2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012年8月

2012年8月31日 (金)

大山崎(山崎) その4

離宮八幡宮
 古代にはこの地に山崎駅(やまざきのうまや)が設けられ、駅馬を置いて人馬の継ぎ立てや宿舎と食料の供給をおこなった。
 後にここを嵯峨天皇が離宮に改め、川(淀川)の北側にあることから河陽離宮と呼ばれた。

Photo

Photo

 この河陽離宮の旧址に因んで離宮八幡宮と号したと伝わる。
 なお、淀川を挟んだ対岸八幡の石清水八幡宮は大分の宇佐八幡宮から勧請(分霊を移し祀る)したものであるが、そのさい離宮八幡宮に一時祀られ、その後に移されたので石清水八幡宮の元社にあたるという。

大山崎油座
 足利義満は離宮八幡宮の神領地を大山崎郷の、東は五位川、西は水無瀬川までの広大な範囲と定めた。
 鎌倉期から戦国時代末頃にかけて離宮八幡宮に属する神人(じにん)を主な構成員とする大山崎油座が存在し、幕府から荏胡麻油を独占的に製造販売する特権を与えられて、守護不入の地とされた。
 中世の油の用途は主要には照明用の灯油であり、最大の需要は寺社の灯明用油であった。

Photo_2

Photo_3

 「座」というのは、商工業者のいわば同業者組合のことで平安末期から戦国までの頃に存在した。
 平安時代の商工業者は官衙(朝廷の役所)に属して様々な手工業生産に携わった。のちに朝廷の権力が弱体化して束縛から解放されるようになると、自立して座を結成することで生業を営むようになった。
 そして、貢納を見返りとして、社会的に権威を持つ朝廷・貴族や有力寺社に権利の保障を求めた。
 京都の座には大山崎の離宮八幡油座のほか、大舎人座や練座などの織物業者の座、紺座・茜染座・青花座など染色業者の座など。ほかにも北野社の麹座(酒屋の座)、祇園社の綿座・錦座など多数があったようだ。
 中世の京都は商工業者の座が60以上の座が確認されているそうで、日本最大級の商工業都市であったといえるようだ。
 記録に残る最古の座は青蓮院を本所とする八瀬里座で延暦寺や朝廷に奉仕したそうだ。

妙喜庵
 室町時代の俳諧師山崎宗鑑が住んだ草庵を後に臨済宗東福寺派の寺とした。宗鑑当時の書院とともに、千利休が造営して秀吉も度々来遊した茶室「待庵」がある。
 待庵は国宝に指定されている日本最古の茶室であり、千利休作の茶室として唯一現存している。
 内部は炉を切った二畳の部屋、それに次の間と勝手が付属している。

Photo

2012年8月24日 (金)

実在しない町名 2 ー仁丹町名表示板からー 

それは、北区の「大宮上野町」です。

Photo_3

 上賀茂社の南部から北西部にかけて広がる地域は、古代・中世に上賀茂社領とされて、河上・大宮・小山・岡本・中村・小野の六郷を賀茂六郷と称した。
 そしてこの内の大宮郷であるが、近世から明治のはじめまで、船岡山周辺から北に広がる一帯、紫竹・大門・上野・雲林院・門前の大徳寺境内5ヵ村、および新門前・三筑・開・薬師山・大宮森の5ヵ村を併せた10村を総称したものである。そして、大宮郷は明治5年(1872)東紫竹大門村と改称している。
 地名の由来は、大宮郷の域内に鎮座する久我神社が大宮と称されたため、あるいは平安京の大宮大路に因むとも言われるそうだが、確かなことは不明のようである。

 大宮郷の一村である上野村は、そのあと大正7年(1918)に「大宮」を冠称する「上野町」すなわち、「大宮上野町」と称した。
 そしてその後、昭和35年(1960)に冠称を「大宮」から「紫野」に変更して、現在は「紫野上野町」となっている。

