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2012年12月

2012年12月28日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 4

 松尾から下流方向にむかう。

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桂離宮

 八条宮智仁親王の造営になる桂宮家の別荘。元和6年(1620年)頃から造営が始り寛永年代までの約50年をかけて完成したという。
 智仁親王は正親町天皇の皇孫にあたり、若くして細川幽斎の教えを受け、あらゆる芸能にすぐれ、和漢の古典に通暁されていたという。
 京都では修学院離宮と並んで江戸初期の代表的山荘とされ、明治16年に宮内省に移管されて離宮となる。(このため三ヶ月前から宮内省に拝観申込みしなければ見られない)

対岸から冬枯れの桂離宮森を望む

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桂離宮の外周

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草津の湊

 鴨川沿いを南下する道が下鳥羽・横大路辺りで桂川に合流する付近にあった古代の津。
 保元の乱のあと、崇徳上皇が讃岐へ流される時、この草津の津から船出したといわれる。
 写真の左手に流れる桂川に鴨川が右から合流している。

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 草津の湊は、淀川を水路で輸送されてきた物資の集散地で、京に一番近い港であった。
 しかし、中世から近世にかけて、主要な京都の外港としての機能は「淀津」へ、そして「伏見港(京橋)」へと移ってしまうことになる。
 「納所(のうそ)」の地名由来は、西日本各地から運ばれた年貢や諸物資を保管する施設が設置された所からくると考えられているようだ。

 なお、「草津湊」は平安末から鎌倉時代に入ると、単なる港津としてだけでなく「淀魚市」としても知られるようになったと云う。近くは摂・播・泉州、遠くは紀・阿・淡州から曵き船数十艘で運び、ここから陸路京に運搬したという。
 しかし、近代に入り鉄道が開通し、七条に京都中央卸売り市場ができたことで、京都の魚市場としての機能は衰退・廃止してしまった。

魚市跡碑

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三川合流点の「淀」 

 桂川・宇治川・木津川が合流する一帯の低湿地を「淀」と呼んだ。淀地名の由来は、水の澱んでいるいる地であるからいう説、もう一つの説は三本の川が寄り合う地で「よりと」(寄処・寄門)が語源であるとの説があるようだ。
 平安京の外港であった淀津は、現在の伏見区淀大下津・水垂周辺にあったようだ。

Photo_3

淀大下津
 淀大下津は宮前橋の下流側、上流側は淀水垂になる

Photo_3

 平安時代には瀬戸内の諸国からの貢納物は、淀川を遡り淀津で陸揚げされて陸路を都に輸送され、中世になっても水運の要衝として船の運航は増加していった。
 しかし、近代に入り三川合流地点の河道大幅改修や巨椋池干拓などですっかり景観は変わってしまっているようだ。

 次回は、巨椋池(昭和8〜16年の干拓工事で消滅)について記事にします。

2012年12月21日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 3

 さて、次に嵐山から松尾辺りへのんびりとポタリング・・・

渡月橋と平安期以前の古道

 渡月橋がいまの場所に架橋されたのは、角倉了以が保津川の開削工事をした慶長11年(1606)のことで、それ以前には現在の場所より100mほど上流に架橋されていたと云われる。
 橋の南に法輪寺があったので法輪寺橋ともいったようで、のちに亀山上皇が、「くまなき月の渡るに似る」として渡月橋と命名したという。
 法輪寺は虚空蔵さんの名でよく知られ十三参りで有名、行基の創建で、大堰修復と渡月橋を架けた僧道昌が虚空蔵像を彫り安置したと云う。
 なお、のちの応仁の乱では法輪寺門前も戦場となったそうだ。

法輪寺多宝塔

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 嵯峨天龍寺の辺りを古くは橋頭(はしもと)郷と云ったようで、それはこの橋があったことによるものといわれる。その頃の大堰川に橋の架かっていたことを示す奈良時代(742年)の文書があるそうだ。
 大堰川北岸の臨川寺という古刹の西側に大井神社という小社がある。堰神社または大橋神社ともいわれ、秦氏が大堰を造ってこの地を開拓した時、治水の神として祀ったのが起こりという。

 ところで、平安時代以前の古代洛西の地に、幹線道路として使われた三本の古道があったらしい。
 東西方向の幹線道路が2つあったと見られ、その一つは、近江の大津京(滋賀里・南滋賀・錦織あたり)から、山中越(志賀越・白川越)・北白川を経て、一條大路付近から西方の周山街道・嵯峨に通じる道路。
 そしてもう1つが、二條大路の延長で、木嶋神社(蚕の社)や広隆寺辺りを経て嵯峨・嵐山に至る幹線道路である。
 この道と山崎・長岡・向日・樫原方面から西山丘陵に沿って北上し、京へ入らずに四条街道を経て松尾・嵯峨に達する幹線道路(四条街道)が渡月橋で結ばれていたそうだ。

