「京七口」と街道 ー西国街道 4ー
長岡京の馬場一丁目交差点から続く石畳舗装の街道のはずれ、ほど近い所に勝竜寺城跡がある。
中世後期から近世初期の城で、西国街道と*久我畷を同時に押さえる交通の要衝に位置する。
*久我畷 = 京都東寺口から山崎に至る道には西国街道の他に、東寺から鳥羽街道を南下して久我(伏見)で桂川を渡り、下植野(大山崎)に出る道があった。
勝竜寺城は暦応2年(1339)細川頼春が築城したという。ずっと後に、織田信長に臣従した細川藤孝(幽斎)が入り大増築する。
天正10年(1582)本能寺の変の後、明智光秀が勝竜寺城を占拠した。天王山の合戦で豊臣秀吉に敗れた光秀は勝竜寺城に逃れたが、秀吉の軍に包囲されて脱出するも小栗栖で土民に殺され、残った城兵は翌朝降伏した。天王山の合戦の後、城は破却されて城壁の石は淀城に運ばれたという。
ところで、細川忠興(幽斎の嫡男)の室は光秀の三女玉で、後に洗礼を受けてガラシャといったが、織田信長のすすめで忠興に嫁ぐも、父光秀は信長を倒して秀吉と戦ったため、夫と父は敵対することとなった。後に、関ヶ原の戦いで石田三成の人質となることを拒んでガラシャは自害して果てたという。
戦国の世では親子兄弟でさえ殺し合うことがあり、武将の妻や娘も人質に差し出されたりして、数奇な運命を辿る女性も多かったようだ。
勝竜寺跡公園
細川忠興と玉(ガラシャ)の像
ふたたび西国街道に戻り南進する。
長岡調子の中野家住宅(有形文化財)と道標
さらに進むと、大山崎町域に入ってゆく。西国街道のうち唐街道とも云われるのはここまでですが、この辺りは先頃『大山崎(山崎)その1〜5』として記事にしていますので、興味を持たれる向きはそちらをご覧願います。
これより先は山崎街道とも云われた道になります。しかし、古代の山崎はもう少し大阪府に入った水無瀬川付近までがその領域だったようですから、最後に水無瀬離宮跡(水無瀬神宮)を取り上げておきます。
水無瀬神宮(水無瀬離宮跡)
水無瀬離宮は後鳥羽上皇の造営になり、往時は桜・山吹・菊の名所として知られたようです。上皇も離宮に行幸して歌合わせ・蹴鞠・狩猟・などを行なったという。後鳥羽上皇は中世屈指の歌人でもあり、勅撰集「新古今和歌集」は自身が選歌や配列に深く関与したようだ。
しかし、のちに承久の変を起こして幕府の大軍に完敗したため、隠岐島に流されその地で崩御している。
後鳥羽上皇の死後、上皇に仕えていた水無瀬信成・親成親子が水無瀬離宮の跡地に水無瀬神宮を建立して菩提を弔った。
***西国街道シリーズは今回をもってひとまず終わります***
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