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2011年8月

2011年8月31日 (水)

これトマソン?! その2

 周囲は石垣、その一角だけ煉瓦積み。
 何があるのか、または、あったのか?

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 こちらは真っ直ぐの壁面ではない。
 3段の棚状になっている。

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 もともとは通用門とおぼしきところ。
 何故かコンクリートで塞いでしまっている。

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*追記
 この記事は8月20日に一旦は作製したものの、公開せずに放置していました。
ところが、昨日、上の二枚の写真(石垣の中の煉瓦積み)の正体が判りました。
昭和36年(1961)廃止された京都市電北野線(チンチン電車)が、四条堀川から北上し、中立売通で東堀川から西に渡る鉄橋がここに架けられていたのです。何なのかが判明しましたが、敢えてそのままで公開します。
 また、8月23日付けの記事(これトマソン!? その1)中、コンクリートの狭い橋状の構造物は、北野線が単線の時代の鉄橋跡のようです。



2011年8月26日 (金)

種田山頭火 ー京都にある句碑 4ー

音はしぐれか

 時雨の音で季節の移り変わりを感じ取っている。よく知られている有名な句です。
 この句碑は、北区の鷹ケ峯から長坂越えで R162 に出る手前の地蔵院境内(杉坂道風町102)に建てられている。
*一条通西大路東入ルの地蔵院(椿寺)ではありません。

Photo


 昭和7年10月21日、其中庵での作。当日の「其中庵日記」には次のように記している。

曇、それから晴、いよいよ秋がふかい。
朝、厠にしやがんでゐると、ぽと〻ぽと〻といふ音、しぐれだ、草屋根をしたゝるしぐれの音だ。
  ・おとはしぐれか
といふ一句が突発した、此君楼君の句(草は月夜)に似てゐるけれど、それは形式で内容は違つてゐるから、私の一句として捨てがたいものがある。(以下 略)
(*のちに、「音はしぐれか」と改作している)

 

 山頭火の句は、五七五の定型句ではない。自由律俳句と呼ばれるもので、師の荻原井泉水が主宰した「層雲」に所属する人達は季語を用いず、定形に拘ることがなかった。河東碧梧桐の新傾向俳句の流れをくんでおり、形式よりも内容を重要視した。
 自由律俳句で、当時しきりに作られたのが短律句である。十七字の定形句より長いものは長律句という。
 山頭火も短律句を得意としており、「おとは…」と同じ七音の短律句「夜へ咳入る(改作)」を少し前の、10月4日の日記に記している。

ところで、山頭火は芭蕉の俳句を、
  「古池や蛙とびこむ水の音
   ・・・蛙とびこむ水の音
   ・・・・・・・・水の音
   ・・・・・・・・・・音
   芭蕉翁は聴覚型の詩人、音の世界」
と評したそうです。そして、山頭火も自身のことを聴覚的性能の持ち主、耳の俳人を自認しています。

雨だれの音も年とつた
笠へぽつとり椿だつた
鉄鉢の中へも霰
飲みたい水が音たててゐた
分け入れば水音
……などなど、音の句は数え切れない。



2011年8月24日 (水)

聚楽第由来の町名 ー仁丹町名表示板ー その2

 聚楽第の周囲には秀吉に臣従する有力諸大名の屋敷や、旗本などが武家屋敷を構えた。そして、これら大名・武将の名前を由来とする町名が多く残っている。
 それらの町の仁丹町名表示板をいくつか上げておきます。

伊勢殿構町 伊勢兵部少輔の屋敷跡

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浮田町
 浮田(宇喜田)中納言秀家の屋敷跡

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加賀屋町
 前田加賀守直茂との言い伝えあるも前田利家の屋敷跡か

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信濃町
 鍋島信濃守勝茂の屋敷跡

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藤五郎町
 長谷川藤五郎秀一の屋敷跡

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如水町
 黒田如水(小寺官兵衛)の屋敷跡

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常陸町
 木村常陸介重滋(利休七哲の一人)の屋敷跡

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 他にもまだ、そういう町があります。
 稲葉町は稲葉一鉄斎良道、小寺町は小寺官兵衛こと黒田如水、左馬松町は加藤左馬助嘉明の邸跡である左馬殿町と松屋四丁目が明治になって合併、主計町は加藤主計頭清正、弾正町は上杉弾正大弼景勝、中書町は脇坂中務大輔(中書)安治、中村町は中村式部小輔、飛騨殿町は蒲生飛騨守氏郷、福島町は福島左衛門大夫正則。



