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2013年3月

2013年3月29日 (金)

鴨川とその周辺 その4

女紅場

 婦女子の教育機関として設けられたものです。明治5年(1872)土手町通丸太町下ル駒之町の九条家別邸跡に設置された「新英学校女紅場」が最初で、後に府立第一高等女学校(現・鴨折高等学校)となる。新英学校は中等普通教育の英学と、裁縫その他の女子に必須の教養の二部門を教授した。
 次いで小学校区ごとに設けられて、裁縫・編み物・手芸・料理などを無料で教え、女子の就学率向上に成果を上げたと云う。
 祇園・島原・上七軒・先斗町などにも芸妓の教育機関として、遊所女紅場が設置されていたそうです。

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舍密局(せいみきょく)

 土手町通夷川上ル鉾田町にある銅駝美術工芸高校は、明治3年(1970)に設置された舍密局の跡地に建つ。セイミはオランダ語の化学(英語ではケミストリー)を意味するそうです。
 ドイツ人化学者のワグネルの指導のもと、石鹸・ビール・洋酒・ラムネ・陶磁器・ガラス・顔料などの製造、実験や講習にあたり、京都の産業近代化に大きく貢献しました。

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新生洲町

 鴨川東岸のこの一帯は聖護院村の畑地であったが、享保19年(1734)に北野吉祥寺が所司代と町奉行に開発を出願、二条新地を造成した。はじめ新先斗町と大文字町、続いて新生洲町・難波町・中川町・杉本町ができて、幕府はここに旅籠屋や茶屋を免許したため遊興地ができた。
 ここ新生洲町は、川魚料理を食べさせる料理屋の生簀が町名の起源になったと考えられる。なお、新生洲町北端の東隣にある中川町との間の小道を、「雪踏辻子」、別名「ねぶとのずし」とも称していたようだ。

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高瀬川の水源(取水口)

 高瀬川は慶長19年(1614)、角倉了以・素庵の父子により物資輸送のための運河として開削された。
 この写真は普通はあまり目にする機会はないと思われる取水口です。鴨川西岸二条通の南側、東生洲町で禊川から取り入れており、すぐそばの「樋之口町」の町名由来は、この取水口に因む。

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2013年3月23日 (土)

鴨川とその周辺 その3

荒神橋

 はじめに架橋されたのは慶応3年(1867)といわれるが、現在のものは大正3年(1914)に竣工したようです。
 この橋の西方、荒神口通河原町西入にある清荒神(護浄院)の付近が京七口の「荒神口」であったとされ、名称の由来となっている。近世以前から京への出入り口の一つであり、荒神河原を渡り吉田を経て近江の坂本へと抜ける、志賀越え(山中越え)の出入り口となっていたことから、「吉田口」「志賀道口」ともいわれた。また、今道越えと称されたこともあり、この関係で「今道の下口」ともいわれたようです。

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旧・京都織物会社

 この煉瓦造りの建物は旧・京都織物会社の社屋で、明治20年から昭和43年まで撚糸・染色・織物まででの一貫製造をおこなっていたそうです。
 明治期に新工業奨励の一つとして京都府が始めた織工場を引き継ぎ、ヨーロッパの最新技術を導入して、日本最大の近代的織物工場が設立された。
 この建物、近衛通川端東入ル吉田下阿達町(荒神橋東詰め・川端通東側)に今も健在で、京大東南アジア研究センターの図書室となっています。しかし、以前は川端通から煉瓦造り建物が見えていたのに、今では稲盛財団記念館なる殺風景な今風建物がその建築物前面に接するように建てられてしまい、残念ながら表からは全く見えない。したがって、旧京都織物建築の正面側からの写真を撮ることができません。また、裏側にも別の建物があり、引きがきかないため全景写真を撮ることはできない。(この写真は裏側から撮影した)

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夷川発電所
(関西電力)

