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2012年1月

2012年1月27日 (金)

辻子(ずし)ってなに !?

 「辻子(ずし)」については、既に6回ばかり記事にしています。 
 しかし、そもそも辻子とは何なのかについては、詳しい説明をせず記事を書いていました。

 

 辻子に関する最初の記事『辻子 ー白梅辻子とその周辺ー』中で、「辻子の概念の説明は省略し、ここでは取り敢えず通りと通りを繋ぐ道としておく」と、丁寧さに欠ける説明で済ませていました。
 大通りとは異なってひっそりとした佇まいの辻子と、その名称の由来は、今後もたびたび記事にすることになりそうなので、遅まきながら「辻子」の概念と、所在の特色をクドくならない程度に説明しておきます。

 

辻子とは何だ?

 「町通りではない道、町通りになる前段階の通り」を指す。
 新しく通りと通りをつないでできた道、まだ家が建ち並ばない「道だけの道」、すなわち○○辻子ができる。

 ここに家が建ち並んで辻子が町通りへと化したとき、「町」の語が付いて○○辻子町となったり、「辻子」が省かれて○○町となったりします。


例「まんだらノづし」

 上京区の蔓陀羅町と樋之口町にかかる東西の小道。
 因に、樋之口町(北側の花開院町に対し南花開院町・下花開院町と呼称したこともあったらしい)の町名の由来は、大宮通を北から流れてきた堀川が、東に向きを変えるこの地に水門があったことによる。

Photo_2

 

例「蔓陀羅町」
 町名の由来は、天正年間までこの地にあった曼陀羅山天性寺(現中京区天性寺前町)に因むという。


Photo_3

 

辻子は上京区で目立って多い
 京都では古代末から中・近世にかけて、○○辻子と呼称する道がたくさん成立した。
 近世末には、100例を越える存在が判明しており、「京町鑑」宝暦12年(1762)には80例余りにのぼる辻子が記されています。
 それらと重複する辻子があるが、『都すずめ案内者』には43例、『京羽二重』でも43例の辻子を見ることができます。
 (もっとも、時代により消滅してしまったり、名称が変化してしまったものがあります。)
 なかでも、現・上京区の北半分・中央部分の一帯(一条以北・智恵光院以東・烏丸以西の地域)は、辻子が集中した地域となっており、京都市中全体の約半数を軽く越える辻子が集中している。

 

なぜ上京区に集中したのか
 平安京は中央の朱雀大路を挟んで、左京(東側)と右京(西側)よりなった。しかし、右京はもともと西南部が低地で湿地帯が多く、人々が住むのに適した環境ではなかったため、成立後1世紀も過ぎると早くも衰退していった。
 一方、左京は右京から人家が移動して膨らんだため、平安京の北限であった一条を越えて都市化が北へと進んで行く。この左京域北部への拡大が現在の上京区に辻子の集中した理由なのです。
 なお、この都市域の拡大は鴨川を越えて東側へも及んで行きました。とりわけ、三条通(東海道)沿いの一帯に多くの辻子ができました。

 

なぜこれほど多くの辻子が成立したのか
 この北への拡大は、まず、平安京の南北方向の大路・小路を北に向けて延長することで始まった。既存の道を延ばす方が、新設するよりも容易であったからだろう。
 ついで、新しく延長されてできた南北路方向の道、それら相互の間を連絡する形で、横通りとして東西方向の道ができていった。これが辻子の始まりなのです。
 この東西方向の辻子はやがて町通りへと発展(成長)する。そうすると、次にはこれら東西方向の町通り相互を結ぶかたちで、南北方向をとる辻子が成立して行くことになります。
 このようにして、上京区では辻子がどんどんと集積していきました。


 なお、『京町鑑』など地誌書に見える118の辻子を現在の行政区に振り分けると次のようになる。
 上京区69、中京区12、下京区12、東山区24、南区1となる。

 

