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2011年12月

2011年12月29日 (木)

堀川と堀川通

 先頃(12月10日)、記事『辻子 ー天神辻子(てんじんのずし)とその周辺ー』を載せた折り、堀川と堀川通に興味を惹かれたので、今回はそれについて記すことにします。

現在の「堀川」と「堀川通」

 今の「堀川」は殆どが暗渠となってしまい、僅かに今出川通の少し南(村雲町)から押小路通(二条城前)までの間、綺麗にコンクリート舗装された川底に小さな流れと遊歩道があるのみ。そして、ここを流れる水は本来の堀川の水ではなく疏水から取水したもので、押小路通から再び暗渠に入ったあと西高瀬川に放流しているそうだ。
 なお、現在の「堀川通」は、北端は御薗橋少し南の賀茂街道に始まり、南端は八条通まで通じている。

村雲町で暗渠から出る

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「村雲町(村雲御所が由来)」の仁丹町名表示板

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一条戻橋下から中立売橋(堀川第一橋)を望む

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平安期の「堀川」と「堀川小路」

 「堀川」の川幅は4丈(約12m)で、川の東西両側にそれぞれ2丈(約6m)の小道を配したため、「堀川小路」は8丈(約24m)の幅があったようです。
 現在の堀川通は、この平安京の堀川小路にほぼ該当するらしい。

江戸期の「堀川通」と「堀川」

 この頃の「堀川通」は、北は上立売通から南は本圀寺(昭和46年に山科へ移転)の東北角の万寿寺通付近(いまの堀川警察署の辺り)で終わっていた。そして、堀川の両側の通りを東堀川通・西堀川通と称していたようだ。
 したがって、堀川通は上立売通から北には無かった。しかし、堀川はあったのです。
 ならば、「堀川」は上立売通から北ではどこを流れていたのだろうか? 江戸期末の地図(文久二年「新増債権京絵図大全」復刻版)にあたってみました。

櫟谷七野神社

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「社横町」の仁丹町名表示板
   町名は町内にある櫟谷七野神社にちなむ

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 それによれば、かつての堀川は船岡山の南東、七ノ社=現・櫟谷七野神社(大宮通蘆山寺上ル西入 横町)の南側辺りに発して、蘆山寺通の北側に沿い大宮通まで東流。
 ここから向きを変え、大宮通の西側に沿って上立売通まで南流。(大宮通上立売上ルにある「樋之口町」は堀川の樋の口=水門があったことに由来する)
 ついで、流れはふたたび東に向きを変え、上立売通の北側沿いに芝辻子(芝薬師町)の辺りまで東流。
 ここで三たび流れは南に変わり、須磨町通(現・今出川通)の北側まで南流する。その南側には豊臣秀次ゆかりの村雲御所があった。(西陣織会館の敷地一角に「村雲御所跡」碑が建立されている)
 ここからすぐ東、現在の東堀川通に至り、あとは一路九条まで流れたあと、下鳥羽から鴨川・桂川へと合流していることが判った。

 このように、当時は上立売通より北にも旧堀川が流れていた。そして、流れに沿った道の界隈に居住した人々は、この道を堀川通と呼称していたものと思われます。その後、現・堀川通が拡幅整備されてその名称を奪われてしまった?
 こうした事情が、現在の堀川通から西に外れた場所にもかかわらず、天神辻子沿いに次のような仁丹町名表示板が設置されている理由なのでしょう。
 「上京區堀川通鞍馬口下ル 瑞光院前町」
 「上京區堀川通鞍馬口下ル 天神北町」
 これらの写真は、先頃の記事「辻子 ー天神辻子(てんじんのずし)とその周辺ー」に載せたので省略します。

 因に、このケースのように正式名称の無い(または無かった)通りは珍しくはなく、大宮通西裏(大宮通の西側の裏通り)や御前通西裏(御前通の西側の裏通りで、現・天神通)、三条通北裏(三条通の北側の裏通り)などの通称を持つ通りがある。
 これらは下記の仁丹町名表示板でも確認できる。

「上京區大宮通西裏廬山寺上ル一丁目 社横町」
  写真は上に掲げている

「上京區仁和寺街道御前通西裏西入 下横町」
   下大将軍通に面した横町ということが町名由来のようだ

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「下京區三條通北裏白川筋東入上ル 堀池町」
   町名は三条白川坊に接した堀池殿の苑池跡に由来するらしい

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2011年12月27日 (火)

看板 ー飲料 その3ー

アサヒビール

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白 雪
 小西酒造(兵庫県伊丹市)

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富久寶
 「萬長」の藤岡酒造は一旦は廃業するも再び「蒼空」で復活していますが、「富久寶」は消えてしまっているようです。

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トリスハイボール

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ニッカウ井スキー

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寶 焼酎・味醂・本直し
 「本直し」とは調味料の味醂に焼酎を混ぜ合わせたもの。酒税の税率格差を利用したアルコール飲料の一種で、焼酎に比べ価格が大幅に安かった。
 しかし、2000年の酒税改正で一本化されたため宝酒造は撤退?