2011年8月23日 (火)

聚楽第由来の町名 ー仁丹町名表示板ー その1

 聚楽第は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、地位に相応の京都における居館として1587(天正15)年に築いた城郭風の邸宅。古の平安京大内裏跡である内野に建設した聚楽第は、その周囲に濠をめぐらしていたので聚楽城ともいった。 
 その規模は、確かなことが殆ど判っていないようだが、一説に、南北は一条通〜出水通か下立売通、東西は大宮通〜浄福寺通という。いずれにしても、今の二条城をひとまわり大きくした程の広さのようだ。

 今も残る聚楽第遺跡は非常に少ない。
 梅雨の井が唯一のはっきりした遺蹟と云われている。聚楽第内の東北隅辺りにあった井水といわれ、毎年梅雨の頃に水があふれ、あふれる日をもって梅雨が明けるので梅雨の井と呼ばれたらしい。
 井筒が崩壊したため打込みの汲み上げポンプになり、民家の共用水となっていた。しかし、これも今では壊れてしまい、無惨な姿を晒している。この辺りを東堀町というのは、東の外堀にあたるため。

「梅雨ノ井」跡

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 本丸を取りまく堀のほか、下立売通の北側にあたる南外堀は天秤堀と称されていたもので、天秤町はこれに由来する。また、天秤堀に臨む本丸の跡地は天秤丸町という町名として今に残る。

 そして、天秤堀の遺構と伝えられる跡を松林寺境内(新出水通智恵光院西入)に見ることができる。(「京都府史蹟勝地調査会報告 第一冊)
 本堂は表門から2メートル程の低地に、その南にある墓地はさらに1メートル程低くなっている。そして、門前から北を見ると一筋北の出水通は表門より1.5メートル程高く、合わせて3段にわたり5メートル程の高低差がある。これが聚楽第南辺の天秤堀跡と想定される理由である。

松林寺 門から見た境内と境外の様子

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 また、本丸の中の庭園には洲浜と呼ばれた池と、丘や谷など山里の景観を模した庭園が造られたと伝えられる。これが須浜町と山里町の由来である。同様に、小山町は築山の形状から小山といわれたことが、和水町は庭園の池の水が流れていたことが、亀木町は庭園に大きな木の亀の噴水があったと云う伝承が町名の由来となっている。
 そして、金馬場町は聚楽第の調馬所が置かれていた跡、北小大門町と南小大門町は聚楽第の通用門があったこと、高台院町は秀吉夫人の北政所(髪を下ろし出家した称号が高台院)の居宅があったことに由来する。

仁丹町名表示板
  須浜東町・小山町・金馬場町・亀木町

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2011年8月20日 (土)

これトマソン?! その1

 下から見れば、幅は狭いが橋のように見える。


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 上から見れば……、歩けない、渡れない。
 両端は金属の尖った柵があり、立ち入れないようになっている。
 これは何だ! ヒョットして水道?

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 築地塀に設けられた戸は、道路からかなり高い石垣の上に、どうして出入りするのだろう。

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路地 ー紋屋町路地ー

 今回は、以前の「辻子 ー紋屋辻子と西陣」で、少し触れていた紋屋町の路地です。
 五辻通の一筋北の紋屋町(智恵光院通と大宮通の間)を通貫している小路を紋屋辻子と云いますが、その中程を北に入る路地です。
 両側に千本格子の、軒続きの二階家が並んでいて、その佇まいは西陣の雰囲気を残している。
 明治になって御衣調進が山科家から宮内省に移ったため、山科家のもとに五家あった御寮織物司は解消された。殆どの元御寮織物司が転・廃業した中、今では三上家のみが由緒を伝えて辻子に残っています。(一番奥突き当りが三上家)

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 路地の家々には、蜂蜜屋さん(以前は自転車屋が入っていた)、金襴屋さん、陶芸教室、建築設計事務所などが入っています。

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 紋屋町の西半分(智恵光院通の西側)は、西陣五水で知られる千代ノ井のある本隆寺とその塔頭で占められている。この本隆寺は享保15年の西陣焼け、天明の大火にも焼け残り、不焼寺(やけずのてら)との異名をとったそうです。

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 本隆寺の西側、浄福寺通のすぐ北にある大黒町は最近、整備されて綺麗な町並みになっています。
 また、元々の仁丹町名表示板が残っているのですが、最近また新たに平成版のものが取り付けられています。(表記が「上」ではなく「上」に変わっている)

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2011年8月18日 (木)

種田山頭火 ー京都にある句碑 3ー

花いばら、ここの土とならうよ
   (「行乞記」昭和7年6月21日)

 この句碑は、宇治市 皆演寺境内にある。

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 山頭火が味取観音堂を捨て放浪行乞の旅に出てから7年、50歳となっており心身ともに苦難の乞食(こつじき)を続ける精神力と根気が薄れてきた。
 草庵を得て定住することを望んだ。願う立地条件は、山村・水が良い・温泉地であること。
 最初は熊本県北部の玉名温泉。「層雲」の俳人仲間には知られているが、土地の人々から見れば素性の知れない放浪者である山頭火が容易に受け入れられるはずはなく、諦めざるを得なかった。
 次に候補地として望んだのは佐賀県南西部の嬉野温泉。山に囲まれた盆地・川・茶畑と好ましい田園であった。しかし、少し前に後援者の世話で「層雲」の俳人仲間から金を集めてもらっていたが、それを踏み倒す結果となり精算もしていなかった。こうしたことから望む支援も難しく、嬉野での結庵も不首尾に終わる。
 そこで福岡へ引き返し、句友や知人・旧友の多い北九州や山口県で、草庵を結ぶための支援を改めて頼んでまわった。
 嬉野を諦めた後、次に候補と定めたのは山口県の川棚温泉であった。この地で病み三日間寝込んでしまったことで、ここに定住して死に場所とすることに決める。


ここの土とならうお寺のふくろう

   (「行乞記」6月17日)

 風土よし、いで湯湧き、人柄も悪くない。妙青寺という古刹の畑を借り入れて庵を建て、住みつきたいと思い其中庵と云う名前まで考えた。
 しかし、難航する。寺の惣代会で借地の要望は否決された。浮浪者のようなものに貸し、困ったことになるのを恐れて認められなかったのである。
 山頭火なりに根回しをして、申し込んだ再度の惣代会でも「病気になって動けなくなったり、死後の始末はどうつけるのか」と云った厳しい質問も出たらしい。そして、土地借用にあたり、村在住の保証人二名も要求された。


何でこんなにさみしい風ふく

   (「行乞記」7月1日)

 有力な後援者へ資金の工面を願う手紙に次のように書いている。
 「私としては、もう仕方がないから背水の陣を布きます。そして血戦をやります、庵居しようなどとは、私があんまり安易だったかも知れませんね。」
 しかし、結局は造庵計画は頓挫してしまう。
 「行乞記」8月26日には次のように書いている。
 「いよいよ決心した、私は文字通りに足元から鳥が立つやうに、川棚をひきあげるのだ、さうするより外ないから。形勢急転、癇癪破裂、即時出立、…といったやうな語句しか使えない。」
 そして川棚を去る、翌8月27日の「行乞記」には、次の句を記している。

けふはおわかれのへちまがぶらり
(留別)


2011年8月17日 (水)

平安京官庁由来の町名 ー仁丹町名表示板ー

 平安京大内裏の範囲は現代の通り名でいうと、南北は一条通〜二条通、東西は大宮通〜御前通となります。
 そして、官庁に属して手工業生産に携わる人々の住む町が、主には二条通以北で大内裏を取り囲んで数十もあったようです。しかし、これらの町名は後の世にまでは残ることはありませんでした。
 ところが、大内裏の内側にあった中央官庁やその下部の役所組織の名称が、僅かながらも町名として残っています。

 平安時代の官庁等を由来とする町名として、上京区には中務省(諸国の戸籍や租調帳などを司る)→中務町、主税寮(民部省に属して諸国の田租・穀物蔵等の出納を監督する)→主税町、西院(宮殿の付属建造物か)→西院町があります。

