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2011年9月

2011年9月27日 (火)

突抜 ー天使突抜通ー 続編

天使突抜通 2

 前回の「突抜ー天使突抜通ー 正編」では、天使突抜通沿いにあって、北は高辻通から南の六条通にかけての舟屋町、天使突抜一町目〜四町目について記事にしました。
 これらの天使突抜各町は、西本願寺寺内町エリアの北部(六条通より北)にあって、町名としての「天使突抜一町目〜四町目」を表していた。

 今回は、それらとは別の「天使突抜」各町について記してみます。
 先の天使突抜各町の南側で、東中筋通六条から七条までの間にある、西本願寺寺内の各町もまた「天使突抜」を称していたというのです。
 これらは、六条通以南の天使突抜通(東中筋通)に面した寺内町を、北からその位置を順「天使突抜◯町目」というように示したものといえる。

 『京都坊目誌』は、次のように六条通以南の旧寺内町各町にも、「天使突抜◯町目」という別称のあったことを記しています。
 「學林町 天使突抜とも稱す。元寺内に属す。」「柳町 天使突抜二町目とも稱す。舊寺内に属す。」「紅葉町 元寺内に属し。天使突抜三町目と稱す。」としています。 
 なお、南端の「文覚町」には、天使突抜三町目を称したという記述はありません。

 *「西本願寺寺内町」の概念やエリアなどについては、以前の記事(2011.9.7)「町名の由来と仁丹町名表示板 その1」中の、仁丹町名表示板「下京區新町通花屋町下ル東若松町」の説明に際して、注記の形で簡単に記しましたのでここでは省略します。

 また、『京雀』にも以下のような記述があります。
 「六條通さがる ◯天使のつきぬけ ◯同二町め 七條坊門さがる ◯もみぢ町 辻北こうぢさがる ◯もんがくの町」

 

 今回の寺内町エリア内の「天使突抜」各町と、それらに対応する現在の町名とその由来を仁丹町名表示板を介して見ます。

天使突抜 → 現・学林町
 この地に西本願寺の学林が設けられたことによる。学林は西本願寺僧侶の研究教育機関であるが、明治4年本山廊内に移転した。

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天使突抜二丁目 → 現・柳町

 町名由来は近傍に花屋町・紅葉町・若松町といった町名があり、それに倣って命名したものとされる。

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天使突抜三丁目 → 現・紅葉町

 町名の由来は近くに文覚町や高雄町など、高雄に由来由来する町名があることによるという。

_01

現・文覚町
 平安時代末期の頃、高尾山神護寺の文覚上人が勧進の途中不埒な事があったため、後鳥羽上皇の咎め(勅勘)を受けて100日間の入牢を命ぜられた。その牢舎がこの地にあったことが町名の由来という。

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2011年9月25日 (日)

看板 ー種々雑駁に その3ー

 第三回内国博覧会というのは、明治23年4月1日〜7月31日の間に東京上野公園にて開催

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 屋号の「宮脇賣扇庵」は富岡鉄斎の命名とのこと

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 分銅屋(足袋の老舗)

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 「平安」?「淨山人」?、やはり名刹の管長・貫首・貫主といった高僧の揮毫なのでしょう

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 この針は、ミシン針・縫い針・医療用針・レコードプレーヤー用針…何?

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2011年9月22日 (木)

突抜 ー天使突抜通ー 正編

天使突抜通 1

 天使突抜通というのは、小川通の南の部分にあたり、高辻通から六条通の間をいう。
 舟屋町・天使突抜一町目・同二町目・同三町目・同四町目を通貫しています。

 『京町鑑』は、次のように記しています。
 「◯天使突抜通」の項で「◯高辻下ル▲舟屋町 ◯松原下ル▲天使突抜一町目 ◯萬壽寺下ル▲二町目 ◯五條下ル▲三町目 ◯せつたや町下ル▲四町目」
 上記引用文中にある「せつたや町」とは雪踏屋町通のことで、現在の楊梅通にあたる。この通りの名称由来は、雪踏屋が多く居住したためだとされる。
 ちなみに、『京雀』では、天使突抜四町目を「しのむら町」としています。

 天使突抜通は、天正18年(1590)豊臣秀吉の京都大改造により開かれた道です。天使社とも称された五條天神社(西洞院通松原下ル)は、西は油小路通まである広大な境内地を持っていました。その中間を南北に突き抜けて道が拓かれたのが通り名の由来となっています。

 五條天神社(天使社)

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 今の天使突抜通の家並

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 なお、『京町鑑』の「◯小川通 ◯天使突抜通◯東中筋」の項では、「●此通北は上御靈筋妙覺寺前より南  錦小路にて行當  叉高辻より南は天使突抜通といふ  叉魚棚下ル町より東中筋と云」とあります。 
 つまり通りの名称は、北部の上御霊前通から南の錦小路通間は小川通、その南はすこし途切れていて、高辻通と六条通の間は天使突抜通、六条通以南を東中筋通と云うとしています。


仁丹町名表示板
  
天使突抜一町目・天使突抜二町目・天使突抜四町目

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 ちなみに、通りの呼称と範囲は地誌書により少し異なっています。
 『京都坊目誌』では、天使突抜通は北は高辻に起り、南は木津屋橋に至る。東中筋通とも称するとしています。
 『京町鑑』では、天使突抜通の六条通以南を東中筋通とする。
 『京羽二重』は、高辻通より七條通までを天使の突抜通とする。

