「京七口」と街道 ー伏見街道ー
五条口(五条橋口・伏見口とも称された)から伏見に至る街道が伏見街道。
五条口は鴨川の西詰めにあったようで、いま牛若丸と弁慶の像が建っている辺りだろうか。
伏見街道は、五条本町の本町一丁目を起点として本町通を南下、深草稲荷榎橋町からは伏見となり、伏見街道南端の橦木町(大石内蔵助が討ち入りの相談をした遊廓)に至る。
そして橦木町のすぐ南は、京町通に接続しており伏見城下の中心部に通じている。
写真=五条口と本町一町目(仁丹町名表示板)
写真=伏見人形の店(丹嘉)、伏見稲荷(千本鳥居)、橦木町郭の碑
京町通は文禄3年、豊臣秀吉の伏見城下町の建設に伴い造られた道路で、両替町通とともに城下町の主要道路であった。道名を、伏見道や本町伏見街道としている文書・絵図もあるそうだ。
なお、この伏見街道は延長となる京町通の南端から少し東で、大和街道を経て奈良街道へとつながっている。なお、この大和街道は秀吉が造ったものであり、鎌倉期からある古道の大和街道とは別もの。
写真=京町大黒町(仁丹町名表示板)
寛永17年将軍家光が桃山城を毀ち、城櫓に祀ってあった大黒天像を下賜したから、との伝説が町名の由来。
写真=京町一町目
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ところで、「大和街道。伏見への往還にして、大和への通路とす。古へ法性寺大路と称す。天正中本町と専称す」として、伏見街道を中世(鎌倉期)からある法性寺大路(大和大路)とする文献もあるようだ。
しかし、法性寺大路(大和大路)はその南端の泉涌寺道から西行して、一之橋(現在の本町十丁目と十一丁目の境界辺り)で伏見街道に合流するが、その二つの道筋(本町通と大和大路)は僅かながら東西に離れており違いがある。
因に、法性寺大路の名称は、摂関家藤原一族(古代から近世までの貴族)の氏寺として、何代にもわたり増建された法性寺の寺域を通過していたことを由来とする。
その寺域は、北は法性寺大路(大和大路)の一之橋(泉涌寺道)、南は稲荷山、西は鴨川、東は東山山麓という広大なものであったらしく、この法性寺に通じる道というのが名称の由来。
現在の法性寺は規模も小さくなって本町十六丁目の本町通沿いにある。藤原忠平が法性寺を建立した当時の作であろうと云われる千手観音立像は、国宝となっている。
一之橋跡碑
(なお、近世に入り豊臣秀吉が伏見城築城以後に造った「新・大和街道」と、古道である「古・大和街道=法性寺大路」については、改めて別の記事にしてみようと思っています)
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Namaste
辻石です。ご無沙汰しています。奥様ともどもお変わりありませんか。いやあ、Ritsumei会も欠席続きで・・。
先週4回目のネパール一人旅から帰国し、いろいろ整理中です。
ところで、貴君の京都の街道史(?)の研究、すごい労作に驚いています。特に数々の懐かしい看板写真は、子ども時代の郷愁と相まって胸が熱くなります。
コメントがこんなに遅くなりすみません。12月ごろから「お気に入り」にし、ブログを欠かさずのぞかせていただいています。
きょうは取り急ぎ・・・。 また一度お会いしたいですね。
投稿: 辻石 | 2012年4月21日 (土) 20時15分