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2012年5月

2012年5月31日 (木)

辻子 ー薬師辻子ー

薬師辻子(「比丘尼ノ辻子」とも称した)
 大和大路通柿町上ル薬師町を東行し、さらに北行、東行、また北行して松原通に出る小道。薬師町の旧称。

 江戸期以前から粟田口神明山に住んだ熊野比丘尼達がこの地にあった城東寺薬師堂に移り住み、鳥辺野(葬送地)の参拝客や祇園遊里の遊女・客などに起請用の熊野誓紙を売った。また、民家を廻って地獄・極楽の絵解きをしたり、護符を売歩いたという。
 これが「比丘尼辻子」とも称された由来。

「薬師辻子」

Photo_7

 昔、この地に天台宗城東寺という寺があり応仁の乱で破壊され、本尊薬師如来の首だけが残った。後世に人々が像を作り直して小堂が建てられた。
 城東寺は「きぬかい(絹買)薬師堂」ともいわれ信仰をあつめた。この薬師堂が町名の由来という。

藥師町(仁丹町名表示板)

Photo_8

2012年5月23日 (水)

新・大和街道 ー伏見〜大和へー

秀吉の造った大和街道

 伏見街道は五条口を起点に伏見に至る街道だが、その伏見市内と奈良街道とをつないでいるのが大和街道です。
 (ここにいう大和街道は、鎌倉期からの古道である法性寺大路=大和街道とは全くの別もの。新・大和街道とでも云えようか)

 豊臣秀吉は文禄3年伏見城築城とともに、城下町の建設にあたり基幹道路である京町通を開いた。この時、一連の土木工事として巨椋池(大池)に直接流れ込んでいた宇治川を槙島堤の築堤により北側に迂回させた。

 そして、京町通南端の京町一丁目から弾正町を経て、東方の伏見と向島の境となる宇治川に豊後橋(現・観月橋)を架けるとともに、巨椋池の真ん中を南下する小倉堤を築き、その上に向島〜小倉〜広野に至る大和街道を開く。
 こうして、伏見からこの大和街道を経由して奈良街道につないだのです。

弾正町(メンソレータムの町名表示板)
「世界之家庭薬」
 町名の由来は、浅野弾正少弼長政の屋敷跡に住んでいた人々が、地形の変更や改修で移り住んで弾正町の名を残したのだろうと考えられている。

Photo_3

豊後橋町(郵便局の町名表示板)
 豊後橋(現・観月橋)北詰の十字路西北部に大友豊後守屋敷があったようで、この屋敷に因んで豊後橋という名が生まれ、町名はその橋の名によるといわれる。

Photo_4

観月橋
 かつて秀吉が架けた豊後橋の跡に架橋されている。

Photo_6

 小倉堤を築いた広大な小椋池は、近世の記録に残るだけでも22回の洪水にみまわれたようで、沿岸の干拓や築堤が進んでいったが、最終的には昭和8年から16年にかけての干拓でその姿を消した。
 こうしてできた634.8ha の干拓新田は、巨椋地畔に位置した弾正町・三栖村・東一口村・小倉村など、近世以来の漁業権(漁御札)を持つ漁民や周辺の農民に配分された。

三栖町三丁目(大丸の町名表示板)
 伏見区だけに見られる大丸の町名表示板、仁丹のモノ以外では珍しい木製で他にも数枚あります。
 伏見南端の三栖五丁目は大坂口・三栖ケ鼻と呼ばれ、大坂への街道出入り口にあたっていたそうだ。

Photo_7

 (なお、奈良街道は滋賀・京都境の追分で三条街道(東海道)から分岐、大宅、醍醐、六地蔵、木幡、宇治・木津へと南下して木津川を渡り奈良に至る街道)

2012年5月11日 (金)

看板 ー飲料 その4ー

赤玉ポートワイン
 「美味・滋養・葡萄酒」そして右から左へ …何とも云えずイイ感じ
明治39年(1906)鳥井商店から「向獅子印甘味葡萄酒」を発売、屋号を「壽屋洋酒店」に変更
明治40年(1907)「向獅子印甘味葡萄酒」を改良して「赤玉ポートワイン」を発売
大正10年(1921)株式会社「壽屋」に変更
昭和  4年(1929)ウイスキーを発売、赤玉ポートワインの赤玉を太陽に見立て「SUN」、これに創業者名「鳥井」を組み合わせてサントリーとしたそうだが…
昭和38年(1963)社名を「サントリー株式会社」に変更

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コカコーラ
 最近はテレビでコマーシャルを見かけない気がする
 ペプシコーラはタマに見かける?

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日本桜
 新潟県阿賀野川市に「越後桜酒造」というのがある
 旧社名が「越の日本桜酒造」
 純米酒、本醸造、普通種で「越乃日本桜」銘もあるが・・・
 どうも違う感じがする、取引のある酒店に見えないが!?

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居酒屋「山頭火」
 ただ山頭火好きというだけで…
 …まーイッカ

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2012年5月 2日 (水)

突抜(つきぬけ)ってなに !?

 地名にはその土地の起源や由来が含まれており、更に云えばその背後にある風土、歴史、文化、生活などを今に伝えています。
 そういう意味では、地名もまた歴史遺産であり文化遺産であるということができると思うのです。
 平安京に発する京都の町も、町名からその過去を知ることができます。また、町名と同様に道路名(「辻子」や「突抜」も含めて)も過去を知るために重要です。

 「辻子」については、以前の記事『辻子(図子)について』(`12.1.27)で、その概念と成立の経緯を記しましたのでここでは省略します。

 さて、「突抜」についてですが、これは元々あった道を先へと、突き抜ける形で新たに開くことによって出来た道をいいます。
 つまり、「辻子」の場合は、もともと道の無かったところに、道と道をつなぐかたちで新しく造られた道を云いますが、「突抜」は現に有る道を延長することで出来た比較的短い道をいうのです。ただし、これらの内いくつかの突抜は、さらに延伸して「道」から「通り」へと変化したものもあります。

「六角越後突抜町(現・越後突抜町)」
 現在の越後町・越後突抜町・亀屋町を南北に通貫している。

Photo_2
 六角越後突抜町(現・越後突抜町)は北側にある両側町「越後町」の道を南に延長したもので、名称もここからきている。『京都坊目誌」は、越後町の名称由来を、中世に杉若越後という武人が住んでいた故としています。
 なお、この「越後突抜」とすぐ南の「藤西突抜(現・藤西町)」を南方に延伸して、後の醒ヶ井通という町通りへと変化していきました。

 次の写真は、越後突抜の一部をなす亀屋町に残る仁丹町名表示板です。

Photo_3

 さて、辻子名が町名に変化してゆく時の名称の変化の仕方、これと似た変化が突抜にもありました。それは、
 突抜名がそのままで町名となった。(社突抜町や大原口突抜町など)
 「突抜」の語が省略された形で町名となった。(近衛町や稲荷町など)
 固有名詞が省略された形で町名となった。(衣棚突抜町→突抜町、釜座突抜町→突抜町など)しかし町名が元々ただの突抜町であったところもある。これらは複数が存在するため、道路名を付さなければどこの突抜町なのか判然としない。
 元の突抜地名とは全く別の町名となった。(亀屋突抜→小石町、因幡堂突抜→大堀町など)

「突抜」については、以前に『天使突抜と町名の由来1・2』として記事にしたことがありましたが、今後も興味を引かれたものを取り上げたいと思っています。



2012年5月 1日 (火)

辻子 ー団栗辻子ー

団栗辻子
 宮川筋一丁目と同二丁目の間を東西に通る道で、現在の団栗通。(団栗橋東詰め川端から花見小路の間)

Photo_2

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 明8年(1788)正月の所謂「天明の大火」は、この団栗辻子の民家が火元となって二日間にわたり燃え続けた大火事で、「団栗焼け」「団栗火事」「申年の大火」とも云われたそうだ。
 京都で発生した火災の中でも史上最大規模のものといわれ、火は宮川筋の沿って南下したが、東の強風のために鴨川を越え、洛中へも飛び火して大災害をもたらした。
 この火災で3万7000軒の家が焼け、6万5000世帯が罹災、御所や二条城・京都所司代、東西両本願寺をはじめ240の寺社も焼け、京都市街地の8割が灰燼となった。これは応仁の乱の戦火による焼失を上回るものと云われている。

界隈の六軒町(仁丹町名表示板)
 建仁寺北門前六軒町の開町当時は、人家が六戸を数えるばかりであったという。これが町名の由来となっているようだ。

Photo_2

界隈の博多町(仁丹町名表示板)
 ここから上柳町にかけては建仁寺門前の荼毘所(火葬場)であったが、後に人々はその跡地を「墓場町」と呼んだ。これでは聞こえがよくないため、町奉行の中根摂津守正包が命じて「博多町」と改称させたのだそうである。(墓場町→博多町)

Photo_5

焼死者供養の五輪塔と石碑
 次の写真は、清浄華院(寺町通広小路上ル)にある犠牲者の墓(五輪塔)と建立の謂れを記した石碑。
 五輪塔前の卒塔婆は昨年の東日本大震災犠牲者を追善するため。
 この清浄華院もやはり天明の大火で全て焼失しているが、寛政7年から弘化5年にかけて復興されたそうだ。

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