今宮神社の「やすらい祭」
 旧大宮郷の上野地区(旧植野村)と雲林院地区(旧雲林院村)には「やすらい祭」が伝承されているということだ。
 5月の例祭に先立ち4月第二日曜日におこなわれるが、太秦の「牛祭」、鞍馬の「火祭り」とともに京都の三大奇祭といわれる。
 このやすらい祭は祇園御霊会や北野天満宮御霊会などとともに御霊会系統の祭礼で、民間信仰に根ざしたものであるため歌舞的要素の強い華麗な祭礼である。
 ここ上野地域からも着飾ったり仮装して、囃し・踊り回りながら今宮神社に参詣する。
 むかし、疫病は桜花の散る頃に疫神がいたずらをして廻り人を悩ますと信じられた。この祭はその疫神を鎮めるためにおこなわれたのが始まりといわれる。

2012年8月17日 (金)

「京七口」と街道 ー長坂越えー

長坂口と長坂越え
 京都の出入り口『京七口』の一つ「長坂口」は、鷹ケ峯から千束・京見峠を経て杉坂に至る丹波街道長坂越え(丹波街道とも)の出入り口である。遅くとも鎌倉時代の末期には設けられていたことが文献で確認できるらしく、戦国期には丹波・若狭と山城を結ぶ重要ルートであり、近世に入る頃まで重要視されたようである。
 然林房横の細い道が長坂越えの登り口となる。

 鷹ケ峯は狩猟場であった栗栖野の西北にあたり、毎年鷹がやって来て雛を生んだのでその山を鷹ケ峯と称したという伝承がある。

長坂口辺りから鷹ケ峯北方を望む

Photo

 なお、長坂口を鷹ケ峯ではなく、後の蓮台野村辺り(東は船岡山西麓から西は上品蓮台寺の辺り、北は仏教大学南は鞍馬口通辺り)としたものもあるようだ。

上品蓮台寺(紫野十二坊町)

Photo

 ところで、この長坂口は、後に豊臣秀吉が築造した御土居(京都の市街地を囲い込む全長約23Kmの大堤)の西北隅にあたる。

史跡・御土居跡(鷹ケ峯旧土居町)

Photo_2

Photo_3

芸術村 
 鷹ケ峯光悦町の古図には、京口に通じる南北路と丁字形に交わる東西路があり、その家並には本阿弥光悦をはじめ養子・弟・宗家の次男・三男といった本阿弥一族、蒔絵師、筆屋、紙屋、尾形光琳の祖父宗柏、茶屋四郎次郎といった当代一流の芸術家や豪商の屋敷が見えるという。いわば芸術村とも言える様相を呈していたようだ。
 また、長坂口は若狭・丹波方面からの諸物資集散地および宿場として賑わった。
 しかし、長坂越えと雲ヶ畑越えのいずれの丹波道も、明治37年に高雄・梅ヶ畑経由の周山街道(現・R162)の開通によって木材等の物資集散地としての賑わいは衰微した。

清蔵口
 なお、近世に入って長坂口が廃止された後、やはり京七口の一つ「清蔵口」が設けられた。これは西賀茂から雲ヶ畑を経て丹波に出る街道出入り口であるが、現在の新町通鞍馬口付近の清蔵口町一帯をいう。
 清蔵は西蔵から出た言葉であるとし、古御蔵の西倉があったことから西倉口、これが誤称されて西蔵口また清蔵口と説明する文献があるようだ。また他に、清蔵と云う富者があり、その名を地名としたとするものもあるそうだ。

清蔵口町の仁丹町名表示板

Photo_4

Photo_5

 R162杉坂口までの長坂越えは山道のためコース全体としては道が細く、車の離合困難な箇所がかなりあってストレスとなり、快適なドライブはできません。
 しかし、長坂越えの杉坂側終端近くの地蔵院境内には種田山頭火の句碑「音はしぐれか」があり和む。
 ひっそりとした山中に山号「桃源山」の標石、長閑な気分になります。
 句碑の写真は省略します(興味を持たれる方は当ブログ中の「種田山頭火 ー京都にある句碑4ー」をご覧下さい)

Photo_2

2012年8月 9日 (木)

大山崎(山崎) その3

行 基
 奈良時代の高僧、日本で最初に大僧正の位を与えられたといわれる。
当 初は、民衆を煽動するものと曲解されて仏教を民衆に布教することを禁じられた。しかし、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族を問わず広く仏法の教えを説いて人々に篤く崇敬された。
 49にものぼる寺や道場を建てただけでなく、多くの溜池(15ヶ所)・灌漑用溝(7ヶ所)や堀・橋(三橋)などの土木工事、困窮者のための布施屋を設置するなど広く各地で社会事業もおこなったとされる。
 このように行基は禁を破ったことで朝廷からは弾圧されたが、後には大僧正として聖武天皇から奈良の東大寺大仏建立の責任者として招聘された。東大寺では大仏建立に力のあった行基を、良弁・聖武天皇・菩提僊那とともに四聖(ししょう)の一人に数えている。
 大山崎においても、神亀2年(725)山崎橋を架橋、同4年(727)宝積寺を創建、天平3年(731)山崎院を創建、天平18年(746)西観音寺を開いている。

