「京七口」と街道 ー西国街道 2ー
吉祥院天満宮から西国街道に戻って桂川へ・・・。
桂川に架かる久世橋を渡ると、右岸すぐ下手の分岐点に建つ道標に従い久世から向日町へと向う。
国道171・JR東海道線・阪急京都線をこえて左折、ゆるやかな坂を上り切ると旧西国街道は現府道67号線(西京高槻線)の向日町商店街にある須田家住宅(府指定文化財)前の交差点に出る。ここから旧西国街道は所々で現府道67号線と重なりあいながら大阪府方面へと向う。
桂川西岸の久世から南西へ、西山丘陵(向日町丘陵)に及ぶこの一帯は旧乙訓郡である。
「乙訓(おとくに)」の名は古く『日本書紀』にその名が見えるそうです。乙訓は「堕国」「弟国」とも記した。
垂仁天皇の時代、丹波の四人の姉妹の姫が崇仁天皇に召された。ところがその一人である竹野姫は顔が醜いと云うことで自分だけが送り返されることになった。姫は悲観の余りこの地に至ったとき、深い渕に自ら輿から堕ちてはかない最後を遂げたそうな。それからこの地を堕国(おちくに)と呼び、これが訛って乙訓になったと伝えられる。
(註)この乙訓の語源については、「古事記」は四人姉妹、「日本書紀」では五人姉妹。輿から落ちて死ぬのは、「古事記」は圓野比売命、「日本書紀」では竹野媛というように異同があり単純ではありません。
弟国は兄国に対する語で、京都盆地の諸河川の氾濫原に水が激ち(たぎち=激しく流れる)ところからオタギ(愛宕)の国ができ、これを川上の兄国として、川下に弟国(オトクニ=乙訓)が生まれたと云う。
同じように、樹木の多いキイ(紀伊)の国や、葛野原という景観を持つカドノ(葛野)といった国も成立して、これら小国家の名が郡名に変わり、いまも地域名として伝わっているのです。
須田家住宅前交差点を南進すると間もなく右手(西側)に向日神社参道に至る。ここでルートを外れて左手(東側)に入っていくと、長岡宮大極殿跡碑に行くことができる。
長岡京は桓武天皇により延暦3年(784)から造営された都で、現在の向日町鶏冠井(かいで)を中心として、大原野・長岡・大山崎・久世・淀一帯にわたる広大な地域を占めたそうだ。しかし、造長岡宮使の藤原種継暗殺や皇太子早良親王の廃太子、飢饉や疫病の流行など数々の変事が発生した。このため、平城京から水陸の便が良いこの地に遷都したものの僅か10年で平安新京に遷った。
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