 琵琶湖疎水(第二疏水)が鴨川東岸に至る手前に、現役で頑張る水力発電所があります。
 明治23年(1890)琵琶湖(第一)疎水が完成、翌年に日本初の事業用水力発電所として蹴上発電所が稼働していた。しかし、電力需要が増加したため明治45年(1912)に第二疏水を建設して、大正3年(1914)に夷川発電所とともに鴨川運河(疏水)下流の伏見に墨染発電所が建設された。
 これは、明治末から大正始めに京都市の都市基盤整備事業としていわゆる三大事業(第二疏水開削・上水道整備・道路拡張と市電敷設)の一貫として行なったものです。

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鴨川運河(疏水)

 疏水の水は、その一部は鴨川に流れ込んでいますが、ほとんどが「鴨川運河」となって鴨川東岸を南流しています。冷泉通から御池通までは地上を流れるのを目にできるが、その先(南)は塩小路通まで暗渠の中を流れています。
 塩小路で暗渠から出た疏水は、師団街道・本町通の傍を流れて墨染発電所に至り、最終的には伏見市中を抜けて伏見港(三栖閘門)で宇治川に流入しています。

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2013年3月15日 (金)

鴨川とその周辺 その2

糺 森(ただすのもり)

 糺森は下鴨神社(賀茂御祖神社)と河合神社の境内地の森で、賀茂川と高野川の合流点に位置しており、いまでは開発が進んで狭くなってしまっている。「糺」は平安時代からの地名で多々須・只洲とも書き、河合を「ただす」と読む場合もあったようです。森は多種の常緑・落葉広葉樹が混生しており、古代の京都盆地を覆っていた原生林の名残をとどめていると云われる。
 この森の中を流れているのが「瀬見の小川」です。

瀬見の小川

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 糺森の木々は冬枯れして林床が明るく、小川の水面には空が映っている。

 「山城国風土記」(逸文)の賀茂伝説に、凡そ次のような記述があるとか。
下鴨神社祭神の賀茂建角命(かもたけつぬのみこと)が大和の葛城山から山代(山城)の岡田の賀茂(相楽郡加茂町)に遷った。そして、さらに木津川に沿って進み、葛野の河(桂川)と賀茂の河の合流点に至り、賀茂川を見渡して「狭く小さいが、石川で澄んだ川だ」と云ったそうです。
 こうして賀茂川に「石川の瀬見の小川」との別称がついたといいます。

賀茂社神官家の出である鴨長明は、瀬見の小川を和歌に詠んでいます(『新古今和歌集』)
 石川やせみのをがわの清ければ 月も流れをたづねてぞすむ

 最後の「すむ」は勿論、「住む」と「澄む」の掛詞です。
 なお、この賀茂建角命の娘である玉依日売(たまよりひめ)が産んだ男子が上賀茂神社祭神の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)となる。
 また、この出生譚に類似した話が、賀茂社とつながりのある松尾大社にもあります。


出町と御土居

 河原町通今出川の一筋北を西行する道は「桝形通」という。これは現寺町通の東側を通っていた御土居(豊臣秀吉の都市改造で構築)の出入り口の構造が桝形になっていたことに因んでいます。


鯖街道入口の碑

 若狭(福井県)小浜と京都の出町柳を結んだ街道で、若狭で取れた海産物を徒歩により輸送した。

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松井酒造

 東一条通川端東入 エデルハイム鴨川
 創業が享保11年(1726)、「金瓢」「京千歳」などの醸造元。京都の醸造元のほとんどは伏見に所在するのだが、この蔵は旧市内と周辺に所在する数少ない蔵元の一つです。
 他は、俳優佐々木蔵之助の実家である佐々木酒造(日暮通椹木町下ル)で、明治26年(1893)の創業、「聚楽第」「古都」などの蔵元。
 もう一つ羽田酒造というのがあるが、これは比較的最近の平成17年(2005)に右京区に編入された京北町にあり、市内とはいうものの市街地からはチョット離れ過ぎています。

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2013年3月 8日 (金)

鴨川とその周辺 その1

 久々にシリーズものです。今回は鴨川沿いを見て廻ることにします。

 鴨川の東岸を南北に走る川端通の名称は、いうまでもなく川端に沿った道に由来する。現在の川端通は南は塩小路通、北は出町から高野川沿いにさらに北行し、白川通との合流点が終端となっているようです。
 しかし、今回は川端通のうち、高野川と賀茂川が合流して鴨川と名を変える辺り、糺森(ただすのもり)から南を塩小路までをうろついてみようと思います。