参考文献
1.『京町鑑』をはじめ近世京都の地誌書
2.『京都市の地名』 平凡社
3.『角川日本地名辞典26』「京都府 上巻」 角川書店
4.『史料 京都の歴史』 平凡社
5.『京都の地名  検証 ー風土・歴史・文化をよむー』 勉誠出版

 

追記: '17.1.20・27の2週にわたり改めて、『辻子(ずし)ーその発生をめぐってー』 をアップしていますので、ご覧いただければ幸いです。


2012年1月23日 (月)

嵯峨の有栖川

 最近、「堀川と堀川通(改訂版)」で堀川の源流の一つである紫野の有栖川に触れたが、今回は嵯峨の有栖川について見てみました。

 

嵯峨の「有栖川」と「ありすの小径」
   川沿いの小道にメルヘンチックな名前が付けられている。

Photo_2

 

Photo_3

 

 有栖川は別名、斎川(いつきがわ)ともいわれ、伊勢神宮の斎宮(斎王とも云う)に選ばれた皇女が身を清めた場所である斎宮(斎院)に関連するという。なお、潔斎する場所を野宮といい、天皇が即位するたびに斎王を決めるが、斎宮の場所は卜占で決めるため一定しなかったようだ。
 因に、有栖とは荒樔(あらす)・荒瀬のことで、禊祓いを行なう斎場を意味しているという。

 正徳元年(1711)の刊行で、22巻に及ぶ山城国研究の基本文献ともいえる地誌「山州名跡志」によると、京に流れる有栖川は、かつては賀茂、紫野、嵯峨の三ヶ所にあったそうだ。

 賀茂の有栖川= 上賀茂神社本殿の西側を南北に流れ、鴨川に流入していたというが現在では無くなり見ることができない。

 紫野の有栖川= 堀川の源流の一つで「若狭川」とも呼ばれた。この川の流域には上賀茂神社・下鴨神社に奉仕する斎王が住む賀茂(紫野)斎院が存在し、現・櫟谷七野神社の辺りにあったのではと考えられている。(先のブログ「堀川と堀川通(改訂版)」をご覧願います)

 そして、今回取り上げるのが

 嵯峨の有栖川= これが唯一、現在も流れを保っている有栖川である。(上掲の写真)
 嵯峨宮ノ元町の下嵯峨街道(三条通)北側に斎宮神社というのがあり、有栖川の近くに野宮を建てて潔斎した斎宮の旧跡であるという。
 「源氏物語」の舞台となっている有名な野宮神社も斎宮の一つであるが場所は定かでないという。

斎宮神社

Photo_5

 

 この嵯峨の有栖川は有巣河とも記されたという。源流は大覚寺の北、観空寺谷奥からの渓流で、広沢池から流れ出る水が安堵橋の西で合流、嵯峨野を南流し、さらに南東流して梅津を経て桂川の上野橋下流に注いでいる。

 斎宮神社(嵯峨野宮ノ元町)の東方に、嵯峨野神ノ木町と嵯峨野秋街道町の仁丹町名表示板がの残っていた。

Photo_6

 

Photo_7


そばのバス停は「生田口」!?
「嵯峨野」は明治7年に生田村と高田村が合併して成立した。今では「生田」地名は無いが、旧生田村(現在の秋街道町・神ノ木町・宮ノ元町など7町)の人々にとっては通りの良い地域名称なのだろう。

Photo_2


2012年1月19日 (木)

看板 ー種々雑駁に その6ー

コメントはなし、写真だけです。

駐車禁止

Photo


某眼鏡店

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阪神自転車・ダンロップタイヤ

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ウララ

  総合商業施設(茨城県土浦市 JR土浦駅西口)

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MILD SEVEN

Mild_seven

2012年1月12日 (木)

堀川と堀川通 ー改訂版ー

 去る12月29日付のブログ記事『堀川と堀川通』は、「堀川」の流路と共に、「堀川通」から西方に外れた場所にもかかわらず、次の仁丹町名表示板が存在する理由を探ってみたものでした。(写真は省略)
  「上京區堀川通鞍馬口下ル 瑞光院前町」
  「上京區堀川通鞍馬口下ル 天神北町」

