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2012年12月15日 (土)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 2

 嵐山周辺をしばらくポタリング。

秦氏と洛西

 新羅系の渡来民である秦一族は5世紀後半に渡来して西日本各地に住したが、京都では深草の秦氏と葛野の秦氏がそれぞれの地で勢力を張った。そして、古代の京都盆地西北部、いわゆる洛西は「葛野の秦氏」によって開発されたが、平安京建設にも大きな財力で貢献したといわれる。
 秦氏の氏の名は「ハダ(ハタ)」、葛野の秦氏の族長の称号が「ウツマサ(ウズマサ)」である。偉大な秦ということで「太(=大)秦」の字をあてたそうで、7世紀前半、最盛期の「葛野の秦氏」を代表する族長が秦造河勝だった。蜂岡寺(現・広隆寺)を建立したのはこの太秦氏です。
 なお、秦氏は養蚕・機織にゆかりがあるが、各地の秦氏に共通する独自の技術的特色は土木工事にあって、治水・灌漑・農地の造成にある。

秦氏と「葛野の大堰」

 古代の桂川は長雨や集中豪雨でしばしば氾濫して、低地である左岸は水浸しとなり安定的に農業を営める地ではなかったようです。
 秦氏はここに巨大な井堰を造った。そして、堤を築き流れをせき止めて遊水池とし、水位を高めて下流へと流した。その流路には樋口(水門)を造り、川から別の方向へ流れる溝に誘導して、洪水防止とともに農業用水の確保も果たすようにした。これは5世紀末の頃ではないかと言われているようです。

嵯峨樋口(嵯峨天竜寺角倉町)

Photo_12

 遊水池は嵐山公園辺り、そして樋口は今の「嵯峨樋口」(西高瀬川の取り入れ口)付近ではなかったかといわれる。
 なお、現在の西高瀬川は江戸時代末から明治初年にかけて開かれた。しかし、これは新たに掘削したのではなく、古の灌漑用水路に改修を加えて造ったものと考えられている。
 流れをせき止めた堤は、今の渡月橋と松尾橋の間に築かれたのではないかとされている。嵯峨伊勢ノ上町と嵯峨柳田町の境界から松尾橋まで、桂川左岸沿いの1Km程の堤防となっている罧原堤(ふしはらつつみ)がそれにあたるようです。
 なお、松尾橋の東詰め一帯から下手の「梅津」は、古くから水陸交通上の要地で、桂川を通じて丹波から輸送された材木の陸揚げ地となっていたようです。「梅津」の地名由来として、渡月橋付近では上流からの土砂が砂州をつくり、改修のため川津を埋めた地域「埋(うず)めた洲(す)」から来ているのではないかと見る説がある。

罧原堤(中州の向こう岸で左右に延びる堤)

Photo_13

 しかし、平安京造都に必要な用材調達で上流地域の森林を伐採したため、その後も洪水が多発して桂川治水は大きな問題であり続け、何度も修復しており、葛野の大堰の他にも井堰は各所に設けられたようです。
 承和3年(836)の大堰修復では、これもまた「讃岐の秦氏」の出身である僧道昌(空海の弟子で広隆寺中興の祖でもある)があたり、この時に渡月橋も道昌が架けたと云われている。

道昌の大堰修理記念碑(碑文の読み取りは極めて困難)

Photo_14

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