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2012年7月

2012年7月27日 (金)

実在しない町名 1 ー仁丹町名表示板からー 

それは、北区の「鷹野十二坊町」です。

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 「鷹野十二坊町」が位置する蓮台野(船岡山から西、紙屋川に至る地域)の一角に、蓮台野村が文書に現れるのは、近世に入ってからのことのようだ。
 蓮台野は平野・北野・紫野・〆野・内野・上野・とともに洛北七野あるいは京都七野といわれ、桓武天皇以来の遊猟地、淳和天皇の離宮紫野院(雲林亭、後の雲林院)など身分の高い人々の別荘地とされた。
 蓮台野は船岡山の西から紙屋川にかけての一帯で、古くは東の鳥辺野・西の化野(あだしの)とともに葬送の地として知られた。地名の「千本(通)」は無数の卒塔婆が乱立していたことに由来するとも、また、菅原道真の左遷を供養して千本の卒塔婆を建てたことによるとも云われる。
 そして近代になり、明治8年(1875)に蓮台野村は西紫竹大門村へ合併するも、明治17年(1884)には鷹峯村と改称した。
 その鷹峯村は明治2年(1869)以降、行政上属していた紫竹大門村に合併したが、蓮台野村と同様に同17年(1884)以降は再び鷹峯村と称している。
(この間の明治2年、紫竹大門村は西部の鷹峯を中心とする一帯が西紫竹大門村、残る大部分は東紫竹大門村となっている)

 明治25年(1892)に鷹峯村の一部が分離して野口村となる。そして野口村は、大正7年(1918)京都市上京区への編入に伴って、鷹野十二坊町・鷹野花ノ坊町・鷹野東町・鷹野北町となった。
(「鷹野」の由来については確かなことを知らないが、鷹峯村から分村した野口村と云うことで、この2村の頭文字を取って名付けたのかも知れない)
 さらに、昭和16年(1941)鷹野十二坊町・鷹野花ノ坊町は、冠称を「鷹野」から「紫野」に変更した。
 このように、「鷹野十二坊町」というのは昭和15年までの公称町名であり、同16年以降は「紫野十二坊町」に変わったのである。
 なお、「十二坊町」の由来は上品蓮台寺に十二の子院が設けられていたことによる。

2012年7月20日 (金)

大山崎(山崎) その2

アサヒビール大山崎山荘美術館
 実業家加賀正太郎氏(加賀証券経営者)が大正末から昭和始めに建設した大山崎山荘。
 加賀家が手放したあとはレストランなどになっていたが、建設業者がマンション開発計画を立てて、景観が一変してしまうことに住民が反対。大山崎町と京都府を動かして業者から買い取り、アサヒビールが山荘を復元整備して美術館とした。
 アサヒビール初代社長の山本為三郎は柳宗悦の民芸運動に理解を示し、その作品や雑器を蒐集していたが、これらのコレクションを展示する美術館として再生した。本館では民芸運動に参加した河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチなどを中心に、古陶磁・家具・染色作品などが展示されている。
 自然環境と山荘の落ちついた雰囲気を乱さぬよう配慮され、廊下で結ばれた新館の地下展示室「地中の宝石箱」は建築家安藤忠雄氏の設計になる。印象派のクロード・モネの代表作『睡蓮』の連作などを展示している。つい最近(5月末)、新たな展示スペース「夢の箱」が完成したが、これもまた安藤忠雄氏の設計である。

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サントリー山崎蒸留所
 1899年(明治32)葡萄酒の製造販売のため創業者鳥井信治郎氏により鳥井商店をスタート、1921年(大正10)株式会社壽屋を設立。1929年(昭和4)発売したウイスキーに「サントリー」と名付けた。 1963年(昭和38)ビールの発売を機にサントリー株式会社に変更。
 このサントリー山崎蒸留所は1923年、わが国最初のモルトウイスキー蒸留所として建設されたものである。かつてはここも山崎で括られる地だったが、今では正確には隣接の島本町である。

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2012年7月13日 (金)

