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2012年3月

2012年3月28日 (水)

辻子 ー下ノ森通沿いの辻子 3の3ー

又之辻子ー三太夫辻子ー藍屋辻子

藍屋辻子(「相合ノ辻子」とも)
 下ノ森通の下長者町通・下立売通間をいう。二番町・鳳瑞町・三番町・西東町・三助町・長門町を貫通している。

Photo_9

 二番町・三番町の名称については、豊臣秀吉の聚楽第建造に由縁があるが、前回までの「又之辻子」と「三太夫辻子」の記事でも記したので、省略します。
 三助町と西東町についてはよく判らないようだ。

三助町の仁丹町名表示板
 これも、下ノ森通の別称「相合ノ圖子通」となっている

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西東町の仁丹町名表示板
 この琺瑯製版の少し東方に、風雨等による劣化で極めて読み取り難いが、木製の仁丹町名表示板が残存している。

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2012年3月24日 (土)

辻子 ー下ノ森通沿いの辻子 3の2ー

又之辻子ー三太夫辻子ー藍屋辻子

三太夫辻子(三田屋辻子とも)
 下ノ森通の仁和寺街道・下長者町通間をいう。二番町・鳳瑞町を貫通している。

Photo_7

 二番町と鳳瑞町の名称由来は前回記事「又之辻子」でも記したが、次の通り。
 二番町は、豊臣秀吉が聚楽第を建造する際、この辺り内野の地に大名でない武士達を纏めて住まわせた。六軒町通仁和寺街道を中心に7ブロックに区分して、一番から七番までの番号を付したのが一番町から七番町までの起源。
 鳳瑞町は、平安京大内裏が衰退した後、皇室や貴族の領地がこの地に分布していたので鳳瑞の名が生まれた、また随念寺長屋・西三軒町・双林寺屋敷・宝受寺屋敷の4字(あざ)を合して鳳瑞町としたとしたものもあるとのこと。

鳳瑞町の仁丹町名表示板
 下ノ森通の別名「相合ノ圖子」になっています

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2012年3月21日 (水)

辻子 ー下ノ森通沿いの辻子 3の1ー

下ノ森通について
 通りの名称は、近世、北野天満宮の門前一帯を下ノ森・天神ノ森と称したことに由来する。
 かつて、この下ノ森通の一条通から下立売通までを、相合辻子(あいあいのずし)通とも呼んでいた。「相合」とはなんとも艶っぽい感じがするが、この辺り、西の御前通から東の七本松通まで、新建町・西町・東町・三軒町の地域に下ノ森遊郭があったので、何となく頷ける気もする。
 この周辺には他にも、上七軒、五番町(下級遊廓のイメージが強いというので北新地、ついで西陣新地と改めている)など、遊廓の多かった地域ではあります。

 この下ノ森通の一条通・下立売通間には、三つの辻子が連続している。北から順に「又之辻子」「三太夫辻子」「藍屋辻子」といっていたようです。

 今回はまず、又之辻子です。

又之辻子
 下ノ森通の一条・仁和寺街道間を称した。東町・一番町・二番町・西町・鳳瑞町の各町を貫通している。
 東町・西町は、上記のように下ノ森遊郭を形成した町のうちの二町。
 一番町・二番町の町名由来は、豊臣秀吉が聚楽第を建造する際、この辺り内野に大名でない武士達を纏めて住まわせた。六軒町通仁和寺街道を中心に7ブロックに区分して、一番から七番までの番号を付したのが一番町から七番町までの起源。
 鳳瑞町は、平安京大内裏が衰退した後、皇室や貴族の領地がこの地に分布していたので鳳瑞の名が生まれた、また随念寺長屋・西三軒町・双林寺屋敷・宝受寺屋敷の4つの字(あざ)を合して鳳瑞町としたとしたものもあるとのこと。

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灰屋紹益の墓
 下ノ森通西側の立本寺墓地にある。その墓地には島左近(石田三成の参謀)の墓もある。