宝積寺
 寺伝では神亀元年(724)聖武天皇の勅願により行基が建立した。
 聖武天皇が龍神から授けられたという「打出」と「小槌」が祀られており、「宝寺」とも称される。
 写真の三重塔は、山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀に勝利したのを記念して、一夜で建立した塔と伝えられたことから「一夜の塔」と呼ばれている。

Photo_11

山崎院跡碑
 天平3年(731)行基の教えを広める道場として建立。
 院に関わる奈良時代の出土物から大山崎町大山崎上ノ田が山崎院跡として比定された。所伝に水無瀬川畔に開いたというのもあるようだ。

Photo_12

西観音寺
 天平18年(746)、行基が聖武天皇の帰依仏である観音像を奉じて建立。往時の西観音寺境内地は広大なものであったが次第に衰退し、明治5年、廃仏毀釈により跡地のごく一部が椎尾神社となり、境内地であったところの殆どが現在ではサントリー山崎蒸留所の敷地となっている。

Photo_13

Photo

山崎橋
 所伝では行基が神亀2年(725)に対岸の橋本との間の淀川に架けたという。橋の長さは三丁余というから約350メートル程だったようだ。橋のたもとにできた集落であることが、橋本の地名由来であるという。
 この山崎橋は日本三古橋の筆頭で山崎太郎と称された。あとの二つは瀬田の唐橋(勢多次郎)と宇治橋(宇治三郎)。
 山崎橋は記録によるとたびたび流失・架橋を繰り返して11世紀に廃絶。豊臣秀吉により復活したがその後に失われたあとは、昭和37年(1962)まで渡船が運行されていたそうだ。

2012年8月 3日 (金)

寝台特急「日本海」のラストラン

 整理をサボっていたデジカメ写真の中にあったものです。
 撮影データの日付けは、【2012/03/16   10:06:17】となっています。
 3月16日は「日本海」の最終運行(ラストラン)として、テレビ・新聞のニュースで大きく取り上げられました。

 ところが、この写真の上り「日本海」はあと20分程で終着の大阪駅に着きますが、始発青森を出発したのが前日の3月15日(ラストランの前日)夕刻なのです。ですからこの列車は正真正銘の最終運行ではありません。(ラストランの大阪着17日は雨の天気予報が出ていたため繰り上げて撮影したのです)
 本当のラストランは、この日(16日)夕刻に青森駅を発車する上り列車と、大阪駅を発車する下り列車だったのです。
 そして、テレビ・新聞を賑わしたのは、この日の夕刻に大阪を発車した下り「日本海」でした。
 この日をもって定期運行の「日本海」は廃止されたけれども、ゴールデンウイークなど多客時には臨時運行として走らせるようです。(その後、初めてのゴールデンウイークには撮影のため鉄道ファンがサントリーカーブに結構来ていました)
(写真をクリックすると拡大します)

Photo_6

Photo_7

Photo_8

 別に鉄道ファンでもないのにこの写真を撮ったのは、懐かしい想い出があったためです。
 初めての北海道旅行(約50年前)では「日本海」を利用しました。その頃は「寝台特急」ではなく、ただの「(夜行)急行列車」でした。当時の特急列車では「白鳥」が運行されていましたが、ジャリが利用する列車ではありませんでした。
 当時の「日本海」は夜11時頃に大阪駅を発車して丸一日、約23時間後の夜にやっと終着青森に着きました。すぐに青函連絡船に乗り換え、船中でうたた寝して翌朝の明け方に函館へ着きました。夜空け間もない霧の立ち込める大沼公園の風景が記憶に残っています。
 まだ若くて元気な頃でした。けれども夏休みの旅行のこととて座席に座れず、も〜草臥れ果てました・・・。
 青函連絡船はその後、昭和63年(1988)に青函トンネルが開通したため廃止されました。

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »