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2013年2月15日 (金)

京 都 ー自転車道周辺を巡るー 10

 ようやく、最終回です。
 木津川に架かる泉大橋を対岸(北岸)に渡った「上狛」(木津川市山城町)は、古代山城の中心地であったところです。

「山城」の由来

 京都の昔の国名は「やましろ」と称した。奈良朝政権の所在地である大和(やまと)から見ると、京都は山=ならやま(平城山・奈良山・楢山・那羅山などと記される)の背(うしろ)に位置することから、山背(やましろ)と名付けられたとされる。
 しかし、「やましろ」の表記については時代によって違いがある。古代の文献に現れる表記は、古事記では「山代」が、日本書紀では「山背」が使われており、両書の性格とその成立年代から「山代」の表記の方が古いとみられている。そして、大宝令制定により律令制下の「山背」国が誕生した。 
 その後、桓武天皇が北山城の地に都を遷し平安京として以後は、地形的に自然の城をなすところから「山城」と書くようになったという。

 「狛」の地名は奈良から平安時代には、「高麗里」「狛」「狛野」などと記されたようだ。
 狛は高麗(こま)のことで、朝鮮北部に存在した高句麗(こうくり)のことをいう。
 高句麗から渡来した狛氏の一族は山陰・北陸に上陸したあと、ここ相楽郡を通過して大和へ向った。
 山城町に「上狛」、精華町に「下狛」の地名があるが、いずれも高句麗から日本に渡来した人々が、この南山城に居住して勢力を伸ばしていった地で、南山城は渡来人の里であったことを表している。

Jpg_4

高麗寺跡(こまでら)

 現在のJR奈良線上狛駅にほど近いところにあったが、今は礎石が残存しているだけ。
 高麗寺は「日本霊異記」に記述があるそうで、確証はないものの天平期(729〜749)には存在したと考えられており、狛氏の創建と推定されている。

山城郷土資料館敷地に建つ歌碑

Photo_19

これは『万葉集』巻六 にある歌で、

 狛山尓鳴霍公鳥  泉河渡乎遠見  此間尓不通

狛山に鳴くホトトギス 泉河渡りを遠み ここに通はず、・・・と読むそうで、
狛山に啼くほととぎすは、泉河の渡しが広く遠いため、此処までは通ってこない・・・との意。

 巳年だからと云うわけではないのですが、最後にオマケを一つ。

蟹満寺本堂の軒下に掛かる額

Photo_20

 蟹満寺は山城町も北端に近い綺田(かばた)浜というところにある真言宗のお寺。現本尊は釈迦如来座像だが本来の本尊は聖観音で、綺幡寺・蟹幡寺・加波多寺・蟹満多寺とも記されたそうです。
 「今ハ昔」で始まり「トナム語リ伝ヘケルトヤ」で終わる、あの『今昔物語集』の巻十六に蟹の恩返しという説話が載っている。
 蟹満寺の聖観音を厚く信仰していた一人の娘が捕われた蟹を助けたことが機縁となり、のちに娘が蛇に求婚されて困っていると、蟹が蛇を殺して恩返しをしたという有名な伝説です。(「蟹の恩返し」伝説は、他に三室戸寺などでも伝わっているようです・・・)
 民俗学では、「異類求婚譚」として異類との婚姻を物語る昔話を取り上げます。これにはいろいろな類型があり、大きくは異類が男性の場合と女性の場合がある。この蟹満寺に伝わるのは異類=男性のタイプになる。これは、さらに四つの型に分類されますが細かいことは省略します。
 この蟹満寺のケースは「蛙(蟹)報恩型」といわれるもので、かつて助けたことのある他の異類の援助によって、自らの意志に反した婚姻から逃れる型とされています。
 へびは見た目は気持ちの悪いものですが、昔から世界的に信仰の対象ともなり、脱皮することから再生=生命力、豊穣・多産の象徴とされました。また、脱皮した皮を財布に入れておくとお金がたまるなどと云われます。

 以上、本シリーズは長くなりましたが、今回で終わりとします。

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