賀茂川と鴨川

 賀茂川(鴨川)は北区の雲ヶ畑を源流とし、途中で多くの支流を合して南下、上賀茂神社の西側を東南へ下って出町で高野川と合流しています。その後は市内を南流して、九条辺りで南西に向きを変えたあと、伏見区の下鳥羽で桂川に流入しています。
 そしてその呼称ですが、高野川との合流点までを賀茂川、それより下流を鴨川と書き分けるのが一般的な表記法のようです。賀茂川と高野川の合する河合の一帯を糺(ただす)河原というが、河合河原とも呼ばれたようで、「下鴨」の地はこの二つの川に運ばれた土砂の堆積地です。


賀茂川と高野川の合流点

 左方からの流れが賀茂川で、これに右方から高野川が合して鴨川となる。中央に見える森は糺森(ただすのもり)で、左手の橋は出町橋、右が河合橋です。

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鴨 川

 平安遷都時、京都盆地の鴨川扇状地は高野川・白川からの土砂も加わり、南は九条辺り、西は西大路付近まで達していたようです。その扇状地を流れるかつての鴨川は、西岸が現在の寺町通、東岸は現・東大路通に至る東西の幅約700mもの河原を、大雨による大洪水のたびに流路を変えて南流していたものと考えられています。
 平安時代初期の天長元年(824)に朝廷は防鴨河使という官職を設けて治水に当たらせたが、鴨川の洪水は無くならなかった。このような鴨川を、白河院は「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と、自分の意のままにならないものの一つに挙げているそうです。


鴨河原

 古代の鴨川は祓い・禊の行なわれる川でもあったが、流れの幅が広く両岸には大きな河原が形成され、これが合戦の場や庶民の往来の場にもなったということです。
 史料に河原として名前の見えるものに、糺河原・荒神河原・二条河原・三条河原・四条河原・五条河原・六条河原・七条河原・八条河原などがあるそうです。
 平安末期から近世の初め頃までは処刑場や首晒しの場でもあったようです。豊臣秀吉は甥の秀次(母は秀吉の姉)に関白職を譲り、左大臣を兼ねさせて自分は太閤と称しました。しかし、秀吉に跡継ぎの秀頼が誕生したために、秀次を「謀反の罪」の名目で自害させ、彼の妻妾子39人を三条河原で処刑するという暴虐をおこなっています。


広場としての河原

 河原は「広場」へと変わってゆき、世の中や時の権力者を風刺した内容の匿名文書である落書(らくしょ)が張り出される場ともなっていた。とりわけ、建武2年(1335)8月に新政を強烈に皮肉った、有名な「二条河原の落書」が知られる。
 それは、「此比都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨、召人早馬虚騒動、生頸還俗自由出家、俄大名迷者、安堵恩賞虚軍・・・」という調子で延々と「京童ノ口ズサミ」が続いたようです。
 また、その広場は中世末から近世にかけて大きく広がり、三条・四条・五条・六条などの河原には芝居小屋・見世物小屋などが並び京都における演劇興行の中心地ともなっていったそうです。

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鴨川の治水

 先に書いたように、古代以来、鴨川は大雨のたびに洪水を引き起こしてきたが、寛文9年(1669)京都所司代の板倉内膳正重矩による大規模な鴨川の改修「寛文新堤」築造がおこなわれ、現在の今出川通と五条通の間の鴨川右岸と左岸に石垣を築いて洪水の防止を図った。この時、西岸に造成されたのが先斗町で、四条通から南の木屋町通までを西石垣(さいせき)通と呼んでいるのは、この石垣に因んでいます。
 なお、河原町通の名称は、かつて鴨川の河原であったことによる。天正19年(1591)に豊臣秀吉が築いた御土居の東側土手はこの鴨川西岸に沿う形で設けられ、堤防として治水目的もあったようです。

2013年3月 2日 (土)

