2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 辻子 ー蛸藥師辻子と大竜寺辻子ー | トップページ | 京 都 ー自転車道周辺を巡るー 6 »

2013年1月11日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 5

干拓で消えた巨椋池

 京都盆地の南部で最も低地となるところに存在した淡水湖で、現在の宇治市・京都市伏見区・久世郡久御山町にまたがる周囲約16Kmにおよぶ大池であったらしい。
 古代から中世にかけては、宇治川・木津川・桂川の三川が直接この巨椋池に流入しており、遊水池として下流淀川の水量調節の機能を果たしていた。また、周囲には多くの港津が設けられて、近江・丹波・大和・摂津・河内などに通じる水上交通の中枢となっていたことが古文書により知れると云う。

 宇治川(上流の滋賀県内では瀬田川)は、古くは宇治橋のやや下流で西北方向に分流して巨椋池に流れ込んでいたが、文禄3年(1594)豊臣秀吉が伏見城の築城にあたり、宇治橋〜伏見向島間の左岸に槙島堤を築き、河道を一本化のうえ流れを北方に変えて伏見城下に導いた。これが現在の流路として固定したそうな。
 このとき、太閤堤と総称される多くの堤防が築かれ、巨椋池は四つに分割されて水量調節・水運の機能は失われてしまった。そして、巨椋池の西南端にあたる現・久御山町一口(イモアライと読む)からのみ宇治川に流入していたため、増水時には水害が頻発することとなったそうだ。

 こうして、昭和8〜16年の干拓工事以前はこの巨椋池からの流れは、宇治川・桂川・木津川の流れとともに「淀」で合流して淀川となった。
 なお、現存する地名の槙島・大八木島・蛭子島などは、巨椋池の中州であった所だと云う。

旧巨椋池の南西端に位置する「一口」
 一口(いもあらい)は中世末期までは「芋洗」または「いもあらひ」と記したそうで、「一口」という用字に変わった時期は不明ながら、近世にはもっぱら一口が用いられているようだ。
 東一口集落に豊吉稲荷大明神が祀られ、疱瘡稲荷として全国的に知られるという。「一口」の地名はこれに由来するという説がある。すなわち、疱瘡のことを「いもかさ」、略して「いも」ともいうことから、「いもあらい」は「疱瘡(いも)払い」の転じたものではないかという説がある。
 また、一口の用字については、三方が沼で一方にしか「口」がない土地であるからとする古老の言い伝えがあるそうだ。

東一口の景観と民家
 東一口は巨椋池西岸の大堤防の片側に盛り土をして家が建ち並んでいる。このため、全長は約1,300m、最大幅約100m、最小幅約27mと東西に細長い集落である。
 洪水への備えから、かさ上げされた土地に建つ家の様子がわかる。

Photo_8

Photo_9

山田家屋敷の長屋門
 一口はかつて淡水漁業の盛んな集落で、古くは鳥羽法皇から、東は津軽の海、西は櫓櫂のおよぶ所までの範囲の漁業権を許す綸旨を貰ったと云う。
 一口の漁業権は江戸時代にも認められており、徳川家康から巨椋池漁業の鑑札が出されていると云う。東一口の山田家は本山田と呼ばれ、江戸時代からの大庄屋だったそうで、淀川・巨椋池の漁業者の代表を務めた家であった。

Photo_10

« 辻子 ー蛸藥師辻子と大竜寺辻子ー | トップページ | 京 都 ー自転車道周辺を巡るー 6 »

町名・地名の由来」カテゴリの記事

カメラ散歩」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 辻子 ー蛸藥師辻子と大竜寺辻子ー | トップページ | 京 都 ー自転車道周辺を巡るー 6 »