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2013年2月

2013年2月22日 (金)

酒瓮斎は「獺祭」を祭る

 暦の上では春だというのに、毎日まいにち寒いことです。
 気持ちだけでも暖かくなるように、「春」について調べてみました。
 春の語源は「万物を発る」時候というのが定説のようですが、「草木の芽が張る」「天気が晴る」「田畑を墾(は)る」などの説もあるようです。
 次の写真はその調べものと関係している(と思う)のです。

Photo

 この180ml.3本セットでは2,900円ですが、歩合2割3分精米のものは1.8l.詰めになると9,500円!
 他の2銘柄と組み合わせた3本セットにすると16,700円!!(人気・評判のよい日本酒は凄い)

 一年は春夏秋冬の四季に分けられ、旧暦では四季をさらに六つの気(節気)に分けています。一年を通すと合わせて「二十四節気(にじゅうしせっき)」です。
 春の六節気は、立春と雨水(初春)、啓蟄と春分(仲春)、清明と穀雨(晩春)となっています。これは、各節気ごとに漢文調の語で季節的な特徴といったようなものを表現しているのです。(夏・秋・冬も同様に六気ずつに分けられ、それぞれ呼称があります)
 そして節気は、「立春(初めて春の兆しが現れる頃のこと)」を過ぎ、今は「雨水(降る雪が雨に変わり、氷が解け出す頃のこと)」に入っています。

 それぞれの節気はさらに初侯・次候・末候の三つに分けられており、合計したものを「七十二候(しちじゅうにこう)」とし、節気と同様に各候とも漢文調の語でその季節を表現しています。
 いまの時期、「雨水」の「初侯(2月19日〜23日頃)」は「土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)」といわれ、早春の暖かい雨が降り注ぎ、大地が潤い目覚める頃とされています。
 中国古代の暦による七十二候では、雨水の初侯は「獺祭魚(かわうそうおをまつる)」だったそうです。獺は魚をよく捕えますが、捕えた魚を岸に並べたあとなかなか食べようとせず、獺が供え物をして祭り事をしているようなのを、この季節の名にしたと云うことです。
 なお、辞書によれば、「獺祭魚」には詩や文章を作るとき、座の左右に多くの参考書を並べ広げることの意もあるとのことです。

2013年2月15日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 10

 ようやく、最終回です。
 木津川に架かる泉大橋を対岸(北岸)に渡った「上狛」(木津川市山城町)は、古代山城の中心地であったところです。

「山城」の由来

 京都の昔の国名は「やましろ」と称した。奈良朝政権の所在地である大和(やまと)から見ると、京都は山=ならやま(平城山・奈良山・楢山・那羅山などと記される)の背(うしろ)に位置することから、山背(やましろ)と名付けられたとされる。
 しかし、「やましろ」の表記については時代によって違いがある。古代の文献に現れる表記は、古事記では「山代」が、日本書紀では「山背」が使われており、両書の性格とその成立年代から「山代」の表記の方が古いとみられている。そして、大宝令制定により律令制下の「山背」国が誕生した。 
 その後、桓武天皇が北山城の地に都を遷し平安京として以後は、地形的に自然の城をなすところから「山城」と書くようになったという。

 「狛」の地名は奈良から平安時代には、「高麗里」「狛」「狛野」などと記されたようだ。
 狛は高麗(こま)のことで、朝鮮北部に存在した高句麗(こうくり)のことをいう。
 高句麗から渡来した狛氏の一族は山陰・北陸に上陸したあと、ここ相楽郡を通過して大和へ向った。
 山城町に「上狛」、精華町に「下狛」の地名があるが、いずれも高句麗から日本に渡来した人々が、この南山城に居住して勢力を伸ばしていった地で、南山城は渡来人の里であったことを表している。

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高麗寺跡(こまでら)

 現在のJR奈良線上狛駅にほど近いところにあったが、今は礎石が残存しているだけ。
 高麗寺は「日本霊異記」に記述があるそうで、確証はないものの天平期(729〜749)には存在したと考えられており、狛氏の創建と推定されている。

