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2012年9月

2012年9月30日 (日)

突抜 ー甲斐守突抜ー

 この突抜は、油小路通の西裏(油小路の西側にある裏通り)の、中立売通から上長者町通までをいう。
 東橋詰町・突抜町・橋本町を通貫しています。

 『京町鑑』は、「◯右橋詰町に北ヘ行所は松之下町也  南へ行所 ㋟甲斐守突抜通 ◯堀川東入 東橋詰町」と、甲斐守突抜の位置を記しています。

 名称の由来について、『京都坊目誌』は「此地 天正年中黒田甲斐守の邸宅なり。開坊の日に當り。甲斐守突抜町と呼ぶ。維新の際單に突抜町とす。」と記しています。

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「東橋詰町」(仁丹町名表示板)
 堀川中立売に架かる橋(現・堀川第一橋)の東橋詰にあることが町名の由来です。

Photo_2


「突抜町」(仁丹町名表示板)
 元は甲斐守突抜町といった。付近にあった黒田甲斐守長政邸宅に由来することは先に記したとおりです。
 現在の突抜町の東に隣接して甲斐守町がある。

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「橋本町」の由来
 元禄期の絵図に「橋本丁」と出ているようで、町内の人々が金を出して上長者町堀川に橋を架設した。その橋元に所在する町であることが町名の由来という。

 なお、この辺り一帯は平安時代の官衙町(官庁街)だったようで、東橋詰町は「女官町」「帯刀町」、突抜町は「女官町」、橋本町は「左兵衛町」にあたるということのようです。

2012年9月28日 (金)

いよいよ 秋!!!

 「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく云ったものです。
 あまりのクソ暑さにうんざりした夏もヤット去ってくれました。
 暦のうえだけでなく、漸く秋ですね。
 今回はチョット番外編で?

どんぐりころころ どんぐりこ 

1700_2

「秋」の語源
 秋の空が「あきらか(清明)」である様子から、草木が「あか(紅)」に染まる頃だから、収穫が「あきみちる(飽き満ちる)」頃であるため、などなど色々な説があるようです。

「秋」とは
 現在使われている新暦(太陽暦)による四季区分では、9月から11月までを秋とします。しかし、どーも風雅に欠けて味気ない感じです。
 旧暦(太陰太陽暦)では二十四節気のうち、「立秋」から「立冬」の前日までを秋としています。スパッと月で切れば、7月から9月までが「秋」ということなります。
 二十四節気というのは一年を24に区分して、それぞれの季節的特徴を言葉で表したものです。「立秋・処暑」は初秋、「白露・秋分」は仲秋、「寒露・霜降」は晩秋にあたります。

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 彼岸花は畦道で多く見ます。これは有毒であるため、獸害を避ける目的で畦に植えられたとも。
 そして、昔は根(鱗茎)を救荒植物として利用したこともある。食べ方は、煮たうえ川水に晒し毒抜きをして、餅にして食べたようだ。
 この餅について、民俗学者の宮本常一さんが『忘れられた日本人』(日本全国の民間伝承を調査したもの)に、愛媛県の老人からの聞き書きとして次のように書いています。
 「少し食べるには悪くもないが毎日たべると、決して有難い食べものではありません。」
 「ある男が山へ木挽きに行って、べんとうのシライモチ(彼岸花の根から作った餅)を食べたがいかにもうまくない、最後の一つを切り株の上にのせておいて帰りました。一年ほどたって行ってみると、モチはそのまま切り株の上に白くさらされたまま残っていたと申します。」
 これは、きっと相当ひどい不味さに、山の獣ですら敬遠するような代物だったというのでしょう。

おしまいに秋の?都々逸を、
 ・あついあついと云われた仲も 三月せぬ間に秋がくる
 ・色はよけれど深山の紅葉 あきという字が気にかかる
野暮で余計な注釈でごめんなさい。はじめの「秋」、次の「あき」、何れも「飽き」と懸けているわけですね。

2012年9月21日 (金)

六角獄舎そして山脇東洋と古高俊太郎

六角獄舎址
 写真をクリックすると拡大して、駒札の説明書きが読めます。

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 六角獄舎は現在の中京区六角通神泉苑町西入因幡町、武信稲荷の南側にあった。
 平安時代の獄舎は、内裏の東側に左獄(東獄)、西側に右獄(西獄)と二ヶ所あった。
 現在の西ノ京円町にあった右獄は早くに廃止された。
 左獄は現・西洞院通出水下ル丁子風呂町(今の京都府庁西側)辺りにあったが、獄舎があったことから「獄門町」と呼ばれ、その後「毘沙門町」と改めたが、寛永14年の洛中絵図には「丁子風呂町」と現町名が見えると云う。丁子風呂という風呂屋があったのが由来とするそうだ。
 左獄はその後、秀吉の命令で現・小川通押小路下ルの下古城町に移されたが、宝永5年(1708)の大火で類焼したためこの六角の地へ移った。