 前記ブログを書いて後、所謂「天神辻子」沿いに上記仁丹町名表示板がある謎を解く、資料とその記述の存在がわかりました。
 そこで、改めて堀川通について
 すなわち、『坊目誌』に「北を堀川頭と称す。愛宕郡大宮村字雲林院境に起り、八条坊門に至る。(後略)」とありました。(雲林院は今の紫野雲林院町辺りにあったとされる)
 紫野雲林院町の西側、猪熊通を南へ下がり北区と上京区の境界を南東に堀川通へ抜ける道、まさにこの途中(天神辻子)に件の二枚の仁丹が残っていたのです。

Photo_2

 次に、そもそも堀川の水源と流路は何処だったのか。これを江戸期末の地図(文久二年(1862)「新増細見京絵図大全」復刻版)に当たって調べ、船岡山の南東、七ノ社=現・櫟谷七野神社の南辺りに発していることが判ったと書いていました。(流路については省略)
 ところが、この文久2年の古地図で見た限りでは間違いではないのですが、必ずしも正確ではなかったことが判明しました。というのは、いろんな古地図を見ると堀川の水源・流路は時代により、かなり変化していることが判ったのです。

 以下、伊東宗裕著「京都古地図めぐり ー古地図でながめる京都の歴史ー」に依り、何種類かの古地図で遡れた場所を探してみました。(写真複製したものをさらに縮小しているため非常に見辛い、無精はイケマセンねー)
1.「新板平安城東西南北町並之図」承応3年(1654)
2.「京都明細大絵図」1710年頃
3.「懐宝京絵図」安永3年(1754)
4.「文化改正京都指掌図」文化9年(1812)
5.「改正京町絵図細見大成」天保2年(1831)
6.「改正再刻京都区組分細図」明治12年(1879)
 古来より京都の大河である賀茂川は、雲ヶ畑で桟敷ケ岳・貴船山などからの流れを合わせ南下し、京都盆地に入ると豊かな伏流水・地下水をもつ扇状地を形成したのです。この水が地上に現れ、また消えるなどして、堀川の水源や流路が変化したのでしょう。
 そして、時代による変化はあるが堀川の本流としては概ね紫竹・紫野辺りに発して、大徳寺辺りで有栖川他の小さな川を集めて南に流れ、あとは先のブログに書いたような流路をとったのでしょう。
 なお、もう一つは上賀茂辺りで分流した賀茂川の分派が今宮神社御旅所の東を東南に、妙覚寺・妙顕寺の西側まで流れ、小川(こかわとも云ったらしく小川通の由来))となって一条まで流れたあと西流し、一条戻橋で堀川に合流していたようです。

 さらに、次の書籍には上記の地図に照応する記述がありました。(前回のブログ記事作成前に気付いていればよかった・・・惜しい!)

1.『日本歴史地名大系27』「京都市の町名」 編集代表=林屋辰三郎他 平凡社
 水源は時代により変化したと見られる。古代は賀茂川に源を発したと考えられる。これは堀川が旧鴨川の本流であったとする説と合致し、調査で砂礫層の広幅な旧河床が明らかになっている。しかしこれを鴨川本流としない説も有力である。
 中世以後は、水源・流路の変改がみられるが、ほぼ紫竹付近に発し、大徳寺周辺の諸小川を集めて南下<し、大宮通を更に南流、上立売通で東折し、堀川通に至って再び南流して、一条戻橋で小川(「こかわ」とも)を併せ、一直線に南下し、西本願寺に至る。西本願寺付近で多少屈曲した後、西九条村を貫通して、九条通に至り、御土井堀を併せ西流し、八条村四塚から鳥羽作道に沿って南下、上鳥羽村北で天神川に合流していた。
 流路変更による鴨川への合流は昭和9年(1934)である。
(別の箇所で次の記述もある)
 古くはこの盆地を大小さまざまな河川が自然の地形に沿って流れていたことは、各種平安京古図によって知られる。(略)。堀川は平城京にもあったが、その名称から京中の疏水として利用された水路であったと思われる。この堀川は上賀茂辺りで賀茂川と分岐する、その一支流であった。

