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2013年1月

2013年1月25日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 7

 石清水八幡宮から再び自転車専用道に戻り、今度は木津川の上流に向って走ります。

流れ橋(上津屋橋)

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 江戸時代以来、木津川を挟んだ上津屋村(現在では八幡市と城陽市に分かれている)の人々は日常生活で、石清水八幡宮に詣でる人々も「上津屋(こうづや)の渡し」の船を利用していた。
 渡し船だけでは不便なため、昭和28年(1953)に木造橋が架けられたが、全長356.5m・全幅3.3mの日本最長級の木造橋といわれています。梅雨や台風による豪雨のために水位が橋面を越えて上昇すると、橋板や橋桁が流れ出す構造になっている。洪水が治まると、ワイヤーロープで繋ぎ止められていた橋板や橋桁を回収して再び敷き並べ、元の通りに復旧できるようになっている。

平成21年(2009)10月8日の台風18号で完全流失
 手前に横たわっているのが橋脚から流れた橋板。昭和28年の架橋以来20回近くの流失を記録しているようです。

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平成23年(2011)9月3日の台風12号で一部流失

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 流れ橋は八幡市と城陽市を結ぶ自転車歩行者専用道路の一部なのだが、白砂の河原が清流とともにのどかな雰囲気を醸しており、電柱・電線も傍に無いため、テレビや映画の時代劇撮影によく利用されています。

 この石碑は俳優の故・藤田まことが建てたもの。

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2013年1月18日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 6

三川合流の地(京都と大阪の境界)

 桂川に沿って下ってきた自転車専用道は、天王山大橋の南詰めに至る。ここから、宇治川と木津川に架かる2つの御幸橋を渡った対岸は八幡市となる。
 そして、そのすぐ下流が京都府と大阪府の境界で、この辺りから下流は淀川と名前が変わります。

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大山崎と八幡
 三川が合流して淀川となるところ、右岸に天王山、左岸には男山が向かい合う狭隘ながらも風光明媚なところです。そして、狭隘な地であるがために、古来から陸上・水上ともに軍事・交通の要衝地であった。
 現在は、右岸の大山崎町側にはJR東海道本線・東海道新幹線・阪急京都線・名神高速道路・国道171号・府道67号(西京高槻線)が集中し、左岸の八幡市側には京阪本線・府道13号(京都守口線)が並行している。

 「大山崎」については、以前に本ブログで『大山崎(山崎)その1〜3』として記事にしました。したがって、ここでは省略します。

 「八幡」の名は、全国にある八幡宮の総本社である宇佐八幡宮(現・大分県宇佐市)から、男山に勧請された石清水八幡宮の祭神である応神天皇の別称「広幡の八幡の大神」に由来するという。
 また、八幡市の西端に位置して大阪府と境を接する「橋本」の地名由来は、八幡と山崎の間に僧道昌が架橋し、のちに行基が架け直した山崎橋に因むといわれるが不祥。架橋されたところは交通の要衝となっており、川の畔には集落が発達して橋本と呼称されることが多かった。
 近畿でも和歌山県の紀の川沿いの橋本市、滋賀県の瀬田川に架かる勢多唐橋東詰めの大津市瀬田橋本町などは著名で、交通地名の「橋本」は他にも各地で見られる。

三川合流点付近
 天王山中腹の展望台から眺めたもので、ここから下流(右方)が淀川となる。

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 八幡市の御幸橋を渡ると、自転車道は木津川の左岸沿いをゴールの泉大橋(木津市木津町)まで遡ります。

木津川
 御幸橋から上流を望む、鉄橋は京阪本線。

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天王山
 八幡側から木津川越しに望む

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 木津川はこのすぐ下流で宇治川・桂川と合流している。
 木津川は鈴鹿山脈の南部と布引山地辺りの諸河川を源流とする。これらが上野盆地で合流して盆地の北部を西流、京都府に入ったあと南山城村(ここは京都府で唯一の「村」)で名張川が合流。木津町から北に流れを変えて八幡市橋本辺りで淀川となるのです。

石清水八幡宮

 開祖は奈良の大安寺の行教で、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮のお告げをうけて勧請した。はじめに山崎離宮八幡に至り、のち男山に遷座した。
 男山は平安京の裏鬼門にあたるため、鬼気を祭祀して王城鎮護するという成立事情があった。このため、当初から賀茂社・松尾社などと並ぶ高い地位にあったが、天慶2年(939)頃の神階序列は伊勢神宮に次いで第二位の宗廟となり、朝廷からも厚く崇敬されたようです。

参道と本殿

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2013年1月11日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 5

干拓で消えた巨椋池

 京都盆地の南部で最も低地となるところに存在した淡水湖で、現在の宇治市・京都市伏見区・久世郡久御山町にまたがる周囲約16Kmにおよぶ大池であったらしい。
 古代から中世にかけては、宇治川・木津川・桂川の三川が直接この巨椋池に流入しており、遊水池として下流淀川の水量調節の機能を果たしていた。また、周囲には多くの港津が設けられて、近江・丹波・大和・摂津・河内などに通じる水上交通の中枢となっていたことが古文書により知れると云う。

 宇治川(上流の滋賀県内では瀬田川)は、古くは宇治橋のやや下流で西北方向に分流して巨椋池に流れ込んでいたが、文禄3年(1594)豊臣秀吉が伏見城の築城にあたり、宇治橋〜伏見向島間の左岸に槙島堤を築き、河道を一本化のうえ流れを北方に変えて伏見城下に導いた。これが現在の流路として固定したそうな。
 このとき、太閤堤と総称される多くの堤防が築かれ、巨椋池は四つに分割されて水量調節・水運の機能は失われてしまった。そして、巨椋池の西南端にあたる現・久御山町一口(イモアライと読む)からのみ宇治川に流入していたため、増水時には水害が頻発することとなったそうだ。