丁子風呂町(仁丹町名表示板)

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 幕末の頃、国事に奔走して捕われた多くの志士が六角獄舎に収用されていた。しかし、元治元年(1864)蛤御門の変による兵火で「どんどん焼け」と呼ばれた大火となる。
 このとき町奉行は、この地に及びそうになったときには重罪人は全て切り捨てよと命じた。そして、「破獄を企てた」との名目で志士平野国臣ら33人を処刑したという。

蛤御門に残る弾痕

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山脇東洋
 江戸時代中期の医者で、宝暦9年(1754)京都所司代の許可を得て六角獄舎刑死者の解剖をおこなうことにより、初めて人体内部の構造を知って、わが国初の解剖記録「蔵志」を著した。
 日本の医学近代化に大きく貢献し、杉田玄白・前野良沢などに影響を与えた。
 東洋は解剖した刑死者の霊を弔うため、五臓六腑のある阿弥陀像を誓願寺に寄進したという。この誓願寺総墓には東洋自身の墓もある。

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古高俊太郎
 なお、このときの処刑者には池田屋騒動の発端となった勤王派志士の古高俊太郎も含まれていた。
 四条木屋町上ル真町の薪炭商枡屋(古高俊太郎)を捕えた新選組は、壬生屯所前川邸(現・壬生賀陽御所町)の土蔵において土方歳三による過酷な拷問を受けた古高の自白から、尊攘派志士が謀議中の池田屋を急襲した。(三条通木屋町西入には「池田屋騒動跡碑」が建っている)
 ただし、尊攘派は古高俊太郎救出のために池田屋で会合を持ったが、事件そのものは佐幕派と尊攘派の抗争の中、新選組がその威信高揚と共に、尊攘派の威信失墜を狙った捏造があり、冤罪だとの説もあるようだ。

新選壬生組屯所址 旧前川邸
 坊城通綾小路東南角で平屋建の長屋門のある家。入口右手の格子造り出窓は新選組が造作したと云う。当時は壬生郷士の前川家屋敷だった。

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壬生賀陽御所町(仁丹町名表示板)

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 壬生といえば思い浮かぶのは、壬生寺と壬生狂言・新選組・壬生菜といったところか。
 京都盆地は賀茂川など北部から流れ込む河川の扇状地であり、平安京の左京は水はけが良いが右京は伏流水の湧き出る低湿地であった。(この地形的特徴が平安京右京の早く衰退した理由)
 壬生はこのような土地柄から水生(みふ)と称され、これが後に壬生(みぶ)に転訛したと云われ、これが地名の由来となっている。
 新選組の前身、近藤勇・土方歳三等の試衛館組などが上京して、最初に宿舎としたのがこの壬生界隈であった。八木邸では芹沢鴨グループが粛正され、筋向かいの前川邸は古高拷問と新選組副長である山南敬助切腹の舞台となった。

2012年9月14日 (金)

辻子 ー庚申ノ辻子と周辺ー

庚申ノ辻子(山伏ノ辻子とも云った)

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 白川に架かる庚申橋を渡って、梅宮町の北側を東行して粟田庚申堂(*金蔵寺)に至る小路。
 「梅宮町」の町名由来は、梅宮町の開町以前は田畑で梅ノ宮と称する小祀があり、洛西梅津にある梅宮大社の神を勧請して祀っていたからと云う。 

*金蔵寺
 青蓮院の西(粟田口三条坊町)にあった天台宗の寺院であった。境内には三猿堂(庚申堂・御猿堂)・山王社・蛭子社があった。このうち三猿堂は**国宝『上杉本洛中洛外図(屏風)』に「見さるきかさる」の記入が見られるという。金蔵寺は明治初年に廃絶したが、三猿堂は粟田口北町の尊勝院に移されていると云う。

