「京七口」と街道 ー西国街道 1ー
西国街道というのは京都から西国(下関・九州)に至る街道ですが、その呼称についてはかなりの異同があるようです。しかし、ここでは京七口の東寺口を起点として西宮まで通じているのが西国街道(山崎街道とも)としておきます。そして、西国街道は西宮で山陽道(中国街道)に合流します。
ところで、その西国街道は東寺口から桂川を渡り、久世・向日・神足・山崎までの間を唐街道と呼び、山崎から先の芥川・郡山・瀬川・昆陽を経て西宮に至る間を山崎街道とも呼んだようなのです。
さらに、呼称の紛らわしさということでは、山陰道(国道9号線)を現・西京区の桂西方から南進して向日町に至る物集女(もずめ)街道、これもまた西国街道と称したことがあったようです。
*桓武天皇(長岡京・平安京に遷都)の母は高野新笠という人です。この新笠の母が山城盆地西部に勢力を張った土師氏の一支流である毛受(もず)氏の出で、向日市にある物集女の地名はこれに由来するといいます。
桓武天皇が乙訓の地に長岡京を設けた背景には、母の新笠の出身地であったことも関係しているかも知れません。
今回はその西国街道のうち、唐街道(東寺口〜山崎)と云われた部分を歩き、数回に分けて記事にしてみます。
しかし、起点となる東寺口がどの辺りにあったかについては、西大宮尻(現・唐橋大宮尻町付近)とするものや、九条千本東入ル(羅城門址付近)とするものなど、東寺の西方辺りに位置したらしいのだが明確ではないようです。
そこでまず、九条千本の羅城門跡をスタートして西進、九条御前から南西方向への細い道(旧西国街道)に入り、ほぼ道なりに吉祥院を抜けて桂川左岸の久世橋へと向った。
この羅城門は平安京の正門であったが、大風で倒壊したあと再建されるも再び暴風雨で倒壊、その後は再建されることはなかったようだ。これは平安京の右京が地勢的事情から生活に適さない土地柄のため早くに衰退してしまったことも関係するのでしょうか。この羅城門から北方の大内裏に延びる朱雀大路は約85mもの幅員があったようで、次に広いのは50mの二條大路なので大路の中では別格的な存在だった。
途中、少し道草をして吉祥院天満宮に立ち寄りました。ここは、菅原氏がその別荘地に吉祥天を祀り吉祥院を建立して氏寺とした。ついで、ここに菅原道真の霊を祀って吉祥院天満宮と称したことが地名由来となったという。この天満宮夏の大祭に奉納される六斎念仏は京都の六斎念仏では最も盛んで、重要無形文化財に指定されているとのことだ。
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