「京七口」と街道 ー長坂越えー
長坂口と長坂越え
京都の出入り口『京七口』の一つ「長坂口」は、鷹ケ峯から千束・京見峠を経て杉坂に至る丹波街道長坂越え(丹波街道とも)の出入り口である。遅くとも鎌倉時代の末期には設けられていたことが文献で確認できるらしく、戦国期には丹波・若狭と山城を結ぶ重要ルートであり、近世に入る頃まで重要視されたようである。
然林房横の細い道が長坂越えの登り口となる。
鷹ケ峯は狩猟場であった栗栖野の西北にあたり、毎年鷹がやって来て雛を生んだのでその山を鷹ケ峯と称したという伝承がある。
長坂口辺りから鷹ケ峯北方を望む
なお、長坂口を鷹ケ峯ではなく、後の蓮台野村辺り(東は船岡山西麓から西は上品蓮台寺の辺り、北は仏教大学南は鞍馬口通辺り)としたものもあるようだ。
上品蓮台寺(紫野十二坊町)
ところで、この長坂口は、後に豊臣秀吉が築造した御土居(京都の市街地を囲い込む全長約23Kmの大堤)の西北隅にあたる。
史跡・御土居跡(鷹ケ峯旧土居町)
芸術村
鷹ケ峯光悦町の古図には、京口に通じる南北路と丁字形に交わる東西路があり、その家並には本阿弥光悦をはじめ養子・弟・宗家の次男・三男といった本阿弥一族、蒔絵師、筆屋、紙屋、尾形光琳の祖父宗柏、茶屋四郎次郎といった当代一流の芸術家や豪商の屋敷が見えるという。いわば芸術村とも言える様相を呈していたようだ。
また、長坂口は若狭・丹波方面からの諸物資集散地および宿場として賑わった。
しかし、長坂越えと雲ヶ畑越えのいずれの丹波道も、明治37年に高雄・梅ヶ畑経由の周山街道(現・R162)の開通によって木材等の物資集散地としての賑わいは衰微した。
清蔵口
なお、近世に入って長坂口が廃止された後、やはり京七口の一つ「清蔵口」が設けられた。これは西賀茂から雲ヶ畑を経て丹波に出る街道出入り口であるが、現在の新町通鞍馬口付近の清蔵口町一帯をいう。
清蔵は西蔵から出た言葉であるとし、古御蔵の西倉があったことから西倉口、これが誤称されて西蔵口また清蔵口と説明する文献があるようだ。また他に、清蔵と云う富者があり、その名を地名としたとするものもあるそうだ。
清蔵口町の仁丹町名表示板
R162杉坂口までの長坂越えは山道のためコース全体としては道が細く、車の離合困難な箇所がかなりあってストレスとなり、快適なドライブはできません。
しかし、長坂越えの杉坂側終端近くの地蔵院境内には種田山頭火の句碑「音はしぐれか」があり和む。
ひっそりとした山中に山号「桃源山」の標石、長閑な気分になります。
句碑の写真は省略します(興味を持たれる方は当ブログ中の「種田山頭火 ー京都にある句碑4ー」をご覧下さい)
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