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2011年12月22日 (木)

看板 ー調味料 その2ー

醤油ブランドの「キッコー・・・」について
 昨日、『看板 ー調味料 その1ー』に載せた「キッコーマン」の醤油は、全国的によく知られるブランドです。ところで、ブランドに「キッコー・・・」とするものが全国的に多くみられます。
 これは多分、能「鶴亀」や、諺「鶴は千年、亀は万年」など、亀が長寿を象徴して縁起が良いところから、ネーミングにあたり文様の「亀甲(きっこう)」を取り込んだのではないかと考えます。
 因に日本では古来、「玄武」や「亀卜」における亀は神と縁の深いものであり、「亀甲(きっこう)」文様は亀の姿に喩えては名付けられて吉祥文様とされてきた。
 正六角形の整然と並ぶ幾何学的文様は、もとは西アジアに起こったようで、「唐草」文様と同じくシルクロードを通り中国・朝鮮を経て日本に伝わったそうです。
 英語圏ではその形をミツバチの巣になぞらえ、beehive pattern  とも呼ぶそうです。

キッコーナン
  秋田県にかほ市、日南工業株式会社

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キッコーツル
  福島市、内田醸造株式会社

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キッコースエヒロ
  「キッコー」を冠していることから醤油醸造業なのは判るが、詳細は不詳。

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フジジン
  大分県臼杵市、富士甚醤油株式会社

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2011年12月21日 (水)

看板 ー調味料 その1ー

ヒガシマル醤油
  ヒガシマル醤油株式会社(兵庫県たつの市)
マルキン醤油
  丸金醤油株式会社(香川県)、2000年4月兵庫県の食品メーカー忠勇に吸収合併されてマルキン忠勇となる。

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キッコーマン
  キッコーマン食品株式会社(千葉県・前身は野田醤油株式会社)

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ヒゲタしょうゆ
  ヒゲタ醤油株式会社(千葉県・前身は銚子醤油)

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マルサワもろみ
  澤井醤油(京都)

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マルテン醤油
  日本丸天醤油(兵庫県たつの市)

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看板 ー種々雑駁に その5ー

不易墨汁
 不易糊工業株式会社(ブランド名はフエキ)
 糊・接着剤など文具の製造および販売。墨を液状化した墨汁も製造しており、墨のトップブランドでもある。

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亀山ローソク
 カメヤマ株式会社
 神仏用ローソク、キャンドルの製造加工および販売。線香・お香の製造および販売。

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クボタトラクタ
 クボタ電農スクエア
 農業機械、水・環境システム、社会インフラなどのメーカーで、国内の農業機械トップメーカー。

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ポリライス
 武田薬品が強化米として発売され、米と混ぜて炊き上げた。
 「人造米」は、小麦粉、澱粉、米粉を混ぜ米粒状に加工した食品で、米と混ぜて炊くことによりカロリーを補うもの。一方「強化米」は、米に高濃度のビタミンを含浸もしくは噴霧した食品で、米に加えて炊くことにより栄養分を補うものであった。
 人造米は米の量の不足を補うものであり、強化米は米の質の不足を補うものである。
 現在はハウスウェルネスフーズ株式会社が製造販売?

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2011年12月16日 (金)

京の郭(廓)その9 ー橋本遊廓ー

 この「京の郭(廓)」シリーズは、今回をもって9回を数えることになりました。続け過ぎた感も強いので、二桁の回数になる前に今回をもって打ち切ることにします。


橋本(八幡市)


 大坂街道(現・府道13号)沿いの八幡にあり、隣はもう大阪府枚方市となる。
 僧行基が淀川対岸山崎との間に山崎橋を架けた。そのたもとにできた集落であることが地名「橋本」の由来。
 山崎橋は瀬田唐橋・宇治橋と共に日本三古橋の一つとされるが、度重なる流失や淀川水運の開発が進んで廃絶した。昭和37年(1962)までは渡し船が通っていたそうである。
 「橋本の駅」と称し宿場町として発展し、幕末には陣屋が設置されていた。江戸期以来、昭和33年(1958)まで遊郭があり、売春防止法が施行されて後は下宿・アパートに転業したが、今では空き家となった元妓楼と見受けられる建物がかなり残る、うら寂しい町並みとなっている。

