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2012年11月

2012年11月30日 (金)

実在しない町名 4 ー仁丹町名表示板からー 

 それは、下京区の「島原 西新屋敷 上之町」などの6町です。

 この「島原」というのは、かつて「西新屋敷」にあった遊廓の通称名でなのです。したがって「島原」は公式には広域地名でも、町名の一部でもありません。地図の町名索引でも西新屋敷○○町として出ています。
 さて、その島原は江戸の「吉原」、大坂の「新町」とともによく知られた公許の三大遊廓の一つでした。公許の遊廓は全国的に多くあり、同じ寛永年間に開かれた長崎の「丸山」遊廓を三大遊廓の一つに数えるものもあると云う。

 次の仁丹町名表示板に記された町名は、正しくは「西新屋敷 上之町」「西新屋敷  下之町」となります。
 この「西新屋敷」の付く町は他に、「太夫町」「揚屋町」「中之町」「中堂寺町」があり、合わせて6つの町がある。

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 「西新屋敷」の由来は、公許の遊廓が幕府の命令により、次のように転々と移って行く過程で付けられたものでした。

二條柳町
 天正17年(1589)、豊臣秀吉の認可を得て、洛中の傾城屋を一カ所に集めて公許の遊廓ができ、ここを「二條柳町」と称した。
 そして、関ヶ原の戦いのあと慶長5年(1600)江戸幕府の創立で政権交代すると、徳川家康は京都支配のため、慶長7年(1602)二条城の建設に着手する。そうなると、上京と下京の境界となっていた二条通は二条城の大手筋にあたる道路ということになった。ところが、二条城・二条通の東方に存在する傾城町は風儀の上から由々しい問題となってきたのです。

六條柳町
 そういう事情で、慶長7年(1602)二條柳町の遊里は、六條室町に移されて「六條柳町」と称することになりました。そしてここは「六條三筋町」とも呼ばれる。こうして、新しく開かれた所であることから通称「新屋敷」となった。
 しかし、未開発地であった洛南六條柳町の周辺も、傾城町と共に発展して行き都市化が進むにつれ、ここでも矢張り風儀上・教育上問題があるため、その存廃問題が生じることとなりました。

西新屋敷
 こうして、寛永17年(1640)六條柳町の「新屋敷」から、慌ただしく移転させられた辺鄙な西方の朱雀野の地を「西新屋敷」と称したのです。
 この「西新屋敷」が俗に「島原」と称された由来は、諸説あって必ずしも明らかではないようです。突然の移転騒動が、三年前の島原の乱のようだと評されたからというもの、また、この傾城町の回りには堀が巡らされ、出入り口が一カ所で外界と隔てられているのが島原城に似ているというのもあるようです。

2012年11月23日 (金)

実在しない町名 3 ー仁丹町名表示板からー 

 それは、「八條二人司町」などです。

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 明治22年(1889)「市制町村制」の施行(*「明治の大合併」)により、葛野郡の中堂寺村・八條村・東塩小路村・朱雀村の4村が合併して大内村が成立し、旧4村はこの大内村の大字(おおあざ)となった。

☆★☆ 市町村合併について ☆★☆

 市町村合併による町名(地名)の変更や消滅は、全国的に画期となる時期が三度あった。
 明治の大合併・・・明治22年(1889)が最初のものであり、約300〜500戸を標準規模とした合併が行なわれ、全国に7万1千余りあった町村が1万6千程に減少した。
 昭和の大合併・・・昭和28年(1953)の「町村合併促進法」、昭和31年の「新市町村建設促進法」により推進され、町村は概ね8千人以上の住民を有することが標準とされた。このため、全国の市町村数は昭和28年10月の9868から昭和36年6月の3472まで減少した。
 平成の大合併・・・平成12年(2000)に定められた『行政改革大綱』の「市町村合併後の自治体数を1000を目標とする」方針のもと推進され、平成17・18年に合併のピークを迎えた。これが平成22年3月末の合併支援策打ち切りで、11年間にわたる合併は一区切りを迎え、平成11年3月末に3232あった市町村数が、平成22年10月1日には半数近くの1742にまで減少してしまった。
(数値は地方自治情報センターなどのデータを参照した)
 なお、歴史的な地名の多くが変更されたり、消滅した原因となった法律に、昭和37年(1962)制定の「住居表示に関する法律」があり、これは地名保存運動の巻き起こるきっかけとなった。

☆★☆脱線しましたが本題に戻ります☆★☆

 大内村八條の各町は大正7年下京区に編入された。そして町名に「八條」を冠称することとなった。
 しかし、二人司町・西酢屋町・諏訪開町・夷馬場町・和気町・観喜寺町・小坂町の7町は、昭和36年以降は冠称の「八條」を廃止した。
 したがって、下京区で現在もなお「八條」を冠称するのは、八条坊門町の1町だけとなっている。

 そして、源町・寺内町・内田町・四ツ塚町は、昭和30年に下京区から分区して成立した南区に属している。これらの4町は今もなお「八條」を冠称している。

 ということで、下京区の「八條○○町」は昭和35年までの公称町名であって、現在では冠称の「八條」を除いたものが公称町名となっている。

2012年11月16日 (金)