町名に見る福徳の神様 ー七福神ー 

 七福神は福徳をもたらす神として信仰され、恵比須・大黒天・毘沙門天・弁財天・布袋・福禄寿・寿老人の七体の神々です。そして、七福神信仰は室町時代末期に始まるといわれているようです。

 七福神の出自は恵美須だけが日本で、あとはインドと中国が3体ずつとなっている。そのご利益を見ると、
 ゑびす(恵美須・恵比寿・夷・戎・蛭子などと書く)は、海上・漁業の神で商売繁盛の神でもある
 大黒(天)は、食物の神・農業の神
 毘沙門(天)は、財宝を守る神
 弁財天は、元は河神で学問・芸術・財物の守護神
 布袋は、福々しい容貌と肥え太った体を好まれ、富貴繁栄をもたらす
 福禄寿は、福禄(幸せ)と寿(健康と長寿)をもたらす
 寿老人は、長寿を授ける

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 人々は、食物や財物に恵まれて商売が繁盛すること、そして健康・長寿と繁栄を強く願い求めて、これらの神々を祀り信仰してきた。
 このような願いが、瑞祥・吉兆の象徴としての七福神の名前を町名としたのだろう。(その例が右の「仁丹町名表示板」写真です)

 こうした町名はことのほか多く見ることができる。
 しかし、その分布を見ると平安京の左京に当たる地域(所謂旧市内)に限って見られる。したがって、大正7年 (1918) の大合併で周辺部の16町村が京都市に編入されて市域面積が二倍以上に拡大したが、そうした元農村部においては全く見られないようです。

 暇に飽かせて調べると、七福神町名とそれらを絡めた町名は、漏れが無ければ合計で52町が存在している。
 内訳は、「ゑびす」22、「大黒」14、「毘沙門」8、「弁財天」7、そして「布袋」1、「福禄寿」と「寿老人」は皆無であった。
 この順位と数から見る限り、人々は「健康・長寿・繁栄」に対する願望より、「財産・商売」=物欲への執着の方が強いようです。

 ところで、「ゑびす・大黒」は一対として信仰され、各家では並べて祀ることが多い。町名でもその組み合わせで隣接・近接して並存する事例、組み合わせは違うが瑞祥町名の並存事例の存在について調べて見てみたところ、13の事例がありました。
 これらについては、伝承を伴うものも多いようです。例えば、下記【下京区】の第5事例では、『坊目誌』に「古老の云ふ」として、中世西洞院川の洪水の際、蛭子・大黒の両像が流れ来たり、当町は大黒の像を祀り、東隣の町は蛭子像を祀り、ともに町名とした。と記しているそうだ。

 各区毎に七福神町名とその数、「ゑびす・大黒」などの並存事例の数を掲げると以下の通り。

【上京区】
 「ゑびす町」は4町(蛭子町2、夷川町、新夷町)、「大黒町」は3町(大黒町2、大黒屋町)、「毘沙門町」は4町(毘沙門町3、毘沙門横町)、「弁財天町」は2町(弁財天町、弁天町)
隣接・近接して存在するのは2事例
1 蛭子町(猪熊通出水上ル)と大黒町(猪熊通椹木町上ル)
2 蛭子町(上立売通浄福寺西入)と大黒町(浄福寺通上立売上ル)

【下京区】
 「ゑびす町」は10町(蛭子町、上・南夷町、夷之町2、恵美須之町、夷馬場町、蛭子水町、恵美須屋町、杉蛭子町)、「大黒町」は4町(大黒町3、今大黒町)、「毘沙門町」は1町、「弁財天町」は1町
隣接・近接して存在するのは6事例 
1 蛭子町(鍵屋町通室町西入)と大黒町(室町通鍵屋町上ル)
 ここは、蛭子町の西隣には毘沙門町もあり3町が接している
2 恵美須之町(寺町通仏光寺下ル)と大黒町(仏光寺通御幸町)
3 夷之町(七条通西洞院東入)と大黒町(七条通西洞院西入)
4 杉蛭子町(黒門通高辻下ル)と今大黒町(黒門通高辻下ル)
5 上夷町(猪熊通塩小路下ル)と*大黒町(大宮通八条上ル)
6 南夷町(猪熊通塩小路下ル)と*大黒町(大宮通八条上ル)
 *この大黒町は、昭和30年に下京区から分区成立した南区に属する

【中京区】
 「ゑびす町」は4町(恵美須町、夷町、東・西夷川町)、「大黒町」は3町、「毘沙門町」が2町、「弁財天町」が1町、「布袋屋町」が1町
隣接・近接して存在するのは1事例
1 恵美須町(河原町通三条上ル)と大黒町(河原町通三条下ル)
 
【東山区】
 「ゑびす町」は3町(夷町と蛭子町北組・南組)、「大黒町」は1町、「毘沙門町」が1町、「弁財天町」は3町(弁財天町、上・下弁天町)
隣接・近接して存在するのは3事例
1 大黒町(三条京阪東側)と弁財天町(縄手通新門前下ル)
2 毘沙門町(安井北門通東大路下ル)と上弁天町(毘沙門町の東隣)
3 毘沙門町(安井北門通東大路下ル)と下弁天町(毘沙門町の南隣)
 
【伏見区】
 「ゑびす町」は恵美酒町1町、「大黒町」は3町(京町大黒町、東・西大黒町)
隣接・近接して存在するのは1事例
1 東大黒町(竹田街道丹波橋上ル)と西大黒町(東大黒町の西隣)

【南 区】
 (上記【下京区】の「5 上夷町・南夷町(猪熊通塩小路下ル)と大黒町(大宮通八条上ル)」 を参照)

2012年7月 6日 (金)

辻子 ー蛭子辻子と清明辻子ー

蛭子辻子(ゑびすの辻子)

 恵美須神社西側の新道通と宮川筋の間をつなぐ道をで、東山区の下柳町と宮川筋四丁目を通貫している。
 なお、宮川筋の町名は鴨川を宮川と称したことに由来する。
 宮川筋は四条河原の東岸に開かれた祇園新地外六町の一つです。(京都の遊廓シリーズで触れたので説明は省略)
 宮川筋絡みでもう一つ。鴨川岸に水防のため石垣を築いたので、対岸の斉藤町を西石垣町、略して西石(さいせき)。宮川筋一町目を東石垣町、略して東石(とうせき)と呼んだそうである。西石(さいせき)の呼び名は今でも生きていて、西石垣通を「さいせきどおり」と云っている。東華菜館の西側を南行する道である。

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恵美須神社(蛭子とも記した)
 恵美須神社は大坂今宮が本社で、京都に及んだのは江戸時代中期以後のことらしい。正月十日の初戎(十日恵比寿)は多くの参詣者で賑わう。
 栄西禅師(建仁寺を開基)が唐に渡る折、にわかに波風が荒くなって舟中の人々が驚き騒ぐ時、禅師は少しも騒がれず、海上に向って拝まれるとどこからともなくゑびすの御神体が現れ、舟の舳先にお立ちになると、たちまちにして波風が静まった。そのゑびす神の姿を映し止めて、帰朝ののち当寺の鎮守とされるようになった。(縁起譚)

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清明辻子(「柳の辻子」とも称した)

 東山区の下柳町と小松町、宮川筋五丁目と弓矢町の境界を通貫している道。
 つまり、新道小学校の南側の小道であり、松原北裏通ともいう。
 清明辻子の名称はかつて宮川筋五丁目の北に安倍清明の塚が所在したことに因むという。鴨川の防水を祈念した陰陽師安倍清明が五条橋の北に法城寺を建て、清明の死後ここに葬られ、塔婆が建てられたのにはじまるという。
 寛文年間に宮川筋の開設に伴い、清明塚の移転が行なわれたが、明治4年に廃されるた。また、法城寺はそのご三条橋の東に移り、寺名を心光寺と改めている。

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「清明辻子」付近で見た仁丹町名表示板

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