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2012年4月

2012年4月24日 (火)

「京七口」と街道 ー鳥羽街道ー

 九条通千本の北側、唐橋羅城門町にある公園に、石碑「羅城門跡遺址」が建っている。
 ここにあった鳥羽口(東寺口・八幡口などとも称された)を起点として千本通を真っ直ぐ南下、小枝橋で鴨川の東に出て淀に至る。
 鳥羽街道は鳥羽・淀・八幡を経て淀川沿いに大坂に通じており、大坂街道とも呼ばれた。
 竹田街道とともに京都への物資搬入路として重視された街道で、牛車による輸送の便から敷石(車石)が敷設されていたそうだ。

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 この鳥羽街道は、古くは「鳥羽の作り道」といったようですが、その道筋は少し異なるようです。
 「鳥羽の作り道」は平安京の玄関口にあたる羅城門から真っ直ぐに南下し、下鳥羽にあったといわれる「鳥羽の津」(淀山崎から難波に通じる湊)に至る道で、平安京の造都のために必要な資材を運搬するため、整備された道であることから「作り道」の名が付けられたようです。
 そして、白河天皇が鳥羽離宮を造営してからは、洛中とを結ぶ重要な街道となったようです。
 下鳥羽というのは古来より水陸交通の結節点で、桂川を西に渡り淀・山崎に至る久我畷、大坂を経て山陽道・南海道に通じており。ほかに、西よりの街道で山崎と京都を結ぶ西国街道も通っている。

 鴨川畔の小枝橋は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いの戦端が切られた所である。

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 その少し南には、広大な鳥羽離宮跡公園がある。その北端の小山は秋の山(鳥羽山)といわれ、離宮の築山の跡だとされる。鳥羽の作り道は離宮の西側を通っていたとみられている。
 鳥羽離宮は、白河天皇が退位後の院政の拠点として造営した離宮で、鳥羽天皇が拡張したといわれる。

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恋塚寺(下鳥羽城ノ越町)
 境内には、遠藤盛遠(北面の武士で後に出家して文覚上人となる)が横恋慕し、誤って殺された袈裟御前の墓と伝えられる石塔戀塚がある。戀塚の傍には林羅山の記した「鳥羽戀塚碑銘」が建っている。
 一説に、恋塚のコイは小枝の転訛で、小枝塚が恋塚となったともいわれる。

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 面白いことには、この恋塚寺の北方約2Kmの浄禅寺(上鳥羽岩ノ本町)にも袈裟御前塔と恋塚碑があり、ここにも袈裟御前の物語があってしばしば混同される。(一説にこの恋塚は鯉塚ともいわれるようだ)

 街道右手、桂川左岸堤の羽束師橋そばに、「草津湊の跡」と「魚市場跡の碑」がある。
 草津湊は下鳥羽から横大路にかけて桂川にあった古代の津。京都に最も近い湊で舟で西国に行く人々の乗船地であったといわれる。保元の乱のあと崇徳上皇が讃岐に配流された時は、ここ草津から船出したのだろうといわれているようだ。
 近世以来、明治10年に鉄道が開通するまでは、海の魚介を積んだ曵き船が淀川・桂川を遡り、ここで荷揚げされた魚は陸路を京都まで運ばれたそうだ。

魚市場址碑

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 鳥羽街道(現・千本通)の南端は、現在の府道13号(京都守口線)納所交差点である。そのすぐ南には淀城跡があるが、今では侘しい感じで本丸石垣と内濠の一部が残っているだけ。

2012年4月16日 (月)

古・大和街道 ー法性寺大路ー

古道の大和街道

 法性寺大路とも称され、現在の大和大路通である。
 (法性寺大路の由来については、別項の「伏見街道」で触れたのでここでは省略します)
 鴨川東側に並行して(南に行くほど鴨川から離れて行くが)、三条通から(方広寺)大仏門前をへて泉涌寺道に至る南北の道(古・大和街道=法性寺大路)が現在の大和大路。大和大路の南端、泉涌寺道を西に折れると本町通の一之橋で伏見街道(本町通)に出る。
 そして、伏見街道から京町通に至り伏見市内へと至る。

