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2013年6月21日 (金)

神護寺、文覚(遠藤盛遠)、文覚町

神護寺

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 清滝川に沿いの高雄(高尾)は槙尾・栂尾と共に三尾と云われ、高尾には神護寺、栂尾には高山寺、槙尾には西明寺がある。渓谷を埋めるもみじは清滝の清流と共に昔から絶景とうたわれ、今もシーズンには多くの人々で賑わいます。

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 神護寺の創建については詳らかではないようですが、もとは高尾山寺(高雄寺とも)と呼ぶ和気氏の氏寺でしたが荒廃していました。のちに和気清麿が宇佐八幡の神願を果たすため、河内國に神願寺を建立します。清麿の子の眞継等が高尾山寺と寺地を交換することを願い出て、天長元年(824)に許されてこの地へ移転、寺号を神護國祚眞言寺と改めた。この寺号の上二字を採って神護寺としたのです。
 唐から帰った空海が高尾に入寺していたこともありましたが、その後、二度にわたる火災で寺は衰微しします。
 仁安3年(1168)弘法大師の旧跡を慕って文覚上人が来住、勧化して再興につとめました。このため、上人は神護寺中興の祖として仰がれることとなります。

文覚 ー遠藤盛遠ー

 「平家物語」「源平盛衰記」などに記された文覚上人の伝承は概ね次のようなものです。
 北面武士として鳥羽天皇の皇女に仕えていた遠藤盛遠は、勧学院(現在の西ノ京勧学院町にあった)で優秀な成績を修めていたが、袈裟御前(渡辺渡の妻で美人だったと云う)に横恋慕してしまう。このときの盛遠は17歳だった。
 盛遠は袈裟と一緒になりたくて擦った揉んだの挙句、渡を殺すつもりのところを誤って袈裟御前の首を切り落としてしまう。袖に包んだ首を月の光にかざすと恋い焦がれた袈裟の首だった。こうして人生の無常を知った遠藤盛遠は19歳で出家して文覚となり、熊野や那智での荒行のあと高雄の神護寺に入りました。

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 そのとき神護寺は荒廃してしまっていたので、再興するため勧進(寄付を集めること)をしました。その勧進で後白河院に荘園の寄付を強請したことが院の怒りに触れて伊豆に流されます。このとき、文覚はやはり配流の身であった源頼朝に平家打倒の挙兵を勧めたのです。
 文覚は平家打倒でつながる頼朝と後白河法皇の庇護を得て、神護寺のほか東寺・西寺・高野山などの弘法大師ゆかりの真言寺院をつぎつぎと再興・修繕していきます。

文覚町・紅葉町・高雄町(仁丹町名表示板)

 この「文覚町」は、文覚が神護寺再興のための勧進を後鳥羽院に強要して怒りを買い、囚われていた獄舎がこの地にあったのが町名の由来とされる。
 近辺に所在する「紅葉町」「高雄町」は、文覚(神護寺)のいわば縁つながりにより、高雄・紅葉を採って町名としたものとされる。

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 「文覚町」は東中筋通を挟んで、北小路通と七条通の間に所在する両側町。北小路通は平安京の北小路に該当する。
 寛永期の古絵図には「天使つきぬけ尻」とあるそうで、「天使突抜」の南の尻(最後の部分)にあたる。「もんがくの町」の名称とともに併用されていたようです。
 この「天使突抜」については既に以前、『天使突抜と町名の由来 その1・2』という記事にしたことがあるため、ここでは簡単になぞっておきます。
 現在の「天使突抜」は東中筋松原から南へ六条にかけて、天使突抜一町目〜四町目まであります。
 しかしそれとは別に、寛永年間の「天使突抜」が東中筋六条から七条通にかけての西本願寺寺内町に、天使突抜一丁目〜四丁目というのがあったようで、今の學林町・柳町・紅葉町・文覚町がこれらに該当するようです。

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