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2011年9月 2日 (金)

聚楽第由来の町名 ー仁丹町名表示板ー その3

 豊臣秀吉が聚楽第を造営するため、大名以外の家臣をまとめて住まわせ、その居住地として一番から七番屋敷まで7つの組屋敷ブロックを設けた。
 その後、秀吉は関白職を譲り左大臣も兼ねさせていた甥の秀次に、聚楽第も譲って豊臣政権の政治を委ねていた。しかし、二人の間に抜き差しならない不和が生じ、秀次は関白職・左大臣職ともに奪われて高野山に追放され、さらには自殺をも余儀なくされた。
 そして、主人秀次の居なくなった聚楽第は、秀吉によりただちにその破却を命じられ、僅か9年でその豪華な姿を消した。

 破却後の聚楽第跡地は永らく耕地や荒れ野となっていたが、宝永5年の大火のあと禁裏周辺の公家町が拡張されたことに伴い、立ち退かされた烏丸下立売界隈の住民が代替地として得たのが、先の7つの屋敷ブロックの跡地であった。そして、そこに秀吉の頃に因んで一番町から七番町までの町名を付け、今に残っている。

 ここには寺院の移転も多く寺院街としての景観も持った。一方、茶屋を営む者も多く、西陣新地(遊郭)の一角をなしたようである。水上勉の「五番町夕霧楼」に出てくる五番町遊郭はこの辺りを中心とした地域であった。

仁丹町名表示板
  
三番町・四番町・五番町・七番町

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