2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月

2011年10月27日 (木)

京の郭(廓)その4 ー上七軒ー

上七軒

 室町時代に北野天満宮社殿の修造がおこなわれた際、余った用材で七軒の水茶屋を建てたのが由来といわれる。元々は七軒茶屋と称した最古の茶屋という。
 天正15年(1587)、秀吉が北野大茶会を催した時に休憩所となり、水茶屋で出された「みたらし団子」が気に入り、京都一円の茶屋株特権を得たと伝わる。(上七軒のシンボルマーク「つなぎ団子」はこの故事に由来する)
 のちの元禄期に至り、上七軒の茶屋は数十軒にふくれあがったようだ。京における公許の廊は西新屋敷(島原)だけであったが、上七軒はその由緒と格式から別格として扱われたという。
 しかし、上七軒もやがて傾城町島原の支配を受ける出稼地となった。
 上七軒遊廓は、北野天満宮社領(境内町)である真盛町・社家長屋町・鳥居前町の3町からなる。

Photo_13

 提灯と芸妓組合入り口のガラスに描かれているのが、上七軒のシンボル「つなぎ団子」である。

Photo_14

2011年10月20日 (木)

京の郭(廓)その3 ー西新屋敷ー

 未開発地であった洛南六條柳町の周辺が傾城町と共に発展し都市化が進むにつれ、二條柳町のときと同様、ここでも矢張り風儀上問題のある町はその存廃問題が生じることとなった。
 そこで再び、突如といったかたちで六條から西新屋敷(島原)への移転を命じられた。


西新屋敷=島原


 寛永17年(1640)、発展して賑わう六條柳町から原野に近い辺鄙な洛西朱雀野の西新屋敷(島原)へと、慌ただしく追いやられたのである。
 西新屋敷が俗に島原と称された由来は、諸説があって必ずしも明らかではないようだ。
その突然の移転騒動が、三年前の島原の乱のようだと評されたからというもの。あるいは、西新屋敷傾城町の回りには堀が巡らされ、出入り口が一カ所で外界と隔てられているのが島原城に似ている・・・、などである。

Photo

 郭の中は、中央を東西に延びる胴筋(現・花屋町通)の北側を東から中ノ町・中堂寺町・下ノ町、胴筋の南側を東から上ノ町・太夫町・揚屋町と計6町があり、中央の胴筋から各町へはそれぞれの小門を潜って入ったという。

 次の写真、輪違屋は置屋で、太夫(遊女の最高の地位)や芸妓を抱え、揚屋へ派遣する店。現在はお茶屋業として営業している。昭和59年(1984)京都市指定有形文化財に指定された。

Photo_9

 次の写真、角屋は揚屋で、現在の料亭・料理屋にあたり、置屋から太夫や芸妓を呼んで歌舞音曲の遊宴を行なった。西新屋敷島原の開設当初から続いた揚屋で、昭和27年(1952)国の重要文化財に指定された。揚屋は江戸の吉原には無く、京の島原と大坂の新町にあった。

Photo_10

Photo_11

Photo_12

 傾城町の外周には幅一間半の堀がめぐらされ、堀の内側には土塀が築かれていた。出入り口は、胴筋の東端にある大門一カ所だけで、そこには番所が設けられて遊女の外出は禁じられていたそうである。後に、享保17年(1733)になって西口が設けられた。

 しかし、その島原が繁栄したのは元禄の頃までと云われ、その後は市内各地に出現した新地に押されてゆく。そうなると、島原は幕府公許の傾城町という権威に縋り、新地を支配する立場を得ようとしてゆく。



2011年10月15日 (土)

京の郭(廓)その2 ー六條柳町ー

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いを経て豊臣から徳川へと政権交代すると、徳川家康は京都支配のため、慶長8年(1603)から二条城を建設することになった。
 しかしながら、堀川二条の西側に二條城の建設が進んで完成すれば、二条通は二條城の大手筋に相当する通りということになる。
 そうなれば、その東方、京の中心部にあたる地に公許の遊郭が存在することは、教育上や風儀上からみて由々しい問題となってくる。こうしたことは、徳川政権の新たな都市政策遂行のうえから、認められないことであった。

