2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 京 都 ー自転車道周辺を巡るー 3 | トップページ | 辻子 ー蛸藥師辻子と大竜寺辻子ー »

2012年12月28日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 4

 松尾から下流方向にむかう。

Photo_7

桂離宮

 八条宮智仁親王の造営になる桂宮家の別荘。元和6年(1620年)頃から造営が始り寛永年代までの約50年をかけて完成したという。
 智仁親王は正親町天皇の皇孫にあたり、若くして細川幽斎の教えを受け、あらゆる芸能にすぐれ、和漢の古典に通暁されていたという。
 京都では修学院離宮と並んで江戸初期の代表的山荘とされ、明治16年に宮内省に移管されて離宮となる。(このため三ヶ月前から宮内省に拝観申込みしなければ見られない)

対岸から冬枯れの桂離宮森を望む

Photo

桂離宮の外周

Photo_2

草津の湊

 鴨川沿いを南下する道が下鳥羽・横大路辺りで桂川に合流する付近にあった古代の津。
 保元の乱のあと、崇徳上皇が讃岐へ流される時、この草津の津から船出したといわれる。
 写真の左手に流れる桂川に鴨川が右から合流している。

Photo

 草津の湊は、淀川を水路で輸送されてきた物資の集散地で、京に一番近い港であった。
 しかし、中世から近世にかけて、主要な京都の外港としての機能は「淀津」へ、そして「伏見港(京橋)」へと移ってしまうことになる。
 「納所(のうそ)」の地名由来は、西日本各地から運ばれた年貢や諸物資を保管する施設が設置された所からくると考えられているようだ。

 なお、「草津湊」は平安末から鎌倉時代に入ると、単なる港津としてだけでなく「淀魚市」としても知られるようになったと云う。近くは摂・播・泉州、遠くは紀・阿・淡州から曵き船数十艘で運び、ここから陸路京に運搬したという。
 しかし、近代に入り鉄道が開通し、七条に京都中央卸売り市場ができたことで、京都の魚市場としての機能は衰退・廃止してしまった。

魚市跡碑

Photo_4

三川合流点の「淀」 

 桂川・宇治川・木津川が合流する一帯の低湿地を「淀」と呼んだ。淀地名の由来は、水の澱んでいるいる地であるからいう説、もう一つの説は三本の川が寄り合う地で「よりと」(寄処・寄門)が語源であるとの説があるようだ。
 平安京の外港であった淀津は、現在の伏見区淀大下津・水垂周辺にあったようだ。

Photo_3

淀大下津
 淀大下津は宮前橋の下流側、上流側は淀水垂になる

Photo_3

 平安時代には瀬戸内の諸国からの貢納物は、淀川を遡り淀津で陸揚げされて陸路を都に輸送され、中世になっても水運の要衝として船の運航は増加していった。
 しかし、近代に入り三川合流地点の河道大幅改修や巨椋池干拓などですっかり景観は変わってしまっているようだ。

 次回は、巨椋池(昭和8〜16年の干拓工事で消滅)について記事にします。

« 京 都 ー自転車道周辺を巡るー 3 | トップページ | 辻子 ー蛸藥師辻子と大竜寺辻子ー »

町名・地名の由来」カテゴリの記事

カメラ散歩」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 京 都 ー自転車道周辺を巡るー 3 | トップページ | 辻子 ー蛸藥師辻子と大竜寺辻子ー »