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 灰屋紹益の本名は佐野重孝、江戸前期の豪商で文人。最初の妻は本阿弥光悦の娘、後に寛永三名妓の一人といわれた二代目吉野太夫を身請けして妻とする。このとき灰屋紹益は22歳、吉野太夫は26歳。
才色兼備・最高位の遊女が「太夫」で、京の島原・江戸の吉原・大坂の新町だけに配された。高額の費用を要するため、公家・大名・旗本・豪商など上流階級の客を相手にした。
 吉野太夫の墓はここ立本寺墓地のほか、鷹ケ峰の常照寺(吉野門は吉野太夫の寄進)にあるが、これはのちに片岡仁左衛門が夫婦の比翼塚を寄進している。美人薄命というが38歳で病死しているそうだ。

2012年3月15日 (木)

「京七口」と街道 ー竹田街道ー

 竹田街道は、京都から竹田を経て伏見に至る街道。
 文禄年間に豊臣秀吉による伏見城築城後に開かれ、伏見街道と共に京都と伏見を結ぶ最も重要な幹線道路となる。

写真=京都駅ビル東側付近
 通り(東洞院通)の突き当りを御土居が東西に走っており、正面の低い建物の辺りに竹田口があったようだ。(JR京都駅0番線のプラットホームは御土居外側の堀跡にあたるらしい)

Photo

 竹田街道の道筋は二つあり、一つは京都から東洞院通を南下する道で、東洞院が洛中から洛外になる東塩小路辺りを竹田口と呼んでいた。
 竹田口を南下して鴨川を勧進橋で渡り、竹田の東部を通って伏見に至る道筋を東竹田街道といっていた。
 もう一つは、油小路通を南下して鴨川を竹田橋で渡り、竹田の南から東竹田街道に合流(現在の国道24号が竹田街道からそれて東南方向にカーブする「伏見加賀屋敷町」交差点辺り)する道筋があり、これは西竹田街道と呼ばれた。

写真=棒鼻車石

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 一般的には、東洞院を南下する東竹田街道のことを竹田街道と呼んだ。
 東竹田街道は人道に沿って荷駄用の牛車の通行に便利なよう、車石が舗装道路のように敷設されていた。この東伏見街道は荷車や馬車が頻繁に往来する一方、西竹田街道は衰退していったようだ。
 なお、往時の竹田街道(旧道)の竹田久保町〜七瀬川町は東高瀬川沿いを通っていたそうだ。

写真=下神泉苑町(仁丹町名表示板)

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写真=西朱雀町(仁丹町名表示板)
 下神泉苑町、西朱雀町などは京都から移り住んだ人々が、旧地の町名を開拓した町の呼称としたのである。

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写真=東大黒町(仁丹町名表示板)

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写真=京 橋
 江戸時代には、ここ宇治川派流〜濠川〜伏見港〜宇治川〜淀川へとつながり、この京橋船着場と大坂天満の八軒屋船着場は、京都・大坂を三十石舟で結ぶ淀川舟運の要衝となっていた。(埋め立てで川幅がすっかり狭くなってしまっているが、当時はもっと広かったそうだ)
 参勤交代の大名行列や伊勢神宮参拝にゆくなどの一般の旅人で、淀川水運を利用する人々はこの京橋に上陸し、陸路で山科を経て東上した。京橋北詰に脇本陣があったらしい。

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写真=寺田屋
 京橋の東の畔にある寺田屋は三条小橋の池田屋と共に、維新史跡としてよく知られる。寺田屋事件や坂本龍馬が幕府の手に襲われるなどで有名。

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2012年3月 8日 (木)

懐かしいポスターと看板

サントリー山崎蒸留所  ウイスキー館にて

トリスウイスキー 1
 コピー「トリスを飲んで Hawaii へ行こう」は山口瞳さん、キャラクター「アンクルトリス」は柳原良平さんの作。いずれもサントリーの前身「寿屋」宣伝部に在籍した。

Photo

トリスウイスキー 2
 このコピー ”「人間」らしくやりたいナ・・・”も、「寿屋」宣伝部に在籍した開高健さんの作。

Photo_2

トリスウ井スキー 3
 なんと、ウ井スキー

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ホーム・コクテール・コンクール
 なななんと、コクテール

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サントリーウイスキー
 「醒めよ人、舶来盲信の時代は去れり」意気や良し

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ボトルの行列
 壮観ですなー

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2012年3月 1日 (木)

