2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

2011年11月26日 (土)

京の郭(廓)その7 ー市内各所の新地 3ー

 京都の代表的な新地であった祇園新地・二條新地・七條新地の他にも、多くの遊所すなわち歓楽街があった。


内野新地


 宝永5年(1708)の大火で罹災した烏丸下立売周辺の住民が、聚楽第破却後の荒廃した地域に移転を命じられて、移り住み町地を形成。(スッポンの大市もこの時に六番町へ移転したらしい)
 北野社や愛宕山への参詣道にあたることもあり、寛政頃から煮売茶屋渡世をするものが多く、茶立女を置いて遊所的な雰囲気があった。寛政2年(1790)に遊女商売が公認されて島原傾城町の支配を受けることとなる。さらに、安政6年には傾城町島原の出稼地である北野上七軒の出店となる。内野の地にできたことから内野新地、別名を北新地・西陣新地とも云ったらしい。
 明治になり島原の支配から脱して、五番町遊廓となる。始めは五番町と四番町の二町であったが、のち明治45年には、一番町・四番町・五番町・三軒町・白竹町・利生町の広域を指すようになったとのこと。

 現在では、五番町遊廓当時の雰囲気を残す建物が僅かながら残っている。

五番町

 

Photo_3

利生町

 

Photo_4

 ところで、旧五番町遊廓近辺を徘徊した折、三番町から七番町では仁丹町名表示板を見かけました。
けれども、一番町と二番町には残っていないようでした。もし、残っているのをご存知の方があればお教え下さい。
 (秀吉が聚楽第を造営時に、大名以外の家臣の居住地として一番から七番屋敷まで7つの組屋敷ブロックを設けた。後年、その跡にできた町に一番町から七番町と名付けた。)


新三本木


 宝永5年(1708)の大火の後、公家町拡張に際してお上に取り上げられた東洞院通の出水と丸太町間の、三本木一〜三丁目がこの地に替え地として移転し成立。新三本木と呼ばれる遊里として栄えた。上之町・中之町・下之町(南之町とも)からなる。
 天保13年(1842)島原以外での遊女屋渡世が禁じられたが、新三本木にはその命令がなく幕末にかけて繁盛した。中之町にあった吉田屋は勤王派が出入りした所で、桂小五郎(木戸孝允)はここで新選組に殺されそうになった。明治3年3月に芸者渡世は禁止されるが、翌月には傾城町出稼地の名義で茶屋芸者渡世が公許される。しかし、次第に衰微した。

Photo_6

頼山陽の山紫水明処(水西荘)
 頼山陽は文政5年(1822)、ここ新三本木の南之町に移り住んだ。その居宅が水西荘で、鴨川に面した離れが書斎の「山紫水明処」である。
 頼山陽といえば、「起承転結」のお手本として、次の俗謡が有名である。

起: 京都三条 糸屋の娘
承: 姉は十七 妹は十五
転: 諸国大名は弓矢で殺す
結: 糸屋の娘は目で殺す

 「起承転結」は、漢詩の絶句におけるスタイルで一行目から順に、起句・承句・転句・結句となる。 これは通常の文章技法でも留意すべきものとされるが、なかなか旨くゆかないようである。ところが、これが四コマ漫画ではピタッとはまるそうな。



2011年11月18日 (金)

京の郭(廓)その6 ー市内各所の新地 2ー

 島原(西新屋敷)は宝暦11年(1761)、洛中洛外茶屋惣年寄という特権を付与される。
 ついで、寛政2年(1790)祇園町・祇園新地(このときから、祇園町と祇園新地は区別せずに一カ所と認定されるようになった)、北野上七軒、二條新地、七條新地の合わせて四カ所が、公認の遊郭(傾城町)である島原支配下の出稼地として遊女渡世を認可されている。


二條新地


 もと聖護院村の畑地であった所を、享保19年(1734)に北野吉祥寺が所司代と町奉行に開発を出願する。そこに新先斗町と大文字町ができ、その後に新生洲町・難波町.中川町・杉本町ができて二條新地は6町となった。

Photo_20

Photo_21

Photo_8


七條新地


 東西を鴨川と高瀬川に挟まれた、六条通以南上ノ口通以北の八ツ柳町・波止土濃町・早尾町・岩滝町・聖真子町の5町、そして正面通以南七条通以北の上二之宮町・下二之宮町・上三之宮町・下三之宮町・十禅師町の5町、二カ所合わせて10町を指す。
 七條新地は、妙法院門跡領を町地としたのであるが、正面以南は宝永3年(1705)に、上ノ口以北は正徳2年(1712)に、それぞれ開拓願いが出され認められた。そして、煮売茶家渡世が認められたのは享保2年(1717)のことという。

Photo_22

Photo_23

 ほっつき歩いていると、岩滝町に「六代目 会津小鉄会」の本部があった。立派な玄関の横手にあるガレージに数人のお兄さん達が張り番していたため、怖くて写真は撮れなかった。

 

Photo_24

2011年11月11日 (金)

辻子 ー杓子屋辻子とその周辺ー

杓子屋辻子

Photo_9

 杓子屋辻子というのは、北は南禅寺(南禅寺福地町)から金地院の前を通り、地下鉄東西線の蹴上駅そば(東小物座町)の「ねじりまんぽ」を潜って三条通に抜ける小路です。
 往時の小物座町は京都の東玄関口にあたり、街道(三条通)を挟んで多くの茶店が軒を並べ、京を発つ人・入る旅人がここで休憩するのが慣わしとなっていたそうです。
 ところで、この杓子辻子周辺には維新京都の近代化を進めるにあたり、欠かすことのできなかった施設が沢山あり、それらの多くを見ることができます。
 つぎの仁丹町名表示板は「上京區」となっていますが、昭和4年に「左京区」として分区成立する前の製作になるためです。

Photo_2

 「ねじりまんぽ」とは、インクラインの下を潜っている煉瓦積みのアーチのこと。
 このアーチの南側(三条通側)上部の扁額は「雄観奇想」、北側(南禅寺側)の扁額は判読困難ながら「陽気発処」とあるようです。何れも琵琶湖疎水の事業主唱者である第三代目京都府知事北垣国道の筆になるそうです。

Photo_3

京都の近代化
 明治維新に事実上の東京遷都により、衰微した京都の回復を図り殖産興業を遂行するため、大規模な土木事業が実施された。
 琵琶湖の水を発電や物資輸送・灌漑用水など多目的利用のため、大津の三保ヶ崎から京都蹴上まで水路(琵琶湖疎水)を開削した。工事は明治18年(1885)8月に開始して、同23年(1890)9月に完了した。
 この水力発電により新しく工場が生まれ、日本最初の市街電車(京都電気鉄道)が走るようになった。さらに二十年後にはより多くの水を求めて第二疎水を建設、水道と市営電車を開業して京都の都市基盤が出来上がった。

インクライン
 物資を載せた疎水船をそのまま台車に乗せ、坂道に敷かれたレールの上を移動するようになっており、琵琶湖と蹴上の標高差を解消していた。

Photo_4

第一疎水第3トンネル西口
 立ち入り禁止柵があるため疎水トンネル出口まで遠すぎるのと、手前の樹木枝に遮られてトンネル上部の扁額は見辛いが「美哉山河」とあります。(写真をクリックすると拡大できます)
 なお、この字は三条實実の筆になるそうです。

Photo_5

蹴上発電所
 明治24年(1891)5月、日本最初の商業用水力発電所として稼働した。明治28(1895)2月、この電気を使い京都電気鉄道伏見線が開業し、これが日本初の市街電車となる。

Photo_6

旧九条山浄水場ポンプ室
 明治45年(1912)3月、第二疎水と蹴上浄水場の完成により水道の給水を開始した。さらに同6月には道路拡張と新たな電気軌道の敷設(市電)により都市基盤整理のための三大事業を終える。

Photo_7

水路閣
 琵琶湖疎水の支流で、京都北部地域の灌漑用水として利用するために引かれた水路の一部である。平成8年(1996)、第一疎水関連施設12カ所の一つとして国の史跡に指定された。

Photo_8

2011年11月 5日 (土)

京の郭(廓)その5 ー市内各所の新地 1ー

 新地とは、特定の者が出願者となって町家建設の願書を提出し、認可を得て田畑や原野が開発され新しい町場となった所とされる。
 この新地では、遊客目当ての水茶屋など公認の茶屋渡世を生業とし、茶汲女や茶立女を置くようになる。しかし、なし崩し的に茶立女などと称しながらも遊女として身売りさせる遊里となってゆく。
 そして、新地はやがて、出稼地として傾城町(公認の遊郭=島原)の支配の下に入ってゆく。

祇園町

 江戸初期に、祇園社(慶応4年に八坂神社と改称)の正門(下河原通に面した門)と西門(四条通に面した門)の門前に出来た町が祇園町で、西門のある四条通の北側にある祇園町北側、南側にある祇園町南側に分かれる。
 はじめは祇園社への参詣人を相手とする茶屋・土産物屋の建ち並ぶ町並みが形成されたらしい。そして17世紀中頃から、参詣人や界隈への遊客相手の水茶屋・煮売茶屋・料理茶屋などができ、茶立女や酌取女と称する遊女が現れて、遊所としての性格をも持つようになったと云う。
 なお、祇園町の場合は自然発生的に形成されてできた町場であるため、新地と呼ばれることはなかったようだ。

清井町

Photo_4

膳所裏と呼ばれた所(現在の東大路通四条上ル一筋目西入)

Photo_6

Photo_15

祇園新地


 次いで16世紀中頃、祇園社領であった四条河原の畑地に祇園町外六町と呼ばれる祇園新地が出来たようである。外六町は大和大路通の弁財天町・常盤町・廿一軒町、そして四条通の中之町・川端町・宮川筋一丁目の計6町で、もとは四条河原の田畑だった所である。茶屋渡世が公認されたのは、寛文年間(1661〜72)という。
 つづいて、内六町と呼ばれる新地が誕生する。これは、祇園町北側の背後にあたる富永町・末吉町・清水町・元吉町・橋本町・林下町の6町である。ここは祇園社領広小路と呼ばれていた田畑に建家願いが認められ、享保17年(1732)に茶屋渡世が認められるようになったという。
 明治になって、祇園社が八坂神社と改名させられたため、祇園新地も八坂新地と変えた。

宮川筋

Photo_16

末吉町

Photo_7

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »