあるようです。
 五辻通と上立売通の間で、智恵光院通から大宮通までの東西の通りです。絹織物を中心とした西陣機業の町で、今もそういう仕事に関連した家々が多い。

紋屋辻子

Photo_3

仁丹町名表示板「紋屋町」

Photo_6

 元々は智恵光院から東へ入り、行き止まりになる袋小路(路地)であった。
 天正15年、ここに住んでいた御寮織物司で紋屋の井関七右衛門宗鱗が、袋小路の東を塞いでいた芝大宮町の家屋敷を私財で買い取り、大宮通まで通り抜けられるようにした。この功をたたえ、それまで「聖天の図子」と称していたのを宗鱗の屋号「紋屋」の名をとって「紋屋の辻子」に改称したという。
 なお、後年の『京町鑑』(宝暦12年刊)に記述の「聖天辻子」は、雨宝院の西側一帯の聖天町の中央から東の伊佐町へ通じる小道としており、同名ながら別の辻子のようです。
 なお、紋屋町には感じの良い面白い路地があるのですが、他の幾つかの路地と共に機会を改めて取り上げたいと思います。

雨宝院と仁丹町名表示板「聖天町」

 「聖天の図子」の聖天とは、一筋北の上立売通の聖天町にある雨宝院(西陣聖天と通称される)のこと。元々は千本五辻にあった大聖歓喜寺が応仁の乱で焼け、残った一宇がこの寺になったといい、天正年間に現在地へ移ったそうです。

Photo_4

Photo_8

 境内の「染殿ノ井」は、西陣五水の一つで、その水は染色に用いると色が美しく上がるとの伝承がある。
 五水のあと四つは、千代野井(雨宝院の南に隣接する本隆寺)、桜井(現在の首途八幡宮社務所内炊事場の位置にあったと伝わる)、安居井(個人宅)、鹿子井(個人宅)

Photo_9

地名としての「西陣」

 ところで、西陣の名はよく知られるように応仁の乱に因んだものです。室町幕府の有力守護大名である細川氏と山名氏が京都を主戦場として東軍・西軍に分かれ10年余に亘って戦いました。
 細川方は花の御所(室町今出川の北方)、山名氏は山名宗全邸(堀川上立売下ル)を本陣としたため、その位置により細川方を東軍、山名方を西軍と呼び、堀川を挟んで相対したそれぞれの本陣地域を東陣・西陣と呼びました。
こ うして地名「西陣」の起源となった山名宗全邸跡地が山名町という地名となり、町内に「山名宗全旧蹟」の石碑が建っています。

Photo_10

 やがて、応仁の乱によって焼け野原となったいわゆる「西陣」一帯に織物関係業者が戻ってきました。その中心になったのは、古い伝統を持つ大舎人座の機織家たちだそうです。
 西陣地域に集住した大舎人座に対し、東陣跡地の白雲に威勢を張ったのが練貫座の機織家たちだったといわれます。
 こうして、西陣の大舎人座と白雲の練貫座が技術や市場をめぐって、競合・対立したことにより京都の機業界が大いに発展したといわれます。
 西陣は紋織、唐織、金襴といった新技法を導入し、高級衣料としての西陣織は他の追随を許さない飛躍的発展を遂げますが、井関七右衛門宗鱗は紋織の発達に貢献した機業家だったようです。

« 松井天狗堂 | トップページ | 路地 ー懐古庵路地ー »

仁丹町名表示板」カテゴリの記事

町名・地名の由来」カテゴリの記事

辻子(図子)・突抜」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 松井天狗堂 | トップページ | 路地 ー懐古庵路地ー »