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2012年1月12日 (木)

堀川と堀川通 ー改訂版ー

 去る12月29日付のブログ記事『堀川と堀川通』は、「堀川」の流路と共に、「堀川通」から西方に外れた場所にもかかわらず、次の仁丹町名表示板が存在する理由を探ってみたものでした。(写真は省略)
  「上京區堀川通鞍馬口下ル 瑞光院前町」
  「上京區堀川通鞍馬口下ル 天神北町」

 前記ブログを書いて後、所謂「天神辻子」沿いに上記仁丹町名表示板がある謎を解く、資料とその記述の存在がわかりました。
 そこで、改めて堀川通について
 すなわち、『坊目誌』に「北を堀川頭と称す。愛宕郡大宮村字雲林院境に起り、八条坊門に至る。(後略)」とありました。(雲林院は今の紫野雲林院町辺りにあったとされる)
 紫野雲林院町の西側、猪熊通を南へ下がり北区と上京区の境界を南東に堀川通へ抜ける道、まさにこの途中(天神辻子)に件の二枚の仁丹が残っていたのです。

Photo_2

 次に、そもそも堀川の水源と流路は何処だったのか。これを江戸期末の地図(文久二年(1862)「新増細見京絵図大全」復刻版)に当たって調べ、船岡山の南東、七ノ社=現・櫟谷七野神社の南辺りに発していることが判ったと書いていました。(流路については省略)
 ところが、この文久2年の古地図で見た限りでは間違いではないのですが、必ずしも正確ではなかったことが判明しました。というのは、いろんな古地図を見ると堀川の水源・流路は時代により、かなり変化していることが判ったのです。

 以下、伊東宗裕著「京都古地図めぐり ー古地図でながめる京都の歴史ー」に依り、何種類かの古地図で遡れた場所を探してみました。(写真複製したものをさらに縮小しているため非常に見辛い、無精はイケマセンねー)
1.「新板平安城東西南北町並之図」承応3年(1654)
2.「京都明細大絵図」1710年頃
3.「懐宝京絵図」安永3年(1754)
4.「文化改正京都指掌図」文化9年(1812)
5.「改正京町絵図細見大成」天保2年(1831)
6.「改正再刻京都区組分細図」明治12年(1879)
 古来より京都の大河である賀茂川は、雲ヶ畑で桟敷ケ岳・貴船山などからの流れを合わせ南下し、京都盆地に入ると豊かな伏流水・地下水をもつ扇状地を形成したのです。この水が地上に現れ、また消えるなどして、堀川の水源や流路が変化したのでしょう。
 そして、時代による変化はあるが堀川の本流としては概ね紫竹・紫野辺りに発して、大徳寺辺りで有栖川他の小さな川を集めて南に流れ、あとは先のブログに書いたような流路をとったのでしょう。
 なお、もう一つは上賀茂辺りで分流した賀茂川の分派が今宮神社御旅所の東を東南に、妙覚寺・妙顕寺の西側まで流れ、小川(こかわとも云ったらしく小川通の由来))となって一条まで流れたあと西流し、一条戻橋で堀川に合流していたようです。

 さらに、次の書籍には上記の地図に照応する記述がありました。(前回のブログ記事作成前に気付いていればよかった・・・惜しい!)

1.『日本歴史地名大系27』「京都市の町名」 編集代表=林屋辰三郎他 平凡社
 水源は時代により変化したと見られる。古代は賀茂川に源を発したと考えられる。これは堀川が旧鴨川の本流であったとする説と合致し、調査で砂礫層の広幅な旧河床が明らかになっている。しかしこれを鴨川本流としない説も有力である。
 中世以後は、水源・流路の変改がみられるが、ほぼ紫竹付近に発し、大徳寺周辺の諸小川を集めて南下<し、大宮通を更に南流、上立売通で東折し、堀川通に至って再び南流して、一条戻橋で小川(「こかわ」とも)を併せ、一直線に南下し、西本願寺に至る。西本願寺付近で多少屈曲した後、西九条村を貫通して、九条通に至り、御土井堀を併せ西流し、八条村四塚から鳥羽作道に沿って南下、上鳥羽村北で天神川に合流していた。
 流路変更による鴨川への合流は昭和9年(1934)である。
(別の箇所で次の記述もある)
 古くはこの盆地を大小さまざまな河川が自然の地形に沿って流れていたことは、各種平安京古図によって知られる。(略)。堀川は平城京にもあったが、その名称から京中の疏水として利用された水路であったと思われる。この堀川は上賀茂辺りで賀茂川と分岐する、その一支流であった。

2.「京都の地名検証」京都地名研究会編 勉誠出版
 「有栖川」の項
 (前略)一方、紫野の有栖川は、もともとは堀川の源流の一つとなっており、「若狭川」とも呼ばれていた(若狭川の上流部は今も存在しているが、途中から暗渠となり鴨川に直接合流している)。この川の流域にも、上賀茂神社・下鴨神社に奉仕する斎王が住まう紫野斎院が存在し(櫟谷七野神社の付近)、やはり禊の川であったと考えられる。堀川の一条戻橋より上流が若狭川(有栖川)であり、今は上流部はほとんど暗渠となっている。大徳寺の東側に残る水路が当時の川の一部と思われる。


往時の有栖川の一部か

Photo_4

賀茂斎院(紫野斎院とも)跡碑
(写真をクリックすると説明文が拡大されてよくみえます)

Photo_4

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