月読神社前の道
 この辺りの東方を古道(四条街道)が通っていた。

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 *月読神社は今では松尾大社の境外摂社となっているが、創建は極めて古く『続日本紀』には、文武天皇の大宝元年(701)四月に出された勅の中に、「山背国葛野郡の月読神(月読神社)、樺井神(樺井月神社=今は水主神社の境内社)、木嶋神(木島神社=蚕ノ社)、波都賀志神(羽束師神社)等の神稲、今より以後、中臣氏に給う」とあるそうで、このことからそれ以前に鎮座していることが明らかとされる。

松尾大社

Photo_18

 松尾大社は洛西で最も由緒のある神社で、洛東の八坂神社とは四条通の西と東で向かい合う形になっている。
 祭神二座のうち一座は大山咋神で、上賀茂神社祭神である賀茂別雷神の父神にあたり、その序列は伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂社に次ぐ第四位であったそうな。他の一座は市杵島姫命とされる。
 松尾大社は秦氏の総氏神であり、西の「猛霊」および東(上・下賀茂社)の「厳神」と並び称されたという。
 そして、松尾の神は中世以来、酒造の守護神としても信仰され、境内の亀ノ井の霊水は現在も酒造業者が仕込水に混ぜて使っている。

亀ノ井

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2012年12月15日 (土)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 2

 嵐山周辺をしばらくポタリング。

秦氏と洛西

 新羅系の渡来民である秦一族は5世紀後半に渡来して西日本各地に住したが、京都では深草の秦氏と葛野の秦氏がそれぞれの地で勢力を張った。そして、古代の京都盆地西北部、いわゆる洛西は「葛野の秦氏」によって開発されたが、平安京建設にも大きな財力で貢献したといわれる。
 秦氏の氏の名は「ハダ(ハタ)」、葛野の秦氏の族長の称号が「ウツマサ(ウズマサ)」である。偉大な秦ということで「太(=大)秦」の字をあてたそうで、7世紀前半、最盛期の「葛野の秦氏」を代表する族長が秦造河勝だった。蜂岡寺(現・広隆寺)を建立したのはこの太秦氏です。
 なお、秦氏は養蚕・機織にゆかりがあるが、各地の秦氏に共通する独自の技術的特色は土木工事にあって、治水・灌漑・農地の造成にある。

秦氏と「葛野の大堰」

 古代の桂川は長雨や集中豪雨でしばしば氾濫して、低地である左岸は水浸しとなり安定的に農業を営める地ではなかったようです。
 秦氏はここに巨大な井堰を造った。そして、堤を築き流れをせき止めて遊水池とし、水位を高めて下流へと流した。その流路には樋口(水門)を造り、川から別の方向へ流れる溝に誘導して、洪水防止とともに農業用水の確保も果たすようにした。これは5世紀末の頃ではないかと言われているようです。

嵯峨樋口(嵯峨天竜寺角倉町)

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 遊水池は嵐山公園辺り、そして樋口は今の「嵯峨樋口」(西高瀬川の取り入れ口)付近ではなかったかといわれる。
 なお、現在の西高瀬川は江戸時代末から明治初年にかけて開かれた。しかし、これは新たに掘削したのではなく、古の灌漑用水路に改修を加えて造ったものと考えられている。
 流れをせき止めた堤は、今の渡月橋と松尾橋の間に築かれたのではないかとされている。嵯峨伊勢ノ上町と嵯峨柳田町の境界から松尾橋まで、桂川左岸沿いの1Km程の堤防となっている罧原堤(ふしはらつつみ)がそれにあたるようです。
 なお、松尾橋の東詰め一帯から下手の「梅津」は、古くから水陸交通上の要地で、桂川を通じて丹波から輸送された材木の陸揚げ地となっていたようです。「梅津」の地名由来として、渡月橋付近では上流からの土砂が砂州をつくり、改修のため川津を埋めた地域「埋(うず)めた洲(す)」から来ているのではないかと見る説がある。

罧原堤(中州の向こう岸で左右に延びる堤)