 **国宝『上杉本洛中洛外図(屏風)』に見える「とをり(通り)」
 この上杉本は六曲一双のもので狩野永徳筆とされ国宝に指定されているが、天正2年(1574)に織田信長が上杉謙信に贈った(『上杉年譜』)とされる。
 いま我々が使っている京都の「××通り」という道路名称はいつの頃にできたかについて、諸史料・資料の記載から見て戦国時代末ではないかと考えられている。その資料の一つがこの『上杉本洛中洛外図屏風』で、右隻の第四扇から第三扇にかけて「東洞院とをり」「烏丸とをり」「室町とをり」「町(現・新町)とをり」「西洞院とをり」「油小路とをり」の六つの「とおり」名の書き込みがあるそうだ。
 洛中洛外図は、市中市外の建物や風俗を俯瞰構図で細密に描いたもので、室町時代末期から江戸時代初期にかけて多く描かれた。その中でもこの上杉本は初期のもので、唯一の国宝指定となっており、近世京都に関する第一級史料と見られている。これに記された「とをり」は古代の道路名称から近世の道路名称への変化が示されている最も古い史料として重要視されている。

白川橋畔の道標

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彫られている文字は、
北面に・・・三條通白川橋
東面に・・・是よりひだり
       ちおんゐん ぎおん きよ水みち
南面に・・・ 延宝六戊午年三月吉日
     京都為無案内旅人立之
       施主 為二世安楽

 延宝6年といえば西暦1678年なので、330年以上も前に建てられた現存する京都の道標では最古のものとされる。
 「粟田口」(古代の「粟田郷」で京七口の「粟田口(三条寺町の石橋町辺り)」ではない)の東端にあたる白川橋畔に建つ。
 北陸道が中山道の鳥居本で合流、その中山道は草津で東海道へと合するが、この主要官道東海道から京都に入る多くの旅人達の道しるべとなっていた。

2012年9月 8日 (土)

大山崎(山崎) その5

大山崎瓦窯跡

 発掘調査で6基の窯と、瓦窯内部と周辺から平瓦・丸瓦・軒瓦が出土した。瓦の文様からこの瓦窯は9世紀前半〜中葉の頃に操業していたものと考えられている。
 平安宮朝堂院をはじめ、嵯峨天皇の離宮である嵯峨院・河陽離宮などの推定地から同じ型枠で焼かれた軒瓦が出土していることから、大山崎瓦窯は宮殿の修理や嵯峨天皇の離宮造営に伴って国営の瓦窯として開かれたと考えられている。遺構の重要性から国史跡に指定されている。

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山崎の津

 山崎の地が古代から交通の要衝となっていたことはこの前に触れた。(その1)
 その中心的なものが「山崎の津」であった。平城京から長岡京遷都の折りに設けられたようだ。西国から大和へ向うには大和川や暗峠を経由する方法もあった。また、淀川 ー 木津川 ー 大和のコースや、池田 ー 茨木 ー 島本 ー 枚方 ー 田辺 ー 精華 ー 木津 ー 大和のコースがあって、いずれも山崎の津が重要な位置を占めていた。

 紀貫之は『土佐日記』のなかで、土佐守の任を終えて都への帰途に「雨いさゝか降りてやみぬ。(略) 山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。(略)」と記したのは、承平5年(935)2月11日のことである。ところが、土佐からの長途を都まであと一日という所に帰りながら、何故か山崎の津で6日間の長逗留をしている。
 嬉しがったのは都の傍まで帰ってきたからだけではなく、山崎の遊女を相手に一息入れて遊べることを喜んだのかも・・・? 絶対そうに違いない!!!

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観音寺(山崎聖天)

 本尊の十一面観音よりも歓喜天の信仰で賑わったようである。歓喜天は正式には「大聖歓喜天」といい、仏教の守護神の一である。象頭人身の単身像、および象頭人身の抱擁している双身像の二通りが多いそうである。秘仏として扱われて厨子に安置され、一般に公開されることは無いということである。
住友・鴻池・三井など、京都や大阪の商人から篤い信仰・参詣を受けた。
 写真の本堂前に建つ大灯籠は高さが3m余りもあり、大阪の豪商住友吉左衛門が寄進したもの。

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 永らく、日本古来の神と外来の宗教である仏教を結びつけた信仰(神仏習合)がおこなわれてきた。したがって、寺院に神様が祀られたり、神社にお寺(神宮寺)が建てられたということは、別に珍しいことではなかった。しかし、明治政府の神仏分離令によって、神社と寺院は強制的に分離されてしまった。

エ〜ッ お寺に鳥居が
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 ところが、お寺である「聖天さん」に鳥居があることは珍しくないそうだ。何故なのかは信仰心の薄い私などには理解の外のことであるが、菩薩と仏教の守護神をともに祀っているためなのだろうか。

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