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 中京区では西ノ京一帯に、式部省(文官の人事考課、礼式、叙位・任官、功賞、大学寮を司る)→西ノ京式部町、左・右の馬寮(朝廷保有の馬の飼育と調教を司る)→西ノ京左馬寮町西ノ京右馬寮町、京職(司法・行政・警察を司る)→西ノ京職司町などがあります。
 なお、西ノ京小堀町というのがありますが、これは時代が下って江戸時代に、京都西町奉行所で世襲代官を勤めた小堀氏の屋敷跡に由来するそうです。(世襲代官初代の小堀正憲は小堀遠州の異母弟小堀正春の息子)

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2011年8月16日 (火)

種田山頭火 ー京都にある句碑 2ー

 山頭火は精神的な停滞を抜け出すため、前年の信州の旅に続いて、昭和10年12月6日〜翌11年7月22日まで約8ヶ月に及んだ、良寛や西行、一茶、芭蕉の跡を辿る東上の大旅行に出る。
 しかし、今回の放浪漂泊の旅はいつもの辛い行乞の旅ではなく、各地の句友を訪ね歩く「層雲」の有名人として、各地で歓待される恵まれた旅であった。

春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏
  (宇治・対鳳庵の山頭火句碑)

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 この旅の途中3月18〜23日は京都では句友の内島北朗居や酒井仙醉楼居などに滞在し、京都市内の各所(八坂の塔・芭蕉堂・西行庵・知恩院・南禅寺・永観堂・銀閣寺・本願寺・鷹峯・源光庵・光悦寺・金閣寺など)と宇治・月ヶ瀬を巡ったり、句会を開いたりしている。
 「旅日記」3月25日の条にはこの間の句作を記録しており、そのなかの4句が宇治での作で、この「春日へ扉ひらいて南無阿弥陀仏」が含まれているが、これはその後、句碑にあるような「春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏」と改作している。

 旅の経路は日記に依ると、其中庵を出て岡山・奈良・倉敷・山陽道から北九州へと歩き・神戸・大阪・京都・奈良・伊賀上野・伊勢・津島(愛知県)・名古屋・鎌倉・東京・甲府〜信州・長野・長岡・鶴岡・仙台・平泉・酒田・福井永平寺・大阪、そして小郡に帰庵している。

 其中庵に戻ったのは7月22日であったが、山頭火は後の10月8日の日記に「こんどの旅は…、句境の打開はあると思ふ、…よい句、ほんたうの句、山頭火の句を作り出さなければならないと思ふ、私は近来、創作的興奮を感じてゐる、…、私は幸にして辛うじて、春の泥沼から秋の山裾へ這ひあがることができたのである」と書いている。

春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏
  (高砂・播州  山頭火句碑の園の山頭火句碑)

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2011年8月 6日 (土)

種田山頭火 ー京都にある句碑 1ー

分け入つても分け入つても青い山

 これは多くの人々に知られる山頭火の名句の一つです。山頭火の俳句は、全ての「国語」検定教科書に採り上げているそうです。
 この句には「大正十五年年四月、解くすべもない惑いを背負うて、行乞流転の度に出た」と前書がついています。

 この句碑は、東山区の即成寺にあります。

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 種田正一(山頭火)は鬱々として徘徊と泥酔を繰り返すうち、熊本市内で路面電車の前に立ちはだかって急停車させると云う事態を惹き起こす。この酷い愚行のあと、曹洞宗の名刹報恩寺で出家得度して種田耕畝という法名を受けた。
 こうして、煩悩を断つために出家して、味取観音堂の堂守となった。しかし、ここも安住の地ではなく、1年1カ月後には堂を捨てるようにして当てのない旅に出た。
 大正15年6月17日、熊本から浜町、馬見原・高千穂を通り、22日に五箇瀬川に沿ってある日向の滝下に出ている。この句はこの間の作句である。

 細い山道を歩き続けるが、青い山を登りきってもさらに次々と前に青い山々が連なっている。どこまで分け入っても青い山ばかりであった。これは、眼前の実景とともに、惑い・煩悩は消えず深まるばかりといった山頭火の感傷を詠っているようにも読める。

