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2013年6月

2013年6月28日 (金)

辻子 ー宇賀辻子とその周辺ー

宇賀辻子

 宇賀神社(東九条東札辻町)東側を北東に延びる小路で、東九条宇賀辺町・東九条南松ノ木町・東九条東札辻町を通貫している。
 写真で神社玉垣の外(右)に見える道が宇賀辻子です。

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 辻子の名前は、東九条村(現在は「東九条」を冠称する38の町に分かれている)の産土神=氏神として崇敬される宇賀神を祀る「宇賀神社」に由来する。
 『都名所圖会』に、「宇賀社は九條の東にあり、祭所宇賀神なり。此所の東西の徑を宇賀辻子といふ。」とある。
 伝承に、藤原鎌足がこの辺りを遊猟中に金璽を得た。そして、後世この辺りに都が移され子孫が繁栄することを予知して金璽を埋めたのが宇賀塚であるとし、この塚が今の宇賀神社であると云う。

宇賀神社

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 この地域一帯は現在の南区の中心域であるが、もとは九条家の所有する荘園で東九条庄と称された。
 東九条庄は平安時代後期の公卿で、法性寺殿と呼ばれる藤原忠道のときに忠道の息女聖子(皇嘉門院)の所領として立庄され、以来九条家に代々継承されて九条家をはじめ藤原一門の邸宅や別荘が営まれた地であると云う。
 この東九条荘は荘園の実務を委譲された下司職(家司)の石井一族によって、室町・戦国期の荘園経済崩壊期をくぐり抜け中世末まで維持されたそうだ。
 この東九条庄一帯の地域が「東九条」と呼ぶようになり、地名として史料に現れるのは室町期以降のことだそうです。

東九條御霊町(仁丹町名表示板)
  (現在の町名は「東九条西御霊町」です)

 

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 竹田街道の西側になります。
 もとは「東九条村字御霊町」でしたが、昭和18年に一部が東九条西札辻町・東九条西御霊町となり、同26年に残余が東九条上御霊町・東九条中御霊町・東九条東御霊町となった。したがって、この表示の町名は昭和18年以前のものということになります。
 なお、慶長年間に角倉了以により高瀬川が開削されましたが、これは上樵木町(現中京区)を起点とし、この町の南東になる東松ノ木町の辺りで鴨川に合流している。

2013年6月21日 (金)

神護寺、文覚(遠藤盛遠)、文覚町

神護寺

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 清滝川に沿いの高雄(高尾)は槙尾・栂尾と共に三尾と云われ、高尾には神護寺、栂尾には高山寺、槙尾には西明寺がある。渓谷を埋めるもみじは清滝の清流と共に昔から絶景とうたわれ、今もシーズンには多くの人々で賑わいます。

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 神護寺の創建については詳らかではないようですが、もとは高尾山寺(高雄寺とも)と呼ぶ和気氏の氏寺でしたが荒廃していました。のちに和気清麿が宇佐八幡の神願を果たすため、河内國に神願寺を建立します。清麿の子の眞継等が高尾山寺と寺地を交換することを願い出て、天長元年(824)に許されてこの地へ移転、寺号を神護國祚眞言寺と改めた。この寺号の上二字を採って神護寺としたのです。
 唐から帰った空海が高尾に入寺していたこともありましたが、その後、二度にわたる火災で寺は衰微しします。
 仁安3年(1168)弘法大師の旧跡を慕って文覚上人が来住、勧化して再興につとめました。このため、上人は神護寺中興の祖として仰がれることとなります。

