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2013年4月

2013年4月26日 (金)

辻子 ー天性寺辻子と新辻子ー

天性寺辻子

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 天性寺と本能寺の間を寺町から河原町に抜ける小路で、下本能寺前町・下丸屋町と天性寺前町・恵比須町の境界にあたる。
 『京町鑑』の寺町通「天性寺前町」には、「此町東がは北よりに東へ行辻子有  川原町通へ出る也」とある。
 辻子名は姉小路の南側、寺町通に西面してある天性寺に由来する。

天性寺

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 天性寺は浄土宗の寺で山号は曼陀羅山。奈良当麻寺の僧眼誉がはじめ西陣の当麻町(現在の蔓陀羅町)に興し、天正15年(1587)豊臣秀吉により現在の地に移転させられた。

本能寺

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 天正10年(1582)6月2日早暁、本能寺に宿泊中の織田信長は明智光秀の襲撃に遭って自殺した「本能寺の変」は有名である。(このあと、明智光秀は羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れる。)
 本能寺はその時に兵火で焼失したが、再建中に豊臣秀吉の京都改造により現在地に移転した。

仁丹でない町名表示板

 仁丹以外にも多くの広告主が各所に町名表示板を設置していますが、その広告主(企業)のかなり多くが今では消滅しています。この町名表示板は天性寺前町の南側に隣接する石橋町にあります。
 広告主は「久彌洋裁学院」となっているが、昭和40年代くらいまで荒神口通の賀茂川畔北部の久彌宮家本邸跡にあったが、現在では学院自体がもう存在しない。跡地はKKRホテル&リゾートチェーンの「KKR京都くに荘」となっている。

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 それはさておき、現在地に移転する前の本能寺は四条坊門西洞院(四条坊門は現在の蛸薬師通)にありました。その旧地には、その名残が本能寺町・元本能寺町・元本能寺南町などの町名として残っている。
 そしてさらに、その本能寺旧地にも辻子がありました。それは、「新辻子」です。


新辻子

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 小川通の蛸薬師通・錦小路通間を云い、元本能寺南町・空也町を通貫している。
 『京町鑑』の「小川通」に、「たこやくし下ル  本能寺南町  又◯新辻子ともいふ此町の南の辻錦小路通にて行當也」と出ています。

 辻子の名称について、『京都坊目誌』には、本能寺の旧地であったが移転したあとに新しく開けた所であるのが、辻子名の由来だとしています。
 
 なお、空也町には空也の創建になる堂があったというが、確認されていないようだ。しかし、すぐそばの蛸薬師通油小路西入に北面して、空也堂極楽院(光勝寺)というのがあり、ここは空也上人の開創といわれる。

空也堂(空也町)

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仁丹町名表示板

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2013年4月19日 (金)

鴨川とその周辺 その7

正面通と正面橋

 

 これは鴨川に架かる正面橋ですが、西方の高瀬川に架かる橋も正面橋と称している。
 正面通は、方広寺大仏の前(正面)から西方に通じる通りであることから、大仏正面通と称していたが、大仏を省略して正面通となった。
 なお、宝暦12年(1762)刊の「京町鑑」では、東本願寺百間屋敷(現・渉成園=枳殻邸)から西本願寺門前までの間を、別名「御前通」としているとのこと。したがって、この御前通は正面通のうち、東本願寺と西本願寺の寺内町域内に限る通称であったことが判る。言うまでもなく、この御前通は北野天満宮から九条通に至る御前通とは全く別の通りです。
 また、西本願寺門前から東行する道を「ミドウスジ」としている古絵図もあるが、御影堂に行き当ることを由来とした通称なのでしょう。(大坂の西御堂・東御堂のある通り名を御堂筋としたのと同じ)

 

鴨川に架かる正面橋

 

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高瀬川に架かる正面橋(志よめんはし)
 「志よめんばし」ではなく「・・・はし」としているのは、濁ることを嫌ってのことのようです。
 つまり、豪雨で川が増水すると濁ることから、増水により溢水・浸水して災害になることを忌避してのことだとも云われます。

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塩小路橋と塩小路通

 

 塩小路通の名称は平安京の「塩小路」に由来する。しかし、この平安京の塩小路は現在の木津屋橋通(生酢屋橋通)に該当するようです。
 そして、現・塩小路通は平安京の八条坊門小路に該当するそうだが、どうも塩小路(木津屋橋通)と八条坊門小路(三哲通)は混同されていた模様。
 八条坊門通・三哲通と旧称したこの辺りは中世にはさびれて、寛文5年(1665)刊の『京雀』には殆ど田畑で町家なしとあって、通り沿いの町として「金替町」と「三てつの前町」が記されているそうだ。

 