 同じ句の句碑がまだありました。
 次は、加古川市立少年自然の家「山頭火の小径」

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 次のは、高砂市「播州・山頭火句碑の園」

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2011年8月 4日 (木)

精霊迎えと精霊送り

 まもなく立秋。暦便覧には「初めて秋の気立つがゆえなれば也」とあるようです。
 しかし、暦の上では秋と言いながら、平均気温は高温のピークに達する時期で、酷暑はまだまだ続きます。やはり月が変わらなければ、朝晩の涼しさを望めないのでしょうか。

 さて、立秋を過ぎればお盆(盂蘭盆会)です。
 我が家でも13日に苧殻を焚いてご先祖をお迎えし、16日に今度はお送りするために苧殻を焚きます。
 今日は買い物に出た時に苧殻も買いました。
 そこで、きょうはお盆をめぐっての記事です。

六道珍皇寺と六道の辻 
 
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 六道珍皇寺は建仁寺の塔頭で「六道さん」として親しまれるお寺。そして、その門前を六道の辻と呼んでいます。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界(六趣)を云うそうです。
 この地は化野、蓮台野などとともに平安期の葬送地であった鳥辺野の入口にあたり、現世と冥界の境界になります。そして、六道さんは死者に引導をわたし、冥福を祈ったお寺でした。

 8月7日〜10日の六道まいり(精霊迎え)はその遺風であり、この穴から出ている綱(赤い房が付いています)を引くと鐘の音が響き、十万億土の冥土まで届くと云われている。人々はこの世にご先祖の霊を迎えるため「六道の迎え鐘」を撞くのです。
 死者の魂を鳥辺野へ送る六道の辻が、六道まいりの時期には家路へと急ぐご先祖の霊で混み合うのでしょう。

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矢田寺の送り鐘
 「六道の迎え鐘」に対し、これも有名な「矢田寺の送り鐘」は、8月16日に精霊を送るため撞く鐘です。ただし、ここの鐘も第二次大戦で供出されたため、現在の鐘は戦後に新鋳されたものだそうです。
 この寺は奈良県大和郡山にある矢田寺(アジサイ寺として知られる)の別院として建立されました。本尊はかつての六地蔵の一つで、開山の満朱上人が地獄で出会った地蔵の姿を彫らせたと伝えられ、地獄で人々を救うと云うことから代受苦地蔵とも呼ばれ信仰が篤い。
 もとは、下京区綾小路通西洞院東入矢田町にあったのですが、天正18年の秀吉による都市改造で現在地に引っ越しをさせられました。

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 ところで唐突ながら話は変わります
 次の写真(「樋口小路  多門町」の仁丹町名表示板)を見てください

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 これは六道珍皇寺の近く六波羅蜜寺の傍(東側)にありました。樋口小路というのは平安京の通り名で、現在の万寿寺通に相当します。
 しかし、何故ここが万寿寺通なの 
 六波羅南通は今の六波羅裏門通のことで、この通りの西方は柿町通になります。
 柿町通の西は川端通で行き止まりです。しかし、無理矢理さらに西へ、川端通・鴨川・木屋町通・高瀬川・河原町通をエイヤーと飛び越すと、概ね何とかカントか万寿寺通に行き着くことはできます
 位置的にもそう大きなズレはありません。
 「樋口小路 多門町」はこうして、無理無体に名付けられたのでしょうか。そんなこと無いでしょう
 後年、鴨東の南方も都市化が進んで、この辺りに六波羅政庁・六波羅探題が設けられた。そして、周辺には武家屋敷が非常に増加した地域らしいので、「樋口小路」を鴨東にまで延長したと考えても道理に合わなくはないかも
 平安期の初期に早くも右京が寂れ、左京の都市域は北へそして東へと拡大していった。そして、二條大路が鴨川を越えて東に延び、白川(岡崎)に達したように、平氏・源氏の政権基盤であった六波羅まで樋口小路(万寿寺通)が延伸したのだろうと考えます。




2011年8月 2日 (火)

