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2012年11月 9日 (金)

辻子 ー後藤辻子と久斎辻子ー

後藤辻子

Photo

 室町通寺之内上ル 一筋目を西行する辻で衣棚通まで。
 上柳原町と下柳原北半町の境界、下木下町、上木下町と下木下町の境界を通貫している。(衣棚から新町までは「久斎辻子」という)

上柳原町と下木下町に残る仁丹町名表示板
 上柳原町のものはよく見かける琺瑯製でなく、珍しい木製です。
 そしてこれは久しく人目に触れることが無かったもので、ごく最近になって姿を現したようです。
 その辺り、ブログ「京都仁丹樂會」(http://jintan.kyo2.jp/)の記事(「深い眠りから復活! 木製仁丹町名表示板」)に面白いエピソードが載っています。

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 「後藤辻子」の名称由来は、八代将軍足利義政の家臣で装剣金工として著名な後藤勘兵衛祐乗(後藤四郎兵衛家の始祖)の住居があったことによる。寛永14年(1637)の洛中絵図には後藤一門の七軒の屋敷が描かれているという。初代から七代の顕乗まではこの一帯に屋敷があったが、八代の即乗は徳川幕府から江戸詰めを命じられている。
 後藤家は足利幕府の御用達彫金師として仕え、以後も織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などに刀剣装身具、大判鋳造と墨判、両替商の分銅鋳造を請け負い代々彫刻を業とした。しかし、明治になり廃刀令が出されて、刀装具の需要が激減してしまい廃業した。

久斎辻子

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 衣棚通寺之内上ル 一筋目を西行する辻で、新町通と衣棚通の間をいう。道正町、畠中町、上木下町と下木下町の境界を通貫しています。(衣棚通から東は「後藤辻子」という)

道正町に残る仁丹町名表示板

Photo_6

 道正町は、道正という人が道元(鎌倉時代の禅僧で曹洞宗の開祖)に従って宋に渡り、薬方を授かって帰朝、この地に戻り道正庵を設けて薬舗を営んだ。子孫は曹洞宗本山と徳川幕府の庇護を得たと云う。町名はこうしたことに由来するという。
 畠中町は、京都の地誌では著名な宝暦12年刊の『京町鑑』に、「畑中町 一名を久斎辻子ともいふ」と記しています。

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