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2013年7月

2013年7月26日 (金)

鉾町に残る仁丹町名表示板 1

 先頃の記事更新では、「祇園祭と山鉾」を載せました。
 その時に改めて思ったのですが、山鉾を出している「鉾町」と、鉾町を支えていた周辺の「寄町」と云われる町々を合わせると、かなりの数の仁丹町名表示板を見ることができます。(もっとも、平成23年に新規設置されたものも含まれますが・・・)
 そこで折々に、鉾町(寄町を除く)に存在するものに限り、山鉾の由縁や町名の由来などとあわせて記事にすることとします。

山伏山町

Photo

 山伏山町は室町通を挟む両側町で、蛸薬師通と錦通の間。
 応仁の乱以前から祇園会に「山伏山」を出しており、町名はこの山の名前に因む。
 この山伏山、本来は前の祭に巡行しました。(元々、前の祭と後の祭りは別の日に山鉾の巡行をしていたが、昭和41年(1966)から交通規制などの問題から合同巡行となっていた。しかし、ふたたび別日の巡行に戻すことで検討されているようです)

Photo_2

 「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)には「山ふしほく」とあるようで、当時は「山」ではなく「鉾」だったようです。
 御神体は山伏が山へ修行に入る姿を表しており、右手に数珠、左手に斧を持ち、腰に法螺貝を付けている。この山伏は三善清行(平安前期の学者)の子、修験者の浄蔵貴所であるとされる。
 浄蔵は傾いた八坂五重塔(法観寺)を法力で直したり、父が亡くなった時に修行中の熊野から急遽戻ってきて、一條戻橋を行く葬列に追いついて祈祷すると、父は蘇生して邸に引き返したと云う「一條戻り橋」の伝承で有名です。

小結棚(こむすびだな)町(平成版の仁丹町名表示板)
 この町名表示板、どうも味わいに欠ける気がします。

N

 小結棚町は新町通を挟む両側町で、錦小路通と四条通の間。
 町名の由来について、古文書・古絵図には「こゆひノ棚町」とあり、元禄2年刊「京羽二重織留」には「小結ゑぼしを造る者いにしへ新町四条に有、其所を小結の棚と云今あやまり恋の棚と云う」と記すそうです。また、「鯉棚町」と表記されたこともあったようです。

 応仁の乱以前から「放下鉾」を出しており、前の祭に巡行した。明応9年(1500)復興時の「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)には、「はちか山」と記しているが、これは「はうか山」の誤りか。
 放下僧(ほうげそう)の像を祀るのが鉾の名の由来とするようだが、一説に謡曲「放下僧」の趣向をとったとも云われます。
 鉾頭が「州浜(菓子)」に似ていることから「すはま鉾」とも云われます。

2013年7月19日 (金)

祇園祭と山鉾 

 ン十年振りに祇園祭宵山の見物に行きました。新聞には27万人の人出とありました。

(四条傘鉾)棒振り踊り踊り手の子供たち、可愛いッ

Photo_2

1. 祇園祭
 祇園祭は八坂神社の祭礼です。明治維新に神仏分離令が出されるまで祇園感神院(祇園社とも)を称した「祇園社の祭」なのです。
 もとは祇園御霊会と呼ばれ、疫病が流行した時に疫神や怨霊を鎮めるために祈願したのが始まり。
南北朝以後に洛中の町まちから作山が出され、神輿渡御にも加わっていたようだ。(祇園社「社家記録」)
 しかし、11年に及んだ応仁の乱で中絶したが、明応9年(1500)室町幕府の援助により略式で復活して以後、山鉾は華麗になっていったという。
 もともと、前の祭・後の祭りの2回に分けて行われ、御神輿の渡御と還幸に山鉾が随行するものでした。
 現在の山鉾巡行は、8基の「鉾」、2基の「傘鉾」、23基の「山」、合わせて33基の山鉾が参加しており、大きさは高いものは25m、重さは12トンもあるという。

2. 応仁の乱以前の山鉾
 「祇園会山ほこの次第」(祇園社記)に、山鉾は前の祭として31基・後の祭で28基が記されており、現在では見ることの無い名称のものも多い。
 これは、名称に変遷があるだけでなく、室町時代は鉾の趣向が固定しており決まった山鉾を出す町と、その都度新しい趣向で創作する町があったためらしい。
 所在範囲は現在よりも広かったようで、北は殆どが二条通くらいまでに位置するが「ふすま僧山」の1基だけが「鷹つかさ(現・下長者町通)」と記されている。そして、東は柳馬場通・西は猪熊通となっているが、南は高辻通までと現在に同じです。

