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2012年10月

2012年10月28日 (日)

「京七口」と街道 ー西国街道 3ー

 長岡宮大極殿址碑から再び西国街道兼府道67号線に戻り、南進すると「五辻」交差点、ここで府道67号線から外れて直進する道(「アストロ通り」の表示)が旧西国街道である。
 直進するとやがて阪急京都線の高架に至るが、これを潜って信号を渡たると小さな橋に西国街道と記されている。この橋を渡ると敷石で舗装された綺麗な小道となり、背の低い街灯が設置された静かな佇まいの家並が続く。

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 しばらく進むと一文橋の大きな交差点に行き着く。その一文橋を渡り少し行った馬場一町目交差点で道標「西国街道」に従って再び石畳舗装の小道に入る。
 西国街道に架かる一文橋は、室町時代に造られた有料の橋と伝わる。橋の名前の由来は、大雨のたびに流される橋を架け直す費用として、通行人から一文を徴収したことによると云われる。

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2012年10月19日 (金)

「京七口」と街道 ー西国街道 2ー

 吉祥院天満宮から西国街道に戻って桂川へ・・・。
 桂川に架かる久世橋を渡ると、右岸すぐ下手の分岐点に建つ道標に従い久世から向日町へと向う。

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 国道171・JR東海道線・阪急京都線をこえて左折、ゆるやかな坂を上り切ると旧西国街道は現府道67号線(西京高槻線)の向日町商店街にある須田家住宅(府指定文化財)前の交差点に出る。ここから旧西国街道は所々で現府道67号線と重なりあいながら大阪府方面へと向う。

街道沿い向日市内の民家
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 桂川西岸の久世から南西へ、西山丘陵(向日町丘陵)に及ぶこの一帯は旧乙訓郡である。
 「乙訓(おとくに)」の名は古く『日本書紀』にその名が見えるそうです。乙訓は「堕国」「弟国」とも記した。
 垂仁天皇の時代、丹波の四人の姉妹の姫が崇仁天皇に召された。ところがその一人である竹野姫は顔が醜いと云うことで自分だけが送り返されることになった。姫は悲観の余りこの地に至ったとき、深い渕に自ら輿から堕ちてはかない最後を遂げたそうな。それからこの地を堕国(おちくに)と呼び、これが訛って乙訓になったと伝えられる。
 (註)この乙訓の語源については、「古事記」は四人姉妹、「日本書紀」では五人姉妹。輿から落ちて死ぬのは、「古事記」は圓野比売命、「日本書紀」では竹野媛というように異同があり単純ではありません。

 弟国は兄国に対する語で、京都盆地の諸河川の氾濫原に水が激ち(たぎち=激しく流れる)ところからオタギ(愛宕)の国ができ、これを川上の兄国として、川下に弟国(オトクニ=乙訓)が生まれたと云う。
 同じように、樹木の多いキイ(紀伊)の国や、葛野原という景観を持つカドノ(葛野)といった国も成立して、これら小国家の名が郡名に変わり、いまも地域名として伝わっているのです。

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 須田家住宅前交差点を南進すると間もなく右手(西側)に向日神社参道に至る。ここでルートを外れて左手(東側)に入っていくと、長岡宮大極殿跡碑に行くことができる。
 長岡京は桓武天皇により延暦3年(784)から造営された都で、現在の向日町鶏冠井(かいで)を中心として、大原野・長岡・大山崎・久世・淀一帯にわたる広大な地域を占めたそうだ。しかし、造長岡宮使の藤原種継暗殺や皇太子早良親王の廃太子、飢饉や疫病の流行など数々の変事が発生した。このため、平城京から水陸の便が良いこの地に遷都したものの僅か10年で平安新京に遷った。

長岡京大極殿跡碑
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2012年10月13日 (土)

「京七口」と街道 ー西国街道 1ー

 西国街道というのは京都から西国に至る街道ですが、その呼称についてはかなりの異同があるようです。しかし、ここでは京七口の東寺口を起点として西宮まで通じているのが西国街道(山崎街道とも)としておきます。そして、西国街道は西宮で山陽道(中国街道)に合流します。

 ところで、その西国街道は東寺口から桂川を渡り、久世・向日・神足・山崎までの間を唐街道と呼び、山崎から先の芥川・郡山・瀬川・昆陽を経て西宮に至る間を山崎街道とも呼んだようなのです。
 さらに、呼称の紛らわしさということでは、山陰道(国道9号線)を現・西京区の桂西方から南進して向日町に至る物集女(もずめ)街道、これもまた西国街道と称したことがあったようです。
 *桓武天皇(長岡京・平安京に遷都)の母は高野新笠という人です。この新笠の母が山城盆地西部に勢力を張った土師氏の一支流である毛受(もず)氏の出で、向日市にある物集女の地名はこれに由来するといいます。
 桓武天皇が乙訓の地に長岡京を設けた背景には、母の新笠の出身地であったことも関係しているかも知れません。