山城郷土資料館敷地に建つ歌碑

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これは『万葉集』巻六 にある歌で、

 狛山尓鳴霍公鳥  泉河渡乎遠見  此間尓不通

狛山に鳴くホトトギス 泉河渡りを遠み ここに通はず、・・・と読むそうで、
狛山に啼くほととぎすは、泉河の渡しが広く遠いため、此処までは通ってこない・・・との意。

 巳年だからと云うわけではないのですが、最後にオマケを一つ。

蟹満寺本堂の軒下に掛かる額

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 蟹満寺は山城町も北端に近い綺田(かばた)浜というところにある真言宗のお寺。現本尊は釈迦如来座像だが本来の本尊は聖観音で、綺幡寺・蟹幡寺・加波多寺・蟹満多寺とも記されたそうです。
 「今ハ昔」で始まり「トナム語リ伝ヘケルトヤ」で終わる、あの『今昔物語集』の巻十六に蟹の恩返しという説話が載っている。
 蟹満寺の聖観音を厚く信仰していた一人の娘が捕われた蟹を助けたことが機縁となり、のちに娘が蛇に求婚されて困っていると、蟹が蛇を殺して恩返しをしたという有名な伝説です。(「蟹の恩返し」伝説は、他に三室戸寺などでも伝わっているようです・・・)
 民俗学では、「異類求婚譚」として異類との婚姻を物語る昔話を取り上げます。これにはいろいろな類型があり、大きくは異類が男性の場合と女性の場合がある。この蟹満寺に伝わるのは異類=男性のタイプになる。これは、さらに四つの型に分類されますが細かいことは省略します。
 この蟹満寺のケースは「蛙(蟹)報恩型」といわれるもので、かつて助けたことのある他の異類の援助によって、自らの意志に反した婚姻から逃れる型とされています。
 へびは見た目は気持ちの悪いものですが、昔から世界的に信仰の対象ともなり、脱皮することから再生=生命力、豊穣・多産の象徴とされました。また、脱皮した皮を財布に入れておくとお金がたまるなどと云われます。

 以上、本シリーズは長くなりましたが、今回で終わりとします。

2013年2月 8日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 9

 嵐山をスタートした自転車道も、いよいよゴールの泉大橋に近づいてきました。

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 京都府の、そして南山城の最南部に位置するのは相楽(そうらく)郡です。

「相楽」の由来 

 古代には相楽(さがらか)、近世には相楽(さがなか)といったそうだ。
 『古事記』垂仁天皇の段の記述による相楽郡の地名由来は、「甚凶醜きに因りて」国へ返されることとなった円野比売が「山代国の相楽(さがらか)に至りし時、樹の枝に取り懸(さが)りて死なむとしき。故、其地を号けて懸木(さがりき)と謂ひしを、今は相楽と云ふ」という話からきていると云う。
 『日本書紀』の記事中にもこれと類似した話があり、以前にブログ記事『西国街道』で触れたことがあります。それは、相楽の話と同じように醜い竹野媛が丹波国に返される時、輿から深い谷へ自ら「堕ち」て命を絶ったので、「堕ち国(おちくに)」が「乙訓(おとくに)」になったとするものです。

泉河(木津川) 

 木津川は古くは泉河といった。語源からいうと、イズミ(泉)はイヅミヅ(出水)が変化したものだそうで、泉河は洪水の川を意味しているという。古文献に見える木津川の呼称として他にも、和訶羅河=わからがわ(古事記)、輪韓河=わからがわ・山背川=やましろがわ(日本書紀)、鴨川(万葉集)などと記されたようです。
 そして、木津川は古くから近江・山城・大和を結ぶ水上交通路として開かれていた。
 三重県から京都の南山城村・笠置町を西流してきた木津川は、木津でU字型に大きく北へ向きを変える。
 そこでは水が淀み、上流で伐り出して流された材木の筏を引き上げるのに都合が良い。そこで、引き上げられた材木の貯木場が「木津」です。
 また、木津川は木材輸送だけではなく、木津川とつながる淀川・桂川・宇治川・琵琶湖などの諸津とを結ぶ交通・交易の重要な幹線でもあったようです。