京都市立の小学校と平安京坊名

 京都市内をカメラ散歩していると、しばしば小学校やその閉校跡に行き当たります。
 それで、京都市立小学校についてチョット調べてみました。
 京都市では、1872(明治5年)の学制公布に先だち、既に1867(明治2年)日本で最初となる学区制小学校の「番組小学校」64校を開校させている。その後、市域の拡大と人口増加に伴って小学校の数も増えていった。
 京都市の児童数は、1958年度(昭和33年)の154,815人から、50年後の2009年度(平成21年)には67,380人へと、ピーク時の約43%に減少している。ただし、学校数はその後も1991年度(平成3年)まで増加し続けたあと減少に転じた。
 このような児童数減少により統合や閉校が進み、2010(平成22年)5月1日現在で179校・分校3になっているようです。

 ところで、数ある京都市立小学校のうち、淳風・教業・陶化・崇仁・光徳の5校は、その名称を平安京の各坊につけられた坊の名称を由来としている
 平安京は条坊制というシステムでブロック毎に区切られていた。
 平安京造営当初の頃は、左京四坊などと数字で呼ばれ、名前は付いていなかった。その後、桓武天皇の皇子で平安朝初期に即位した嵯峨天皇が、政治・文化の全てに唐風色を強め、それを平安京の制度にも及ぼした。こうして、左京・右京の計20の坊に、北辺坊・桃花坊・銅駝坊などと中国風の名前がつけられた。
 このように、平安時代に命名された中国風の坊名が、遥か後代の明治以降になって小学校の設立に際し、校名として復活したのである。(校歌歌詞に坊名を入れている学校もある)

淳風小学校・・・1869(明治2)年7月6日開校、今年で142年の歴史をもつ。
 校歌の一節「千年ここに伝え来た 淳風の名にふさわしく」(淳風は我が母校です)
 ついでに調べたところ、「淳風坊」は、平安京の左京に位置し、東西は一坊〜四坊(今の寺町から千本)、南北は五条大路〜六条大路(今の松原から六条)を範囲とする坊。

教業小学校・・・1869(明治2)年10月26日開校、1992年(平成4年)乾小学校と統合して京都市立洛中小学校となり、123年の歴史を閉じた。現在は中京区社会福祉協議会が入っている。
 校歌の一節「平安京のまん中に えのの名を負うて」
 写真の日時計は姉小路に面した校庭にある。指し示す時刻=影は矢張り季節により少々ズレるようです(撮影データを見ると、冬季の2月27日午前10時16分に撮っていました)

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陶化小学校・・・1872(明治5)年6月24日開校、139年の歴史をもつ。
 しかし、来年の2012(平成24年)から陶化・東和・山王の3小学校と陶化中学校が統合され、南区の小中一貫校として新たに発足する。
 話を伺うと、特定の一校の名称を存続させないとの方針のため、由緒ある「陶化」の名称は消えてしまい、「凌風」という名称になるそうです。合併にあたって難しい事情が絡むのは、他の合併校も同様のようです。

 校庭に保存されている石敢當と車石
 石敢當については前回記事でも触れたように、中国伝来の魔除けです。この石敢當は、銭取橋(今の勧進橋)たもとに絹問屋が夜に通行する人の安全を守るため建てたもの。それが、明治41年に陶化小学校に移設されたそうです。
 車石は、むかし竹田街道に牛車道を設けたとき、運行を容易にするために二列の石を並べ敷いたもの。
 これは敷石の一片で、擦り減った轍が見える。

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崇仁小学校・・・1875(明治8)年開校、2010年(平成22)に崇仁・六条院・植柳の三校が統合して京都市立下京渉成小学校となり、135年の歴史を閉じた。

光徳小学校・・・1925(大正14)年11月16日開校、86年と歴史は短い。校歌の一節に「歴史ゆかしい光徳坊」とある。

 ところで、
 次の写真は、坊名と関わりはないが、旧・春日小学校(1995年統合により京都市立御所南小学校となる)の旧校地内にありました。現在は春日デイケアセンターになっているようです。
 二宮金次郎像は現在もあちこちに残っており時々見かけます。最近では、この記事中の陶化小学校の他に、流れ橋(八幡市)のそばにある四季彩館の裏手でも見かけました。

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 なお、旧・開智小学校が今は京都市学校歴史博物館となっており、番組小学校資料、教科書や教材・教具などを収集・保存して展示しており、興味深く観覧できる。(200円) 



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