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 こんな防火用水が残っていた。

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 以下は、妓楼入口や窓の上部に嵌められている飾りの透かし彫り。

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 そして、京都北部では日本海を東西に巡る北前船開運で賑わった港町宮津に、「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空となる 丹後の宮津でピンとだした」と宮津節に唄われて、全国に広く知られ繁盛した新浜遊郭があった。
 その他、まだまだ京都の各地にあったようですがこのシリーズは擱筆します。



2011年12月10日 (土)

辻子 ー天神辻子とその周辺ー

天神辻子
 現在の上京区最北端にあたる所にあった辻子である。
 鞍馬口通堀川の一筋西を南行して堀川へ抜け、上御霊前通の少し南の寺之内竪町との境界まで。町名でいうと北から、瑞光院前町・天神北町・上天神町・下天神町を通貫している。
 この辻子沿いで二枚の仁丹町名表示板を見かけました。

 元・天神辻子の中程にある上天神町から北を望む。突き当り(大日本スクリーンの社屋)を左に折れて、すぐまた鞍馬口まで北行している。

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 「瑞光院前町」の町名由来は、瑞光院(昭和37年に山科区へ移転)の門前にあたることに因むという。

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 「天神北町」は、水火天満宮の北に位置していたのが町名の由来。ただし、水火天満宮は昭和27年に堀川通拡張のため堀川通東向いの扇町に移転している。

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なお、周辺には他にも二つの辻子がありました。

清次郎辻子
 大宮通鞍馬口の一筋南を西行する小道で、竪社北半町と筋違橋町を通貫する。
 ここでも仁丹町名表示板を見かけた。竪社北半町の町名は櫟谷七野神社に近接していたことによる。

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扇辻子
 この辻子は扇町と本法寺前町の境界となっています。
 上御霊前通堀川を東行する小路で、小川通までの間。扇町公園と水火天満宮の南側になる。
 『京都坊目誌』には、扇町の町名起源を「不詳、始め扇ノ辻子と呼べり」と記しています。
 また、同書の「小川頭」の項に、「實は油小路少し西。寺之内の北にあり。天正年中開通する所なり。北は御霊辻子 [堀川西にて扇町通]  南は曲折して射場町に通ず。頭とは其極端を云ふなり。寺町頭。新町頭。大宮頭の類なり」としています。
 私は、この御霊辻子なる辻子名は初見です。「御霊」と付いた辻子名が幾つかあることを承知しているのですが、折をみて調べてみたいと思っています。
 

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予告:この界隈をカメラ散歩をしていた当時、堀川と堀川通に関しておおいに好奇心が涌いてくる事柄に遭遇したことを思い出しました。
別途、記事にして公開してみようと考え、目下いろいろと調べています。



2011年12月 5日 (月)

京の郭(廓)その8 ー市内各所の新地 4ー

五條新地(五条橋下)

 宝暦8年、御土井跡地の町地化を申請して許可されたのが始まり。宝暦11年(1761)南京極町が北野上七軒の真盛町から茶屋株を借り受け、さらに平居町へも借り受けて営業を始めた。その後、明治以降に五条橋下遊廓は七條新地と合併して、新たに七條新地と称した。
 昭和33年、売春防止法の制定で五条楽園となる。しかし、昨年秋に二回も売春防止法違反で逮捕者が出たため、お茶屋・置屋の営業を休止しているとか。(しぶとく稼いでいるようです)

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中書島

 元禄12年、伏見奉行に就いた建部内匠頭が荒廃していた中書島を再開発。柳町遊廓を移転させ東柳町・西柳町とした。大坂との水運の便と宿場として栄えていたので、島原に次ぐ程の繁栄をみた遊廓であったという。
 他の遊廓跡と同様に、昭和33年以降は学生下宿に鞍替えしたところが多かったそうだ。
 妓楼の雰囲気を感じさせる建物(写真はご迷惑をおかけするため削除しました)


白梅辻子


 江戸元禄期以来の遊廓で、明治3年3月に禁止となるが、翌月二條新地出稼の名義で茶屋渡世が公許された。しかし、その後衰微して同7年廃止になった。
 この白梅辻子の名称由来については、かつて当ブログで「辻子 ー白梅辻子とその周辺ー」として記事にしている。

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