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2012年6月

2012年6月29日 (金)

大山崎(山崎) その1

 このブログ『酒瓮斎の京都カメラ散歩』、 いつもは京都市内について書いています。
 けれども、たまには周辺部も取り上げてみようと思い立ちました。
 差し当たりはJR東海道線では京都最南部となる「山崎」駅の近辺をカメラ散歩して、それを何度かにわたって記してみます。

JR山崎駅ホームの境界表示
 駅のホームは京都府と大阪府の両府に跨がる形で設けられています。これはちょっと珍しいモノではないかと思います。

Jr

 大山崎町(京都府乙訓郡)は京都府下では面積が最も小さい町のようです。
 大山崎は古くは山埼といい、山埼・山前・山碕とも記された。
 天王山(270.4m)の山並がここで断絶し、淀川の水中に突き出た岬のようになっていることが、地名の由来となったものだろうといわれる。
 天王山と淀川対岸の男山の間の狭隘部は、古来より京都防御の軍事上の要衝であり、また淀川水運と陸上交通の要衝となっていた。

三川合流点
 この辺りで桂川・宇治川・木津川の三川が合流、淀川となって大阪湾に流れ込んでいます。

Photo

大山崎は、
 古代(奈良〜平安)には、現在の京都府乙訓郡大山崎町から大阪府三島郡島本町山崎の水無瀬川付近までが領域であったと推定されているようだ。平安遷都以来、京都から西国に赴くにはこの地を通ったので、関や駅舎が設けられた。
 中世(鎌倉〜戦国)には、後鳥羽上皇の水無瀬離宮が営まれ、その中継地として注目されるようになる。また、油座を結成した大山崎神人が活躍し、全国の菜種油集散地となり日本の産業経済史上注目されるとともに、軍略上の要地としてこの地の争奪が繰り返された。
 近世(江戸〜明治始年)、慶長4年高瀬川の開通で淀川舟運が活発になると、対岸の橋本が繁栄することとなった。そのため、西国街道の宿場町的な機能は低下していった。

 近代に入り、明治4年(1871)の廃藩置県により、離宮八幡宮神領であった山城国乙訓郡の大山崎と摂津国島上郡の山崎をともに京都府の管下とした。これは神領を分割すれば紛争発生の芽となるだろうとの配慮によるものであったらしい。
 しかし、これでは水無瀬川が京都と大阪の境界となって、いまの大阪側島本町山崎の全域と東大寺の半分が京都府に編入されてしまうこととなり、その境界が錯雑として問題が起こり紛糾したようだ。
 そこで、明治6年、山城と摂津の境界を関大明神とし、この境界以西の離宮八幡宮元社寺領35町余を大阪府に移管するとの太政官布告が出て決着を見たという。
 大阪府に移管された地域は「山崎」、京都府の地域は「大山崎」として区別しているが、郵便と電話については現在でも一体となっている。

関大明神社
 古代摂津国と山背国(後代の山城国)の境界に設けられた関所、「山崎ノ関」趾といわれる。交通の要衝で、時には朝廷が兵を派遣して守らせたといわれる。平安の初めに廃止されたらしく、そのあとは関戸院として残され、平安時代には公館的な宿舎となっていたようだ。
 天王山から流れる沢水の一つが関大明神社の横を流れており、これが摂津国と山城国の境界であった。

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Photo_4

2012年6月22日 (金)

辻子 ー観音堂東辻子(撞木辻子とも)ー

 室町通の西裏通りで、錦小路通と四条通の間をいう。現在は飲食店街となっており、夜は賑わっている。
 なお、この辻子の中程を西へ新町通に抜ける小路とあわせて、俗に「撞木辻子(しゅもくのずし)」ともいった。撞木辻子の由来は、その形が丁字形で撞木(しゅもく)に似ていることから名付けられた。

現在の撞木辻子

Photo

Photo_3

 この辻子の中程が観音堂町で、鎌倉時代に観音堂(龍福寺と号した)があり、町名はこれに由来するそうだ。
 寛永から元禄にかけての絵図には、「東くわんおんノづし」「観音の辻子」「くわんおん堂ノつし」とあり、元禄から寛保期の絵図や町鑑では「撞木辻子」「しもくのつし」などとあって、併称されていたといわれる。
 宝暦12年『京町鑑』には、「觀音堂東辻子 俗に 撞木辻子と云 此南の辻は四條通也  此辻子中程より西へ行ば新町へ出る  鉦の鐘木の形によつて俗に斯いふ」としています。