なお、次回あたりに今回とはまた別の天使突抜について書く予定です。



2011年9月18日 (日)

看板 ー種々雑駁に その2ー

特にコメントはなし、写真のみです。

Post_telegraph_office

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2011年9月 7日 (水)

町名の由来と仁丹町名表示板 その1

新釜座町

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 以前、記事にした「膏薬辻子」(綾小路通西洞院東入上ル)に所在する。この辻子はクランク状になった小路だが、その中程の大半が新釜座町となっている。もとは、その北半を膏薬辻子、そして南半を南膏薬辻子と云っていたが、明治2年に合併して現町名になった。中世以来、釜座の所在地であった釜座町の南方にあることが町名の由来か。
 この新釜座町の北端に接して郭巨山町(山鉾町)、南端に接して矢田町がある。


匂天神町

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 高辻通烏丸東入を北行するクランク状の小路である。町名の由来は、菅原道真を祀る匂天神社(明治2年に廃社)があったことによる。なお、この匂天神町の北端に接する仏光寺通に近い部分は上柳町になる。
 古絵図ではこの小路の北部分を「竹之辻子」、南部分を「随音辻子」としており、明治2年にこれを合併して成立した。絵図によってはこの二つの辻子の全体を「随音辻子」とするものもあるそうだ。
註:この竹之辻子と随音辻子の位置関係については、誤りに気がついたため 2015.9.18 に新記事「辻子 ー瑞音辻子」としてアップしています)
また、「瑞音辻子」を現在の、高辻通の烏丸・東洞院間とする絵図もあるようで、別に「水雲の辻子」と称したこともあるようだ。
 *この琺瑯製仁丹町名表示板は木枠に嵌っているように見える。これについて、マニアの人達は「木製仁丹町名表示板の上に重ねて設置しているようだ」と云っている。


東若松町

 劣化退色して読み辛いが、これと同表示の琺瑯製で綺麗なものが少し北に設置されている。

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 もとは「若松町」と称したが、近くに同町名(油小路通の六条・旧花屋町間)があったため、明治11年に東と西を冠して改称した。
 若松町の町名由来は、この地が*寺内町となる前は若宮八幡宮(現在は五条通東大路西入北側に移転している)の境内地で松林があったため。また、近くの「四本松町」は町地になるとき、松林が伐採されて四本だけ残ったことに因むといわれている。

【註】寺内町とは:
 天正19年(1591)本願寺(今の西本願寺)が大坂天満から京都の六条堀川に移転したのに従い、移住してきた町人達が造った町で、本願寺の造営とともに寺内町の建設も進められた。
 西本願寺寺内町は、北は六条通、南は下魚棚通、東は新町通、西は大宮通の範囲である。この範囲に「古町」「由緒町」と称する合わせて13の町があり、他町よりも一段高い格式を持つとされた。
 なお、慶長7年(1602)に徳川家康から烏丸六条の地を寺地として寄進され、別立したのが東本願寺である。


福田寺町
(ふくでんじちょう)

Photo_4

 慶長3年の豊国社造営に際して、東山汁谷(現東山区渋谷)からこの地に移転した福田寺が町名の由来。(その後さらに移転して、今は六条通河原町西入に所在する)
 この福田寺町内の高倉通から西に入って行く小路を「長光寺辻子」と称したが、これは江戸後期に現町名に変わる前の呼称で、すぐ北側の長香寺に由来する。

2011年9月 3日 (土)

これトマソン?! その3

 時代を感じさせる柱の色合いは「国威宣揚」の文言と相俟って、何かオドロオドロシイ雰囲気です。

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 前から見ても、横から見ても???
 この構造物は何なのか、サッパリ判りません!
 その後、正体が判明しました!!('13.10.25 追記)
 大正天皇の即位を記念して、「大典記念京都博覧会」が大正4年10月1日から80日間にわたり岡崎で開催されました。この建造物は当時の電燈台座部分だそうです。

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2011年9月 2日 (金)

聚楽第由来の町名 ー仁丹町名表示板ー その3

 豊臣秀吉が聚楽第を造営するため、大名以外の家臣をまとめて住まわせ、その居住地として一番から七番屋敷まで7つの組屋敷ブロックを設けた。
 その後、秀吉は関白職を譲り左大臣も兼ねさせていた甥の秀次に、聚楽第も譲って豊臣政権の政治を委ねていた。しかし、二人の間に抜き差しならない不和が生じ、秀次は関白職・左大臣職ともに奪われて高野山に追放され、さらには自殺をも余儀なくされた。
 そして、主人秀次の居なくなった聚楽第は、秀吉によりただちにその破却を命じられ、僅か9年でその豪華な姿を消した。

 破却後の聚楽第跡地は永らく耕地や荒れ野となっていたが、宝永5年の大火のあと禁裏周辺の公家町が拡張されたことに伴い、立ち退かされた烏丸下立売界隈の住民が代替地として得たのが、先の7つの屋敷ブロックの跡地であった。そして、そこに秀吉の頃に因んで一番町から七番町までの町名を付け、今に残っている。

 ここには寺院の移転も多く寺院街としての景観も持った。一方、茶屋を営む者も多く、西陣新地(遊郭)の一角をなしたようである。水上勉の「五番町夕霧楼」に出てくる五番町遊郭はこの辺りを中心とした地域であった。

仁丹町名表示板
  
三番町・四番町・五番町・七番町

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