 伏見山(伏見城のあった所)の南麓を経て、六地蔵・木幡を通り宇治へ行く古道が大和街道と呼ばれ、伏見・宇治を経て大和へと結ばれていた。

西之町(仁丹町名表示板)
 知恩院新門前通の西端にある町と云うことで、この町名がある。大和大路から知恩院に至る参詣道として、古門前通と共に賑わったようだ。この辺りが古・大和街道の北端になるのだろうか。

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大和橋
 大和大路の白川に架かる橋。
 大和橋と大和大路の名称由来は文献によって二通りあって、一つは古の大和街道に架かる橋であることからくる。二つは貞享年中に所司代の内藤大和守が架けた橋というのが由来。いずれが正しいのかは定かではないようです。

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 紛らわしいのですが、ここにいう大和街道は鎌倉期の古道である法性寺大路=大和街道であって、近世になってから豊臣秀吉が開いた大和街道(巨椋池中の小倉堤を通る道)ではない。

 なお、大和大路通は三つの部分からなり、三条〜四条間を縄手通(鴨川東岸の堤であった)、四条〜五条間を建仁寺通、五条以南を大仏仁王門通(この大仏は方広寺大仏のこと)と称した。(現在では、四条通を境に北を縄手通、南を大和大路通と称している)

弓矢町(仁丹町名表示板)
 古くから祇園感神院(現八坂神社)に仕えた犬神人(つるめそ)の居住地で、弓矢の製造に従事し、祇園会に際してはその弓矢を携え神事の護衛にあたったのが、弓矢町の名の起こりという。
 なお、犬神人を「つるめそ」と称したのは、年初の縁起物に弓矢をひさぐ慣わしがあり、その売り声が「つる召そ」であったことによるという。

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方広寺石垣
 方広寺は豊臣秀吉と遺志を継いだ秀頼により建立された。何度も地震や火災で破損・焼失したようで、今では石垣、鐘楼・梵鐘が残るだけ。

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方広寺梵鐘の銘文
 豊臣秀吉の願により創建されたが、徳川家康は梵鐘銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」は、徳川家転覆を暗示するとの言い掛かりをつけて、大坂冬の陣の端緒となり豊臣家の滅亡につながった。
この銘文は細かくて見辛いのですが、写真をクリックして下されば拡大できます。

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耳 塚
 方広寺の門前正面通の南側に建つ。
 文禄の役で朝鮮人戦死者の首級の代わりに持ち帰った耳・鼻を豊臣秀吉が確認した後、埋めて供養したとされる。しかし、耳は二つあるため確かな人数が判らないため、鼻を持ち帰ったので正しくは鼻塚という説、あるいは、方広寺の大仏鋳造をしたときの鋳型を埋めた御影塚の訛であるとの説など不確かのようである。

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本町十一丁目(仁丹町名表示板)
 この辺りに法性寺一之橋があったようで、当町の寳樹寺北東角に一之橋址碑が建っている。
 古・大和街道(法性寺大路)は南端の泉涌寺道に至り、西行して、ここで伏見街道に合流したようである。

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2012年4月10日 (火)

仁丹町名表示板とわたし 

 私が仁丹町名表示板に関心を持ち始めたのは、2009年晩秋の頃でした。
 京都市内の「辻子(図子)」や「突抜」、「地名(町名)」、「京七口と街道」等々、中・近世以来の京都の歴史をとどめている事柄に興味があったため、フィールドワークと云えば格好を付け過ぎですが、市内各所をカメラを持って歩き廻っていました。

 その折に、案外と多くの仁丹町名表示板がいまだに残っていて、道行く人々の道案内に役立っていることを改めて知ったのです。
 私が子供の頃にはまだ沢山あって、別に珍しいモノではありませんでした。調べてみると、その当時はまだ設置されてから、せいぜい2〜30年(四半世紀)を経ているに過ぎなかったことになります。
 その頃の仁丹町名表示板は、通りと通りの交わる地点、そして町と町の境界には必ず設置されていました。ところがその後、家の建て替えなどで町の模様もどんどんと変わってゆき、仁丹町名表示板もつぎつぎと姿を消していったようです。

 いまは転出してしまいましたが、生まれ育った町の周辺に残る仁丹町名表示板を数枚あげてみます。

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 そんなわけで、京都市内をカメラ散歩する際には仁丹町名表示板にも注意しながら歩きまわり、存在に気が付けば写し留めてきました。一時は週のうち二・三日も仁丹探索のために歩き廻ったこともありました。

 しかし発見も頭打ちの状態となり、ここしばらくは間遠になっていたのですが、さきごろ久し振りにでかけて新たに三枚見つけました。その内の一枚が次の写真のものです。

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 この付近は以前に二度ばかり探索していたのですが、見落としていたようです。
 「松ヶ崎東町」については、以前にも別の一枚を見つけていたので二枚目となりました。
 そして、今回の洛北で見つけた三枚を加えると、獲得枚数では何度目かの切りとなる数をクリアーすることができました。(v^ー゜)
こ れからも可能な限り探してみたいと考えています。しかし、新たに仁丹町名表示板を見つけるのは、どんどんと減少している折からますます難しくなるだろうとも思っています。

 ところで、早くから仁丹町名表示板を愛でる同好の人達が、昨年5月「京都仁丹樂會」を立ち上げていろいろと発表しておられるようです。私も注目しているサイトで、ときどき覗いています。
 メンバーの各々が持っておられる知識を集積し、近い将来、一歩踏み込んで新たな知見を加えて行かれることを大いに期待し、また楽しみにしています。

2012年4月 2日 (月)

「京七口」と街道 ー伏見街道ー

 五条口(五条橋口・伏見口とも称された)から伏見に至る街道が伏見街道。
 五条口は鴨川の西詰めにあったようで、いま牛若丸と弁慶の像が建っている辺りだろうか。

 伏見街道は、五条本町の本町一丁目を起点として本町通を南下、深草稲荷榎橋町からは伏見となり、伏見街道南端の橦木町(大石内蔵助が討ち入りの相談をした遊廓)に至る。
 そして橦木町のすぐ南は、京町通に接続しており伏見城下の中心部に通じている。

写真=五条口と本町一町目(仁丹町名表示板)

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写真=伏見人形の店(丹嘉)、伏見稲荷(千本鳥居)、橦木町郭の碑

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 京町通は文禄3年、豊臣秀吉の伏見城下町の建設に伴い造られた道路で、両替町通とともに城下町の主要道路であった。道名を、伏見道や本町伏見街道としている文書・絵図もあるそうだ。
 なお、この伏見街道は延長となる京町通の南端から少し東で、大和街道を経て奈良街道へとつながっている。なお、この大和街道は秀吉が造ったものであり、鎌倉期からある古道の大和街道とは別もの。

写真=京町大黒町(仁丹町名表示板)
 寛永17年将軍家光が桃山城を毀ち、城櫓に祀ってあった大黒天像を下賜したから、との伝説が町名の由来。

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写真=京町一町目
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 ところで、「大和街道。伏見への往還にして、大和への通路とす。古へ法性寺大路と称す。天正中本町と専称す」として、伏見街道を中世(鎌倉期)からある法性寺大路(大和大路)とする文献もあるようだ。
 しかし、法性寺大路(大和大路)はその南端の泉涌寺道から西行して、一之橋(現在の本町十丁目と十一丁目の境界辺り)で伏見街道に合流するが、その二つの道筋(本町通と大和大路)は僅かながら東西に離れており違いがある。
 因に、法性寺大路の名称は、摂関家藤原一族(古代から近世までの貴族)の氏寺として、何代にもわたり増建された法性寺の寺域を通過していたことを由来とする。
 その寺域は、北は法性寺大路(大和大路)の一之橋(泉涌寺道)、南は稲荷山、西は鴨川、東は東山山麓という広大なものであったらしく、この法性寺に通じる道というのが名称の由来。
 現在の法性寺は規模も小さくなって本町十六丁目の本町通沿いにある。藤原忠平が法性寺を建立した当時の作であろうと云われる千手観音立像は、国宝となっている。

一之橋跡碑

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 (なお、近世に入り豊臣秀吉が伏見城築城以後に造った「新・大和街道」と、古道である「古・大和街道=法性寺大路」については、改めて別の記事にしてみようと思っています)

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