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 今ではその名を殆ど聞くことのない「三哲通」だが、JRバスの停留所名に「三哲」(塩小路通堀川東入のオムロン前)が生き残っている。ということで、現・塩小路通の別称が三哲通なのです。
 ところで、「三哲」の由来については、三哲なる人物の屋敷があったことによると云うが、この三哲を渋川算哲(幕府天文方)とするものと、僧侶の三哲とするものがあり定かではないようです。

 

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地上に姿を現した疏水


 御池通以南は暗渠の中を流れてきた疏水(鴨川運河)だが、ここ塩小路橋の東詰め傍で再び地上に姿を現す。そして、最終的には宇治川に流れ込むのだが、途中の墨染発電所でもう一仕事をする。

 

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 以上、7回にわたった鴨川シリーズは今回をもって終わりとします。

2013年4月12日 (金)

鴨川とその周辺 その6

宮川町通(宮川筋)

 川端通の東側を四条から五条に通じる通りで、一町目から八町目まである。
 はじめから茶屋町として開発された遊興の地であったが、宝暦元年(1751)からは全域が宮川町遊里となった。

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宮川町筋の仁丹町名表示板

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五条橋と松原橋

 五条大橋の東、東橋詰町に京七口の「五条口」(伏見街道の出入り口)があった。
 現・五条通は平安京の六条坊門小路に該当し、二筋北の松原通が平安京の五条大路に相当するという。
 また、現・五条橋が架設されて五条通が開かれたのは近世に入ってからのことである。
 したがって、平安京の五条大路(現・松原通)の鴨川に架かっていた橋が、本来の五条橋ということになり、牛若丸と弁慶が出会ったのは現・五条橋ではなく現・松原橋ということになる。

現・五条橋西詰めに建つ牛若丸と弁慶の像

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平安京の五条大路(現・松原通)の鴨川に架かる橋

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河原院跡碑

 平安初期に左大臣の源融(みなもとのとおる)が、鴨川のほとりに営んだ広大な邸宅「河原院(六条院)」があった。
 陸奥国塩釜の素晴らしい風景を模して庭園を造った。ここを在原業平・紀貫之などなどが訪れて、美しい庭を歌に詠んでいる。
 現在、河原町を挟んで西側の「本塩竈町」は、明治4年(1871)河原院の塩竈の故事に因んで名づけられた。

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本塩竈町の仁丹町名表示板

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2013年4月 5日 (金)

鴨川とその周辺 その5

高山彦九郎像

 三条川端に鎮座している。江戸時代中期の尊王思想家で上州(群馬県)出身。吉田松陰など幕末の志士に影響を与えたと云う。
 この像にみられる姿勢は皇居を遥拝しているそうです。
 戦前にあった「修身」の教科書では、二宮尊徳・楠木正成などとともに取り上げられていたようです。

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出雲のおくに像

 歌舞伎の創始者として歴史に名をとどめる。しかし、出雲大社の巫女と称していたようだが、その生まれ・経歴・輝かしいデビュー以後の足跡など、詳しいことは捉えられていないと云う。
 阿国歌舞伎を始め、大きな人気を得て模倣するものが多く現れ、これがやがて各地の遊女歌舞伎に発展した。

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南 座

 江戸時代、鴨川の四条河原芝居街は、幕府が京都で認可した唯一の劇場街であった。最盛期の元禄時代には、四条の両側に五棟の常設劇場があって、それを取り囲んで芝居茶屋や遊興施設が集中していたらしい。
 江戸時代のこの付近の四条通の幅は三間に満たなかったようで、明治27年(1894)に北側を拡張して五間幅としたということです。この時に北側の劇場は廃されて、南側の一棟、現・南座のみになったそうだ。

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東華菜館

 ヴォーリズ(アメリカ人の建築家)の設計で、国の登録有形文化財。
 京都に建築設計監督事務所を設立。また、近江兄弟社創立者の一人で、メンソレータム(現・メンタム)を日本で普及させた。
 教会、学校、病院、百貨店、個人宅など、多くの建物や装飾がヴォーリズの作品として残っている。
 京都では東華菜館の他に同志社大学のアーモスト館・啓明館(図書館)新島遺品庫・宣教師館などがある。

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春の妖精(カタクリ)

 カタクリの花は早春の落葉広葉樹林の林床に群れて咲きます。
 可憐な花ですが咲いているのは束の間と云った感じで、ヨーロッパでは、Spring ephemeral(春の儚い命)と呼んでいます。
 昔はこの花の球根から片栗粉を採っていたが、今ではジャガイモの澱粉から作られる。

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 カタクリの種子の先にはエライオソームという、蟻の好む芳香性の物質が付いているということです。これには脂肪酸・アミノ酸・糖が含まれており、蟻はそれに惹かれて種子を巣に持ち帰ります。
 ところが、蟻はエライオソーム以外は利用せずに種は捨ててしまうため、種は運ばれていった先で発芽します。このような植物を「蟻散布植物」と呼ぶそうです。(スミレの種子もこの物質を付ける)

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