文覚 ー遠藤盛遠ー

 「平家物語」「源平盛衰記」などに記された文覚上人の伝承は概ね次のようなものです。
 北面武士として鳥羽天皇の皇女に仕えていた遠藤盛遠は、勧学院(現在の西ノ京勧学院町にあった)で優秀な成績を修めていたが、袈裟御前(渡辺渡の妻で美人だったと云う)に横恋慕してしまう。このときの盛遠は17歳だった。
 盛遠は袈裟と一緒になりたくて擦った揉んだの挙句、渡を殺すつもりのところを誤って袈裟御前の首を切り落としてしまう。袖に包んだ首を月の光にかざすと恋い焦がれた袈裟の首だった。こうして人生の無常を知った遠藤盛遠は19歳で出家して文覚となり、熊野や那智での荒行のあと高雄の神護寺に入りました。

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 そのとき神護寺は荒廃してしまっていたので、再興するため勧進(寄付を集めること)をしました。その勧進で後白河院に荘園の寄付を強請したことが院の怒りに触れて伊豆に流されます。このとき、文覚はやはり配流の身であった源頼朝に平家打倒の挙兵を勧めたのです。
 文覚は平家打倒でつながる頼朝と後白河法皇の庇護を得て、神護寺のほか東寺・西寺・高野山などの弘法大師ゆかりの真言寺院をつぎつぎと再興・修繕していきます。

文覚町・紅葉町・高雄町(仁丹町名表示板)

 この「文覚町」は、文覚が神護寺再興のための勧進を後鳥羽院に強要して怒りを買い、囚われていた獄舎がこの地にあったのが町名の由来とされる。
 近辺に所在する「紅葉町」「高雄町」は、文覚(神護寺)のいわば縁つながりにより、高雄・紅葉を採って町名としたものとされる。

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 「文覚町」は東中筋通を挟んで、北小路通と七条通の間に所在する両側町。北小路通は平安京の北小路に該当する。
 寛永期の古絵図には「天使つきぬけ尻」とあるそうで、「天使突抜」の南の尻(最後の部分)にあたる。「もんがくの町」の名称とともに併用されていたようです。
 この「天使突抜」については既に以前、『天使突抜と町名の由来 その1・2』という記事にしたことがあるため、ここでは簡単になぞっておきます。
 現在の「天使突抜」は東中筋松原から南へ六条にかけて、天使突抜一町目〜四町目まであります。
 しかしそれとは別に、寛永年間の「天使突抜」が東中筋六条から七条通にかけての西本願寺寺内町に、天使突抜一丁目〜四丁目というのがあったようで、今の學林町・柳町・紅葉町・文覚町がこれらに該当するようです。

2013年6月14日 (金)

辻子 ーかせが辻子ー

かせが辻子(「賀世伊ノ辻子」「がんせいのずし」とも称した)

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 室町通上御霊前一筋北の辻を室町通西裏(古の木之下通=現・衣棚通)まで西行して、そこから上御霊前通まで南下する鈎形になった辻で、竹園町・岩栖院町、継孝院町と玄蕃町の境界を通貫している。
 ただ、『京都坊目誌』に「岩栖院町を俗に賀世伊ノ辻子といふ  雍州府志」と記していることから、衣棚通を越えて新町通までとも考えることができるので、その辺りがはっきりする資料を見つけたいと思う。

 岩栖院町の町名由来は、室町幕府の管領細川満元が仏道に入って修行するようになり、岩栖院と号してここに住んだことによるといわれる。
 後の世になって、金工で著名な後藤一族の後藤勘兵衛長乗が、徳川家康からこの辺り一帯を拝領して屋敷とした。以後は長くここに居住したが、明治の廃刀令で刀剣彫刻の需要が無くなったため、廃業して屋敷を手放した。現在はその跡地が「擁水園」という庭園として残っている。
 この擁水園は、三井家別邸を経て京都貯金事務センターが所有していた時代には春秋の二回一般公開されていた.しかし、現在の所有者は医療機器メーカーだそうで警備も厳重なため中には入れない。(入口は鞍馬口通に北面している)

旧後藤邸跡擁水園の入口

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 継孝院町は天台宗継孝院が所在したことが町名の由来。継孝院はのちに臨済宗宝鏡寺に属する尼寺となったが、明治維新後に荒廃して播州の垂水に移転したようだ。

継孝院町(仁丹町名表示板)と看板
 「恩給・年金・扶助料・未亡人国債立替 昭和恩給(株)」
 「結婚・出産・葬祭 京都市冠婚葬祭互助・・・」ともに古色蒼然!

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 岩栖院町の北側に長乗東町・長乗西町があるが、これは先ほど記した後藤長乗が道を開いてできたものといわれる。
 ここは、昭和30年に上京区から分区して成立した北区に変わっている。

長乗東町(仁丹町名表示板)

 これは珍しい木製の仁丹町名表示板だが、目に付き難いところに付いている。この様子から見ると、右側の家があとから造作し直したためにこのような状態になったように思われる。
 見えているところは「鞍馬口通新町東入」となっており、その下の隠れている部分は「長乗東町」となっている筈です。

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2013年6月 7日 (金)

雨、そして紫陽花(アジサイ)

 こちら(関西地方)の梅雨入りについて、気象庁の「梅雨の時期に関する気象情報」では5月28日頃と発表されていました。
 なのに、全然ちょっとの雨も降る気配なしです。予報というのは難しいもののようです。

 雨、とりわけ五月雨に似合う花といえば、やはりアジサイでしょうか。

  紫陽花や赤に化けたる雨上がり   正岡子規
  紫陽花に雨きらきらと蠅とべり   飯田蛇笏

 紫陽花の原種は日本特産の園芸種であるガクアジサイ(額紫陽花)で、鞠状のものはヨーロッパで改良された西洋アジサイが逆輸入されたものだそうです。
 学名は「オタクサ」。西洋にこの花を紹介したのはシーボルトで、愛人であった丸山遊廓(長崎)の遊女「お滝さん」の名を採って命名したといわれます。
 紫陽花には、花の様子から七変化・四葩(よひら)・手毬花などの別名があります。

原種(額紫陽花)

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改良種
  あとの方の写真で浅黄色(左上)のものは初期の花で、七変化する前です。

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 一昨日(6月5日)は二十四節気の「芒種(ぼうしゅ)」でした。
 稲や麦などには芒(のぎ)=穂  に針のような毛があります。「芒種」はこれらイネ科の穀物を植え付ける季節、梅雨入りの田植えを始める時期を意味します。
 梅雨の「雨」という字は、天から雨の降るさまを象っており、上から地表を覆って降る雨を表しているそうです。雲・雪・霰・雹・霜・霧・靄・露など、雨や水に関する天体現象を意味する字には雨かんむりが付くことが多い。

 梅雨入り初期の頃のほんの少しだけ降る雨には、雫雨・涙雨・小糠雨・糸雨・朦雨・袖笠雨などの言葉が似合います。上品な情景が思い浮かび、独特の味わいのある美しい名前だと思います。

 辞典や辞書を見ると、雨に関する文字や言葉は降り方によって、いろいろな呼び方がどっさりとあります。
 その一部を並べてみましょう。(この分け方はあくまで主観的なものですが・・・)
激しく降る雨・・・鉄砲雨・大雨・篠突く雨・篠を束ねる雨・篠を乱す雨・車軸を流す雨
突然降りだして間もなくやむ雨・・・俄雨・驟雨・通り雨・気違い雨
激しく吹き付ける雨・・・繁吹(しぶき)雨・横雨
降りしきる雨・・・八重雨
降り続く雨・・・五月雨・霖雨・地雨・漫ろ雨(そぞろあめ)
程よい時に程よく降る雨・・・慈雨・恵みの雨
細かいわずかの雨・・・袖笠雨・肘笠雨・小糠雨・涙雨・霧雨
降る時や範囲が限られた雨・・・虎が雨・天気雨・日照り雨・朝雨・丑雨・私雨・ほまち雨・紅の雨・花の雨・桜雨・村雨・氷雨・時雨・時知る雨
本物の雨ではないもの・・・涙の雨・血の雨・袖の雨・木の葉の雨・火の雨・一味の雨

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