辻子 ー下御霊辻子と革堂辻子ー

下御霊辻子

 寺町通丸太町の南一筋目を東行する小道(通称・下御霊通)で、新烏丸通までの間。この辻子は下御霊前町と行願寺門前町の境界となっている。
 この辻子名と下御霊前町の名称はもちろん下御霊神社に由来しています。行願寺前町は行願寺(通称の革堂の方が有名)があったことによる。

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下御霊神社

 下御霊神社の祭神は八所御霊と云われ、崇道天皇=早良親王(藤原種継暗殺事件に連座して幽閉中に憤死した)、伊予親王(平城天皇即位の際に謀反の疑いを受けた)と母の藤原吉子、橘逸勢(伴健岑らと恒貞親王を擁して謀反を図り伊豆に流された)、文室宮田麻呂(橘逸勢に続いて謀反の罪に問われ伊豆に流された)、藤原広嗣(九州へ左遷後に反乱を起こして殺された)、そして吉備真備と菅原道真の八座が祀られている。
 不慮の死を遂げた人達の御霊(怨霊)の祟りを防ぎ、鎮魂のために祀られた。

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行願寺(革堂)

 行願寺は革堂とも呼ばれました。行円が建立し、元は一条通小川上ル辺りにあったようで、一条北辺堂と称したが後に行願寺(通称・一条革堂)と改めた。
 行円は叡山の横川に本拠を置いた聖であったらしく、常に皮衣をまとっていたので皮聖・皮上人と呼ばれました。

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 行願寺(革堂)のあった旧地、小川通一条上ル一筋目を西行する小路で油小路通間、革堂町・革堂仲之町・革堂西町を通貫しています。近世までは「革堂辻子(こうどうのずし)」と称された。


革堂辻子

 この革堂辻子の近辺には他に幾つもの辻子がありますが、それらは機会を改めて別の記事にしようと思っています。

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仁丹町名表示板
 さて、ふたたび下御霊神社界隈へ戻ります。この辺りにも多くの仁丹町名表示板が残っていますが、そのいくつかを紹介しておきましょう。

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 この「石屋町」は、町名・町名表示板ともに珍しいと思います。というのは、明治の末年に丸太町通が拡幅される際、通りの南側にあった石屋町の町地はその殆どが収用されてしまい、極めて狭い町となってしまいました。
 現在は、この町名表示板のあるワインショップと東隣の古道具屋、その2軒の家地を残すだけとなっているようです。

 その他に3点
 右端の電柱に縛り付けられ、文字も薄れてしまっているのは、「上京區 丸太町通新烏丸西入 信富(シントミ)町」です。

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2013年3月 1日 (金)

梅と鶯

 今頃は、「春に三日の晴れなし」といわれ、寒暖の差も激しく「春一番」といわれる南よりの強風で大荒れになることもある時期です。関西地方では、梅が咲き、次いで桃が、そしてすぐ後を追って桜が咲きます。

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 梅は霜が降りても平気な非常に強い木で、枝を切るとより強く成長するようです。古木の曲がりくねった幹から真っ直ぐに延びた若枝に、凛と咲く花には清々しさを感じます。
 片や桜は切っては駄目で、「桜伐る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と云われるようです。
 奈良時代には、花といえば梅、花見は梅見をいったようで、「万葉集」には梅を詠んだ歌は120首で、桜の40首を大きく上回るそうです。ちなみに、一番多いのは萩の141首だそうです。

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 春告鳥(はるつげどり)といわれる鶯は梅とセットが似合います。けれども、どうも鶯の美しい鳴き声は梅の満開よりも遅れるように思います。
 日記を見返すと、初音を聞いたのは昨年は3月19日、一昨年は23日でした。実際はもう少し早かったのかも知れませんが気付いたのはその頃でした。
 ところで、絵などで見る梅に止まる黄緑色の綺麗な鳥は、「鶯」ではなく「めじろ」だそうです。
 めじろは鮮やかな黄緑色で目の周りに白い縁取りがあり、花の蜜を吸うそうです。
 それに対して、鶯の色は少し緑がかった褐色で、樹についた虫を食べるようです。

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