追分・五条別れ・沓掛 ー街道の要衝ー

 今回は京都にある三つの交通地名を取り上げます。

「追 分」の道標

 道標の設置場所は、旧東海道が三条街道と伏見街道に分岐する箇所で、滋賀県大津市追分町と京都市山科区髭茶屋屋敷町の境界ともなっている。

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碑文は、
東面に 「みきハ京ミち
 山科・蹴上げを経て、三条口(粟田口とも)に至る道。三条街道とも云い、東海道で東国から京へ、また、北国街道(北陸道)で北国から京へ、或いは東国から信濃や木曾など内陸部を中山道で京へと、いずれも近江の地で東海道に合流して京に入る主要道である。 
 *「京みち」は京の洛中に入る道を広くこう云った。したがって、伏見街道・竹田街道などもまた京みちと云っていた。

南面に 「ひだりハふしみみち」 
 伏見街道は宇治を通って大和へ向う街道であるがが、途中の宇治から伏見へと向う宇治街道につながっている。

北面に 「柳緑花紅」 
 柳が緑色に茂り、花は紅色に咲いている。春の美しい景色のたとえ。

西面に 「昭和廿九年三月再建」 
 原碑は琵琶湖文化館前に移設している。(但し、今は閉館しているようだ)

 「追分」とは「相分れ道」で、道の分岐点を意味している。
 そもそも、地名は人々が口にするうちに転訛しやすく、誤記や誤用も少なくない。
 「あひわかれ」は、次のように「おいわけ」へと転訛したようです。(一説)
 「a hi wa ka re」の語頭「a」が「o」に母音交替し、「ka」の母音と「re」の子音が脱落して「ke」となった。こうして「あひわけ」となり、さらに「おいわけ」へと転音したとされる。

 この「追分」地名は各地に存在し、街道が分岐する要衝や旧関所付近にあるようです。
 中山道と北国街道の分岐点にある20番目の宿場「追分宿」(現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分)は著名。民謡「信濃追分」が有名で「追分節」の発祥地でもある。

「五条別れ」の道標

 旧東海道(三条街道)から、渋谷街道を経て五条方面へ向う道の分岐点(山科区御陵中内町)に建つ。

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碑文は、
北面に 「右ハ 三条通

東面に 「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐ満きよ水 道
*ひがしにし=東・西本願寺、六条大佛=方広寺、今ぐ満きよ水=今熊野清水

西面に 「願主  沢村道範

南面に 「宝永四丁亥年十一月吉日

 *この道標が建立された年の翌宝永5年(1709)には、油小路通姉小路下ルの民家から出火して、10,351軒の商家・民家と御所や多くの寺社を焼いた宝永の大火が発生している。
 江戸時代の京都では、宝永の大火、天明8年(1788)の団栗焼け、元治元年(1864)の「禁門の変」によるどんどん焼け、というように80年ごとに大火が発生しており、いずれも1万戸以上の町家が焼失していた。

 「××わかれ(別れ)」の呼称は西日本各地で使われる。しかし、近畿では他で見かけることが無く、京都市に独特の地名なのだそうです。
 大原の「野村別れ」「百井別れ」、上賀茂の「柊野別れ」、岩倉の「長谷別れ」、松尾の「山田別れ」などがあります。

「沓 掛」(地点案内標識)

 現・国道9号線で亀岡に抜ける老ノ坂峠の手前にあり、大枝沓掛町が現在の地名である。奈良時代の古山陰道と平安時代以後の新山陰道のいずれも、京都から山陰地方へ向うときはこの地を通って行ったようです。
 桓武天皇(平城京から長岡京・平安京に遷都した)の母は高野新笠という人ですが、この新笠の母が山城盆地西部大枝に勢力を張った土師氏(のちの大枝氏)の出身なのです。

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 沓掛とは沓(草鞋)を樹木に掛けた所。吉田東伍(歴史地理学会の創設者)は、「沓を掛けておく店の義、すなわち駅亭。諸国にこの名が多い」と云う。
 そして、別の地名研究家は「この地名の半数例(34例中)は峠下の集落名である」とする。たしかに、この大枝の沓掛もまた老ノ坂峠の下に位置しています。

 寺院の仁王門に巨大な草鞋の架けてあるのを見かけます。そして、昔は村境や村の入口に注連縄を張り大きな草鞋をぶら下げる慣わしがあったそうです。
 「ここにはこのように大きな草鞋を履く荒神が居るぞ、だから中に入ってくるな」という意味で、疫病や悪霊など、村の平和・秩序を乱す邪悪なものが侵入するのを威嚇して防ぐためと云われ、道祖神のような役割を果たすようです。

 そして、先に記した中山道「追分宿」の隣、19番目の「沓掛宿」もまた全国的によく知られています。

2012年11月 9日 (金)

辻子 ー後藤辻子と久斎辻子ー

後藤辻子

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 室町通寺之内上ル 一筋目を西行する辻で衣棚通まで。
 上柳原町と下柳原北半町の境界、下木下町、上木下町と下木下町の境界を通貫している。(衣棚から新町までは「久斎辻子」という)

上柳原町と下木下町に残る仁丹町名表示板
 上柳原町のものはよく見かける琺瑯製でなく、珍しい木製です。
 そしてこれは久しく人目に触れることが無かったもので、ごく最近になって姿を現したようです。
 その辺り、ブログ「京都仁丹樂會」(http://jintan.kyo2.jp/)の記事(「深い眠りから復活! 木製仁丹町名表示板」)に面白いエピソードが載っています。

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 「後藤辻子」の名称由来は、八代将軍足利義政の家臣で装剣金工として著名な後藤勘兵衛祐乗(後藤四郎兵衛家の始祖)の住居があったことによる。寛永14年(1637)の洛中絵図には後藤一門の七軒の屋敷が描かれているという。初代から七代の顕乗まではこの一帯に屋敷があったが、八代の即乗は徳川幕府から江戸詰めを命じられている。
 後藤家は足利幕府の御用達彫金師として仕え、以後も織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などに刀剣装身具、大判鋳造と墨判、両替商の分銅鋳造を請け負い代々彫刻を業とした。しかし、明治になり廃刀令が出されて、刀装具の需要が激減してしまい廃業した。

久斎辻子

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 衣棚通寺之内上ル 一筋目を西行する辻で、新町通と衣棚通の間をいう。道正町、畠中町、上木下町と下木下町の境界を通貫しています。(衣棚通から東は「後藤辻子」という)

道正町に残る仁丹町名表示板

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 道正町は、道正という人が道元(鎌倉時代の禅僧で曹洞宗の開祖)に従って宋に渡り、薬方を授かって帰朝、この地に戻り道正庵を設けて薬舗を営んだ。子孫は曹洞宗本山と徳川幕府の庇護を得たと云う。町名はこうしたことに由来するという。
 畠中町は、京都の地誌では著名な宝暦12年刊の『京町鑑』に、「畑中町 一名を久斎辻子ともいふ」と記しています。

2012年11月 2日 (金)

「京七口」と街道 ー西国街道 4ー

 長岡京の馬場一丁目交差点から続く石畳舗装の街道のはずれ、ほど近い所に勝竜寺城跡がある。
 中世後期から近世初期の城で、西国街道と*久我畷を同時に押さえる交通の要衝に位置する。

 *久我畷  =  京都東寺口から山崎に至る道には西国街道の他に、東寺から鳥羽街道を南下して久我(伏見)で桂川を渡り、下植野(大山崎)に出る道があった。

 勝竜寺城は暦応2年(1339)細川頼春が築城したという。ずっと後に、織田信長に臣従した細川藤孝(幽斎)が入り大増築する。
 天正10年(1582)本能寺の変の後、明智光秀が勝竜寺城を占拠した。天王山の合戦で豊臣秀吉に敗れた光秀は勝竜寺城に逃れたが、秀吉の軍に包囲されて脱出するも小栗栖で土民に殺され、残った城兵は翌朝降伏した。天王山の合戦の後、城は破却されて城壁の石は淀城に運ばれたという。
 ところで、細川忠興(幽斎の嫡男)の室は光秀の三女玉で、後に洗礼を受けてガラシャといったが、織田信長のすすめで忠興に嫁ぐも、父光秀は信長を倒して秀吉と戦ったため、夫と父は敵対することとなった。後に、関ヶ原の戦いで石田三成の人質となることを拒んでガラシャは自害して果てたという。
 戦国の世では親子兄弟でさえ殺し合うことがあり、武将の妻や娘も人質に差し出されたりして、数奇な運命を辿る女性も多かったようだ。

勝竜寺跡公園

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細川忠興と玉(ガラシャ)の像

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 ふたたび西国街道に戻り南進する。

長岡調子の中野家住宅(有形文化財)と道標

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 さらに進むと、大山崎町域に入ってゆく。西国街道のうち唐街道とも云われるのはここまでですが、この辺りは先頃『大山崎(山崎)その1〜5』として記事にしていますので、興味を持たれる向きはそちらをご覧願います。

 これより先は山崎街道とも云われた道になります。しかし、古代の山崎はもう少し大阪府に入った水無瀬川付近までがその領域だったようですから、最後に水無瀬離宮跡(水無瀬神宮)を取り上げておきます。

水無瀬神宮(水無瀬離宮跡)

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 水無瀬離宮は後鳥羽上皇の造営になり、往時は桜・山吹・菊の名所として知られたようです。上皇も離宮に行幸して歌合わせ・蹴鞠・狩猟・などを行なったという。後鳥羽上皇は中世屈指の歌人でもあり、勅撰集「新古今和歌集」は自身が選歌や配列に深く関与したようだ。
 しかし、のちに承久の変を起こして幕府の大軍に完敗したため、隠岐島に流されその地で崩御している。
 後鳥羽上皇の死後、上皇に仕えていた水無瀬信成・親成親子が水無瀬離宮の跡地に水無瀬神宮を建立して菩提を弔った。

***西国街道シリーズは今回をもってひとまず終わります***

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