 泉川は古来、よく歌に詠まれており歌枕にもなっている。
『万葉集』巻六に、
 泉川行く瀬の水の絶えばこそ大宮所うつろひ行かめ

『千載集』には僧都範玄の、
 何事のふかき思ひに泉川そこのたま藻としずみはてけむ

『新古今和歌集』には中納言兼輔作で小倉百人一首にも選ばれた、
 みかの原わきて流るゝいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ

 「みかの原(瓶原)」は加茂町にあり、天平13年(741)聖武天皇はここに恭仁京(くにきょう)を造営して遷都する。しかし、この恭仁京は僅か三年程で廃されてしまう。その後、難波京にと遷るが、天平17年(745)には再び平城京に戻された。

木津の渡し(泉河の渡し)

 木津川北岸の上狛と南岸の木津を結ぶ渡し。行基の建立した四十九院の一つである泉橋寺門前の川岸が渡し口であったそうで、ここに橋を架橋したのも行基だと云う。
 この渡し口に、明治26年和泉橋が架けられたが昭和28年に流失、その後に現在の泉大橋が架けられた。

現在の泉大橋

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 嵐山をスタートして、ようやくゴールの泉大橋に辿り着きました。
 しかし、橋を対岸(北岸)に渡った上狛(木津川市山城町)は、古代山城の中心地であったところなので、もう少しだけ探索してみました。
 次回は、それをもってこのシリーズの最終回とします。

2013年2月 1日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 8

 流れ橋の傍にある四阿で一休みしたあと、ふたたび木津川沿いの自転車道を上流の京田辺市方面に向います。

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木津川の渡し場跡

 「草内(くさじ)の渡し」(旧田辺町草内)
 ここ草内と井手町多賀を結んでいた木津川の渡し場で、古くから渡船があったようだ。河内国からの街道は草内の渡しで木津川を越えると、奈良街道につながっていた。また、青谷川沿いに北東へ行くと宇治田原を経て近江国に至るが、近江へ向う最短コースであったと云う。

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 周辺には「飯岡の渡し」「富野の渡し」など幾つもの渡しがあったそうだが、「草内の渡し」が最も重要な位置を占め、古くから知られてきたようだ。

 「飯岡(いのおか)の渡し」(旧田辺町飯岡)
 ここ飯岡と対岸の旧井手村を結ぶ渡しで、飯岡山から田辺村に通じる道があった。

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 なお、木津川の渡し場の一つに、「草内の渡し」の少し上流で現在の京田辺市から精華町に入ったところ、菱田と東岸の山城町綺田(かばた)を結んで「下狛の渡し」(「薮の渡し」とも)という渡しもあったそうだ。この渡しは木津川東岸の大和街道と、西岸を歌姫越え(奈良)で行く奈良街道(郡山街道)の分岐点として賑わったという。

飯岡(京田辺市)

 旧田辺村の飯岡は、古くは「咋岡(くいおか)」といった。木津川堤防のそばに小高い丘の飯岡山がある。
 これは「馬咋岡(うまくいおか)」「馬咋山」と云われていたものが、「うま」が抜けて「咋岡(くいおか)」となった。そして、さらに「くいおか」の「く」が「い」に変化して「いいおか(飯岡)」になったともいわれている。飯岡山には咋岡神社がある。

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 そして、その飯岡(いいおか)が、さらに飯岡(いのおか)に変化したといわれている。
 地名(に限らず「ことば」)は、短縮化されたり、本来の音がなまって変化(転訛)してきた。
 したがって、「飯岡」地名変遷のこうした説明もあながち牽強付会の説、荒唐無稽の話とすることは決してできない。このあたりが地名の面白いところなのでしょうか。

 飯岡山という低い丘のような山の中腹に咋岡神社が鎮座し、その境内には歌碑が建てられていました。

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春草 馬咋山自 越来奈流 雁使者 宿過奈利
 春草を馬咋山ゆ越え来なる雁の使ひは宿り過ぐなり・・・と読むようです。

 これは、万葉集の卷九に「泉河辺作歌」としてある歌で、柿本人麻呂の作と見る向きもある。
 泉河は今の木津川のこと。「春草を馬が喰う、馬咋山を越えてくるらしい雁の使いは、便りを届けずに宿を過ぎ去る」といった感じでしょうか。

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