月 鉾

Photo_3

3. 明応9年(1500)の復興時の様子
 「祇園会山鉾次第以籤定之」(祇園社記)には、前の祭が27基・後の祭が10基の山鉾名称と所在を記している。
 今では長刀鉾など9基の山鉾が、慣例で巡行の順位が定まった「籤取らず」となっており、それ以外の24基は「籤改め」で巡行の順番を決めている。その当時の巡行順位を決めるに際し、町人の間で争論が起ったため、「籤改め」が始まったと記録にあるようです。
 近世に入り、山鉾の種類はほぼ現在のものに固定したという。
 享保2年(1717)の「京都御役所向大概覚書」によれば、前の祭に長刀鉾をはじめ23基、後の祭に橋弁慶山はじめ10基の山鉾の巡行を記している。
 そして、宵山に駒形提灯を立て灯し、氏子の家々で家宝の屏風を飾り見せるようになったのは18世紀の半ば頃からとされる。

山伏鉾の御神体

Photo_4

4. 元治元年(1864)「蛤御門の変」による被害
 「どんどん焼け」「鉄砲焼け」とも呼ばれるこの大火で市中27,500軒が焼失し、鉾町でも大きな被害を受けた。
 このため、大火以前の規模に近い形で巡行が回復したのは明治5年(1872)であったという。
 その後も断続的に復興して、明治時代には南観音山と船鉾、昭和も戦後になって菊水鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾よいうように、極めて長期をかけて復興を果してきたようです。
 また、復興がならず休み山となっていた大船鉾は、焼失を免れた御神面を唐櫃(木箱)に納めて担ぎ、昨年から巡行に参加しており、焼失150年を機に来年の再興と巡行復帰を目指している。
 同じく、休み山となっている鷹山と布袋山は、御神体の人形を宵山に飾り祀られる。

2013年7月 5日 (金)

近世の街道 ー車道・車石ー

 近世以前の主要街道は旅人や商用で多くの人々が通行するだけでなく、陸路を物資の輸送をする牛車が行き交う産業道路でもありました。
 そして、交通量の多い街道は人馬の通行のための歩道と、牛車専用の車道を分離していたようです。
物資輸送の牛車は車道(くるまみち)を通行したが、重量物を運搬するために雨や雪でぬかるんだ道や、急な坂道では大変難渋する。このため、牛車の幅に合わせて石畳で舗装され、この舗装敷石を車石(くるまいし)と称した。

三条大橋と車道
 三条大橋の西詰めを川沿いを南下する小路がある。(突き当りを西行すれば先斗町に至る)
 この小路は三条橋下流側のすぐ傍を河原に降り、橋を迂回して鴨川を渡るための車道の跡。東海道を通行する牛車の曳く車両はその重量のため橋を破損する恐れがある、このため鴨川の流れの中を渡ることになっていた。
 対岸(東岸)に上がると大橋町南端と大黒町の境界となる辺り、三条通の南に並行する道につながっていたという。

車 道
 見えている橋が三条大橋。(手前が下流側)
 ここから鴨川の流れを横切り対岸に渡った。

Photo

 通行する人々や牛車が多い街道・橋の傍など、あちこちに車道は整備されていたようで、これは近世に刊行された数々の名所図会に見てとることができます。

白川橋
 大津道(東海道)である三条通も歩道と牛車の通る道は分けられていたようで、二列に石畳が敷かれた車道は白川橋の下流側の川中を通っている。
 そして、京都盆地の粟田口(三条口)から大津に向う街道筋には他にも、日ノ岡峠手前の蹴上、山城国と近江国の境界である逢坂関越えといった急登坂の難所にも車道が敷設されていたようです。
 ところで、人・馬などが蹴上げた塵・泥または泥水やはねの事を「蹴上」と云いますが、蹴り上げ蹴り上げしながら急坂を登る牛馬のこのような様(さま)が、地名「蹴上」の由来であるそうな。

竹田街道
 江戸時代に伏見港と京都を結ぶ街道として造られた。旅人や天秤棒で荷を担ぐ商人達の行き交う歩道と車道は分けられ、牛車の通る車道は一段低いところを通っている。
 道がぬかるむと牛車の通行に難渋するため平らな石で舗装されていたようだ。

車石2点

その1(棒鼻):車輪の轍跡凹みが非常に深くクッキリと残る
   車力が居眠りしていても牛は道をそれる恐れなし

Photo_7

その2(旧陶化小学校):見辛いのですが中央のやや右が轍跡の凹みです

Photo_4

川端通
 四条橋東岸の北、常盤町から川端町へ通じる小路を土地では車道と云っていたようで、寛永の古図に伏見車道と記しているそうだ。これも牛馬の曳く車両が橋を壊す恐れがあるので、車道から鴨川の流れを渡った名残と云う。

荒神口
 荒神口も「京七口」の一つです。鴨川西岸から荒神橋を東へ渡ると、志賀越道・今道など時代により呼称が変わる山中越のはじまるところ。この荒神橋西南に牛車が河原に降りて川を渡るための小路(車道)が設けられていたそうで、以前は車の轍跡のついた敷石が残っていたと云う。

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