辻子 ー下ノ森通沿いの辻子 3の1ー
下ノ森通について
通りの名称は、近世、北野天満宮の門前一帯を下ノ森・天神ノ森と称したことに由来する。
かつて、この下ノ森通の一条通から下立売通までを、相合辻子(あいあいのずし)通とも呼んでいた。「相合」とはなんとも艶っぽい感じがするが、この辺り、西の御前通から東の七本松通まで、新建町・西町・東町・三軒町の地域に下ノ森遊郭があったので、何となく頷ける気もする。
この周辺には他にも、上七軒、五番町(下級遊廓のイメージが強いというので北新地、ついで西陣新地と改めている)など、遊廓の多かった地域ではあります。
この下ノ森通の一条通・下立売通間には、三つの辻子が連続している。北から順に「又之辻子」「三太夫辻子」「藍屋辻子」といっていたようです。
今回はまず、又之辻子です。
又之辻子
下ノ森通の一条・仁和寺街道間を称した。東町・一番町・二番町・西町・鳳瑞町の各町を貫通している。
東町・西町は、上記のように下ノ森遊郭を形成した町のうちの二町。
一番町・二番町の町名由来は、豊臣秀吉が聚楽第を建造する際、この辺り内野に大名でない武士達を纏めて住まわせた。六軒町通仁和寺街道を中心に7ブロックに区分して、一番から七番までの番号を付したのが一番町から七番町までの起源。
鳳瑞町は、平安京大内裏が衰退した後、皇室や貴族の領地がこの地に分布していたので鳳瑞の名が生まれた、また随念寺長屋・西三軒町・双林寺屋敷・宝受寺屋敷の4つの字(あざ)を合して鳳瑞町としたとしたものもあるとのこと。
灰屋紹益の墓
下ノ森通西側の立本寺墓地にある。その墓地には島左近(石田三成の参謀)の墓もある。
灰屋紹益の本名は佐野重孝、江戸前期の豪商で文人。最初の妻は本阿弥光悦の娘、後に寛永三名妓の一人といわれた二代目吉野太夫を身請けして妻とする。このとき灰屋紹益は22歳、吉野太夫は26歳。
才色兼備・最高位の遊女が「太夫」で、京の島原・江戸の吉原・大坂の新町だけに配された。高額の費用を要するため、公家・大名・旗本・豪商など上流階級の客を相手にした。
吉野太夫の墓はここ立本寺墓地のほか、鷹ケ峰の常照寺(吉野門は吉野太夫の寄進)にあるが、これはのちに片岡仁左衛門が夫婦の比翼塚を寄進している。美人薄命というが38歳で病死しているそうだ。
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