 こうして、昭和8〜16年の干拓工事以前はこの巨椋池からの流れは、宇治川・桂川・木津川の流れとともに「淀」で合流して淀川となった。
 なお、現存する地名の槙島・大八木島・蛭子島などは、巨椋池の中州であった所だと云う。

旧巨椋池の南西端に位置する「一口」
 一口(いもあらい)は中世末期までは「芋洗」または「いもあらひ」と記したそうで、「一口」という用字に変わった時期は不明ながら、近世にはもっぱら一口が用いられているようだ。
 東一口集落に豊吉稲荷大明神が祀られ、疱瘡稲荷として全国的に知られるという。「一口」の地名はこれに由来するという説がある。すなわち、疱瘡のことを「いもかさ」、略して「いも」ともいうことから、「いもあらい」は「疱瘡(いも)払い」の転じたものではないかという説がある。
 また、一口の用字については、三方が沼で一方にしか「口」がない土地であるからとする古老の言い伝えがあるそうだ。

東一口の景観と民家
 東一口は巨椋池西岸の大堤防の片側に盛り土をして家が建ち並んでいる。このため、全長は約1,300m、最大幅約100m、最小幅約27mと東西に細長い集落である。
 洪水への備えから、かさ上げされた土地に建つ家の様子がわかる。

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山田家屋敷の長屋門
 一口はかつて淡水漁業の盛んな集落で、古くは鳥羽法皇から、東は津軽の海、西は櫓櫂のおよぶ所までの範囲の漁業権を許す綸旨を貰ったと云う。
 一口の漁業権は江戸時代にも認められており、徳川家康から巨椋池漁業の鑑札が出されていると云う。東一口の山田家は本山田と呼ばれ、江戸時代からの大庄屋だったそうで、淀川・巨椋池の漁業者の代表を務めた家であった。

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2013年1月 4日 (金)

辻子 ー蛸藥師辻子と大竜寺辻子ー

あけまして おめでとうございます
 いつもこのブログを見てくださっている皆さま
 今年もよろしくお付き合いくださるようお願いします
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

 今回は、『京 都 ー自転車道周辺を巡るー 5』となるところを、ちょっと一休みして久々の「辻子シリーズ」としました。

大竜寺辻子

 裏寺通りを四条から北行してOPAの裏手辺りまで。御旅町、裏寺町・中之町の境界を通貫している。
 裏寺町にあった大竜寺(昭和51年に右京区梅ヶ畑高鼻に移転)へ行く道筋であったことが辻子名の由来。この大竜寺の別堂に烏芻沙摩明王(うすさまみょうおう)を勧請したことから、烏須沙摩辻子(うすさまのずし)の別称もあったと云う。
 『京都坊目誌』の「▲御旅町」の項にも、「北側其東の方より裏寺町に通する小街あり。地は本町及ひ中之町に屬す 之を烏須沙摩ノ辻子と字す」とあります。
 同書「◯大龍寺」の項でも、「寺門南面す。四條通に向ふ裏寺町南より四條通に至る間を。地は中之町に属す俗に烏須沙摩ノ辻子と字す。本寺内に烏須沙摩明王ノ像を安する故也」と記しています。

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 辻子の道筋に所在する町名の由来は、「御旅町」は南側に隣接する貞安前之町にある八坂神社御旅所から、「裏寺町」は寺町通の裏手にあたることから、「中之町」は金蓮寺と歓喜光寺の境内地であったが、明治4年に両寺を收公のうえ道路(新京極)を開いて、余地を民間に払い下げ、旧寺地内であったことから中之町と名づけたという。
 なお、先斗町芸妓による「鴨川踊り」はこの大竜寺横で始められたが、明治19年以降一時中断していたそうだ。しかし、明治28年平安奠都千百年を記念して、先斗町歌舞錬場が新築されて再開された。

 

蛸藥師辻子

 蛸薬師通の新京極から河原町通間。東側町、裏寺町、奈良屋町と塩屋町の境界を通貫している。

 *『京町鑑』の「寺町通」を見ていたところ、次のような記述を見つけました。
「たこやくし下ル 圓福寺前町 此町東側北にたこやくしとて名薬師あり(省略)此南に辻子有  川原町叉四條裏寺町へ出る  是を俗にたこやくしの辻子といふ」
 したがって、辻子の区間(冒頭のアンダーラインを付した個所)を、次のように部分訂正します。
「蛸薬師通の新京極から河原町通間」を「蛸薬師通の寺町通から河原町通間」に変えます。(2015.8.26に部分訂正)
 

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 かつて、室町通二条下ルにあった永福寺の本尊薬師如来が境内池中の島に安置されていたので、水上薬師または「沢薬師(たくやくし)」と称されたのが、後に誤って「蛸藥師」になったと伝わる。
 そしてその永福寺は、豊臣秀吉の京都改造時で東京極通の東側に寺院街(寺町)ができた折、現在地に移転してきて「蛸藥師」の名で親しまれた。なお、永福寺の所在した旧地には、蛸薬師町の町名が残っている。
 その後、天正19年(1591)すぐそばの妙心寺へ合併された。今は妙心寺境内の一角に蛸藥師堂は所在する。
 「蛸藥師辻子」と「蛸藥師通」名はこれに由来する。

 「塩屋町」の由来は、高瀬川が開通した時、諸国の塩商が移住してきたことによると云い、坂本龍馬・中岡慎太郎が京都見廻組に暗殺された醤油商近江屋はこの塩屋町にあった。

仁丹町名表示板
 次の二枚は蛸藥師辻子のすぐ近くにあるものです。

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