 観音堂町の北(撞木辻子の北端)は天神山町、その北東隣りは山伏山町で、いずれも応仁の乱以前から祇園会には天神山・山伏山を出している。
 山鉾の巡行は7月17日の前祭(さきのまつり)と24日の後祭(あとのまつり)の二度行なわれていた。天神山・山伏山ともに前祭の巡行であったが、現在では交通規制の都合から17日に統一されている。

天神山町と山伏山町(仁丹町名表示板)

「天神山町」
 天神山町は寛永以前には「あられや町」と呼ばれたようだ。火災が起ったとき時ならぬ霰が降って猛火が消えた。一寸二分の天神あられと共に降り、霰天神と号し火除けの天神とも名付けたとされる。このため、ここから出している山鉾を「霰天神山」と呼ぶようになったといわれる。

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「山伏山町」
 山伏山は、応仁の乱以前の山鉾を記した祇園社の記録には「山ふしほく 四条坊門むろ町」とあるそうで、当時は山ではなく鉾であったらしい。

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2012年6月15日 (金)

辻子 ーくちなはの辻子と延年寺辻子ー

くちなはの辻子

 現在の東大路通の八坂道と清水道の間で、玉水町と辰巳町を通っている。
 安井御門跡へ出る旧安井道で、往時の安井道は建仁寺東裏の薮を通る細い小道であったことから「くちなはの辻子」と通称された。くちなは(くちなわ)というのは蛇のことです。
 この安井道は安永年間に三間幅に拡幅されたらしく、更に明治45年からの東山通の整備と市電開通で様相を一変し、今では繁華で広い通りとなっている。

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玉水町(仁丹町名表示板)
 玉水と呼ばれる井泉のあったことが町名の由来となっているようだ。

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延年寺辻子
(寺の辻子とも)
 『山州名跡志』には、「延年寺辻子 西門ノ下ヨリ鳥辺野ニ出ル路是也」と、辻子の位置を記しています。
 *註:「西門」は清水寺の西門のことです。
 鳥辺山(鳥辺野)の延年寺墓地に通じる道であることが名前の由来か。

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 延年寺辻子を東山通りまで下り、五条坂を辿って行くと次のような仁丹町名表示板を見ることができる。

五条橋東六丁目(仁丹町名表示板)
 かつての遊行前南側町・遊行前北側町のほとんどが当町に入ったが、北側町の一部が「遊行前町」という名前で今も残っている。時宗の歓喜小路の門前に当たることが町名の由来とするが、洛中を転々としたのち今は山科にあるようだ。
 「遊行前町」の仁丹町名表示板は辛うじて読める。(そこが遊行前町だと知っている人だけ!)

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2012年6月 7日 (木)

看板 ー調味料 その3ー

上高地  信州味噌
(松本市、上高地みそ株式会社)
信州を中心に生産されている味噌で、淡色・辛口が特色らしい。

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佐々蔵醸造
(仙台市、佐々蔵味噌醤油店)
仙台味噌は、伊達政宗が造らせて朝鮮出兵に持参した味噌で夏場でも腐敗しなかったという。(塩っ辛いのか)
政宗が、乞われて諸将にも分け与えたことから有名になったとのこと。

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カゴメ トマト ケチャップ
(東京、カゴメ株式会社)
カゴメのサイトを覗いてみた。すると、ケチャップの語源は中国語の「Ketsiapu」あるいは「Koechiap」というのが有力だそうで、「魚醤」を意味するらしい。
これが、やがて「穀醤」「野菜の醤」へと主流は変わっていったそうだ。(へー!)
ところで、可笑しいことだが「カゴメ」が「籠目」であるとは比較的最近まで知らなかった。
それというのも、小生ご幼少の砌、童謡『かごめかごめ』の「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出(寝?)やる」という歌詞で、籠の中にいる鳥は「かごめ」という鳥だと勝手に思い込んでいた。
その延長なのだろう、カゴメソースのカゴメも鳥と一人合点していた。
皆さん、ツバメソースのツバメが鳥なのはご存知でしたか 与太話で失礼。ツバメ食品株式会社は京都にある。

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す(タマヒメ酢)
斉藤造酢 上京区一条通御前西入西町
少量生産のためなのだろう、市販も店売りもしていないらしい(料亭と店の直取引だけか)

Photo_14

上のタマヒメ酢、布製看板の前は壺型の木製看板だった
(余りにも写真の出来が悪いので使わなかったが・・・)

Photo

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