Photo_3

(慶長8年(1603)徳川家康が造営を始めた二條城は、寛永3年(1626)三代将軍家光の時に完成)

Photo_4

 このような理由から、京都所司代板倉伊賀守勝重の命により、二條柳町から洛南の未開発地域への場所替え、いわゆる新屋敷への移転となった。


六條柳町=新屋敷


 慶長7年(1602)、二條柳町からいわゆる新屋敷の六條柳町へ移転する。ここは六條三筋町とも呼ばれ、北は五条通、南は六条通、東は室町通、西は新町通を範囲とした。
 六條三筋町とも呼んだのは、室町通と新町通の間に東西の三筋の道(現在の楊梅通・鍵屋町通・的場通)があり、それぞれの筋に面した町を北から順に上ノ町、中ノ町、下ノ町と呼び慣わしたことによる。(上ノ町=現・上柳町、中ノ町=現・蛭子町、下ノ町=現・銭屋町)
 その後、京の町が発展するにつれ、各地に発生して散在していた遊女屋が市中から追われて、遊里三筋町に隣接する地域に移転させられ、六條柳町は拡大していった。
 新たに、西洞院通東側の五条と六条間に太夫町(上と下)、次いで若宮通沿いにも揚屋町が生まれ、六條柳町は東西が室町から西洞院間に拡大した。こうして、六條柳町(新屋敷)は計6町の大規模な傾城町となり隆盛した。

Photo_20200720163601

 上の写真、劣化退色して見辛いが、「下京區 鍵屋町通室町西入 蛭子町」と記されている。

 

Photo_6

 なお、寛永8年、六條柳町遊郭林与次兵衛の抱え遊女二代目吉野太夫(西国武士の娘松田徳子)が上京の豪商である灰屋(佐野)紹益に身請けされて妻となるという、有名なエピソードがあった。
 太夫は才色兼備の最高位の遊女で、京の島原・江戸の吉原・大坂の新町だけに配された。高額の費用を要するため、公家・大名・旗本・豪商など上流階級の客を相手にした。



2011年10月 9日 (日)

看板 ー種々雑駁に その4ー

今回もコメントなしです

Photo

Photo_2

Photo_20200720165101

Photo_4

Photo_2

京の郭(廓)その1 ー二條柳町ー

 最近、立て続けに元遊廓の島原・五条楽園・中書島をカメラ散歩しました。
 私が高校三年生の時に「売春防止法」制定で赤線が廃止され、公認で売春の行なわれていた地域は無くなりました。したがって、誠に残念ながら!?遊廓での実体験も知識もありません。
 にも拘らず、「京のくるわ」を数回にわたる記事にしてみようと思い立ちました。
 いわゆる「くるわ」の呼び方には、傾城町・遊郭・遊里・遊所・色里・色街など色々あるようです。また、遊廓には幕府官許の傾城町(島原)、その島原の支配下にある新地遊廓、そして散在する下級遊廓まで。また、遊女も最高位の太夫から場末の蹴転ばしといわれる私娼まで。いろいろあったようです。

 ところで、遊廓や遊女には、どのような存在意義や存在理由を見出せるのだろう。
 (テーマは軟らかァ〜いのに、出だしはナント硬ァ〜いものに!)
 政治、世相、人物などを批判・風刺・嘲弄する匿名文書や歌を、人目につき易い場所に貼りつける、または道路に落して置くという、落書・落首が中世から近世にかけて広く盛んに行なわれたという。これは、高校の日本史教科書にも出ていたくらいなので、よく知られています。(ex.「二條河原落書」や川柳「白川の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」など)
 ところが、そういう形で怒りや不満を発散するレベルに止まらず、民衆のエネルギーが負のエネルギーへと転化して、権力に向けて集団で直接行動(強訴)をもって訴えるというような事態になれば、公儀の権力と威勢は失墜してしまう恐れがあります。
 お上としては、何としてもこれを回避しなければならないでしょう。

