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2013年5月31日 (金)

辻子 ー竈(へっつい)辻子とその周辺ー

竃辻子(本能寺辻子・妙満寺辻子とも)

 この辻子も現在は存在していません。(末尾の【註】をご覧下さい)
 天保2年(1831)刊『改正京町絵図細見大成』によれば、妙満寺(昭和43年左京区岩倉幡枝町に移転)と本能寺の間で、寺町通・河原町通間を通る東西の辻のことらしく、河原町西入に「へっつい屋」のあったことが名称の由来と云う。「へっつい」とは、竃=かまどのこと。
 なお、慶応4年(1868)刊『改正京町御絵図細見大成』では「本能寺ノ辻子」と記している。

 市役所庁舎と北庁舎の間の隙間

Photo_24

 現在の榎木町と上本能寺前町の境界、一之船入町の河原町西側辺りにあった模様。したがって、位置的には現在の押小路通(平安京の押小路)よりも南側、京都市役所庁舎裏側と押小路沿いにある北庁舎との間辺りにあったのではなかろうかと考えます。
 なお、先頃記事にした「長門辻子」はこの「へっついの辻子」の東方にあたる付近に所在したものと思われる。


 京都市役所庁舎

Photo_25

仁丹町名表示板「妙満寺前町」と「上本能寺前町」

 町名は言うまでもなく、両寺院があったことによる。
 なお、「上本能寺前町」の方は、最近になって設置された平成版とでも云うべきものですが、重厚さが無い薄っぺらな印象を受けます。

Photo_26

 

N

【註1】『京雀跡追』(延宝6年刊)を眺めていて、「諸職一覧」の中で次の記述が目につきました。
 「へつついや おし小路川原丁西へ入」
 ということは、この辻子は消滅しておらず、現在の押小路通の河原町通と寺町通間に相当するのかもしれません。
 (2015.7.9に追記)
【註2】『京都坊目誌』(大正4年刊)に次のような記述を見つけました。
 「上本能寺前町」の項に「因に云ふ元。押小路より東。河原町に通する小径あり。[本能寺と妙満寺との間。今。市役所の背後に塀ある所なり]   妙満寺ノ辻子。叉竈辻子と呼ぶ。維新後之を塞ぐ。」とあります。
 これにより、不確かで心許ない感じが払拭されました。辻子の位置は押小路通ではなく、矢張り市役所の背後(裏手)にあったが、明治2年に塞がれて無くなったのです。辻子の別称が一つ増えました。
 (2016.11.7に追記)
【註3】:『京町鑑』(宝暦12年刊)には次のような記述あり。
 「上本能寺前町 此町東がは北よりに東へ行辻あり 川原町通へ出る也  俗にへつゝいのづしと云  則川原町西入所半町ほど兩側へつゝいや有」




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