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2012年9月14日 (金)

辻子 ー庚申ノ辻子と周辺ー

庚申ノ辻子(山伏ノ辻子とも云った)

Photo_2

 白川に架かる庚申橋を渡って、梅宮町の北側を東行して粟田庚申堂(*金蔵寺)に至る小路。
 「梅宮町」の町名由来は、梅宮町の開町以前は田畑で梅ノ宮と称する小祀があり、洛西梅津にある梅宮大社の神を勧請して祀っていたからと云う。 

*金蔵寺
 青蓮院の西(粟田口三条坊町)にあった天台宗の寺院であった。境内には三猿堂(庚申堂・御猿堂)・山王社・蛭子社があった。このうち三猿堂は**国宝『上杉本洛中洛外図(屏風)』に「見さるきかさる」の記入が見られるという。金蔵寺は明治初年に廃絶したが、三猿堂は粟田口北町の尊勝院に移されていると云う。

 **国宝『上杉本洛中洛外図(屏風)』に見える「とをり(通り)」
 この上杉本は六曲一双のもので狩野永徳筆とされ国宝に指定されているが、天正2年(1574)に織田信長が上杉謙信に贈った(『上杉年譜』)とされる。
 いま我々が使っている京都の「××通り」という道路名称はいつの頃にできたかについて、諸史料・資料の記載から見て戦国時代末ではないかと考えられている。その資料の一つがこの『上杉本洛中洛外図屏風』で、右隻の第四扇から第三扇にかけて「東洞院とをり」「烏丸とをり」「室町とをり」「町(現・新町)とをり」「西洞院とをり」「油小路とをり」の六つの「とおり」名の書き込みがあるそうだ。
 洛中洛外図は、市中市外の建物や風俗を俯瞰構図で細密に描いたもので、室町時代末期から江戸時代初期にかけて多く描かれた。その中でもこの上杉本は初期のもので、唯一の国宝指定となっており、近世京都に関する第一級史料と見られている。これに記された「とをり」は古代の道路名称から近世の道路名称への変化が示されている最も古い史料として重要視されている。

白川橋畔の道標

Photo_3

彫られている文字は、
北面に・・・三條通白川橋
東面に・・・是よりひだり
       ちおんゐん ぎおん きよ水みち
南面に・・・ 延宝六戊午年三月吉日
     京都為無案内旅人立之
       施主 為二世安楽

 延宝6年といえば西暦1678年なので、330年以上も前に建てられた現存する京都の道標では最古のものとされる。
 「粟田口」(古代の「粟田郷」で京七口の「粟田口(三条寺町の石橋町辺り)」ではない)の東端にあたる白川橋畔に建つ。
 北陸道が中山道の鳥居本で合流、その中山道は草津で東海道へと合するが、この主要官道東海道から京都に入る多くの旅人達の道しるべとなっていた。

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