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2013年5月17日 (金)

中世末の京都とキリスト教 ー南蛮寺跡2−

 前回は姥柳町の南蛮寺跡を紹介しましたが、他にも数カ所に建立されたようです。古絵図などには、「だいうす丁(町)」「だいうすの辻子」などと記されていますが、そのいくつかを記してみます。


菊屋町
(下京区若宮通松原上ル)

 貞享3年(1686)京大絵図、元禄9年(1696)京大絵図と元禄九年京都大絵図には「太う寸丁」とあって、寛文5年(1665)刊の「京雀」には「往昔此町に伴天連が住みて、堤宇子(だいうす)の法を勧めしを、太閤秀吉公禁制せられ寺を壊れたり」と、町名の由来を説いているという。
 一方、「菊屋丁」と現町名を記す古絵図もあり、寛永年間には併用されていた模様。

菊屋町の仁丹町名表示板

Photo_4


佐竹町(下京区岩上通綾小路上ル)

 民間刊行の木版図は寛永18年(1641)以前平安城町並図以下「たいうす丁」、そして貞享3年(1686)京大絵図、元禄9年(1696)京大絵図に『大う寸丁』とあり、フランシスコ会系の南蛮寺が建立されていたと見られるが、文禄5年(1596)秀吉の伴天連追放令により破却された模様。
 そして現在、佐竹町の一角に「南蛮寺跡 キリスト教文化資料館 フランシスコの家」というのがある。

Photo_5

キリシタン灯籠

Photo_6

 次回は、やはり南蛮寺があったとされる堀川一条付近について書いてみます。
 この辺りは「だいうすの辻子」と呼ばれた所ですから、辻子シリーズと兼ねたものとなります。

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