「京七口」と街道

「口」の付く地名

 京都市内の地図を眺めていると、「口」の付く地名をよく見かけます。
 それら「○○口」で表される地名は、いくつかのタイプに区分けできるように思われます。
 1つ目:ごく狭い一画を表しているもの。例えば、上京区の「西之口町」は平安初期にあった「左近の馬場の西の入口」にあたる。中京区「樋之口町」は鴨川から高瀬川に水を取り入れる水門のある場所。
 2つ目:集落などある程度広い地域への出入口を表したもの。例えば、西京区「千代原口」は近世の千代原村(現在の桂巽町・桂坤町・桂乾町・桂艮町・千代原町にあたる)への入口の地名。また、下京区「島原口」は近世以来の公許遊廓であった通称島原(西新屋敷の各町)への入口を表す地名。
 3つ目:いわゆる「京七口」で、三条口・竹田口・丹波口など主要街道の出入口です。この口地名はその街道の起点となる地名だけではなく、経由地名や到達地名を冠している場合が珍しくない。

 そこで、上記三つ目の「京七口」とそこを起点とする街道を、記事にしてみるのも楽しいかなと思い立ちました。(まとまり次第、何回かにわたって記事にしてみたいと考えています)

 「京七口」はやはり、元々は京都の周囲にある主要各街道の七ヶ所に出入口が設けられていたのでしょう。
 しかし、出入口の数、名称や場所が時代により変化したため、数としての七には余り意味が無くなり、京都の出入口を表す「総称」に変わっていったようです。

「荒神口」の地名表示

Photo_3

護浄院(通称清荒神)
 上京区荒神口通新烏丸東入 荒神町
 寺町通の東側を御土居が南北に延びていた。この護浄院辺りにあった開口部が荒神口であり、山中越えで近江へ通じる街道の起点となっていた。
 清荒神が「荒神町」の由来となっている。

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御土居と「京七口」

 「京七口」という表現が一般的に使用されるようになったのは、近世に入り豊臣秀吉が天正19年(1591)京都大改造の土木工事の一環として、京都の周囲に22.5Km にわたる御土居を築造して、そこに設けた出入口の九ヶ所(とみられる?)が始めらしい。
 (御土居の内と外で京都の洛中と洛外が明確に区別されることになった。しかし、そもそも御土居構築の目的については諸説があり、確たるものは無いようです)
 明治に入ると民有地となりとり潰して畑などに転用され、大正期には住宅開発で殆どの部分が破壊された。その後、辛うじて残った部分を保護するため、8ヶ所が国の史跡に指定された。(昭和40年に1ヶ所が追加指定される)

御土居跡
 上京区馬喰町(北野天満宮境内の西端)
 左方は急傾斜となっており、その底部は紙屋川(天神川)で堀を兼ねていた。

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 ところで、近世以降の文献に代表的「京七口」として見られるのは、次のものだそうである。( )内は別称です。
三条口(三条橋口・粟田口・大津口)→ 江戸への東海道(三条街道)、途中で中山道に分岐
伏見口(五条口・五条橋口・宇治口)→ 伏見街道、伏見を経て大和・大坂へ
竹田口 → 竹田を経て伏見への街道(大和・大坂につながる)
東寺口(山崎口)→ 山崎・高槻・西宮を経て西に向う西国街道
鳥羽口(東寺口・八幡口)→ 鳥羽・淀・八幡を経て大坂へ行く鳥羽街道
丹波口(七条口)→ 亀岡を経て丹波へ行く山陰街道
長坂口(清蔵口)→ 京見峠・杉坂に至る長坂越え、周山街道につながり若狭への道
荒神口(今道の下口・今出川口)→ 山中越えで西近江への街道 
大原口(龍牙口)→ 大原・朽木を経て若狭に至る若狭街道 
鞍馬口 → 鞍馬を経て丹波に至る鞍馬街道

 しかし、京七口の呼び方が一般的になる前、すなわち、中世にも既にいくつかの口地名が文献に見られるそうです。
平安時代の中期の文献には、
粟田口が、『栄華物語』卷七、長保3年(1001)9月の「石山詣で」に。
九条口が、『為房卿日記』寛治6年(1092)2月6日の条に。
室町時代の文献には、
鞍馬口、長坂口が、山科家古文書『山科家礼記』延徳3年(1491)6月30日の条に。
大原口、粟田口が、同じく山科家文書の『言継卿記』永禄10年(1567)10月2日の条に。
丹波口が、『東寺執行日記』嘉吉元年(1441)9月5日の条に。

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