 今回はその西国街道のうち、唐街道(東寺口〜山崎)と云われた部分を歩き、数回に分けて記事にしてみます。
 しかし、起点となる東寺口がどの辺りにあったかについては、西大宮尻(現・唐橋大宮尻町付近)とするものや、九条千本東入ル(羅城門址付近)とするものなど、東寺の西方辺りに位置したらしいのだが明確ではないようです。

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 そこでまず、九条千本の羅城門跡をスタートして西進、九条御前から南西方向への細い道(旧西国街道)に入り、ほぼ道なりに吉祥院を抜けて桂川左岸の久世橋へと向った。
 この羅城門は平安京の正門であったが、大風で倒壊したあと再建されるも再び暴風雨で倒壊、その後は再建されることはなかったようだ。これは平安京の右京が地勢的事情から生活に適さない土地柄のため早くに衰退してしまったことも関係するのでしょうか。この羅城門から北方の大内裏に延びる朱雀大路は約85mもの幅員があったようで、次に広いのは50mの二條大路なので大路の中では別格的な存在だった。

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 途中、少し道草をして吉祥院天満宮に立ち寄りました。ここは、菅原氏がその別荘地に吉祥天を祀り吉祥院を建立して氏寺とした。ついで、ここに菅原道真の霊を祀って吉祥院天満宮と称したことが地名由来となったという。この天満宮夏の大祭に奉納される六斎念仏は京都の六斎念仏では最も盛んで、重要無形文化財に指定されているとのことだ。

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 *胞衣とは・・・後産(分娩後に排出される胎盤・卵膜・臍帯など)をいい、桶や瓶に入れて土中に埋めたようだ。

2012年10月 5日 (金)

辻子 −円覚寺辻子・桝形笠屋ノ辻子と周辺ー

円覚寺辻子

 今出川通寺町の西、三筋目を北行する鍵の字形の小道の南部分。
 革堂内町と下塔之段町の南部分を南北に通貫する。
 『京町鑑』に、「あみだ寺横町下ル ▲下塔之壇町  此南町半町ばかり南にて行きあたり少し東へ入叉南へ行所を  ▲圓覺寺辻子  此南の横町は今出川通也」とあります。
 辻子の名前は、辻子東側の柳風呂町にある円覚寺(真宗)に由来する。

円覚寺

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 革堂内町の町名は、天正年間に油小路一条北の革堂前から移転してきた住人が、前住地に因んで名付けたと云う。
 幸神町(さいのかみちょう)の町名は、塔ノ段通北側にある幸神社(さいのかみしゃ)に由来する。
 この幸神社の元は出雲路の道祖神と称されて、賀茂川畔(現・青竜町)に祀られていたそうです。

幸神町の仁丹町名表示板

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 ついでながらもう一つ、この幸神町の西に隣接して「上塔之段町」があります。
 この町名は、足利義満が父義詮の供養のために建立した相国寺の大塔基壇があったことに由来すると云われるが、塔そのものは応仁の乱で焼失したらしい。この塔は九重塔で高さが360尺あったというから、当時の竹尺は現在の曲尺(かねじゃく)の1.02尺に相当するので、約110m程の高さの正に大塔だったようです。

上塔之段町の仁丹町名表示板

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桝形笠屋ノ辻子

 寺町通東裏の桝形から北行して一筋北の通りまで。三栄町と表町の境界、一真町と二神町の境界を通貫している。
 『京都坊目誌』の上巻九に、「◯三榮町 寺町通一筋東東今出川一筋桝形とも上る町を云ふ(略)本町一に桝形笠屋ノ辻子と字す」とある。
 なお、同書の首巻之五には「◯笠屋辻子通 北は鶴山町横道に起り。南は白梅辻子に至る。今出川以南を中筋通と稱す。」と記す。
 これは紛らわしいようだが、三栄町の桝形笠屋ノ辻子から南、今出川通を越えて新夷町の白梅辻子まで、この通名称は笠屋辻子通と称していたと云うのでしょうか。

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 これらの町はいずれも立本寺(りゅうほんじ)の跡地にできた町です。
 四条櫛笥にあった立本寺は豊臣秀吉の京都改造でこの地に移され、その後、宝永の大火で内野一番町(現・七本松通仁和寺街道上ルの一番町)に移転しています。
 この立本寺には、かつて『辻子 ー下ノ森通沿いの辻子 3の1ー』に書いたように、吉野太夫・灰屋紹益などの墓がある。

 三栄町は、立本寺跡三丁目と称していたが明治2年に現町名となるときにこの「三」の字を取ったと云う。
 表町は、古地図には「立本寺前丁」「元立本寺跡表町」「立本寺跡前丁」などとあるようで、町名は立本寺の表に位置したことに由来する。現在、寺町通の西側にある立本寺前町はもちろん別の町ある。
 一真町は、明治になって立本寺跡一丁目から改称している。
 二神町は、古地図に「新カウ神町」「荒神町」などとある。明治になり立本寺跡二丁目と新荒神町が合併して、「二」「神」の一字ずつを取って二神町としたようだ。(なんと安直な!けれどもこの手の町名は多いのです)

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