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2011年8月23日 (火)

聚楽第由来の町名 ー仁丹町名表示板ー その1

 聚楽第は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、地位に相応の京都における居館として1587(天正15)年に築いた城郭風の邸宅。古の平安京大内裏跡である内野に建設した聚楽第は、その周囲に濠をめぐらしていたので聚楽城ともいった。 
 その規模は、確かなことが殆ど判っていないようだが、一説に、南北は一条通〜出水通か下立売通、東西は大宮通〜浄福寺通という。いずれにしても、今の二条城をひとまわり大きくした程の広さのようだ。

 今も残る聚楽第遺跡は非常に少ない。
 梅雨の井が唯一のはっきりした遺蹟と云われている。聚楽第内の東北隅辺りにあった井水といわれ、毎年梅雨の頃に水があふれ、あふれる日をもって梅雨が明けるので梅雨の井と呼ばれたらしい。
 井筒が崩壊したため打込みの汲み上げポンプになり、民家の共用水となっていた。しかし、これも今では壊れてしまい、無惨な姿を晒している。この辺りを東堀町というのは、東の外堀にあたるため。

「梅雨ノ井」跡

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 本丸を取りまく堀のほか、下立売通の北側にあたる南外堀は天秤堀と称されていたもので、天秤町はこれに由来する。また、天秤堀に臨む本丸の跡地は天秤丸町という町名として今に残る。

 そして、天秤堀の遺構と伝えられる跡を松林寺境内(新出水通智恵光院西入)に見ることができる。(「京都府史蹟勝地調査会報告 第一冊)
 本堂は表門から2メートル程の低地に、その南にある墓地はさらに1メートル程低くなっている。そして、門前から北を見ると一筋北の出水通は表門より1.5メートル程高く、合わせて3段にわたり5メートル程の高低差がある。これが聚楽第南辺の天秤堀跡と想定される理由である。

松林寺 門から見た境内と境外の様子

Photo_9

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 また、本丸の中の庭園には洲浜と呼ばれた池と、丘や谷など山里の景観を模した庭園が造られたと伝えられる。これが須浜町と山里町の由来である。同様に、小山町は築山の形状から小山といわれたことが、和水町は庭園の池の水が流れていたことが、亀木町は庭園に大きな木の亀の噴水があったと云う伝承が町名の由来となっている。
 そして、金馬場町は聚楽第の調馬所が置かれていた跡、北小大門町と南小大門町は聚楽第の通用門があったこと、高台院町は秀吉夫人の北政所(髪を下ろし出家した称号が高台院)の居宅があったことに由来する。

仁丹町名表示板
  須浜東町・小山町・金馬場町・亀木町

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