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 しかし、平安京造都に必要な用材調達で上流地域の森林を伐採したため、その後も洪水が多発して桂川治水は大きな問題であり続け、何度も修復しており、葛野の大堰の他にも井堰は各所に設けられたようです。
 承和3年(836)の大堰修復では、これもまた「讃岐の秦氏」の出身である僧道昌(空海の弟子で広隆寺中興の祖でもある)があたり、この時に渡月橋も道昌が架けたと云われている。

道昌の大堰修理記念碑(碑文の読み取りは極めて困難)

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2012年12月 7日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 1

 京都市周辺にサイクリングロードが一本あります。名称は「京都八幡木津自転車道線」で、嵐山公園から桂川沿いに天王山大橋南詰めまで下る。そして、宇治川と木津川に架かる御幸橋を渡って八幡市に入り、ここから木津川左岸を木津町の泉大橋に至る約45Kmのコースとなっている。

 その自転車道の周辺にも、平安京以前にまで遡るほど古い、歴史の舞台となったところがあちこちにあります。
 今回のシリーズではそれらを気の向くままに取り上げ、記事にしてみようと思いたちました。

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 まずは、嵐山周辺を見て廻ったあと嵐山公園をスタートして、桂川沿いに宇治川・木津川の三川合流点近くにある天王山大橋へ向うことにします。

「桂川」の名称

 桂川には多くの呼び名があり、古代には葛野川(かどのがわ)と通称し、また大井川・大堰川・西河(鴨川=東河に対する呼び名)・葛川などとも記された。なお、梅津付近では梅津川とも呼んだようです。
 今では、桂川は流域により呼び方が違っています。左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境界となる佐々里峠付近を源流とし、諸川を合わせながら花背・京北にかけては上桂川、亀岡までを大堰川(大井川)、亀岡の保津町から嵐山にかけては保津川、嵐山から下流を桂川と呼んでいるようです。

 因に、その桂川(嵐山から下流)には次のような川が流入しています。

 瀬戸川・・・小倉山北方の鳥居本付近に発し、清涼寺の東を南流して嵐山・臨川寺の東で大堰川(桂川)にそそいでいる。古名を芹川と云い、大堰川にそそぐ手前の橋は芹川橋を称している。

 西高瀬川・・・渡月橋の東、瀬戸川が桂川に合流する付近の嵯峨樋口(嵯峨天竜寺角倉町)から桂川の水を取り入れ、三条通沿いに千本三条まで東流したあと、南流して下鳥羽で鴨川に合して、羽束師橋の北で再び桂川に戻る。

 有栖川・・・観空寺谷に発して瀬戸川の東方を流れ、大沢池の細流を合わせて梅津東方の上野橋下手で桂川に合流している。

 天神川(紙屋川)・・・北区鷹ケ峯大谷町付近を源流として、上京・中京・右京・下京を南流して南区吉祥院で桂川に合流している。なお、この天神川へは梅ヶ畑山中に発した御室川(別名鳴滝川)が合流、その御室川には鳴滝で高鼻川と三宝寺川が、さらに双ケ丘の南で西ノ川と宇多川が合流している。

 そして、下鳥羽で鴨川が合流した桂川は、橋本市・大山崎町・大阪府三島郡島本町の境界付近で宇治川・木津川と合して淀川となり大阪湾に至る。

芹川橋
 瀬戸川が桂川に合流する地点に架かる橋の名は「せりかわはし」、芹川は瀬戸川の古称です。

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嵐 山

 「嵐山」の地名は、松尾大社の境内摂社月読神社辺りの古地名、荒樔(あらす)が由来であるという。その「荒樔」は保津峡谷の急流「荒瀬」に由来し、大井川(桂川)は元は「荒樔川」で禊の川であったともいう。そして、荒樔山が嵐山に変化したといわれる。
 なお、明らかではないが一説に、山の桜や紅葉を吹き散らすからとも云う。
 以前、記事『嵯峨の有栖川』で触れたように、有栖川の有栖も荒樔・荒瀬のことであり、禊祓いの斎場を意味するという。

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 嵐山は全国に知られた観光地で、とりわけ紅葉の嵐山は洛西を代表する景色である。
 『拾遺集』にある藤原公任の、つぎの歌は有名です。

 朝まだき嵐の山の寒ければ紅葉の錦着ぬ人ぞなき

 平安の昔から嵐山は天皇や公卿に絶賛され、たびたび大堰川に行幸して「三船の宴」が行なわれたということです。
 三船の宴とは、「漢詩」・「和歌」・「管弦」の三つの船を仕立てて、それぞれに得意とする者が乗って宴遊したようです。

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