 その辺りに絡めて、遊里(歓楽街)の存在理由をこじつけ的に考えてみました。
 すなわち、遊里の稼業を公許とすることで、楼主と抱え遊女が遊客に対して行なうサービス提供を通じ、別の役割をも果たさせたと考えました。
 その別の役割というのは、世相などに対する民衆の不安や怒りを慰撫し、ガス抜きするための社会的・制度的仕組みとして機能させたというものです。

 以後、京の遊郭の変遷について、書籍・辞典などを漁ってチョット調べてみたことを、数回に分けて記事にしてみます。


二條柳町

 天正17年(1589)、豊臣秀吉の認可を得て、洛中の傾城屋を一カ所に集め傾城町を開設したとされている。北は夷川通、南は押小路通、東は寺町通、西は柳馬場通を範囲とした。
 この辺り、今では京都の中心街であるが、当時は荒れ果てた原野であった。応仁の乱で京の町は広範囲に焼け野原となり、京都の市街地は上と下に分離した状態になり、一条以南、三条以北の間の地域は殆ど原野に等しい有様だったという。
 そこへ公許の遊郭を造ることにより、その周辺には商人をはじめ多くの人々が住み着き、急速に開発が進むくことになる。
 こうして、秀吉による京都大改造事業の一環として都市開発を促進させるため、政策的に傾城町が造られたようである。

Photo

 かつての「二條柳町」に「橘町」があるが、その町名由来について「京雀」(寛文5年刊)には次のように記しています。
 昔この町に傾城屋があったが六條三筋町に移転させられた。そして、「花の立のきたれはとて  立花町と名つけしとにや  今は古道具屋町町也」というのです。



2011年10月 1日 (土)

伏見を自転車散歩

酒蔵(松本酒造)
 伏見の酒蔵写真でよく目にするのは、ここと月桂冠の大倉酒造か。古来、伏見は「伏水」とも記され、桃山丘陵からの豊かな地下水が伏流水となって、多くの銘酒を生んできた。

Photo_3

三栖閘門

 伏見港と宇治川を結ぶ水上交通の施設として昭和4年に建造された。水位の異なる濠川と宇治川を、二つのゲートで水位を調節することにより船を通した。今では使用されていないが歴史的に貴重な施設。

Photo_3

三栖閘門近くの高瀬川畔

 今年の曼珠沙華は彼岸を過ぎてから一斉に咲いた。名前に似合わず咲くのが少し遅い・・・

Photo_14

京都電気鉄道発祥地

 明治28年2月1日、塩小路高倉と伏見下油掛町の間の約6.5キロを狭軌道で開業した。これがわが国最初の市街電車であり、2月1日は電気鉄道記念日となった。

Photo_4

寺田屋(元・船宿)

 大坂八軒屋と伏見京橋間の淀川を三十石舟の船旅客で賑わった。文久2年、寺田屋騒動(薩摩藩の尊攘派と公武合体派による同士討ちの悲劇)が起こる。慶応2年、投宿中の坂本龍馬が幕吏に襲撃されたが、後に妻となるお龍の機転で難を逃れる。

Photo_5


伏見銀座跡

 両替町の五丁目から八丁目にかけての区域に、慶長6年徳川家康が伏見銀座を設置して、銀座一丁目から四丁目となった。銀座は品位の異なる銀貨を統一するために幕府が設けた役所である。東京の銀座より先、日本で最初にできた本家本元の銀座である。

Photo_6


伏見鳥羽の戦いとその痕跡

 戊辰戦争の発端となった戦い。御香宮に陣取る薩長軍と、至近距離にある伏見奉行所に布陣する幕府・新選組との間で激しい戦闘が交わされた。伏見の町も大きな被害を受けたが、大手筋近くの老舗料亭魚三楼の出格子にその時の弾痕が今も残る。

Photo_7


長建寺と御守

 門前の駒札に依れば、真言宗醍醐派に属し本尊は八臂弁財天。伏見奉行建部内匠頭政宇が中書島を開拓するにあたり、深草大亀谷の多聞院を移したのが始まりで、建部の一字をとって寺名とした。珍しい形状の古銭型お守り「宝貝守り」は江戸時代から今に伝えられるという。

Photo_15


« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »