新・大和街道 ー伏見〜大和へー
秀吉の造った大和街道
伏見街道は五条口を起点に伏見に至る街道だが、その伏見市内と奈良街道とをつないでいるのが大和街道です。
(ここにいう大和街道は、鎌倉期からの古道である法性寺大路=大和街道とは全くの別もの。新・大和街道とでも云えようか)
豊臣秀吉は文禄3年伏見城築城とともに、城下町の建設にあたり基幹道路である京町通を開いた。この時、一連の土木工事として巨椋池(大池)に直接流れ込んでいた宇治川を槙島堤の築堤により北側に迂回させた。
そして、京町通南端の京町一丁目から弾正町を経て、東方の伏見と向島の境となる宇治川に豊後橋(現・観月橋)を架けるとともに、巨椋池の真ん中を南下する小倉堤を築き、その上に向島〜小倉〜広野に至る大和街道を開く。
こうして、伏見からこの大和街道を経由して奈良街道につないだのです。
弾正町(メンソレータムの町名表示板)
「世界之家庭薬」
町名の由来は、浅野弾正少弼長政の屋敷跡に住んでいた人々が、地形の変更や改修で移り住んで弾正町の名を残したのだろうと考えられている。
豊後橋町(郵便局の町名表示板)
豊後橋(現・観月橋)北詰の十字路西北部に大友豊後守屋敷があったようで、この屋敷に因んで豊後橋という名が生まれ、町名はその橋の名によるといわれる。
観月橋
かつて秀吉が架けた豊後橋の跡に架橋されている。
小倉堤を築いた広大な小椋池は、近世の記録に残るだけでも22回の洪水にみまわれたようで、沿岸の干拓や築堤が進んでいったが、最終的には昭和8年から16年にかけての干拓でその姿を消した。
こうしてできた634.8ha の干拓新田は、巨椋地畔に位置した弾正町・三栖村・東一口村・小倉村など、近世以来の漁業権(漁御札)を持つ漁民や周辺の農民に配分された。
三栖町三丁目(大丸の町名表示板)
伏見区だけに見られる大丸の町名表示板、仁丹のモノ以外では珍しい木製で他にも数枚あります。
伏見南端の三栖五丁目は大坂口・三栖ケ鼻と呼ばれ、大坂への街道出入り口にあたっていたそうだ。
(なお、奈良街道は滋賀・京都境の追分で三条街道(東海道)から分岐、大宅、醍醐、六地蔵、木幡、宇治・木津へと南下して木津川を渡り奈良に至る街道)
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