2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

リンク集

無料ブログはココログ

« 辻子 ー天性寺辻子と新辻子ー | トップページ | 中世末の京都とキリスト教 ー南蛮寺跡1− »

2013年5月 5日 (日)

辻子 ー長門辻子とその周辺ー

長門辻子

 一之船入町のうち河原町通の東側、その南半分くらいが長州毛利家の藩邸であったが、江戸中期頃までは屋敷地が南北二ヶ所に分れていた。その二ヶ所に分かれた長州藩屋敷地の間を東西に延びる小道を「長門辻子」と称していたという。

 この辻子に該当する小道は現在は存在しない。しかし、古絵図等の記載によれば、一之船入町と下丸屋町の境界辺りから少し北寄り、いま佐久間象山遭難之碑の建っている辺りを河原町通まで西行していたのではないかと思われる。
(さに非ずでした。訂正しましたので記事末尾の【註】をご覧願います。)

佐久間象山遭難之碑

Photo_19

 一之船入のすぐ南にある東西の通りは押小路通で、これは平安京からあった「押小路」に相当するため、これがマイナーな小路である「長門辻子」である筈はないだろう。と思いきや、これがまさに「長門辻子」でした。

現・押小路通

Photo_20

Photo_18

 一之船入町は高瀬川の最上流に、「一之船入り場」があったことによる。ここを起点に上下する高瀬舟と、高瀬川の管理者であった角倉家の屋敷があった。

「一之船入り場」跡

Photo_21

Photo_22

 なお、一之船入町の北側に隣接して木屋町通に面するする「西生洲町」は、今では島津創業記念資料館の敷地があるだけのごく狭い町地です。木屋町通東側の高瀬川取水口のある東生洲町と共に、町地として開かれたときに高瀬川の支流を作り、ここに魚を放流飼育して販売したのが町名の謂れであると云う。

仁丹町名表示板「西生洲町」

Photo_23

【註】『京都坊目誌』中「一之船入町」の項に次の記述がありました。「叉ホテルの北、東西の小路を長門ノ辻子と字す」 このホテルは河原町通御池上ルの現・京都ホテルオークラです。
 したがって、最初はこの辻子に該当する小道は現在は存在しないとしていましたが、長門辻子を押小路通の河原町と木屋町通の間と訂正します。 

« 辻子 ー天性寺辻子と新辻子ー | トップページ | 中世末の京都とキリスト教 ー南蛮寺跡1− »

仁丹町名表示板」カテゴリの記事

町名・地名の由来」カテゴリの記事

辻子(図子)・突抜」カテゴリの記事

道標・史跡などの石碑」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 辻子 ー天性寺辻子と新辻子ー | トップページ | 中世末の京都とキリスト教 ー南蛮寺跡1− »