2.「京都の地名検証」京都地名研究会編 勉誠出版
 「有栖川」の項
 (前略)一方、紫野の有栖川は、もともとは堀川の源流の一つとなっており、「若狭川」とも呼ばれていた(若狭川の上流部は今も存在しているが、途中から暗渠となり鴨川に直接合流している)。この川の流域にも、上賀茂神社・下鴨神社に奉仕する斎王が住まう紫野斎院が存在し(櫟谷七野神社の付近)、やはり禊の川であったと考えられる。堀川の一条戻橋より上流が若狭川(有栖川)であり、今は上流部はほとんど暗渠となっている。大徳寺の東側に残る水路が当時の川の一部と思われる。


往時の有栖川の一部か

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賀茂斎院(紫野斎院とも)跡碑
(写真をクリックすると説明文が拡大されてよくみえます)

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2012年1月 8日 (日)

月下氷人石

迷子探しの伝言板
 江戸末期から明治中期頃に、迷子や尋ね人を捜す方法として、石碑の片側に尋ねる迷子等の名前を書いた紙を貼り、その件について知る人が反対側にその情報を書いた紙を貼るという風習があった。
 伝言板のようなもので、大都市の社寺や盛り場など人出の多い場所に建てられたようだ。
 この石碑は俗に月下氷人石と言い習わしているようで、京都では次の三つのものが広く知られているようである。特に誓願寺のものは多くの人が目にしている筈。

「奇縁氷人石」
 北野天満宮の茶室「松向軒」内にあり、石碑は文政5年(1822)の建立。
 普段、茶室は閉鎖されているようで、出かけて行った時も中へは入れなかった。
 しかし、塀が低いため入口右手の方から、庭の奥に石碑があるのが見える。上からかなり無理をして撮影したものの、ポジションが悪く、また万両と青木に遮られて撮れたのは石碑の一部。しかも、三脚を持ち合わせていなかったため手振れして残念な結果だった。
 上部は欠けており、表側には「奇縁氷人石」、右側には「たづぬる方」、左側は「おしゆる方」と彫られているそうだ。

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「月下氷人石」

 八坂神社の南楼門外にあり、石碑は天保10年(1839)の建立。
 下河原通から八坂神社へ入って行く時に目に入る。
 表側は大きく「神燈」と彫られて、上部は灯火を灯す四角の空洞になっている。
 裏側は天保十年の建立であることと、いきさつが彫られているようだが私には判読することができない。そして、左側には「尋方」、右側には「教方」と彫られている。
「 月下氷人石」と呼んだ由来は不明であるが、通称として普及しているようだ。
 「月下氷人」は結婚の仲立ちをする人、なこうどを意味するので、迷子探しの仲介をする伝言板の機能を持たせたことから、このような呼称が生まれたのだろう。

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「迷子みちし留遍石」

 誓願寺門前にあり、明治15年(1882)の建立。
 新京極を南から北に向って歩くと目に入る。
 表側には「迷子みちし留遍」、右側には「教し由留方」と彫られている。
 しかし、左側は今では土壁に接しているために見ることができない。多分「尋ぬ留方」とでも彫られているのだろう。

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ほかにも、各地にあるようです。
大阪・・・大阪天満宮「奇縁氷人石」
神戸・・・湊八幡神社「満よひ子のしるべ」
東京・・・湯島天神「奇縁氷人石」、浅草寺「迷い子知るべ石」、永見寺「迷い子知らせ」、一石橋のたもとに「満よひ子の志るへ」
なお、宮部みゆきの小説「ぼんくら」「幻色江戸ごよみ」中にも、迷子石が描かれていたような記憶がある。(富岡八幡宮と回向院?)


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